担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第四話

年が明け、いよいよフラッシュもクラシック級に進級した。

クラシック級を迎えたウマ娘の大目標は、もちろん三冠・トリプルティアラ路線へ進むことである。

 

「どちらも素晴らしい目標だと思うのですが、私は【王道】である三冠路線を歩みたいと考えています」

 

もし出走が叶うのであれば、どちらの路線を目指したいかを聞くと、フラッシュからはそんな力強い返事が戻ってきた。

 

「うん。実は俺も距離適性的にそちらのほうがいいかな、とは思っていたんだ。でも、よかったら君がなぜ三冠路線を選んだのか、理由を聞かせてくれないか」

 

俺が問いかけると、フラッシュは少考して彼女なりの理由を真剣な顔で答えてくれる。

 

「まずトレーナーさんもおっしゃったように、距離適性が私に向いていると考えました。それから……」

「それから?」

 

するとフラッシュは今度は一転、すこし照れくさそうな表情を浮かべて続けてくれた。

 

「日本ダービーの素晴らしさを、私は幼い頃から母から何度も聞かされてきました。少しミーハーなのかもしれませんが、そんなすごいレースに出走して……私が勝利することができたのなら、きっと誇れる自分になれると思うのです」

「そうか。自分の憧れるレースに出たい。そんな思いが、ミーハーなものか。よし、今年は三冠路線を……いや、日本ダービーへの出走、そして勝利を目指してかんばっていこう!そのためにも、次の京成杯は負けられない。少し、厳しく行くよ!」

 

俺の檄にフラッシュは珍しく気合を込め、大きな声で「はい、望むところです!」と応えてくれたのだった。

 

*

 

今年の大きな目標も決まり、初めての重賞に向けてトレーニングを重ねていたある日のこと、放課後になぜか二人して理事長室に呼び出された。

 

幸いにして、それは悪いことではなかったのだが。

 

「私のURA公式グッズですか……」

「左様!君がプレオープンを勝った直後から、グッズ製作部に君の公式グッズ発売の希望の問い合わせが殺到している。どうか、前向きに考えてもらえないだろうか?」

 

明るく言う理事長に、フラッシュは明らかに困惑した表情を浮かべている。

 

「その。私を応援してくださっているファンの方の声は嬉しいのですが……。公式グッズが発売されるようなウマ娘は、重賞を勝っているような人ばかりですよね?今の私には、少し分不相応のように思います」

 

そう。

今やどこのゲームセンターにも置いてある【ぱかプチ】を始め、URAから公式グッズが製作・発売されるのは、少なくとも重賞を勝ったぐらいの実績がある娘ばかりである。

 

もちろん重賞を勝っていないウマ娘でも、よっぽど特殊なバックグラウンドを持っている娘(例えばデビューから百連敗してもなお、勝利を目指して頑張っている娘とか……)なら、確かにそういう話が舞い込むこともある。

しかしクラシック級になったばかりの重賞未勝利ウマ娘に、公式グッズの製作依頼が来るなんてことは異例と言ってよかった。

 

「光栄なお話だということは、十分に承知しています。ですがやはり、今の私の戦績では胸を張ってぜひお願いします、ということはできません。ですので、今回のところは……」

 

頭を下げて辞退するフラッシュに、生徒の自主性を尊重する理事長が珍しく食い下がった。

 

「謙遜は美徳である!だが、本当にたくさんのファンが君のグッズを待ち望んでいるのだ。君を応援してくれているファンのためにも、どうか再考願えないだろうか?」

 

この理事長の言葉に、嘘偽りはあるまい。

ただ、言っていないことがあるだけで。

 

……少しばかり生々しい話をすると、URAが発売しているウマ娘グッズの売上というのは、決してバカにならない金額だ。

それは他のスポーツのチームや選手のグッズ売上を考えてもらえば、想像できると思う。

 

嘘か真か、あるスポーツで本来ならとっくの昔に身売りされていてもおかしくないようなチームが、グッズの売上のおかげでなんとか存続できている、なんて噂を聞いたことがある。

 

さすがにこれは都市伝説だとは思うが、それぐらいの金額が動くのが、スポーツグッズビジネスというものなのだ。

 

そして学園もURAも組織である以上、カネのことは切っても切り離せない。

 

【売れるグッズ】を製作できるのなら、ぜひ作って販売したいというのは当然の判断である。

 

理事長もあんなナリ(失礼!)をしていても、組織の長である以上、金銭のことをまったく考えないわけにもいかないのだろう。

 

理事長からの押しに困惑しているフラッシュに、俺はトレーナーとして自分の考えを伝えることにした。

 

「フラッシュ。君が胸の張れる成績を収めてからファンの人達に自分のグッズを手に取ってもらいたい、という気持ちはよく分かる。でも理事長の言う通り、たくさんのファンの期待にレース以外でも応えられることは応えるというのは、大切なことなんじゃないか?」

「そうでしょうか……私達ウマ娘は、まずレースに勝つことがファンの期待に応える、ということなのでは?」

「それはそうなんだけど……ほら、スマートファルコンのいうところの【ファンサ】ってやつも大切ってことだよ。レースってのは、やっぱりファンあってのものだからね。どうしても、というなら無理強いはできないけど、俺としてはぜひ、今回の話に協力してほしいと思っている」

 

理事長からの提案をプッシュする俺に、フラッシュは視線を床に向けて悩ましげに瞳を閉じた。

そうしてしばらく、沈黙を保っていたのだが……。

 

「わかりました。お二人がそうおっしゃるなら、私で良ければ協力させていただきます。グッズ製作の方、どうぞよろしくお願いします」

「重畳!ありがとう!製作部の方にも、全力を上げて君のグッズを作るよう指示しよう。完成を楽しみにしていてくれたまえ!」

 

理事長は扇子を広げると、いつもの理事長スマイルを浮かべてフラッシュに感謝の意を表明した。

 

それにしても、フラッシュのグッズか。

ファンの見る目というものは大したものだし、今のうちにフラッシュのグッズを作っておこうと決断した上層部の慧眼にも恐れ入る。

 

彼女が重賞を勝つ前にグッズを作っておけば、いざそうなったときに新規ファンが彼女のグッズを買えないということもないだろう。

つまり【売上の取りこぼし】が最小限で済むわけだ。

 

そしてその現実は必ず、遠からぬうちにやってくる。

 

フラッシュはそれだけの器だと、俺は信じて疑っていなかった。

 

*

 

理事長室に呼び出された日から一週間もしないうちに、フラッシュのグッズのプロトタイプが出来上がってトレーナー室に届けられた。

 

「ぱかプチはよくできてるし、ブロマイドの方もよく撮れてるな!」

 

俺はフラッシュのぱかプチを右手に、ブロマイドを左手に持って、まるで彼女のグッズを早期特典で手に入れることができた一ファンのごとくはしゃいでいた。

 

……まぁ、心情的にはそれであながち間違っていないのかもしれない。

 

「そうですね」

 

フラッシュも笑みを浮かべてくれたが……気のせいだろうか、少しばかり笑顔が硬い気がしていた。

 

「まずはこの二種類を販売してみて、売上が良かったら他のグッズも展開していくそうだ」

「そうなんですか」

 

そういうフラッシュの顔には、やはり少し影が差していた。

この話が来たときもあまり乗り気ではなかったようだし、重賞未勝利の身でこのような扱いをされることを重荷に感じているのだろう。

 

「……重賞を勝たないままグッズを作ったのは、ひょっとしたら君にとってプレッシャーなのかもしれない。でもこれは周囲の君への期待にほかならないんだ。それに応えられるよう、精一杯やっていこう」

「ええ、そうですね……。では、私は先に練習場に行っていますね」

 

彼女はそう言うともうグッズに目をくれることもなく、タオルを手にとって駆け足でトレーナー室を出ていってしまった。

 

しまった。

俺としては励ましたつもりだったが……彼女に余計なプレッシャーを掛けるだけになってしまったのかもしれない。

 

担当のメンタルケアというのは、本当に難しいな……。

 

俺は自分の言葉選びのセンスのなさに呆れつつ、今日のトレーニングの準備を始めた。

 

*

 

フラッシュのグッズの売上は、どうやら好調なようだった。

 

特にブロマイドの方はちょっと考えられないペースで売れ続けているらしく、ブロマイドの週間売上ランキングではG1ウマ娘の先輩方の中に入って、なんと三位に食い込んだとか。

 

他の売上上位の娘たちがきらびやかな勝負服に身を包んで気取ったポーズを取っている中、フラッシュのブロマイドは体操服姿で謙虚に手を振っているだけのものだ。

 

これは彼女がまだデビューして間がないために勝負服を用意できていなかったからなのだが、このことも俺はなんだか、出世が早すぎて髷が結えない幕内力士の土俵入りを見ているようで、気分が良かった。

 

それに彼女は期待のウマ娘というだけでなく、グラビアアイドルもそこのけの美貌とスタイルを有している。

 

俺がだたのウマ娘ファンだったのなら、きっとこの写真を何枚も買い込んでいたに違いない。

今の俺はトレーナーであるから、スマホケースに忍ばせている一枚しか所有していないが。

 

今の段階でこの人気なのだから、勝てばもっと人気が出るに違いない。

戦歴によっては、ハイセイコーやオグリキャップをも超えるアイドル的なウマ娘になれるかもしれない。

 

いや、俺がきっとそうしてみせる!

 

そうなると俺は、さしずめトレーナー兼、人気アイドルのプロデューサーといったところか。

 

いずれはドームでフラッシュの単独ライブ、なんてことも……などとバカな妄想を繰り広げつつ、俺は今日の彼女のトレーニングの準備を始めた。

 

*

 

最近、フラッシュは少し変調のようだった。

 

タイムは伸び悩んでいるし、いつも通り真面目に走ってくれてはいるのだが、どうも物足りないというか、走りにピリッとしたものが感じられない。

 

「どうしたフラッシュ、ひょっとして体調が悪いのか?」

「いえ、そんなこともないのですが……」

 

彼女は困ったような笑顔を浮かべて、ポリポリと人差し指で頬をかいた。

なんとも愛らしいしぐさだったが、その動作はなんとなく彼女らしくないような気もした。

 

「まぁ、初めての重賞挑戦も近づいているしな。多少力むのも仕方ないか」

 

そう言って俺は、フラッシュにしては平凡なタイムを記録したストップウオッチをリセットする。

 

「今日はもう一本、坂路を走ってもらおうと思っていたんだが。調子が出ないようなら、ちょっと気分を変えるためにもウッドチップでも走るか?」

「……そうですね。少し気持ちを切り替えるためにもコースを変えてみるというのは、いいかもしれません。そちらをお願いしてもいいですか?」

 

コースの変更は俺から言い出したことだが、彼女がトレーニング中に予定の変更を良しとすることは非常に珍しい。

というか、こんなことは今までに一度もなかった。

 

やはり重賞への出走を目前にして、気持ちが張ってしまっているのだろう。

 

「オッケー。それならあとはしっかりウッドチップを走り込もう。あと少し気になっていたんだが、半袖の体操服で、寒くないか?」

 

そう。

今日の最高気温は一月らしくわずか九度で、冷たい風が絶え間なく練習場に吹きつけられている。

にも関わらず、フラッシュは半袖と短パンを着てトレーニングに臨んでいた。

 

「ええ、大丈夫です。動くと少し、暑いものですから」

「まぁ、レースはそれで走ってるわけだしな。でもあまり、練習中に体を冷やしすぎるのはよくない。大きなレースが近いこともあるし、次からはちゃんと冬物のジャージを着てトレーニングに来てくれ」

「わかりました。ご心配おかけしてすみません」

 

俺のお小言に、フラッシュはいつものように素直にうなずいてくれた。

 

*

 

走り込むコースを変えたぐらいで調子がすぐに戻るわけもなく、今日のトレーニングは可もなく不可もなし、といった感じで終了した。

 

レースまでそれほど日があるわけでもないので、なんとか調子を取り戻してほしいと思う。

 

「さて、と。部屋に戻るとするかな」

 

すっかり暗くなったあたりを見回しながら、俺はひとりごちた。

 

フラッシュは寮に帰ったことだし、俺もトレーナー室に戻って今日のトレーニング日報を書いて、明日の練習スケジュールをしっかり練って組み立てないと……。

 

担当する娘の調子が良くないとなると、トレーニングの計画を立てるのにも神経質になってくる。

 

そうだ。

重賞に出る場合は学園だけじゃなく、URAとレース場の方にも出走登録の書類を提出しないといけないんだった。

ああ、あと去年トレーニングに使った経費も計算して今週中に提出しないと、自己負担になってしまう。

 

一年目から担当を持っていた同僚の仕事量を見ていたので、忙しいことは覚悟していたつもりだったが、想像以上にトレーナーという仕事は激務だった。

 

……トレーナーの嫁さんにウマ娘が多いのは、収入面とか以前に単に忙しすぎて他に出会いがないからなのかもしれない。

 

嫁さんかぁ。

 

いかん。

これ以上余計なことを考える前に、さっさと仕事を済ませてしまおう。

 

俺は邪念を振り払ってベンチに置いてあったストップウォッチとタブレットを取りに戻ると、同じところに置き去りにされていた手さげバッグが目に入った。

 

あれはたしか、フラッシュがいつもタオルや水筒などを入れている手さげバッグだったはず。

 

フラッシュが忘れ物をするなんてことは、本当に珍しい。

もうきっと寮についているだろうし、今日一日預かっておいて、明日の朝練のときに返すとしよう。

 

それにしても。

何をするにしても慎重で用心深いフラッシュが、こんなうっかりミスをするとは。

やっぱり重賞に挑むということに、かなりの重圧を感じているのだろう。

 

気分転換に、ちょっとお出かけでもしてもらったほうがいいのかもしれないな。

 

そんな余計なことを考えながら、手さげバッグを手に取ったのがよくなかった。

 

「あっ!」

 

しっかり手に取ったつもりだったが、どうやら持ち手の片方しか掴んでいなかったらしい。

宙ぶらりんになった持ち手のほうが大きく開いて、入っていた中身が地面にぶちまけられてしまった。

 

「しまった……」

 

外灯に照らされた地面には水筒にタオル、それに長袖のジャージが散らばってしまっていた。

明日、俺のミスで中身を汚してしまったことを謝らないと……。

 

「ん……?」

 

長袖の、ジャージ?

確かフラッシュは今日、動くと暑いからって着ていなかったよな……。

それならなぜ、わざわざここに持ってきたんだろう?

着てみたけど、今日の気温ならいらないと思って脱いでここに放り込んだんだろうか?

 

どうにも腑に落ちないものを感じつつ、ジャージを拾おうとしたらそれになにか文字が書かれているのに気がついた。

 

これはマジックで書かれたものか?

なんだこりゃ?

 

あまりに不可解だったので、俺はこのジャージが普段年頃の女の子が着ているものだということも忘れて、それを手にとってバサッと広げた。

 

広がった長袖のジャージには――おそらくは太めの油性マジックペンで書かれたものだろう――信じられない言葉が書き連ねられていた。

 

【調子に乗んな、ブス】

【プレオープンまでしか勝ってないのに、グッズ出してもらうなんて生意気!】

【お前なんか才能ないんだから、さっさとドイツに帰れば?マジでキモい】

 

この三つはそれぞれ、違う筆跡で書かれている。

おそらく意地悪で幼稚な三人組が、ニヤニヤしながらそれぞれフラッシュの長袖のジャージに書き込んだのだろう。

 

「………………」

 

ああ、そうか。

俺は怒りが本当に限界に達すると、すべての感情が消え去るタイプだったのか。

 

俺はほとんど無意識のうちに、尻ポケットに突っ込んでいたスマホを手に取り、フラッシュのスマホに電話をかけていた。

 

「ああ、すまん。今、寮の部屋か?ひと休みしているところ申し訳ないが、今すぐトレーナー室に来てくれ。大事な話がある」

 

俺からの突然の電話に困惑するフラッシュにそれだけいうと、俺はスマホの通話を切った。

 

これだけの怒りを覚えたのは、今まで生きてきた中でちょっと記憶にない。

 

これを書いた奴も許せなかったが、フラッシュの変調の原因もろくに考えず、ノーテンキに『フラッシュならアイドルのようなウマ娘になれるかも』と浮かれて、『重賞に初めて挑戦するから、フラッシュもちょっと気が張っているだけだ』などと軽く考えていた俺自身に、ぶち殺したくなるぐらいの怒りを覚えいた。

 

*

 

トレーナー室の長机に置かれた落書きだらけの自分のジャージを見て、フラッシュはなぜここに呼び出されたのか、瞬時に理解したようだった。

 

「トレーナーさん」

「フラッシュ。これ、いつ誰にやられたのか、心当たりはないか?」

 

単刀直入な俺の質問に、フラッシュは静かに首を横に振る。

 

「落書きされたのは、更衣室でのことだと思いますが……やった人となると、ちょっと特定するのは難しいですね。更衣室はたくさんの人が利用しますから」

 

ここまでのことをされているのに、フラッシュはまるで他人事のように淡々と答えた。

これだけ陰惨ないじめを受けていれば、この場で泣き崩れてもおかしくないぐらい、彼女の心はズタズタに傷ついているはずである。

 

それなのになんて心の強い娘なのだろう、と改めて感心するのと同時に、どうしてフラッシュはこのことを相談してくれなかったんだ、彼女は俺のことを、そんなに頼りないトレーナーと思っているのか?という自分勝手な憤慨が沸いてくるのを抑えることができなかった。

 

「フラッシュ。これは君だけの問題じゃない。トレセン学園のありように関わるような、大変な問題なんだ。少しでもいい。なにか思い当たることがあったら、俺に話してくれないか?」

 

そこまで言っても、フラッシュは少し首を傾げるだけ。

 

「他のスポーツでも、外国から来た選手がこのような洗礼を受けるということはよくあることです。気にしていませんよ、というと嘘になりますが、私が周りに認められるような活躍をすればこのような嫌がらせはなくなると思います」

「……今はそういう話をしているんじゃないんだよ!」

 

なぜ、俺は被害者であるフラッシュに向かって怒鳴り声を上げているのだろう。

怒鳴られるべきはこの落書きをした下手人共であり、このことに勘づきもしなかった俺自身であるはずなのに。

 

どこまで俺は、ダメなトレーナーなんだ。

こんなトレーナーだから、フラッシュは今回のことを俺に話す気にもなれなかったのではないのか。

 

「すみません……」

「いや、すまない。フラッシュを怒鳴りつけるのは筋違いだった。ちょっと、落ち着かせてくれ……」

 

俺はそう言ってから、大きく素早く鼻から息を吸い込み、ゆっくりと口からその空気を吐き出した。

 

古典的な深呼吸であるが、心理師の充いわく『深呼吸というのもバカにしたもんじゃない。いろんなデータが深呼吸にはメンタルを落ち着かせる効果があると証明している。極端な話、深呼吸をしながら『ごらテメェ!すぅー、ぶち殺すぞオラァ!はぁー』ってブチギレるヤツはいないだろ?』とのことらしい。

 

そんな昔話を思い出しながら何度か深呼吸をすると、まだ暖房を入れたばかりで温まり切っていなかった部屋の空気のおかげもあったのか、少しばかり頭が冷えたような気がした。

 

「……ふぅっ……申し訳ない。見苦しいところ見せてしまったな……。じゃあこれをやった犯人には、本当に心当たりはないんだね?」

「はい」

「わかった。しかし、なんの対策も講じないわけにいかないな……」

 

俺はとりあえず、立ったままのフラッシュに座るよう促した。

彼女が座ったのを見て俺は棚に足を運び、マグカップ二つを手に取ってインスタントコーヒーの粉と少量の砂糖、そしてコーヒーミルクをその中に入れてポットからお湯を注ぎ込む。

 

温かい飲み物は、それを手にしただけでも気持ちを落ち着ける効果がある。

 

俺はマグカップを、フラッシュの前に静かに置いた。

 

「はい。熱いから気をつけて」

「ありがとうございます」

 

そう言ってフラッシュは、俺の差し出したコーヒーに口をつけてくれた。

 

「しかし、対策と言いましても……更衣室のロッカーに着替えを置かないようにする、ぐらいでしょうか?」

「そうだな、面倒でも寮の部屋に持って帰るようにするとか、トレーニング中も俺たちの目の届く範囲に置いておくとかするのは、最低限の対策だ。あとは……」

 

俺は顎に手を当て、さっきから考えていたことをまとめてみた。

 

「校内ではできるだけ、グループの中にいるように心がけてくれ。こういうつまらないイジメみたいなことをする奴は、相手がどこかのグループの一員というだけで怖くてやめる可能性もあるからな。それから、残念だけどグッズの販売は中止してもらおう」

 

俺がグッズのことを口にすると、フラッシュは力なくうつむいた。

落書きの内容からも分かるように、グッズ販売の開始がイジメのきっかけになったのは間違いあるまい。

 

グッズ販売の中止はフラッシュを苦しめた奴らの思い通りになるようで、胃が捻り切れそうなほど癪に障ったが、このままグッズを売り続ければ、フラッシュへの誹謗中傷がエスカレートするかもしれない。

 

理事長からグッズ製作の話が出たとき、なぜフラッシュがあまり前向きでなかったのか、俺はもっと深く考えるべきだった。

 

フラッシュはきっと、そのグッドルッキングがゆえに色々としなくてもよい苦労をしてきたのだろう。

ウマ娘とはいえ、普通の女の子である。

女子の中での集団生活では、今までも面倒なこともあったに違いない。

 

だから、目立つようなことは極力したくなかったのだ。

 

しかし、あんな状況で大の大人二人に【お願い】されて、『どうしても嫌です』なんて言える十代の女の子がどれだけいるだろう?

 

「いまさらだけど……グッズ化のことは本当に申し訳なかった。今回のことを理事長にお話して、店頭販売もネット通販もとりやめてもらうよう、お願いするよ」

「でも……グッズの開発などにもきっと、多額のお金がかかっていますよね。それをペイする前に販売の中止をお願いするというのは、あまりに迷惑なのではないでしょうか……」

 

こんなことを心配するのは、やはり彼女が商売人の娘だからだろうか。

フラッシュにこんな気遣いをさせてしまったのは、トレーナーである自分の責任なのだと、俺は肝と海馬に深く刻みつけた。

 

トレーナーである限り、もう二度と担当している娘にこんな思いはさせないことを、俺は三女神に誓った。

 

「今回君に無理なお願いをしたのは俺たち【大人】なんだから、そんなことは気を使わなくていい。君が重賞を勝ったときには、今度こそ堂々とファンの人達に君のグッズを手に取ってもらおう」

 

フラッシュはマグカップを手に持ったまま、しばらく逡巡していたが……。

 

「すみません。今の状況でグッズを売り続けてもらうのは正直、精神的にとても辛いところがあります……。たくさんのひとを失望させてしまうかもしれませんが、販売中止のことは、どうかよろしくお願いします」

 

精神的に、とても辛い。

 

言葉にすれば、ありきたりなものにも聞こえてしまう。

 

でもそれはフラッシュの心が発する悲痛な本音だっただろうし、俺が真っ先に気づかなくてはいけないことだった。

 

「うん、あとのことは任せておいて。今回のことは本当にすまなかった」

 

何も悪くないのに深く頭を下げるフラッシュに、俺は彼女より深く頭を下げて、誠心誠意謝った。

それぐらいしかできない自分自身が、めちゃくちゃ情けなかった。

 

どのぐらい頭を下げていただろう、自己嫌悪がわずかにマシになったところでふと顔をあげると、下を向いて息をついているフラッシュの顔が目に入った。

 

それは文字通り一息ついて少し気持ちが落ち着いたかのようなもので、なにはともあれグッズの件が一段落しそうなことに安心したのだろう。

 

今回はさんざんフラッシュを苦しめてしまった俺だったが、フラッシュの心労の一番の原因を早いうちに対処できそうなことだけが、かすかな救いのように思えた。

 

*

 

翌日、陰湿な中傷落書きのことを理事長に訴えると、その後は教員・トレーナーを巻き込んでのかなりの騒ぎになった。

 

ただ、それでも筆跡鑑定までして犯人探しをする、というのは校内で起こった事案という性質上難しいようだった。

 

緊急全校集会を行い、被害者であるフラッシュの名前を出さずに『このような起こってはいけないことが起きた。やった者は心当たりがあることだろう。速やかにトレーナーか担任の先生に名乗り出るように』と理事長が【自首】を促すのが精一杯だ。

 

当然というかなんというか、この自首勧告に応じるものなど、いるわけもなかった。

ここで素直に名乗り出るヤツは、そもそもこんな子供じみたイジメなんてしないだろう。

 

結局、今回の【事件】の犯人は分からずじまいに終わってしまいそうだった。

 

 

不幸中の幸いだったのは、とりあえずはグッズの販売中止に理事長以下役員たちが速やかに対応してくれたことだ。

 

「わたしたちの誤った判断が、君を深く傷つけてしまった。謝って許されることではないが、心より陳謝したい」

 

会議室に集まっていた理事長や役員たち、それにグッズ製作部の部長もフラッシュに謝罪してくれた。

お歴々の中にはフラッシュの親御さんより年上の人もいたが、そんな人達も深く深く、頭を垂れている。

 

俺も一応学園内部の人間なので、役員という仕事の大変さはよく知っていた。

 

トレセン学園で理事職にある人間は、学園内で起こったトラブルの責任は理事の名においてすべて自分たちが負わなければいけないのに、給料は学園で授業を教えている先生たちとほとんど変わらない。

 

申し訳程度の役員手当が、給与明細に書き添えられているだけである。

 

それでもその大変な仕事をやりたいと思っているような人たちは、心からレースとウマ娘を愛している、いわば一種のレースバカ、ウマ娘バカの人種ばかりだ。

 

だからこそ彼ら、彼女たちはエイシンフラッシュという一人のウマ娘の心に癒しがたい傷を負わせてしまったことに、深い悔恨を覚えている。

 

もちろん俺も一緒に、地位的に彼らほどの重みはないが、もう一度フラッシュに心の底から謝罪した。

 

「……いえ、そんな。私の方こそ、最初からきちんとお断りしていればこのようなことにならなかったわけですから……。もし私が将来相応の成績を上げた際には、胸を張ってファンの方たちにグッズを手に取ってもらいたいと思っています。その時はまた、よろしくお願いします」

 

大人の金銭事情のせいでひどい心の傷を負ったのにもかかわらず、フラッシュは役員たちにグッズの再販をそのような形で約束してくれた。

 

「……もちろん!その暁にはまた、こちらからもぜひお願いしたい。君のこれからの活躍を心より期待している!」

 

フラッシュの心の強さと寛容さに舌を巻いて感心していたのは、決して理事長と俺だけではなかったことだろう。

 

*

 

木枯らしの吹く中、フラッシュは懸命に坂路を駆け上がっていた。

 

うん。

しっかり全身のバネを使えているし、脚捌きも軽やかだ。

 

それは、好調時のフラッシュの走りだった。

 

兎にも角にも、ここしばらくのトラブルが落ち着いて(結局犯人が見つからなかったことは、本当に業腹だが)、フラッシュはトレーニングでもいつもの調子を取り戻しつつある。

 

あの事件の心の傷が完全に癒えた、ということはないだろうが、少なくとも走りに関しては、その影響が薄れつつあるようだった。

 

グッズ販売をとりやめたのがよかったのか、イジメや嫌がらせの方も今のところは鳴りを潜めているようだ。

 

このことについては、実は一つ対策を打っておいた。

 

フラッシュと同室であるスマートファルコンに事情を内密に話し(LANEを交換しておいて良かった)、『できればなるべく、更衣室なんかの人目につきにくいところでは、フラッシュと一緒にいてあげてほしい。それと、なにか気がついたことがあればすぐ俺に教えてくれ』とひそかにお願いしておいたのだ。

 

もちろんスマートファルコンは、俺の願いを快く引き受けてくれた。

このようなトラブルに担当が巻き込まれた時に、その娘に信頼できる友人がいる、ということは本当に心強かった。

 

「ゴール!」

「はぁっ……はぁっ……タイムは、どうですか?」

 

真冬にも関わらず汗を滴らせているフラッシュの美顔を横目に見てから、俺はストップウォッチに視線を落とす。

 

「64・9だ!65秒を切れば十分オープンで通用すると言われているから、また一つ、君は成長の階段を登ったようだね」

 

サムズアップを飛ばす俺に、フラッシュは久しぶりに明るい笑顔を見せてくれた。

 

「ありがとうございます。この調子なら、今週末に出走する京成杯でも恥ずかしくないレースができそうですね」

「ええ、そのとおりだと思います!」

 

いきなり大きな声を出して俺たちの間に入ってきたのは、月刊トゥインクルの名物記者、乙名史さんだった。

 

「先週の追い切りと比べると、まるで別のウマ娘かと見紛うばかりの仕上がりですね!好調の秘密は?」

 

両手に筆記用具を握りしめ、乙名史さんはなんの遠慮もなく笑顔で俺たちに質問を投げかけてくる。

 

挨拶もなしでいきなりの取材攻勢なのだが、不思議とそれが不愉快だと感じないところが、彼女の人徳なのだろう。

 

スマホ・タブレット全盛の時代に手帳とボールペンを手に持って取材する彼女の姿は、古き良き時代のトラックマンを想起させた。

 

「クラシック期というのは、ウマ娘の実力が一番伸びる時期とされていますからね。フラッシュも成長期を迎えているということでしょう」

 

俺は当たり障りのない言葉を選んで、先日までのフラッシュの不調の原因をごまかす。

この乙名史さん、憎めない人ではあるのだが、変に鋭いところもあるうえに彼女はどうもこちらの発言を勝手に【拡大解釈】する傾向があるので、下手なことは言えないのである。

 

「もちろん身体的な成長もあるのでしょうが、フラッシュさんの顔つきがこう、なんといいますか、先日の取材時に比べると、憑き物が落ちたような感じがしていますね。このあたりにも、好調の要因が?」

 

こういうところだよ、この人の怖いのは。

 

「初めての重賞挑戦ということで、フラッシュも緊張していたのでしょう。フラッシュの表情の変化は、レースが近づくに連れてそれを気合に変えてくれた証ですね。トレーナーとして、そのことを非常に心強く思っています。次のレースが今から楽しみですね」

 

この人、本当はどこまで感づいているんだと内心冷や汗をかきながら、俺はそれらしい理由をなんとかひねり出した。

 

ちなみにフラッシュはインタビューの間、ずっと薄く微笑んで沈黙を守っていた。

この人相手に余計なことを言うと、あとで面倒なことになるということをよく理解してくれているのである。

 

「素晴らしいですっ!なるほど、今度の京成杯には、なんの緊張もおそれもなく挑むことができると!トレーナーさんとしても、今度のレースは勝って当たり前、フラッシュさんが負けたら冬のプールにでも滝にでも飛び込んでやると、それぐらいの自信があるということですね!?」

「そんなこと言ってないですし、思ってもいませんが!?」

「担当の勝利を疑わないその姿勢、まさにトレーナーの鑑です!これはすぐに帰社して記事にしなければ!」

 

そう言うと彼女は前世はウマ娘だったんじゃないかと思えるようなすごい脚で、練習場から去って行ってしまった。

 

「……いいんですか?」

 

去りゆくトラックマンの背中を見ながら、フラッシュが心配そうにこちらを伺う。

 

「まぁ乙名史さんの記事だし……。記事を読む読者もある程度分かって流してくれるだろ」

 

俺としては苦笑いでも浮かべながら、そういうよりない。

彼女の記事は読者から【話半分、マジ半分で読むとちょうどよい】とネットでも言われていて、レースはエンタメの一面もあるし、こういう記者の記事もあったほうが盛り上がるよな、ぐらいの感覚で受け入れられている。

 

そんな感じで記事は半信半疑で読まれているのに、彼女がレースの予想で厚い印を打ったウマ娘には、なぜかファンの人気が集中する。

 

つまり、ファンは彼女が書いた記事はともかくとして、その予想は信じているわけだ。

 

実際、乙名史さんが◎や○をつけたウマ娘の連対率は、驚異的なものがある。

 

このことは乙名史さんの相マ眼が優れていることの証明にほかならないが、彼女が書いた記事の信憑性はともかくとして、ウマ娘を見る目は確かだとファンは信じているわけで、このあたりウマ娘ファンというのはなかなか侮れない。

 

「それでも私が負けたら、トレーナーさんを真冬のプールや滝に飛び込ませようとする人も出てくるかもしれませんからね。そうならないためにも、もう少しトレーニングがんばってきます」

 

フラッシュはそう言って冗談っぽく微笑むと、坂路コースのスタート地点に駆け足で戻っていく。

冗談を言って笑顔をみせてくれるようになるまで、フラッシュの精神状態が回復したことに俺は心底安心を覚えていた。

 

*

 

他地域からやってきた人は、【関東のからっ風は身に沁みてたまらない】という。

そのあたり、ドイツからやって来たフラッシュはどう感じているのだろう。

ドイツは日本より経度が北寄りにあるので、関東の寒さなんてあまり気にならないのかもしれない。

 

「そうはいっても、やっぱり寒いことは寒いですよ」

 

今日のメインレース・京成杯を控えた、中山レース場の控室。

半袖短パンの体操服姿のフラッシュは、両腕で体を抱くような仕草をしながら苦笑いを浮かべた。

 

「そりゃそうだよなあ……」

 

真冬の箱根駅伝など、選手たちも走っている最中はいいだろうけど、待ってる時間は寒くてたまらんだろうな、と思いながらこたつの中でみかんを食べたりしてるもんだ。

 

「しかし、走り出してしまえば暑さ寒さは気になりません。逆に言えば、気温が気になるような日はあまりレースに集中しきれていない、ということができるかもしれませんね」

「確かに。俺も学生時代、試合に集中できてた時は気温なんか気にならなかったな」

 

俺も高校大学とサッカーをやっていたものだから、その感覚は共感できた。

集中力が限界に達して、ゾーンに入った時は時間の流れさえ感じにくくなる。

よく野球選手がホームランを打ったときに『球が止まって見えた』という、あれだ。

 

「トレーナーさんも、なにかスポーツを?」

「ちょっと、サッカーをね。ヘボだったけど」

「サッカーですか。それは素晴らしいですね」

 

俺のスポーツ歴を聞いて、フラッシュは顔をほころばせる。

 

「私、サッカー大好きなんですよ。よかったら今度、私とプレイしてみませんか?」

「いや、ウマ娘とじゃあ何やっても勝負にならないよ……」

 

誘ってくれるのは嬉しいが、人間の男とウマ娘では、フィジカルが違いすぎる。

この両者の差は、普通の人間の男と女性の差以上の差がある。

PKをやるにせよ、攻守ドリブルをやるにせよ、正直全然相手にならないだろう。

 

「では、リフティング対決ならどうです?これでしたらあまり、フィジカルの差は関係ないでしょう」

 

ああ。

リフティングを続けて、先にボールを落としたほうが負け、というやつか。

俺も学生時代は、ウォーミングアップの時とかチームメイトとよくやったものだ。

 

……あまり大きな声で言えないが、昼飯やジュースなどを賭けて対戦したことも結構あった。

 

「それなら勝負になりそうかなあ。よし、じゃあ今度トレーニング前のアップも兼ねて、ちょっとやってみるか」

「本当ですか。楽しみです」

 

フラッシュはそう言って、どういうわけかエアリフティングを始めてしまった。

サッカーの本場であるヨーロッパ生まれの彼女は、本当にサッカーが好きらしかった。

 

「サッカーもいいけど、今はレースに集中しよう。なんて言ったって今日は、お互い初めての重賞挑戦なんだから」

「もちろんです。でも、こうして好きなことをお話していただけたおかげで、そのプレッシャーが少しばかり、和らいだ気がします」

 

そういうフラッシュの顔は、確かに中山レース場に入場したときと比べると、だいぶリラックスしたように見える。

 

なるほど。

大きなレースの前の雑談というのは、担当の精神面において意外に大切かもしれない。

 

そんな話をしているうちに、パドックでファンに顔見せする時間が近づいていた。

 

それに気がついたのはフラッシュも同じだったらしく、ゼッケンを手に取り、頭からくぐらせて丁寧に身につけた。

 

「おかげで、いい状態でレースに臨めそうです。では、そろそろパドックに向かいますね」

「ああ。精一杯、がんばってきてくれ」

 

控室から出ていこうとするフラッシュに、俺は励ましの言葉をかける。

今からレースに挑むウマ娘に対して、トレーナーができることといえばそれぐらいのものだ。

 

「はい。行ってきます」

 

特に気負いもなく、小さく微笑んで控室をあとにするフラッシュに俺は心強さを覚えていた。

フラッシュが部屋から出て、足音が小さくなっていくのを確認してから、俺は自分のバッグから胃腸薬を取り出す。

 

「いててててて……」

 

フラッシュのデビュー戦の時は俺も初めてのレースだったし、精神的な体調不良も仕方ないか、と気軽に考えていたのだが、前走のプレオープンのときも激しい胃痛に悩まされていた。

 

フラッシュの手前、なんとかカッコをつけてはいたが……今回は初めての重賞というプレッシャーもあって、実は3日ほど前から食欲不振と突発的な胃痛に苦しめられている。

 

こんな脆弱なメンタルではトレーナーなんかやっていけないんじゃないか、と思った俺は、よく飲みに連れって行ってくれる先輩にこのことを相談してみた。

 

そんな俺に先輩は『ルーキー時代は誰でもそうさ。俺だって初めて担当がついた時は不安とプレッシャーで、不眠やら食欲不振に悩まされて体重を10キロ近く落としたもんだ』といって、今ではそんなことも想像できないビール腹をぽん、と叩いて笑っていた。

 

そして『心配しなくても担当している娘と一緒に戦っているうちに、レースへ挑むことへの度胸は自然についてくる。それと、担当と自分を信じるということがどういうことか、時間とともにきっと分かってくる』と、酔っ払いにしては真面目な顔をして、俺を励ましてくれた。

 

俺は、エイシンフラッシュというウマ娘を、能力的にも人間的にも信頼している。

あとは、自身を信用できるように仕事に打ち込むだけだな……と自分を鼓舞しつつ、俺は水要らずの胃薬を口に放り込んだ。

 

*

 

中山レース場のスタンドは、冬の寒さなど感じさせない熱気に満ちていた。

 

京成杯は、これから始まるクラシック級重賞路線の開幕レースである。

このレースの優勝ウマ娘からは後に三冠レースやトリプルティアラで活躍する娘も多数輩出しており、クラシックロードの行方を占う上でも、重要なレースだった。

 

そんなレースにフラッシュは単勝支持率35%という、圧倒的一番人気を背負って出走する。

その人気は前走の2000Mプレオープンの勝ち方が強かったというのもあるだろうし、乙名史さんがフラッシュに⦿(ナカグロ。◎より信頼を置いている分厚い印)を打ったことも、きっと影響しているだろう。

 

控室であえてこのことを話題にしなかったのは、フラッシュに余計な重圧を与えたくなかったからだ。

 

全員、ゲートイン完了。

 

定刻通りに、ゲートが開いた。

 

今日のレースは典型的な逃げの娘がいない。

先行脚質の娘たちがお互いの様子を伺いながら、ハナを奪いに行くべきか探り合っているようだった。

 

そんな中、いいスタートを切ったフラッシュも前の方につけた。

 

今日の出走メンバーを見て『スローペースになりそうなら、前の方でレースをすることも意識にとどめておいてくれ』と指示しておいたのは、正解だったようだ。

 

フラッシュの持ち味がレース終盤のキレのある末脚であることには間違いないが、レースの展開に応じて柔軟な試合運びができることも、彼女の強みだった。

 

4番のゼッケンを付けた娘が押し出されるように先頭に躍り出たが、その後ろの先頭集団は団子状態になっている。

そんな中でもフラッシュは外側の芝状態の良いところに位置し、現在三番手につけていた。

彼女の状況判断能力は素晴らしく、これも一つのセンスであり、才能だろう。

 

ゆっくりとしたペースでレースは進んでいき、1000Mの通過タイムは63秒と少し。

2000Mの中距離のレースとしては、かなりのスローペースである。

 

先頭の娘が残り600Mの標識を通過したあたりから、レースが動き始めた。

後ろにつけていた娘たちも差を詰めに行き、レースの流れが激しくなってくる。

 

その激流に巻き込まれることもなく、フラッシュは外目で三番手のいい位置につけていた。

脚色も、決して悪くない。

 

そして、中山の短い直線に入った。

 

うまくスローペースで逃げていた4番の娘は、そのまま後続を振り切らんとスパートを掛ける。

二番手との差が一馬バ身ほど開いた、その時だ。

 

大外からいい脚で先頭に襲いかかるウマ娘が一人。

 

エイシンフラッシュだった。

 

二人と、後続の差がどんどん開いていき、中山名物・直線の坂の手前では、完全に二人の一騎打ちになっていた。

 

坂の途中で一歩、フラッシュが前に出る。

そうはさせぬ、と必死に4番の娘も食い下がる。

 

肘が擦れ合うような距離での壮絶な鍔迫り合いが続き、坂を登りきった時点でも二人はまだ横並びだ。

 

残りはもうすでに、50Mを切っている。

 

その時だ。

フラッシュがわずかに十センチほど、前に出たように思えた。

 

そこが、ゴールだった。

 

重賞らしい名勝負に、スタンドからは割れんばかりの大歓声が上がる。

 

そのような僅差でも当事者たちは勝敗が分かったらしく、フラッシュは小さく手を振ってその歓声に応えていた。

 

2着の娘は感情をこらえきれなかったのか、何度も何度も手を瞳に当て、溢れ出てくる涙を拭っているようだった。

 

*

 

「フラッシュ、重賞初制覇本当におめでとう!」

 

俺は地下バ道で、見事にGⅢを制してくれた担当の帰還を満面の笑顔で出迎えた。

 

「ありがとうございます。4番の方も本当にいいレースをされていて……最後の最後まで分からなかったのですが、なんとか勝ち切ることができました」

 

フラッシュはいつものように控えめに微笑み、胸に手を当てて相手に敬意を払いながら、静かな喜びを表現してくれている。

 

4番の娘との差は、わずかにハナ差。

ほんの数センチの違いが勝者と敗者を分け、この後のレース人生に大きな影響を及ぼす。

 

「今回の勝利で、君は三冠レースすべてのレースに出走できることがほぼ確定した。本当に大きな勝利になったね」

 

そういう俺に、フラッシュは静かにうなずいた。

 

「はい、そのことについては嬉しく思っています。しかし重賞初制覇に、浮かれてばかりもいられませんね。皐月賞に向けてライバルたちも更に力をつけてくるでしょうし、これからもきっと力のある娘がたくさん出てくることでしょう。気を引き締めなければ」

 

生真面目なところは彼女の美徳であるが、今日一日ぐらい勝利の余韻に浸っていても女神様たちはバチをお当てにならないことだろう。

 

「その心がけは素晴らしいと思うよ。でも、それは明日からにしないか?何かを成し遂げたときには、しっかりとその達成感を噛み締めておくのも、競技を続けていく中で大切なことだ」

「確かに、そうかもしれませんね」

 

俺の持論を、フラッシュは素直に肯定してくれた。

 

「今日はお祝いになにか美味しいものでも食べに行こう。フラッシュ、なにか食べたい物はあるかい?」

「いつもお気遣いありがとうございます。そうおっしゃってくださるなら……」

 

俺の提案にフラッシュは少し考え込む。

 

「このレース場の近くに、話題になっているSchokoladenkuchen……チョコレートケーキのお店があるんです。よかったら、そちらへ連れて行っていただけませんか?」

「チョコレートケーキか。オッケー、じゃあライブが終わったらさっそく食べに行こうか」

 

フラッシュは将来、両親と同じように洋菓子職人になりたいという夢を持っている。

もちろん美味しいものを食べたいという欲求もあるだろうが、話題のお菓子を食べておくというのは立派な職人になるための勉強という一面もあるのだろう。

 

俺の返事を聞いて、フラッシュは年相応の可愛らしい笑みを浮かべてくれたのだった。

 

*

 

学園の商魂というのはなかなかに逞しいもののようで、京成杯を制したその日の夜にグッズ製作部の部長から直々に、フラッシュのスマホに電話があった。

彼は重賞制覇の祝辞もそこそこに『GⅢ勝利という立派な成績を残されたことですし、エイシンフラッシュさんのグッズを再販させていただいても大丈夫でしょうか?』と許可を求めてきたらしい。

 

『確かに、重賞を制覇したときにはグッズの再販をお願いします、とはいいましたが……』

 

電話口の向こうにいるフラッシュも、製作部の拙速ぶりに苦笑いを隠せないようだった。

 

チョコレートケーキを食してから一緒に帰ってきた彼女は、もう寮の部屋に着いてゆっくりしていたはずである。

 

製作部の部長さんにはとりあえずトレーナーさんと相談するから、返事は少し待ってほしいと伝えて俺に電話してくれた、というわけなのだが。

 

「なに考えてるんだよ、製作部の奴らは……」

 

俺の実家も、製造業を営んでいる。

だから重賞初制覇のニューヒロイン誕生に合わせてグッズを再販することで、できるだけ早く前回の製作費を回収したいという、あちらさんの事情も理解しないわけでもない。

しかしそれを差し引いたとしても、フラッシュが負った精神的な苦痛の大きさを考えると、今回の早急すぎる再販要請には憤りを禁じ得なかった。

 

「俺は正直、時期尚早だと思うけどな。分かった、部長さんには俺がきっぱり断りを入れて、『こちらからお願いするまでは、どうか再販を待っていてほしい』って伝えておくよ」

『トレーナさん、そのお気持ちは嬉しいのですが……少し考えさせてくださいね』

 

俺の提案に、そう言ってフラッシュは黙考する。

おそらく、様々な想いが彼女の中を行き交っているだろうし、その感情を整理しているのだろう。

 

『今回の要請に、色々と思うところがあるのは確かです。ですが約束は約束ですし、グッズの再販をお願いすることにしましょう』

「本当にいいのか?そのことでまた、つまらない嫌がらせに遭うかもしれないよ」

『今度もし、そういうことをされても……『私にはそれ相応の実績があるから、グッズ化を依頼されたのです』って、堂々と言い返せますから』

 

心配する俺に、フラッシュは力強い声を聞かせてくれた。

そう言ってくれるのなら、是非もあるまい。

 

「フラッシュがそう思っているのなら、部長さんにオーケーの返事を出してあげるといい。あちらさんも在庫抱えて大変みたいだし、喜んでくれると思うよ」

 

最後、冗談めかして言う俺に、フラッシュもああ、やっぱりそうだったんですね。うちもお菓子屋さんなのでよくわかりますが、商売やってて在庫抱えるのって本当に大変ですものね、といたずらっぽく言ってくれた。

 

しかし、今度は言い返せる、か。

きっと彼女は確たる証拠がなかったにせよ、あの落書きの犯人の目星はついていたのだろう。

 

それでもフラッシュは、犯人を名指しするようなことはしなかった。

 

特別扱いをされたのだから多少の嫌がらせは仕方ないと、あのイジメを甘受したフラッシュにどのような言葉をかけるべきか迷っているうちに、彼女は『それでは、おやすみなさい。良い夢を』と電話を切ってしまった。

 

*

 

フラッシュの了承を得た、仕事の早さに定評のある製作部(もちろんこれはイヤミだ)は、翌日の月曜日には、文字通り早速フラッシュのグッズをオンライン通販と店頭で再販した。

 

重賞を制覇したフラッシュのグッズは加速度的に人気を高めたらしく、販売再開からわずか数時間でぱかプチもブロマイドもSOLD OUTしたようだった。

 

『それで……今度はねんどろいど化にどきゅーと化、それにぬいぐるみと1/8フィギュア製作のお話を、お昼休みに部長さんから電話で頂いてしまって……』

 

その日の放課後、困惑した顔で相談してくれたフラッシュの話を聞いてすぐに、俺は例の部長に直接電話を掛け、『気持ちは本当にありがたいが、そのあたりのグッズ化はせめてフラッシュがGⅠに出走できる実力が身につくまで待ってほしい』とお願いした。

 

一体どれだけの売上があったんだよ、フラッシュのグッズは……。

 

仕事熱心なのは結構なことだが、ちょっと人の気持ちを考えなさ過ぎる。

こういう身内からの無理難題から担当を守るのも、トレーナーの仕事なのだと痛感したできごとだった。

 

しかし……理事長といい、製作部の部長といい、この学園には猪突猛進型の仕事人間しかいないのか。

まったく、いつも理事長のたづなを引き締めているたづなさんの気苦労が忍ばれた。

 

ところで、たづなって一体何なんだろうな?

この世界にはサラブレッドやらたづなやら、語源がよくわからない言葉が結構あったりする。

 

 

そんな数日前のできごとを思い起こしながら、俺は生徒や先生、それにトレーナーで混み合う昼のカフェテリアでサンドイッチを齧っていた。

 

「ねぇねぇ、聞いた?あの三人組の話」

「ああ……ついこの前自主退学したあの三人ね。噂は聞いてる」

 

後ろに座っていた二人組のウマ娘が突然始めた話は、決して穏やかではないものだった。

 

……別に聞くつもりはなかったのだが、耳に入ってくるものは仕方ない。

見たくなければ目をつむればいい視覚情報と違って、音は完全に遮断する手段がないのだから。

 

俺はサンドイッチをぱくつきながら、少しばかりそちらに聴覚を集中させた。

 

「この前の京成杯を勝ったエイシンフラッシュさんを、ロコツにイジメてた三人でしょ。下級クラスの娘ならイジメてもいい、ってわけじゃもちろんないけど、重賞勝つような娘をイジメてた、となるとさすがに居場所なくなるよね……」

「あの三人、普段から気に入らない娘をイジメてたから……。しかも先生とかトレーナーにはバレにくい陰湿な方法でさ。そういう娘達から恨まれてたこともあって、あっという間に噂が広がって学園にいられなくなったらしいよ。私もちょっと嫌がらせされたことがあったから、ざまあみろとしか思わなかったけど」

「でもあの三人オープンまで勝ち上がってたし、一人はジュニア重賞も勝ってて結構将来期待されてたのにね。人を呪わば穴二つ、ってよく言ったものよね……」

 

その話はそこまでだったのか、二人はもう話を切り替え、女子高生らしい話題で盛り上がって大きな声で笑い合っていた。

 

俺はこの二人の会話を、なんとも言えない気持ちで聞いていた。

……実は俺もその三人組退学の噂は知っていたし、彼女たちがフラッシュに嫌がらせをしていた下手人共だ、ということも、状況的にほとんど間違いないようだった。

 

ウマ娘を預かるトレーナーとして失格かもしれないが、その噂を聞いたときに『自業自得だ』と思ってしまったことは懺悔しなければならない。

 

結局、トレーナーとて人間でしかないし、ウマ娘も難しい年頃の女の子でしかない、ということだ。

 

爽やかで華やかに見えるこのトレセン学園も、結局は女子校の一形態でしかないし、所詮は勝負の世界なのである。

 

さっきの二人の片割れが言ったように、弱いウマ娘には人権がない、というのは明らかに言いすぎだろう。

だがレースで勝てないウマ娘は、学園の下位カーストに甘んじなければならないというのもまた、厳然たる現実だ。

自らの価値と地位を高め、自分の言い分を通したいのなら、レースで勝つしかないのである。

 

それがイヤというほど分かっていたからこそ、あの時フラッシュは何も言わなかったのだと思う。

 

件の三人組にいじめられていたというウマ娘たちは、重賞を勝ったそのフラッシュの威光を利用して嫌な奴に復讐した、ということになる。

 

そんなセコいことをやるような性格だからイジメられるんじゃないか、とまでは言わないが、いじめられた仕返しにしては、こちらもこちらで十分に陰湿なやり方だろう。

 

そんな彼女たちに『虎の威を借りるような真似をしないで、悔しかったらフラッシュのように重賞を勝ってから反撃しろ』と正論をぶつけるのは簡単だ。

だけど努力の量だけでなく、持って生まれた才能の量を競っている面もあるこの世界でそれを言うのは、あまりに酷というものだった。

 

「ふぅ……」

 

……なんだか、トレーナーになって初めて、うんざりした気持ちに囚われたように思う。

 

この世界で生きていく以上、こんなことはこれからきっと何度でもあるんだろう。

 

いや。

好きだから選んだ道であったとしても、楽しいことと嬉しいことしかない、なんてことがあるわけがない。

 

そんな当たり前のことを、気づかせてくれた一連のできごとでもあった。

 

しんどいことも辛いことも、これからわんさかと山にように出てくるに決まっている。

でも、好きで選んだ道だからこそそれを乗り越えようとがんばるのだろうし、その山を乗り越えて見える景色はまた格別なものだと信じたい。

 

「よしっ」

 

俺は冷めてぬるくなったレモンティーを一気に飲み干すと、フラッシュの放課後のトレーニングメニューを考えるために、トレーナー室に向かった。

 




読了お疲れさまでした。

今回は私得意の長文だったので、本当におつかれになったのではないか、
と心配しております(笑)。

実は私も中学生の時、軽くいじめを受けた経験があります。

まぁ、あるグループの数人から無視されたり、
プリントを嫌そうに渡されたりと、ほとんど実害のないものだったので
さほど気にはならなかったのですが、
やっぱり私も人間ですから、そうされるたびにちっとは傷つくんですよ。

でも、これがある日を境にピタリを止んだんです。

それは私がちょっとした病気で入院し、退院してから学校に復帰した
タイミングでした。

ところで、イジメている人の心理というものは面白いものです。

奴らは『こいつは弱くて反撃してこないから、イジメてもいい』と思った人間を
ターゲットにしてイジメをするわけですが、
自分が周りに『あいつは弱い者いじめをする酷いやつだ』
と悪者になるのは嫌なようで、
周りに気を使われているようなタイプの【弱者】は決してイジメないのです。

それどころか『もう病気は大丈夫?』と優しくしてきたのには、
思わず笑ってしまいました。

文は人なり、ともいいまして、小説を書いているとついつい自分を
出しすぎてしまうことがあります。

文章というのはその人の思想・思考そのものです。
いくらフィクションといえども完全にそれを消し去ることは
不可能だと思いますが、読んでくださる方を白けさせるところまでは、
書かないようにしたいものですね。

今回も拙い長文を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

それではまた、次回作でお会いいたしましょう。
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