1月の下旬というのは、東京の気温が最も下がる時期である。
この時期、東京でも雪がちらつくことがあるが、昨夜から降り続いた雪は未明になっても止まなかったようだ。
朝トレーナー寮を出るとき、玄関の扉が少し開けにくいほど雪が積もっていたのには驚いた。
ウマ娘がいくら寒さに強いといっても、さすがに雪が積もっているようなバ場で走り込むわけには行かない。
今日は予定していたトレーニングメニューを変更し、なにか室内でできるものに切り替えることにした。
*
トレーナー室にパチリ、という駒音が響き渡る。
今、俺はフラッシュと差し向かいで将棋を指していた。
将棋はワーキングメモリの強化に役に立つとのことで、学園は積極的にトレーニングに取り入れている。
俺は小さい頃から将棋が好きで(オヤジが熱心な愛棋家だったということもある)、高校からサッカーを始めるまでは結構真剣に取り組んでいたこともあり、初段ぐらいは指せた。
トレーナーの中には全く指せない人もいるが、そういう人が将棋トレーニングを担当にさせたい場合は指せるトレーナーに指導してもらうか、将棋が強いウマ娘と対戦させたりする。
フラッシュに将棋を教えたのは、俺だった。
ドイツ出身の彼女はチェスの下地があったこともあり、すぐに日本将棋のルールを覚えてくれた。
最初は持ち駒というルールに戸惑ったようだったが(これがあるのは日本将棋だけだ)、それもすぐに慣れて三ヶ月もしないうちに2・3級ぐらいは指すようになった。
今では、俺とほぼ互角ぐらいは指せる腕がある。
フラッシュは居飛車党の本格派で、本人の性格をそのまま将棋に映したような、非常に真っ直ぐで筋の良い手を指す。
対振り飛車は居飛車穴熊、相居飛車は角換わりと相掛かり、それに相矢倉を得意としている。
学ぶのが好きなのだろう。
定跡もよく勉強していて、序盤にリードを許すということがない。
それでいて彼女の終盤はその差し脚同様非常に鋭く、寄せ合いになるとまず負けないのだ。
フラッシュの将棋は、一局を通じて大きな隙が生じにくい将棋だと言えた。
俺はわりかしなんでも指せるので、今日は振り飛車で挑んでみたが……。
「ダメだ、ここまで。負けました」
俺は駒台に手をおいて、投了を宣言した。
向こうは詰まない形(これだから穴熊は……)でこちらが必死なので、もう手の施しようがない。
「ありがとうございました」
こちらの投了に、フラッシュは丁寧にお辞儀する。
レースでもそうだが、彼女は勝利の喜びを大っぴらに表現するということはしない。
負けた相手のことを、ちゃんと思いやれるタイプの勝負師なのだ。
「しかし、これで三連敗か。そろそろ、香車を落としてもらわんといかんなあ」
「いえいえ、そんな。たまたま指がいい方向へ行っただけですよ」
フラッシュは苦笑して謙遜したが、最近の彼女の上達ぶりを見るに、俺との手合はそれぐらいがちょうどいいように思う。
「ま、今日はこの辺にしておこうか」
「そうですね。ありがとうございました」
「うん、お疲れ様」
挨拶を交わしてから二人で駒を中央に集め、俺はそれを駒袋に入れて、フラッシュがその間に駒台を盤の中央に置いて、盤を長机の奥に移動させる。
将棋でトレーニングしたあとは、この手順であとかたづけするのが【定跡】になっていた。
「……くしゅん!」
めずらしいこともあるものだ。
フラッシュが口に手を当てながら小さくくしゃみをして、ティッシュを鼻のあたりに当てている。
「フラッシュ、大丈夫か?ひょっとして風邪でも?」
今年の冬は寒暖差が激しく、学園内にも体調を崩す人が結構いるようだった。
幸い、俺はそんな中でも元気にやっているが……。
「いえ、ちょっとハナがムズムズしまして……」
鼻がムズムズ、か。
「あ~……日本じゃそろそろ、花粉が飛び始める季節だからな」
「花粉、ですか?」
花粉とくしゃみがどう結びつくのかピンとこないのだろう、フラッシュは首を傾げる。
そうか。
ヨーロッパの方じゃ、花粉症というものにあまり馴染みがないかもしれない。
特にスギは日本の固有種で、スギの花粉症というのはほとんど日本の風土病みたいなものである。
「日本じゃ今ぐらいの時期からスギ花粉が飛びまくっていてな。その花粉が、アレルギー症状を引き起こすんだよ。花粉症は恐ろしく集中力を削るし、ひどくなると眠れないぐらい鼻詰まりや目のかゆみの症状が出るからな。もしそういう状態が続くようなら、早いうちに耳鼻科に行っておくようにしてくれ」
「聞いている限り、軽くみてよい病気ではなさそうですね……。わかりました。何日か様子を見て、くしゃみが続くようなら病院へ行ってきますね」
病気は先手必勝であるからして、できるだけ早く病院に行ってほしかったが、小さい子じゃあるまいし、そこまでトレーナーが口出しすることもないだろう。
「ああ、そうしてくれ」
「それでは、今日のところはこれで失礼しますね。明日もよろしくお願いします」
別れの挨拶をしながらもくしゅん、くしゅん、と何度もくしゃみをするフラッシュがやっぱり心配だったが、俺はお疲れ、とだけ言って彼女がトレーナー室から出ていくのを見送った。
*
2月に入って少し寒さがマシな日が続いていたのだが、今日の寒さは強烈で朝練の時は手がかじかんでストップウォッチがまともに押せないぐらいだった。
放課後になれば少しは気温が上がってくれるかと期待したが、体感的には朝練のときとほとんど変わっていなかった。
ダートコースを踏みしめるたびに、まだ残っている霜がシャリシャリ音を立てている。
「ふぅっ……今日は本当に冷えるなあ」
「そうですね」
さっきまで暖かい教室にいたせいだろうか、そういうフラッシュの顔は少し赤かった。
「こういう時は体を動かすに限るな。今日はダート2本と坂路1本をしっかり走り込もうか。寒さで体が固くなってるだろうから、最初は脚の負担が少ないダートからにしよう」
そのトレーニング指示にフラッシュはうなずくと、そのままスタンディングスタートの姿勢を取る。
「よーい……」
俺がさっと右手を上げると、フラッシュはいつも通り綺麗なスタートを切った。
彼女の走る姿を見るたびに思うのだが、コースを駆けるフラッシュは本当に美しい。
そう感じるのは、ただただ俺がフラッシュに想いを寄せているから、というだけではないだろう。
「ん……?」
600Mも走った頃だろうか。
急に、フラッシュが減速し始めた。
「!?どうし……」
俺が声をかけようとした瞬間、フラッシュはまるで糸の切れた操り人形のようにその場に倒れ込んだ。
いきなり倒れ込んだフラッシュを見て周りのウマ娘が悲鳴を上げ、見ていたトレーナーたちも彼女のもとに駆けつけ始める。
「おい!フラッシュ!!どうした!?」
もちろん俺も、全速力でその場へ急ぐ。
くそっ!
なんで人の足ってやつはこんなに遅いんだ!
学生時代はサッカーで鳴らしたはずの快足(!)にイライラしながら、俺はダッシュの効かない砂の上を必死に走る。
20秒もかかっただろうか、ようやくフラッシュの元へやってきた俺は、慌ててしゃがみこんで彼女に声をかける。
「フラッシュどうした、大丈夫か!?」
「……大丈夫……です……」
返事があったことには安心したが、発する言葉に力がない。
フラッシュの目は虚ろで、激しい呼吸を繰り返していた。
どうやら怪我をして倒れ込んだ、というわけではなさそうだが……。
顔色が先ほどとは比べ物にならないぐらい真っ赤になっている。
「この症状、ナイラじゃないかしら……?」
心配そうに俺たちの様子をうかがっていたトレーナーが、そんなことをつぶやいた。
「ナイラ……」
そうかもしれない、と思いつつ、俺はフラッシュのおでこに手を当ててみる。
触れた彼女の額は、手のかじかみを忘れさせるぐらいに熱い。
ナイラというのはウマ娘が罹る病気の一つで、風邪のような症状と突発的な発熱が特徴だ。
近年では桜花賞直前にエアグルーヴが発症し、出走回避を余儀なくされている。
「ナイラか。こいつは急に来るからな……早く保健室に連れて行ってやれ。俺は医者に電話しておいてやる」
「すみません、お願いします」
学園に常駐している医師への連絡を先輩に任せ、俺はダートに倒れ込んでいるフラッシュを肩から抱き上げて、そのまま背負い込んだ。
灼けるような体温が、背中越しに伝わってくる。
背負い込んだフラッシュは、思った以上に軽かった。
ウマ娘というと人間離れした走力やそのバリキばかりが注目されるが、こうして背負ってみると普通の一人の女の子なんだな、と思い知らされる。
俺はフラッシュを絶対に落とさないようにしっかりと背中で抱え込み、絞り出せるだけのスピードで保健室へ向かった。
*
「採血の結果を見てみないと確定的なことは言えませんが、十中八九ナイラですね。おそらく疲労が主な原因でしょう。最近の寒暖差の影響もあったと思います」
フラッシュを診察してくれた医師の診断結果は、トレーナーたちが予想していたものと同じものだった。
「そうですか」
医師の診断に、俺は少し胸をなでおろした。
ナイラという病気は決して見くびったものではないが、重篤な症状を引き起こすようなものではない。
「3日ほど安静にしていれば、熱も下がってほとんど完治すると思います。一応解熱剤と抗生物質を出しておきますね」
「お願いします」
「それでは、お大事に」
医師はそう言って、保健室から退室していった。
「ふぅ……」
少しばかり気持ちが落ち着いた俺は、折りたたんであったパイプ椅子をフラッシュの眠るベッドの近くに広げて腰を下ろした。
ともかく、入院が必要なほどの病気でなかったのは何よりだ。
今回の発病はグッズ販売のごたごたや、それがきっかけになって起こったイジメ、レースの方では重賞初挑戦などの精神的に負担の大きい出来事が重なったストレスが最大の原因だと思う。
「すまん、フラッシュ……」
……俺がもっとしっかりしていれば、フラッシュによけいな心労はかけなかっただろうし、レースに対する不安やストレスを軽減してやれたはずなのに。
あのイジメだって、もし俺が大御所や天才と言われるトレーナーだったら、イジメっ子どもも恐れをなして絶対にフラッシュに手を出していなかったはずである。
こうしてフラッシュになにかあったり、仕事でミスをするたびに、いつも思う。
俺は、トレーナーという職業に適性がなかったのではないのか。
俺は本来、トレーナーになんてならないほうが良かったんじゃないか。
……父親の言う通り、就職に強い大学へ進学して、手堅い企業に就職するべきだったんじゃないのか。
そしてそこで何年か修行したあと、大人しく家業を継ぐべきだったのかもしれない。
もし俺がトレーナーになっていなければ、フラッシュはもっと優秀なトレーナーのもとで、すでにGⅠウマ娘にでもなっていたのではないだろうか。
なぁ、フラッシュ。
君は俺をトレーナーとして選んでくれたけど、本当にそれは君にとって良いことだったのだろうか。
君がこのトレセン学園に籍を置いてトゥインクルに挑むにあたって、本当にそれが最善の選択だったのだろうか。
「Mutter……」
弱気の虫に取り憑かれていた俺の耳に、フラッシュの吐息のようなうわ言が聞こえてきた。
彼女の呼吸は高熱のせいか苦しそうで、額にはたまのような汗が浮いている。
今の俺ができることといえば、その汗をタオルで拭い取って熱冷ましの冷却シートを貼ってやることぐらいだった。
Mutterはドイツ語で、お母さんっていう意味だっけ……。
ひょっとしたら今フラッシュは、小さい頃病気になったとき、看病してくれたお母さんの夢を見ているのかもしれない。
普段は大人びて見えるようでも、フラッシュはまだ10代の女子高生なのである。
そんな娘が故郷と家族から離れ、異国の地で人生を懸けて戦っているのだと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
ふと、自分が彼女ぐらいの歳だった頃のことを思い出す。
高校時代の俺は実家から学校に通って部活に打ち込み、弁当に入っていたおかずが気に入らないと母親に文句をつけ、進路に反対していたオヤジとケンカしていた、本当にただのクソガキだった。
そうやって、甘えられる両親が身近にいたのだ。
そうだよな……。
俺はたしかに、トレーナーとしてまだまだ未熟な存在だ。
それでもフラッシュは、この異国の地でそんな俺を信頼して選んでくれたのだ。
ご両親ほど、というわけにはもちろんいかないだろうが、フラッシュが辛いときに少しでも支えになれるようなトレーナーになろう。
少なくとも、そうあろうと努力しよう。
「よし」
俺はパチン、と自分の頬を叩いてから、椅子から静かに立ち上がった。
フラッシュが目を覚ましたときにちょっとでも食欲があるようなら、なにか口にできるようなものを買ってくるとしよう。
あと、同室のスマートファルコンに連絡して着替えを持ってきてもらっておくか。
いつまでもトレーニング用のジャージのままでは、快眠というわけにもいかないだろう。
俺はスマホを手にとってLANEを起動させながら、すぐ戻るからとフラッシュに小声で声をかけて保健室をあとにした。
*
「……トレーナーさん」
俺を呼ぶ涼やかな声と、ちゅんちゅんという雀の鳴き声で俺は目を覚ました。
「ん……」
椅子に座ったままベッドに突っ伏して寝ていたせいか、背中がまるでギシギシと音を立てているかのようなぎこちなさで俺は上半身を起こした。
「フラッシュ。気がついたか」
「ここは……保健室ですか」
少し困惑したかのように、フラッシュはあたりを見回しながらゆっくりと上半身を起こした。
高熱で苦しかったのだろう、彼女は時折うめき声をあげてはいたが、結局昨夜一度も目を覚ますことはなかった。
俺はフラッシュがいつ目を覚ましてもいいように、額の冷却シートをこまめに換えながら彼女の様態を見守っていたのだが、いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
「そうだよ。ルームメイトのスマートファルコンに寮の部屋まで運んでもらおうかと思ったが、あまりに辛そうだったから移動させるのは控えたんだ。気分はどうだ?」
「少し熱っぽいですが……体のだるさはそれほどでもありません」
「それはよかった」
顔色を見ていても昨日ほど火照っていなさそうだし、血の気がないというわけでもない。
昨日と比べてだいぶ体調が回復しているのは、確かなようだった。
「高熱のせいで汗をかいていることだろう。とりあえず、水分を取ってくれ」
そう言ってトレーニングのあとにいつも飲んでいるスポーツドリンクより甘味が少し強めのものを差し出すと、どうしたわけかそれを受け取ってくれることはせず、フラッシュは自分の胸を抱きながら――昨日よりはマシだが――顔を再び赤らめている。
「どうした?」
「その……昨日私、おそらくですが、トレーニング中に倒れたんですよね?」
「うん、突然のことでびっくりしたよ」
「その時は確かに、ジャージを着ていたと思うのですが……」
「!?」
そう、今のフラッシュはスマートファルコンが持ってきてくれた黒いパジャマに身を包んでいた。
……あれ?
ひょっとして俺、今あらぬ疑いをかけられている?
「あぁ、そのことか。実は昨日、スマートファルコンに着替えを持ってきてもらってね。その時彼女に着替えをお願いしたんだよ」
下手に大きな声で『違うんだ!聞いてくれ!!』みたいに否定すると、余計にフラッシュを混乱させそうだったので、俺は努めて淡々と事実のみを伝えた。
「そ、そうだったんですね。色々とご迷惑をおかけしてしまったようで……あとでファルコンさんにはお礼を言っておかないと……」
フラッシュも自分の質問に違和感を覚えたのだろう。
少し慌てたようにそう言い繕って、視線を宙に浮かせている。
……まぁまだ熱が残っているみたいだし、普段冷静なフラッシュも正常な判断を下すのが難しかったに違いない。
フラッシュに『このトレーナーは女の子が寝込んでいるときに、勝手に着替えさせるような男なのだ』と思われていた可能性は、俺の精神衛生上考えないようにした。
「彼女もずい分心配していたから、あとでLANEを送っておいてあげるといい。食欲の方はどうだ?抗生物質がお医者さんから処方されているから、飲むならなにか胃に入れてからのほうがいいだろう。食べられそうなら、バナナとヨーグルトは買ってあるよ」
俺がそう聞くと、フラッシュは少し間をおいた。
少なくとも食事を摂ることをすぐさま拒否しなかったことに、俺は少し安心する。
「申し訳ありません。それでしたら、ヨーグルトをいただけますか?それを食べたあとでもう少し入りそうなら、バナナもいただきたいと思います」
「オッケー、わかった」
多少でも食欲があって食べられるのなら、もうそれほど心配しなくても良さそうだ。
俺は保健室に備え付けてある小型の冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、それと一緒に昨夜コンビニで貰ってきておいたプラスチックのスプーンとともにフラッシュに手渡した。
「ありがとうございます、いただきますね」
フラッシュは小さくほほえみながらヨーグルトを受け取ると、小さく口を開けて一口、二口とゆっくり口にし始めた。
「食べられそうか?」
「はい、おいしいです」
「それはよかった。ゆっくり食べてくれ」
食べているところをじっと見られているのもイヤだろうと思った俺は、パイプ椅子に座り直し、尻ポケットからスマホを取り出して朝のニュースを確認するようなふりをする。
ヨーグルトを食べ終え、遠慮がちにバナナに手を伸ばしているフラッシュを横目に見て、俺はようやく人心地ついた。
*
フラッシュがトレーニングを再開できたのは、それから5日後のことだった。
「今回は私が体調管理を怠ったばかりに……申し訳ありませんでした」
「それは違う。フラッシュの自己管理能力の高さは俺が一番良く知っているよ。今回の君の体調不良は、年が明けてから俺が君に色々といらない心労をかけてしまったせいだ。本当にすまなかった」
「そんなことは……」
このままではお互いの謝罪合戦がいつまでも終わらなそうだったので、また頭を下げようとするフラッシュを手を振って制した。
「とりあえずトレーニングを始めよう。今日は病み上がりでもあることだし、まずはダートを軽く流してみてくれ」
「はい」
俺の指示に返事し、フラッシュは駆け足でダートバ場に向かった。
病気になってしまったものは仕方ないじゃないか、で割り切ってしまってはフラッシュに申し訳ないばかりか、俺自身トレーナーとしての成長もないのはわかっているが……。
今回のナイラのように、突発的な体調不良によるアクシデントは完璧には予測・予防できないのもまた現実だ。
大事に至らなかったのは不幸中の幸いだった、と考えることもできるだろう。
それにしてもこの熱発のせいで、皐月賞の前哨戦として出走予定だった若葉ステークス(OP・2000M)参戦がダメになってしまったのは本当に痛手だった。
ほかに出走できそうな前哨戦はというと、ないこともない。
厳密にいうと皐月賞のトライアルレースではないが、予定していた若葉ステークスの一週間後にGⅢの毎日杯(芝1800M)がある。
しかし、若葉ステークスと同じ週にある重賞のスプリングステークスを回避し、わざわざオープン戦を前哨戦に考えていたのは、本番と同じ距離のレースを無理のないローテーションで走りたかったからなのだ。
それなのにより厳しいローテーションで本番の皐月賞と違う距離を走ってまで毎日杯に出走するのか、という話にもなってくる。
そもそも、その毎日杯に出れる体調になっているかすらわからない。
「……最悪、ぶっつけ本番になるかもな……」
病み上がりらしい、フラッシュのぎこちない走りを見ながら、俺は思わず頭を抱えそうになった。
実際、これは頭の痛い問題だった。
フラッシュがクラシック級になって走ったレースは、1月前期に勝利を収めたあの京成杯だけである。
出走ポイント面では、なんの問題もない。
よほどのことがなければ、クラシック級で重賞を勝ったウマ娘が三冠・もしくはトリプルティアラのレースにポイント不足で発走除外、なんて起こらないからだ。
問題なのは長い皐月賞の歴史の中で、前走から二ヶ月以上のレース間隔を空けて勝ったウマ娘が一人しかいない、ということである。
春先のクラシック級ウマ娘は、身体的にも経験的にも成長真っ盛りの時期。
逆に言えば練習量も実戦経験もまだまだ発展途上ということであり、一回のトレーニング、一度の出走レースの差が致命的になりかねない。
もちろん前例が少ないということは、必ずしも失敗を意味しているわけではない。
それでも俺のようなルーキーがそれに臨むということに、躊躇を感じてしまう。
三冠レースに挑めるのは、このクラシック期一生に一度きりである。
ミスは、絶対に許されない。
毎日杯を使うのか。
それとも、ぶっつけで皐月賞に臨むのか。
「いてて……」
頭ばかりか、最近持病のようになっている胃痛まで襲いかかってきた。
とりあえず俺は胃薬を飲んで、痛みがマシになってから考えようと思った。
*
前哨戦を走るか。
皐月賞に直行するか。
俺は、いまだに結論を出せないでいた。
できることなら、毎日杯をたたき台にしてから皐月賞へ進みたいというのが本音だった。
前例がすべてではないとはいえ、3ヶ月以上実戦から遠ざかって皐月賞に挑む、というのはやはり現実的ではないように思えた。
問題がローテーションだけであるなら、出走すれば良いだけの話なのだが……。
熱発のあと、どうにも調子が上がってこない今のフラッシュは、とても重賞で好走を期待できる状態ではなかった。
それでも毎日杯に出走するつもりなら、今から急ピッチでそれなりに負荷の高いトレーニングをフラッシュに課すことになる。
その疲れがどう出るのか、それも心配の種の一つだった。
毎日杯には出走せず、トレーニングや模擬レースをしっかりこなして皐月賞に挑む、というのも悪くないプランだろう。
だが、そのアイデアの前には【今まで皐月賞の前走から三ヶ月以上も間隔を空けて勝利したウマ娘は、歴史上一人しかいない】という現実が、重くのしかかってくる。
フラッシュはどうしたい?とは聞いていない。
競走人生を左右する重大な場面であるからこそ、担当に選択を丸投げし、失敗したときに『あの娘が選んだことだから……』と逃げることは、絶対にしたくなかったからだ。
だから彼女には『前哨戦を走るかは、俺が判断する。君はトレーニングだけに集中してくれ』と言ってあった。
フラッシュも俺の気持ちを汲んでくれたのだろう、『わかりました』とだけ言って、日々のトレーニングに取り組んでくれていた。
「ふぅっ……」
たまったため息を大きく吐き出し、俺は長机に肘をついて頭を抱えた。
俺が赴任してくる前からトレーナー室においてあるこの長机は少しガタが来ているのか、肘を置いた瞬間、グラグラと揺れる。
この揺れがまるで今の俺の心理状態を表しているかのようだ、などとセンチメンタルに考えてしまうあたり、相当に頭が煮詰まっているらしい。
ダメだ。
考えても考えても、悩んでも悩んでも結論は出せそうにない。
とりあえず、コーヒーでも飲んで一息入れよう……。
それでもダメなら、ぶらぶら学園内を散歩してみるのもいいかもしれない。
アインシュタインなどの天才たちは、散歩中にクリエイティブなアイデアがよく浮かんだという。
もちろん俺は天才などではないが、彼らのアイデア発想法にあやかることは、そう悪くないことのように思えた。
そんなことを考えながら椅子から立ち上がろうとすると、不意に扉からノックが響いた。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
部屋にはいってきたのは、フラッシュだった。
今日の彼女の姿を認めた瞬間、少しどきりとしてしまったのは男なら仕方なかったかもしれない。
「おっ、その服は……とうとう届いたんだね」
心なしかいつもより弾んだ歩調で部屋に入ってきた彼女は、見慣れない衣装に身を包んでいた。
そう。
フラッシュが着ているのは、ドイツの伝統的な衣装であるディアンドルをモチーフにした彼女の勝負服だった。
故郷にゆかりある服装を勝負服に取り入れたい、というのは自然な発想だとは思うが……。
大きく開いた胸元と、うっすらと肌が透けて見える、ストッキングのようなオーバーニーソックスは少しばかりセクシーすぎる気がする。
「はい!今日の授業中に寮の部屋に届いたらしくて。早速試着してみたのですが、いかがでしょう?」
真新しい自分だけの勝負服に身を包んで、気持ちが高揚しているのだろう。
彼女にしては珍しく少し浮かれたような感じでその場でくるり、と一回転し、勝負服を披露してくれる。
……ほとんどバックレスだった衣装から覗く、フラッシュの背中の白さにドキッとしてしまったことは、黙っておくことにしよう。
デザインの原案には彼女もアイデアを出したらしく、その勝負服の完成と到着を心待ちにしていたようだった。
「うん、よく似合っているよ」
……服装でも髪型でも、女性に『どう?』と聞かれた時、俺はこの返事以外をしたことがない。
実際、披露してくれた勝負服は大人びたスタイルを持つフラッシュに、とても良く似合っていた。
たまに『他になにかないの?』と追求してくる女性もいないわけではなかったが、しかし聞いてくる方も別に芸能人ばりのファッションチェックを俺に求めているわけではないだろう。
だから俺は、下手なおためごかしを言うよりもそれでいいのだと思い込むようにしていた。
しかしモテる男って奴は、こんな時どんな返事をするんだろうね?
「ありがとうございます。デザインといい、着心地といい、この衣装を作ってくださったマイスターは完璧な仕事をしてくださったと思います。あとは……」
フラッシュはぎゅっと胸の前で拳を握り、決意を秘めた表情で続ける。
「この勝負服に恥じないレースができるよう、私自身が精進せねばなりませんね」
「……ああ、その通りだ。でも、フラッシュは本当にがんばってくれている。それを着て臨む皐月賞でも、きっといいレースができるよ」
「もちろん、そのつもりでいます。トレーナーさん、今日のトレーニングもよろしくお願いします」
新品の勝負服に身を包み、やる気を出してくれているフラッシュを見ているうちに、俺も肚が決まった。
「よし、じゃあ毎日杯に向けてしっかり仕上げていこう!」
「!では……」
俺の突然の宣言に、フラッシュは驚きながらも強気な笑みを浮かべている。
「うん。やっぱり、本番前に一度レースを戦っておこう。レース間隔の問題ということも、もちろんある。でもそれ以上に重賞の空気に触れて、実戦経験を研ぎ澄ませておくことが大切だ」
日々のトレーニングも重要だが、レース以上にウマ娘を成長させてくれる場がないことも、また確かなことだった。
「はい、実は私もそう思っていました。重賞に出る以上、恥ずかしい走りはできませんね。確かに、今の私の体調は多少厳しいものもありますが……精一杯やれるだけのことはやりましょう」
俺の決断に、フラッシュも覚悟を決めてくれたようだ。
フラッシュなら、いや、俺たちならきっと今の苦境を乗り越えられる。
それはなんの根拠もない思い込みだったが、今はそれを信じて、人知を尽くすよりなかった。
*
……結論から言うと、皐月賞へはぶっつけで挑むことになった。
皐月賞への最終便と言われている毎日杯へ向けて、俺たちが考えつくことはとにかく全てやった。
体調の向上を最優先にしたトレーニング。
スポーツ科学に則った、病後に良いとされる食事療法。
ウマ娘を専門にしている整体師の施術。
俺の悪友の充が紹介してくれた、スポーツ心理学専門の心理師によるカウンセリング。
しかしそれらの努力は報われず、毎日杯の最終追い切りを終えたあとになってもフラッシュの状態は芳しくなかった。
病気の治りが遅かったわけでもないのだが、高熱の後遺症が尾を引いていたのかもしれない。
仕上がりぐあいは、3・4割といったところだった。
それでも諦めずに当日の日曜日には阪神に現地入りし、レース直前までトレーニングと調整を繰り返したが、とてもじゃないが重賞に出走できるほどの仕上がりにできなかった。
俺たちは耐え難きを耐えて、当日出走取消の決断を下した。
重賞に出る以上、トレーニング代わりにただコースを一周してきました、というような無様なレースは許されない。
救いだったのは今年の毎日杯はフルゲートではなかったので、フラッシュが出走しなければこの重賞に出られた娘がいたかもしれない、ということだけはなかった。
もちろん、そんなことでフラッシュの心が軽くなるわけもない。
戦うこともできずに乗った帰りの新幹線の中で見せたフラッシュの悔しそうな顔を、俺は真正面から受け止めることができなかった。
ナイラを患ってから思うようにいかなかったことだらけの中で少しでも救いを見出すなら、この日を境に少しずつフラッシュの体調が上昇傾向を見せ始めたことだけだ。
走りに彼女らしいキレが戻り始め、タイムもどんどん良くなっていった。
毎日杯出走取消から、今日の皐月賞までの三週間。
俺よりもはるかに精神的に辛かったであろうフラッシュは、文句一つ言わずにトレーニングを全身全霊でこなしてくれた。
俺たちは今日の皐月賞という大舞台に向けて、やれるだけのことはやったという実感がある。
「はい。トレーナーさんのご指導のおかげで、この大舞台を戦える体調まで戻すことができました」
勝負服に着替えたフラッシュが、笑顔でそう言ってくれる。
「いや、君の精神力の強さと諦めない気持ちがあってこそだよ。心身ともに厳しいなか、本当によく頑張ってくれた」
そう。
フラッシュは、よくやってくれた。
しかし今日の彼女の仕上がりはよく見て8割、なんとか好調の部類に入る、といったところだろうか。
最善を尽くしたつもりではあるが、もう少しなんとかなったのでは……という気持ちを押さえつけるのは簡単ではなかった。
本来の計画は若葉ステークスを今日ぐらいの仕上がりで一叩きし、皐月賞を100%の状態で戦う。
そして皐月賞での疲れを癒やしつつも、好調を維持してダービーへ臨むつもりだったのに。
くそっ……。
どうして、予定通りに行かなかった?
上層部が、グッズ製作なんてフラッシュに持ちかけなければ。
俺があの時、きっちりと断っていれば。
あのクソッタレの三人組のイジメさえなければ……。
そもそも俺がもっと、しっかりしてさえいれば……!
「トレーナーさん、どうしました?難しいお顔をなさって」
「……ん。ああ、すまない。そんなつもりはなかったんだけど。初めてのGⅠで、自分で思っている以上に緊張しているみたいだ」
心配そうに声をかけてくれるフラッシュに俺は慌てて作り笑いを浮かべ、それらしい理由を口にする。
そうだ。
終わったことをくよくよ悩んで自責している暇があるなら、担当に少しでも良いレースをしてもらえるように声をかけるのがトレーナーの仕事だ。
「走りのキレもだいぶ戻ってきてるし、最終追い切りのタイムも良かった。今日のフラッシュならきっと、優勝争いに加われるはずだ」
「はい。もちろん、そのつもりでレースに臨むつもりです」
俺の楽観的な励ましに、フラッシュは力強く答えてくれた。
こういうときにかける言葉は、担当しているウマ娘の性格によって結構変わると思う。
フラッシュが『そんな無責任なこと言わないでください!』と突っぱねてくるようなタイプだったら、わざともう少し悲観的なものの言い方をしたことだろう。
「では、そろそろパドックへ行く時間ですので」
「うん。勝負服姿の君の勇姿を、ファンに披露しておいで」
俺はそう言ってフラッシュをパドックへ送り出したのだが、彼女のあの勝負服姿をみんなが見てしまうんだなあ……と思うと、胸の奥が妙にざわついた。
*
休み明けであることが嫌われたのだろう、今日のフラッシュは11番人気と、彼女の実績と実力からすれば不当なほど低評価だった。
確かに前例を考えれば、厳しい戦いになることは間違いない。
しかし、去年最優秀ジュニアウマ娘に選ばれたローズキングダムや、彼女を抑えて今日の一番人気に支持されているヴィクトワールピサと見比べても、フラッシュの体格や雰囲気は決して見劣りしなかった。
今日のフラッシュなら前例なんてものともせず、皐月賞の新しい歴史の扉を開いてくれるかもしれないと思うのは、さすがに贔屓目が過ぎるだろうか。
そんなかすかな期待をいだきながら、俺は晩春の中山レース場の本バ場に、次々と入場していくクラシックを戦うことを許された18人のウマ娘たちを見守っていた。
春のクラシック期のウマ娘らしい、真新しい勝負服に身を包んだ彼女たちは、あるものは気合十分に、またあるものは緊張の面持ちを隠そうともせず一人ひとり、ゲートに収まっていく。
全員、ゲートイン完了。
伝統の皐月賞のゲートが、乾いた音とともに開いた。
出遅れるような娘はおらず、フラッシュもまずまずのスタートを切ったようだ。
3・4人ほどが好スタートを切り、前へ前へとおっつけていく。
400Mほどを過ぎた頃、ようやく一人のウマ娘がハナを取る形になった。
フラッシュはバ群の後方、一番人気のヴィクトワールピサと同じぐらいの場所に位置している。
有力ウマ娘の一人、ローズキングダムは先行集団に取り付いて良いポジションでレースを進めていた。
うん。
フラッシュは初めてのGⅠに怯んでいる様子も力んでいる様子もなく、いつもどおり冷静にレースを走っている。
久しぶりの実戦でも、精神面に問題はないようだ。
淀みない流れで、レースは進んでいく。
1000Mの通過タイムは、平均ペースと言ったところだろうか。
徐々に一番人気のヴィクトワールピサが順位を上げ始める。
それを見た周りの娘達も、彼女に遅れを取るまいとペースをアップさせたようだ。
フラッシュもその流れに乗るように、進軍を開始した。
レースが大きく動き始め、スタンドからもざわめきの声が上がる。
第三コーナーを超えて、ここまでレースを引っ張ってきた先頭の娘のリードが、ほとんどなくなってきた。
前方は団子状態で、フラッシュはまだバ群の真ん中辺りにいる。
……大丈夫だろうか。
デビュー以来、彼女はこれほど前が密集したバ群を走った経験はなかった。
前が開かなければ、末脚もへったくれもあったものじゃない。
実戦経験の少なさが、ここで出なければいいのだが……。
第四コーナーを曲がって、18人のウマ娘たちがいよいよ最後の直線に入った。
数万の観衆が、若き天才たちを大声援を持って出迎える。
中山の直線は短い。
直線に入ってすぐ、一番人気のヴィクトワールピサがグッと内側に進路を取った。
フラッシュは、まだバ群の中団にいる。
……さすがに、厳しいか!
内ラチギリギリの最内から一人違う脚色で一気に抜け出したのは、ヴィクトワールピサだった。
背負った人気に応えるかのような末脚で、半バ身、一バ身とそのリードを広げていく。
しかし、ヴィクトワールピサの独走は許さんとばかりに、外から3人のウマ娘が追いすがる。
若葉ステークスでは圧倒的一番人気に推され、惜しくも2着し、雪辱を果たさんとするヒルノダムール。
最優秀ジュニアウマ娘の意地を示したい、ローズキングダム。
そして、エイシンフラッシュ。
先頭のヴィクトワールピサに迫る三人の中でも、フラッシュの脚色が一番良い。
二バ身、一バ身半と徐々に差を詰めてゆく。
だが、ヴィクトワールピサは強かった。
後続にそれ以上差を詰めさせず、その勢いのまま一着でゴール板に飛び込んだ。
彼女が魅せた派手でカッコよいガッツポーズは、勝者の特権であった。
一番人気ウマ娘の完勝とそのパフォーマンスに、中山レース場が大歓声で大きく揺れた。
二着以下は混戦模様だ。
フラッシュを含めた先頭集団にいた娘たちは、ギャロップから速度を緩めながらゆっくりと立ち止まり、息を切らせ、そして息を飲みながら着順掲示板を見上げている。
俺はいても立ってもいられず、トレーナー待機室から飛び出し、全力でターフビジョン前に向かった。
俺がそこにいても、何ができるというわけではない。
ただただ、フラッシュと一緒に初めて挑戦したGⅠの結果を受け止めたかったのだ。
俺が着順掲示板の見える場所に到着したと同時に、五着までの準備がすべて表示され、確定のランプが灯った。
フラッシュはの着順は……。
「ヒルノダムールとハナ差の三着か……」
わるくない、結果だ。
皐月賞で三着になったということは、同世代の中で三番目に速いウマ娘ということにほかならない。
もしこれがオリンピックだったなら堂々の銅メダルであり、そのメダルは文字通り勲章であっただろう。
年が明けてからトラブル続きだった中で、彼女は結果を残してくれた。
そう。
悪くない結果だったのだ。
「…………」
なのに、胸の奥からせり上がってくるこの感情は、一体何なのだろう。
いや、今はそんなものはどうでもいい。
ライブ前に控室に戻ってくるであろう、激戦を戦い抜いたフラッシュに、とにかく健闘の言葉をかけてあげたかった。
*
バ場がやや重だったせいだろう。
控室に戻ってきたフラッシュの端正な顔と新品だった勝負服のあちこちには、泥と芝の欠片がこびりついていた。
「お疲れ様、フラッシュ。厳しいレースだったけど、よくがんばってくれた」
「ありがとうございます。強豪揃いの中で、今の自分の全力は出せたと思います」
フラッシュは手渡したタオルで顔を拭きながら、いつも通りに今日のレースの感想を聞かせてくれる。
「バ群の中に閉じ込められた時はどうなることかと思ったけど、冷静に周りを見て状況判断して、最後はしっかり脚を使えていたね」
「はい。あの難しい局面でパニックにならずにバ群を抜け出せたことは良かったと思います。普段からトレーナーさんが身体的なことだけでなく、レースでの戦術面やメンタル面でもしっかり指導してくださっているおかげですね」
社交辞令とわかっていても、担当から(そして好意を寄せている女性から)こう言われて嬉しくないトレーナーはいない。
思わず、頬が緩んでしまう。
「いやいや。調整がうまく行かなかった中での今日の結果は、フラッシュが苦しい中でも最善を尽くしてくれたからだ。本当に、よくやってくれた」
「そうです、よね……」
微笑みながら俺の話を聞いてくれていたフラッシュの美しい細面が、少しずつ曇っていく。
「フラッシュ……?」
「でも、やっぱり、勝ちたかった……トレーナーさんに、GⅠのタイトルをプレゼントしたかった!私がもっとしっかり自己管理できるウマ娘なら、トレーナーさんが立ててくれていたスケジュール通りに戦えていたはずです!それなら、きっと……」
そこから先は、ウマ娘としてプライドが許さなかったのだろう。
フラッシュは言葉を遮るとわずかに頭をうつむかせて、青い瞳から涙をこぼした。
フラッシュが、泣いている。
あれだけ凄惨な嫌がらせを受けても、出走するはずだった重賞を当日に取り消すという厳しい決断を下したときも涙一つ見せなかったフラッシュが、声を押し殺して泣いていた。
ここで俺が『それは君のせいじゃないよ』と慰めたり、『いや俺がもっとしっかりしていれば』と自責してみせたところで、それがなんになるというのだろう。
「……フラッシュ。ダービーだ。次のダービーに、今日の悔しさを全部ぶつけよう。最高の晴れ舞台で、最高の結果を、俺たち二人で今度こそ手にするんだ」
フラッシュの小さく震える肩に手を置きながらそう宣言する俺を、涙に濡れた瞳で見上げながらフラッシュは力強く頷いてくれたのだった。