ダービー。
それはウマ娘に携わるものの、すべての夢。
昔ある国に、一介のウマ娘トレーナーから一国の首相に成り上がった人物がいた。
その首相は在任時に、こう言った。
【一国の首相になるより、ダービートレーナーになる方がはるかに難しい】
これはさすがに元トレーナーによるリップサービスというか、一種のパフォーマンスだったと思うが、この言葉はウマ娘に携わるものなら誰もがうなずきたくなることだろう。
ウマ娘トレーナー科に通っていた大学時代、仲間内の飲み会で酒が回ると、みな大きな声で大きな野望を語り合ったものだった。
『俺はいずれ、ダービートレーナーになる男だ!』
『はぁ……小さい男。私は絶対、三冠ウマ娘を育て上げるんだから』
『なら俺は、八大競走すべてを勝つようなウマ娘を育てるぞ!』
しかし、その大言壮語は現実の前で完膚なきまでにかき消されていく。
70歳の引退までに、一度もダービーに出走するウマ娘に巡り会えないまま定年を迎えた大先輩。
『俺はきっと、ダービーやGⅠどころか、重賞勝利にも縁がないままトレーナー人生を終えるんだ』と言って、居酒屋で泣いたベテラントレーナー。
そういう先達を見るたびに、自分がどれだけ傲慢で世間知らずだったかを思い知らされた。
GⅠに勝つようなウマ娘を担当することは、それだけ難しいのだ。
実際、全トレーナーの中でGⅠ勝利の経験があるのは、二割ほどしかいない。
GⅠに勝利するどころか出走することすら難しい中で、一人のトレーナーが現役中にダービーウマ娘を担当できる確率を考えると、量子力学的に小さな数字なってしまう。
だからこそ、かの首相のような名言も生まれてくるわけだ。
そんなダービーに、俺は今度フラッシュとともに挑むことになった。
ダービーに挑むことの難しさも、意義も本当に理解しているとはいい難い、ルーキーの自分が、である。
*
「まぁ、気持ちは分からんでもないがな。そう自分を卑下したもんでもないよ」
アルコールと炭火にタレが滴り落ちて発する香りが充満する居酒屋で、先輩は俺に笑いかけてくれた。
トレーナー歴10年のこの先輩は俺が同じ大学の後輩ということで、なにかと目を掛けてくれていた。
「はぁ。でもやっぱり、初めて担当するウマ娘がたまたま強かったってだけで、トレーナー歴二年目の俺なんかがダービーに挑戦していいものか、なんて思ってしまって……」
先日初めて挑戦したGⅠ・皐月賞も伝統ある大レースであり、もちろんそれなりに緊張もしていた。
しかし年始から立て続けに襲いかかってきたトラブルへの対処に精一杯で、GⅠに対する畏敬や重みというものを感じている余裕すらなかった、というのが本当のところだった。
「なぁ、お前は麻雀で遊んだことはあるか?」
「えっ。まぁ。一応……」
いきなり話に脈絡がなさそうな話題を振られて、俺は間の抜けた顔をしてそう返事するよりなかった。
大学時代、例の悪友にルールを教わって少しばかりやり込んでいた時期があった。
ちなみにヤツは麻雀にハマりすぎて、危うく留年してしまうところだったそうだ。
「少し暴論に聞こえるかもしれんがな。トレーナーって商売は、このゲームに似たところがあると俺は思う」
「と、いいますと?」
「麻雀ってやつは、ひどく運が絡むゲームだ。どんなに強いプレーヤーでも、手が入らなきゃウデもへったくれもない」
それは、そのとおりだ。
俺もそんなに強い雀士ではなかったが、大学時代、良い手が入りまくって一ヶ月のアルバイト代を一晩で稼いだこともあった。
「だが、麻雀が運だけでは勝てないゲームというのも、また事実だ。入った良い手をきっちり最短の手順で最大打点に育てられるかは、牌効率なんかの知識やウデの話になってくるからな。トレーナーの仕事というのは、これに似ている」
なんとなく、先輩の言いたいことがわかった気がした。
「素質あるウマ娘を担当できるかどうかは、運がすべてとまでは言わないが、そういった一面があるのも確かだ。仮にそういう娘を担当できたとしても、その娘の素質を引き出してキチンと勝てるウマ娘にできるかは、結局はそのトレーナーの腕次第なんだよ。もう一つ言うなら、大した素質のないウマ娘でも、そこそこ勝てる娘にしてやれるトレーナーというのは、いいトレーナーってことになる」
麻雀で大したことない手でも、きちんと手作りして十回に一度くらいはアガリ切るプレーヤーとそうじゃないプレーヤーでは、長期的な成績に大差がつくみたいな話だ、とも先輩は付け加えた。
「いい手が入ったと思ったなら、きっちり育てて勝ち切ってみろ。運も実力の内、なんて言ったりするが、これは掴んだ運をしっかりと実力でモノにできるか、という意味だと俺は思ってる。それにな、これは酔ってるから言うんだが……」
先輩はそう言うと、まだほとんど一杯だったおちょこに日本酒を注いで、わざとらしくあおって飲み干した。
「お前は担当のことをちゃんと考えてやれるし、日々の勉強も欠かしてない。それに仕事もまだまだなところは多々あるが、ていねいだ。お前は、いいトレーナーだよ。だからいつもどおりやれば、きっと大丈夫だ」
決して器用とは言えない先輩は、先輩なりの言い方で俺を励ましてくれたのだろう。
「ありがとうございます。……今日の支払いは、俺に持たせてくださいよ」
「バカヤロー、十年早い!」
生意気言う俺に、先輩は笑いながらコツン、と俺の頭を小突く。
「まぁでもあれだ。お前がダービーに勝った時はごちそうになるとするか。奢ってもらう相手がダービートレーナーなら、遠慮はいらんからな。その時はたらふく飲んで食うつもりだから、ダービーのトレーナー報奨金はしっかり貯金しておけよ」
先輩は冗談っぽく言うと、大将にねぎまとビールを追加注文した。
こりゃ、もしダービーに勝ったら大変だぞ。
フラッシュも美味しいものを食べに連れていくつもりだったから、報奨金を全額置いていてもきっと足りないに違いない。
取らぬ狸の皮算用をしながら赤字の心配もしている俺だったが、そんな金の使い方はきっと良い金の使い方なのだろう。
そういう気持ちの良い散財ができるよう、俺は俺のできることをすべてやろうと、そろそろいい感じに酔いが回ってきた頭の中で誓ったのだった。
*
『敗戦を糧にする』なんて使い古された言葉があるが、涙に暮れた皐月賞以降、まるでそれを実践するかのようにフラッシュの動きは日に日に良くなっていった。
「よし、ここまでにしようか」
夕暮れのダートバ場に立ち止まり、息を整えているフラッシュに俺はタオルを差し出した。
「すみません、ありがとうございます」
「それにしても、いい走りだった。体調の方も良さそうだね」
「はい。体調もすこぶる良いですし、まるで一日ごとに力をつけていっているかのような感覚があります」
その感覚は、決して大げさなものではないだろう。
クラシック期の初夏から夏にかけての期間は、ウマ娘が一番成長する時期だといわれている。
「しかし他の娘もきっとそうでしょうから、トレーニングの量と質で差をつけたいですね。もっともっと、自分を追い込まないと」
そう言ってフラッシュは胸の前でギュッと拳を握り込み、険しい表情を浮かべた。
それは、がんばり屋の彼女らしい決意表明だったが……。
「がんばることは素晴らしいことだけどね。くれぐれも、オーバーワークにだけは気をつけてくれ。ケガをしてダービーを出走回避、なんてことになったらファンにも親御さんにも、申し開きができないから」
軽く苦笑いしながらも釘を刺す俺に、フラッシュは硬い表情を緩めてくれた。
「確かに、そうですね……。ファルコンさんからも、よく言われるんです。がんばりすぎるのはフラッシュさんの悪いくせだよ、って」
フラッシュの同室のスマートファルコンは一昨年前にデビューしており、今はダートを主戦場にしているウマ娘だ。
すでにダートの重賞を何勝もしていて、GⅠを勝つのも時間の問題と言われているダート界期待の新星でもある。
「君のことをしっかり見てくれていて、いいにくいことをしっかり言ってくれるいいルームメイトじゃないか。トゥインクルでは先輩でもあることだし、色々と話を聞いておくのも悪くないんじゃないか?」
スマートファルコンは今でこそダートの第一人者になりつつあるが、もともとは共同通信杯、アーリントンカップ、皐月賞とクラシックを目指して走っていたウマ娘でもある。
皐月賞での敗戦を期に王道からダート路線へ切り替えた彼女の話からは、きっと得られるものがあることだろう。
「先輩、ですか……」
「ん?確かスマートファルコンは今シニア級を走っているよな。それであっていると思うんだが……どうかしたのか?」
「ここだけの話ですよ?」
俺のハテナ顔に、フラッシュはそう前置きして苦笑しながら続ける。
「なんといいますか……ファルコンさんのことはどうしてもそう思えないんですよ。むしろ見ていてハラハラする妹のような存在といいますか……」
フラッシュの言い分に、俺は思わず吹き出してしまった。
「わかる!別に頼りない、というわけでもないんだけど、なんというか、放っておけないというか、こう、応援してやりたくなる娘だよな」
「そうなんですよ。この前も名古屋のレースで勝った時に、ファンの皆さんから祝勝会をしてもらったらしいんです。で、ご存じの通り、名古屋には美味しいものがたくさんあるじゃないですか。その祝勝会でファンの皆さんの勧められるがままに、ごちそうを食べ尽くしたそうで……。帰ってきてから食べすぎてお腹痛い、お腹痛いとベッドの上でのたうち回っていました」
容易に想像できるその光景に、俺は本日二度目の吹き出しをこらえることができなかった。
「まぁ、それもウマドルのご愛嬌ってところだろう。レースの話をするかはともかく、語り合える友人がいるというのは大切なことだ」
「確かに、そうですね」
そう言ってフラッシュは小さく微笑む。
ウマ娘は基本的に集団で行動することを好み、単独でいることを嫌う娘が多い(もちろん、アドマイヤベガのような例外もいるが)。
友人の存在というのは競走成績に、意外な影響を与えていたりするのだ。
良いルームメイトに恵まれた彼女は、幸運だったと言えるだろう。
「じゃあ、今日はこのへんにしておこうか。君に関しては夜更かしや過食は全く心配していないんだけど、くれぐれもオーバーワークになりかねない自主練だけは謹んでくれ」
「わかりました。今日もご指導、ありがとうございました」
俺の指示を素直に首肯してくれたフラッシュは、いつものように丁寧に礼をして更衣室に向かっていった。
これにて、今日の彼女のトレーニングは完了である。
「さて、俺も……」
トレーナー室に戻って日報でも書くか、と思った瞬間、バンッ!と誰かに強く背中を叩かれた。
「!?」
「よう、新米。お前さん、今度のダービーに担当を出走させるんだって?」
明らかな嘲笑を浮かべてそう声を掛けてきたのは、顔は知っている程度の、ふだんあまり関わりのない年配のトレーナーだった。
「は、はい。担当のエイシンフラッシュをダービーに出走させるつもりですが……」
「お前さん。トレーナーになってまだ二年目で、あの娘が初めての担当だろ?」
「ええ、まぁ……」
「まったく、いい時代になったもんだよな。俺の若い頃は、そんなことは絶対に起こり得なかった。素質のあるウマ娘は、ぜーんぶ先輩が持って行っちまったもんだからよ」
彼はあきれたようなため息をわざとらしくついて、俺の方を睨みつけてきた。
あ。
ほんとにいるんだ、こんな年配のトレーナー……。
まるでスポ根の創作物に登場するイジワル役の先輩そのままの言動に、俺は自分が絡まれているにも関わらず、ドラマを見ているかのような感覚に陥ってしまう。
俺も一応、高校・大学と体育会系の部活(サッカー部だった)に所属していた経験があるもんだから、この手の先輩のあしらい方は心得ていた。
こういう輩は後輩にただマウントを取りたいだけなので(妬ましさもあるだろう)、言いたいことを言いたいだけ言わせ、一応相手の顔を立てて適当に相槌を打っておくのがコツである。
「はぁ……恐縮です……」
「知ってっか?昔はよぅ、トレーナーも先生だなんて呼ばれていてな。ウマ娘側からトレーナーを逆指名する、なんて生意気なことはしなかったもんだよ。それが、今じゃどうだい。素質あるウマ娘に気に入られるかがトレーナーの成績を左右しちまう。ウマ娘も若いうちからそんなんじゃ……」
「あんた!また年下の子にちょっかいかけて!!」
俺が黙って先輩の御高説を賜っていると、トレーナー寮の方からドスドスという効果音が聞こえてきそうな歩調で、これまた年配の女性トレーナーがやってきた。
「ひぇっ!カーチャン!」
「カーチャン!じゃないよ、まったく。またあんたは……年下の子に説教たれてるヒマがあるなら、担当する娘を探してきたらどうだい!?」
「いや、そうは言うけどよぅ……」
さっきまで俺に昔話を吹きかけていた威勢はどこへやら、彼は視線を下に向けてなにやらゴニョゴニョと言い訳している。
やり取りを伺うに、この二人はトレーナー業界では結構珍しい同業の夫婦らしい。
「男が言い訳するんじゃないよ!新人君にくだ巻いてる暇があるんだったら、今ダートコースで練習してるまだ担当がついてない娘達に指導してきてやんな!それも立派なトレーナーの仕事でしょ!」
「お、おぅ。そうだな……」
檄を飛ばされた夫君はバツの悪そうな顔をしてそそくさと、しかしカッコつくぐらいの歩速でダートコースの方へ去っていった。
「……ごめんねぇ。あの人も、根は悪い人じゃないんだけどね……」
女性トレーナーは夫の姿が見えなくなったのを確認すると、浅いため息を付きながら、申し訳なさそうにそう言ってくれる。
「いえ……」
「うちの宿六も昔はリーディングのトップテンに入ったこともあったし、今でもウデは決して悪くないんだけどねぇ……」
そう。
ここ数年はあまり勝ち星に恵まれていないようだが、実は彼、担当にGⅠを取らせたこともある名トレーナーなのである。
「担当した娘のことも、自分の娘のこと以上に考えてやれるような、そんなトレーナーなんだけどね。ただちょっと、その思いが強すぎるというか……言い方とか接し方が、今の娘達には厳しく感じてしまうんだろうねぇ」
「そうなんですか」
俺がまだフラッシュと出会う前、彼が一人のウマ娘に指導しているところを見かけたことがあった。
その娘は体調が悪かったのか、はたまた少しやる気がなかったのか、彼から見ると彼女の走りは気が抜けたものに見えたらしい。
彼はそんな彼女にやる気がないなら帰れ!と叱り飛ばし、本当に帰ろうとすると今度はその娘を引き止め、本気にするやつがあるか!とまた怒鳴りつけて、結局トレーニングを再開させていた。
それを見た俺は『あんな指導するトレーナーにだけは決してなるまい』と心に誓ったものだった。
昭和や平成の初期のころならいざ知らず、今の時代に【目上である俺に忖度しながら行動しろよ】的な指導をするトレーナーについていきたい、と考えるウマ娘は希少だろう。
そんな感じでトレーナーとしてあまり尊敬できそうにない彼であるが、少なくともフラッシュが立ち去るまでは、俺に【かわいがり】をしてこなかった。
それは彼なりの、ウマ娘への気遣いみたいなものだったのかもしれない。
「あっ、ごめんね。なんかグチみたいなの聞かせちゃったわね」
「いえ……」
「出世が早いと妬まれるのは世の常だからね。あまり気にしないでどっしり構えて、あんたは担当の娘にいいレースをさせてやることだけに、全身全霊を注げばいいのさ」
今回のダービーに出られるのは別に俺の出世が早かったから、というわけでなく、エイシンフラッシュという素質あるウマ娘にたまたま巡り会えただけなのだけど……。
「もちろん、そのつもりです」
「うん、その調子だ。じゃあ、がんばりなさいよ」
「はい。今日は本当に、ありがとうございました」
俺の礼にうなずくと、彼女は手を振りながら坂路コースの方へ足を向けた。
きっと待たせている担当の娘がいるのだろう。
それなのに時間を割いて助け舟を出してくれた彼女に、俺は深く頭を下げた。
*
ミーティングのためにトレーナー室へ向かう途中の渡り廊下で、珍しくフラッシュと鉢合わせた。
珍しかったのは、その奇遇だけではなかった。
「ん。持っているのは、どら焼きか?」
彼女はなぜか、きれいに半分に割られたどら焼きを持っていた。
フラッシュにはあまり買い食いをするようなイメージはなかったのだが、それはそれで一つの偏見だったのかもしれない。
「はい。教室の前を歩いていましたら、ネオユニヴァースさんと遭遇しまして」
「ふむ」
ネオユニヴァースといえば、皐月賞・ダービーと二冠を制した名ウマ娘だ。
その彼女とどら焼きに、一体どういう関係があるのだろう?
「ネオユニヴァースさん、皐月賞からこっち、なぜがとても上機嫌なんですよ。今日も挨拶をさせてもらったら『これ、あげるね』といって、手に持っていたどら焼きを半分こしてくださったんです」
彼女はちょっと困ったような苦笑を浮かべながら、事情を説明してくれた。
「ふーむ、なるほど」
トレセン学園には、到底普通の人間には理解できない言動を取るウマ娘が何人かいる。
G・Sさんとか、A・Tさんとか、A・Sさんとか(プライバシー保護のため、イニシャルだけの表記とする)。
ネオユニヴァースもその一人なので、彼女の変わった言動を気にしなくていい、と言ってしまえばそれまでなのだが。
「和菓子も大好きなのですが、食べてしまうと決めている一日の摂取カロリーをオーバーしてしまいます。かといって、せっかく頂いたものを捨ててしまったり、他の方に差し上げるのも気が引けまして……」
「その気持ちは分かるよ。ちょっと待ってくれ」
俺はそう言ってスマホを取り出し、どら焼きのカロリーを調べてみた。
「どら焼き一個のカロリーが、だいたい220キロカロリーぐらいだな。ってことは半分で110キロカロリー。今日のトレーニングで少し走る量を増やすから、あとは夕食のご飯の量を調整してみたらどうだ?」
「わざわざ調べていただいて申し訳ありません。それなら、頂いても大丈夫そうですね」
納得したフラッシュは、あんこが見えている美味しそうなどら焼きを口に運ぼうとしたが……。
「よかったら、トレーナーさんも半分食べますか?トレーナーさんからすると、一口サイズくらいになってしまいますけど……」
こうして小さいことにでも気を配ってくれるのが、フラッシュのいいところである。
「いや、俺はいいよ。君がもらったんだから、君がいただきなさい」
「それもそうですね」
ではいただきます、とフラッシュはいつものように、その半分のどら焼きをていねいに食した。
「失礼しました。程よい甘さで、美味しかったです」
「それはよかった。じゃあ、今日は坂路をしっかり走り込もうか。本番も近いことだし、気合い入れていこう!」
「はい」
人間、調子のいい時は声の艶もよくなるものだ。
フラッシュはよく通るしっかりした声で、返事をよこしてくれた。
*
坂路コースは今日もたくさんのウマ娘とトレーナー、そしてそれを取材する記者たちで賑わっている。
坂路は効率よくウマ娘の心肺機能と瞬発力を鍛えられるので、一番使用頻度が高いトレーニングコースだ。
坂路トレーニングで強くなったウマ娘といえば、やはりミホノブルボンが筆頭に上がる。
この急な坂道を一日に五本走り込むというハードトレーニングをこなして、彼女は春の二冠を制したのだ。
当然というか、そんな量のトレーニングが誰にでもこなせるわけはなく、普通の娘はだいたい一日二本、丈夫な娘でも三本が限界だとされている。
彼女の努力は軽んじられるべきではないが、一日に坂路五本という超ハードなトレーニング量をこなせた体格と頑丈さも、ミホノブルボンの才能の一部だったと言えるだろう。
ところで【サイボーグ】なんてあだ名されているミホノブルボンも、やっぱりその量のトレーニングはきつかったらしく、たまに坂路の前で『マスター、今日は少し……』と脚を止めることもあったそうな。
だが、そこはスパルタで知られるミホノブルボンのトレーナー。
『二度は言わんぞ。あと二本だ』
あの強面にそう言われて、お願いですから休ませてください、と言えるウマ娘がいるわけがない。
ミホノブルボンは渋々、再び坂路を走り始めた、なんて逸話も残っている。
もちろん俺がフラッシュに対してそんなハードトレーニングを課すわけがない。
賑わう坂路の頂上でストップウォッチを持って、一本目を駆け上がってくる彼女を待っていた。
フラッシュは全く乱れのないフォームとストライドで、きつい坂をしっかりと登ってくる。
坂の終わりになっても、ほとんどペースが乱れていない。
スピードだけでなく、このきつい坂路をそのように登りきれるスタミナもついていているということだろう。
「ゴールっ!」
フラッシュが坂路を登りきった瞬間、俺は声を飛ばしてストップウォッチを止めた。
「はぁっ……ふぅっ……。いい感じで、走り切れたと思います。タイムはどうでしたか?」
乱れた息を整えながら、駆け足でフラッシュがこちらへやってくる。
「うん、本当にいい走りだったな。タイムは……」
えっ……。
ストップウォッチは、無機質に64・3という数字を表示させていた。
え~っと。
確かトレセン学園の坂路1000Mレコード記録保持者はタイキシャトルで、そのタイムが64・3だったはず。
この記録はタイキシャトルが全盛期だったシニア一年目の初夏に出したもので、坂路コースのアンタッチャブルレコードとして長い間君臨しているタイムだ。
それと同じタイムを、まだクラシック級のフラッシュが叩き出した、ということか?
いやいや、それはさすがに少し考えにくい。
ということは……。
「すまん、フラッシュ。きちんとタイムを計れていなかったみたいだ。ちょっと休んでからもう一度……」
「素晴らしいです!!」
「うぉっ!?」
一体いつの間に忍び寄られたのか、不意に後ろから女性の大きな声がした。
この素晴らしいです!を聞いて、本当に素晴らしい思いをしたことが一度もないのは、一体どういうことなんだろう?
「いや、乙名史さん。これはさすがに計り間違いですよ。こんなこと、間違っても記事に……」
「そのタイムはかのタイキシャトルさんが最盛期に叩き出した、この坂路のレコードタイムと同じものですね!?」
「だから、このタイムはなにかの間違い……」
「エイシンフラッシュ、あのタイキシャトルの全盛期と同じ時計を叩き出す!このタイムにトレーナーも『ダービーはフラッシュが頂いたも同然』のような、自信ありげな表情を浮かべていた!特ダネいただきました!ありがとうございます!!」
俺の話を最初から最後まで聞かず、乙名史さんは1000M64秒ぐらいの末脚で坂路コースから去っていった。
「………………」
ああ、この素晴らしい記者に祝福を。
そして願わくば三女神様は、彼女にちょっとばかり痛い目を見せてやってくれまたへ。
「あの、トレーナーさん。よろしいのですか?」
名物記者の暴走に、フラッシュも困惑したように眉をひそめている。
なんか、前にも同じようなことがあった気がするな……。
「俺はもう知らん。飛ばし記事で恥かくのはあの人と月刊トゥインクルの編集部だから、もう放っておこう」
乙名史さんの早とちりには、俺としてもあきれたため息をつくよりなかった。
どうせ読む方も『まぁ乙名史さんの記事だし……』って感じで、半笑いしながら読み流すに決まっている。
まったく、レース記事を書いてくれる記者さんの必要性は十分に理解しているが、ああいった取材や飛ばし記事には正直、かなり辟易とする。
あいててて……。
最近少し落ち着いていた胃痛がぶり返してきているのを、俺は感じていた。
ひょっとして胃痛の原因って、主に乙名史さんだったりするのではないだろうか。
思えば彼女の記事を読んだあとや、取材のあとにはいつも胃痛を感じている気がする。
いや、胃痛のことは今はどうでもいい。
「まったく。一生に一度のダービーの前なのに、勘弁してほしいよな。フラッシュ、もう一本行けそうか?」
「ええ、私は大丈夫ですが……」
フラッシュはなぜか心配そうに、俺の顔を見つめていた。
ん。
ひょっとして胃の痛みが顔に出てしまってたか?
「ああ、すまん。ああいった取材はちょっと腹ただしいけど、まぁ仕方ない。あちらさんもダービーが近くて舞い上がってるんだろう。さ、トレーニングに戻ろう」
痛みから来るしかめっ面を怒りで誤魔化したつもりだったが、うまくやれたかは分からない。
そんな俺にフラッシュは何も言わず、「はい」とだけ返事してスタート地点に戻っていってくれた。
計り直した二本めのタイムは64・5と素晴らしく、これは今日の一番時計だった。
乙名史さんが騒いだからか、一本目のタイムのことが少しトレーナーたちの間で話題になったが、『まぁさすがに計り間違いだろう』ということで話は終わった。
坂路レコードを出した当時のタイキシャトルとフラッシュのキャリアの差もあるし、タイキシャトルは短距離からマイル、フラッシュは中距離を得意とするウマ娘ということもあった。
トレーニングで用いられることの多い800Mから1000Mという距離だと、当然のことながら短距離を専門にしているウマ娘のほうが良いタイムを出しやすい、というわけである。
一本目のタイムはともかくとして、二本めのタイムを見てもフラッシュの調子が上り調子であることは間違いない。
最高の状態で、フラッシュをダービーに出走させる。
今俺が取り組むべき仕事は、それだけだった。
*
俺が絶対にウマ娘のトレーナーになりたい!と思ったのは、中学二年生の時に日本ダービーをテレビで見たのがきっかけだった。
沸き立つ十万人以上の観衆。
大観衆に祝福される勝利したウマ娘。
その光景に感極まって男泣きしたトレーナー。
俺も、あの舞台に立ってみたい。
一人の中学生のだいそれた夢は、様々な偶然と必然を経て、今日叶えられようとしていた。
*
今年のダービーは、【史上最高レベルのメンバー】とまで言われるほどの逸材揃いだった。
その中でも一番人気を背負ったのは、やはり皐月賞ウマ娘のヴィクトワールピサだ。
各専門誌は、彼女が二冠を制するに当たってまるで死角などないかのように報じている。
二番人気は皐月賞にこそ間に合わなかったものの、デビューから前走青葉賞まで四戦負け無しで、この大舞台へ駒を進めてきた遅れてきた大物、ペルーサ。
三番人気に皐月賞を二着したヒルノダムールが推されている。
他にもダービートライアルのプリンシパルステークスを圧勝してきた期待の超良血ウマ娘・ルーラーシップに最優秀ジュニアウマ娘のローズキングダムなど、錚々たるメンバーという言葉でも表現しきれないほどの多士済々な顔ぶれである。
その中に混じって皐月賞三着、重賞の勲章は五ヶ月前に行われたGⅢの京成杯一つというフラッシュが七番人気に甘んじたのは、仕方なかったのかもしれない。
人の評価は自分で操作しようがないので、仕方ありません。
精一杯、がんばるだけです。
人気が発表された際にそう言っていたフラッシュに、どんな言葉をかけようか。
そんなことを考えながら、俺は控室の扉をノックした。
「はい」
「フラッシュ。入っても大丈夫かい?」
「ええ、どうぞ」
扉を開けると、そこには勝負服に身を包んだエイシンフラッシュの姿があった。
「……!」
なにか彼女に声をかけようと思ったが、どうしたわけか、喉に蓋をされてしまったかのように言葉が出てこない。
纏っている雰囲気が、先ほどまでのフラッシュとまるで違った。
勝負服を着たことで、気合が一変したのだろう。
【怖い】
その時の彼女に抱いた印象を一言でいうと、そういうことになる。
ひょっとしたら俺はこの時初めて『ウマ娘というのは戦う女なんだ』ということを、身をもって知ったのかもしれなかった。
「トレーナーさん、どうかしましたか?」
「いや、気合入ってるな、と思ってね……」
俺を見据える青い瞳にも、確かな闘気がほとばしっている。
愛想笑いを浮かべながら、そんなことを言って話を合わせるので精一杯だった。
「一生に一度の大舞台ですからね。やはり、昂ぶってしまいます」
そう言ってフラッシュは強気に微笑む。
彼女は微笑や笑顔がよく似合う女性であったが、こういう笑い方をするフラッシュを俺は初めて見た。
「さて、そろそろパドックに出向く時間ですね」
「ああ。その……」
「はい」
「その。がんばってきてくれ、応援してる」
俺はない語彙力をこねくり回してなにかいいことを言おうと思ったが、出てきたのは陳腐極まりない応援の言葉だけだった。
でも、これから一世一代の大勝負に向かう人間に対して傍観者が言える言葉なんて、結局はこの辺になるんじゃないだろうか。
「ありがとうございます。良い結果を持ち帰れるようがんばってきますね」
俺のありきたりな声援を素直に受け取ってくれたフラッシュは、その迸る闘志とは裏腹に静かに控室をあとにした。
*
パドックの近くにはトレーナーの待機所があり、ダービーに担当を出走させているトレーナーたちが、それぞれ愛バの自慢話に花を咲かせていた。
しかし、この中に交じると自分の場違い感が半端ない。
あっちにいらっしゃるのはここ数年連続でリーディングトレーナーを獲得している大御所の名伯楽で、こちらにおわすのはGⅠをすでに5勝もしている名トレーナー。
他にもこの大舞台に担当を出走させているのはリーディングトップテンの常連や、トレセン学園の屋台骨を支える名が知られたベテラントレーナーばかりで、二十代のトレーナーは俺一人だ。
慣れないスーツを着ているせいもあるんだろう、緊張でいつもの胃痛は出てきているし、手汗と脇汗が止まらない。
皐月賞の時も緊張したが、ここまでの緊迫感は覚えなかった。
これがダービーというレースの重みなのか、とカッコつけることぐらいのことはしたかったが、本当にそうであるのかなんて青二才の俺に判別がつくはずもない。
名だたるお歴々に話しかけるのは気後れするし、ベテランたちも不相応な場にいる若造にどう声をかけてよいか戸惑っていらっしゃるのか、こちらに話しかけてくることもなかった。
仕方ないので俺はパドックがよく見える場所まで行き、今日出走するウマ娘たちをしっかり観察するトレーナーを装ってぼっち感をごまかすことに決めた。
パドックの舞台に目をやると、ちょうどフラッシュが登壇して満員のファンたちに挨拶しているところだった。
軽く一礼して小さく手を振る七番人気のフラッシュに、まばらな拍手が起こる。
「皐月賞でもそうだったけど、あの娘はバカによく見えるよな~」
「俺、プレオープンからあの娘のこと見てるけど、確かにパドックでの見栄えはいつも出走メンバーの中でもピカイチに見えるんだよ。まぁ、グッドルッキングウマ娘ってことがあるんだろうな」
「それってお前の好みの問題じゃ……」
待機所近くにいたファンのやりとりが、こちらにまで聞こえてきた。
確かにフラッシュは美少女揃いのウマ娘の中にあって格別のグッドルッキングウマ娘であるが(これも俺の好みの問題かもしれない)、今日の彼女が【バカ】によく見えるのは決してそのせいだけではない。
不本意なローテーションと結果に終わってしまった皐月賞から今日までの一ヶ月半、順調にトレーニングを積み重ね、体調もメンタルのリズムも今日の大舞台に向けて最高の状態に仕上げてきたつもりである。
これで負けたら、フラッシュにダービーに勝つだけの能力がなかった。
そういい切れるほどのデキだった。
今年のダービーに出走しているウマ娘は、確かに近年稀に見る高レベルのメンバーである。
それでも勝ち負けはともかくとして、掲示板ぐらいに乗ることはできるかもしれない。
それぐらいの夢は見てもいいだけの努力を、フラッシュはしてきた。
ウマ娘はレースのために青春の時間のほとんどをトレーニングに捧げ、勝負の前には育ち盛りの体に厳しい体重制限を課す。
一介のトレーナーとして、担当するウマ娘の努力が勝利という形で報われてほしいと心から思う。
でも、勝ち負け以上に一生に一度のダービーを無事に走り切ってほしい。
そしてケガなく俺のもとに帰ってきてほしい。
俺がフラッシュに対して一番望んでいるのは、どんなレースの前もそれだけだった。
*
先週の東京レース場は雨にたたられ、今週も水曜日に割としっかりした雨が降った。
フラッシュは鋭い差し脚で勝負するタイプなだけに、できるだけ良いバ場のレースを走らせたいと思っていたのだが、どうやらその願いは天に届いたらしく、発表されたバ場状態は良だった。
トゥインクルシリーズの最高峰、日本ダービーの発走時刻が近づいている。
幼少期からレース界でエリートコースを突っ走ってきたウマ娘たちが、ダービーを夢見て日本ウマ娘トレーニングセンター学園の門をくぐる。
その数、中等部高等部合わせて、毎年およそ三千人。
だがこの夢舞台に出走できるのは、そんなエリートたちの中でも、わずか十八人にすぎない。
果てしない淘汰の果てにダービーへたどり着いた十八人のウマ娘が、様々な思いを胸に一人ひとりゲートに収まってゆく。
15時40分。
全員、ゲートイン完了。
運命のゲートが開いた。
スタート時に少し躓いたのだろうか。
11番の娘が、出遅れ気味のスタートになってしまった。
それに釣られたわけでもないのだろうが、二番人気に推されているペルーサも少し出遅れてしまったようだ。
前方では外側と内側から一人ずつ、先手を主張し合うかのように集団から抜け出していた。
その二人が流れを作り、第一コーナーをカーブする。
一番人気のヴィクトワールピサは、内側の後方から前を伺う構えのようだ。
前の方は内外から抜け出していった二人にもう一人が加わって三様の先頭争いを繰り広げているが、意外とペースは速くなっていない。
無駄にハイペースになるのを嫌って、お互いが牽制しあっているせいだろう。
フラッシュはいつもと同じように中団につけ、そのすぐ後ろに有力ウマ娘の一人ヒルノダムールがつけている。
ヴィクトワールピサは、その二人の少し前まで位置を回復していた。
そして一番人気をマークするかのように、ローズキングダムがヴィクトワールピサの隣を並走している。
よし。
掛かっている様子はないし、フラッシュは落ち着いて自分のペースでレースを戦えているようだ。
淡々としたペースで、先頭集団は1000Mの標識を通過した。
タイムは、手元のスマホではおよそ61秒。
やや重に近い良バ場という状態を加味しても、少しスローペースだろうか。
後ろから行くフラッシュにとっては、厳しい終盤になるかもしれない。
ようやく落ち着いた先頭争いは、6番の娘が一応主導権を握ったようだ。
しかし、つかず離れずすぐ後ろに二人の娘がピッタリとつけている。
先頭の娘が、第四コーナーを過ぎた。
一番人気のヴィクトワールピサは依然脚を溜めたままだが、周りの娘達は少しずつ前との距離を詰め始める。
一方、フラッシュもまだ動こうとしていなかった。
周りの動きよりも、ヴィクトワールピサの動向を気にしているのかもしれない。
……大丈夫だろうか。
府中の直線は長い。
慌てて周りに合わせる必要もないだろうが……ラップタイムはあれからさらに落ち着いて、レースの流れはすでにスローペースになってしまっている。
バ場状態も切れる脚が存分に使えるパンパンの良バ場、というわけではない。
フラッシュの勝負勘と末脚を信じていないわけではなかったが、そろそろさすがに行ってくれ!という心の声を抑えることはできなかった。
残り、800Mを切った。
出遅れ気味のスタートにも慌てず、後方待機に勝負を懸けていた二番人気のペルーサが大きく動き出した。
フラッシュは、まだバ群の中ほどにいる。
先頭の娘がいよいよ、最後の直線の入口に入った。
その瞬間だった。
ヴィクトワールピサがまるで覚醒したかのようにすごい脚を使い始めた。
ペルーサも、ギアを上げて大外から一気に追い込んでくる。
各ウマ娘、横いっぱいに広がって全員が最後の勝負に出た。
ヴィクトワールピサが地力の違いを見せつけて、真ん中の狭いところから一気に突き抜けようとする。
だが、それを上回る末脚で駆けてきたのは、去年の最優秀ジュニアウマ娘のローズキングダムだ。
彼女はその意地を見せつけるかのように、一団を一気に引き離そうとする。
その時だ。
皐月賞ウマ娘も、最優秀ジュニアウマ娘も霞んでしまうような豪脚で、バ群を割って出てくる一人のウマ娘。
エイシンフラッシュだった。
フラッシュが溜めに溜めた末脚を爆発させて、一気にすべてのウマ娘を切り捨てる。
そしてとうとう、エイシンフラッシュが先頭に立った。
府中の直線で、閃光が、炸裂した。
その脚色は冴えわたり、ローズキングダムとヴィクトワールピサを徐々に突き放していく。
七番人気という、決して高い前評判を得ていたわけではなかったウマ娘の激走に、スタンドからは大歓声が上がった。
残り、100M!
「ま、まだだぁ!!」
魂の絶叫が、東京レース場の最後の直線に響き渡った。
ローズキングダムだ。
彼女にも、ジュニアで世代の頂点に立ったというプライドがあった。
もう限界に見えていた脚に力がみなぎり、一歩、また一歩とフラッシュを追いつめる。
しかし、エイシンフラッシュは根性を見せてその意地を退けた。
栄光のダービーのゴールに、体半分先に飛び込んだのは、間違いなくフラッシュだった。
その瞬間東京レース場を、いや、府中全体を揺るがさんばかりの爆発的な歓声と拍手がスタンドから湧き上がる。
史上最高レベルの出走メンバーと言われた日本ダービーを制したのは、皐月賞ウマ娘でも、新進気鋭の無敗ウマ娘でも、最優秀ジュニアウマ娘でもなかった。
この最高峰のレースを一着で駆け抜けたのは、超エリートたちの中にあって決して特別な存在ではなかった、七番人気のエイシンフラッシュだった。
……すごい。
本当に、すごいことを、フラッシュが、俺の担当ウマ娘がやってのけた。
俺は、こんなことが現実に起こるだなんて、信じられなかった。
現実をうまく受け止めきれない情けないトレーナーとは対照的に、最高の栄冠を掴んだフラッシュはいつも通りその美貌に控えめな微笑みを浮かべ、未だ興奮冷めやらぬスタンドに向けて小さく手を振っていた。
読了、お疲れさまでした。
今回はフラッシュの競走生活の第一のハイライト、
日本ダービーの物語をお届けさせていただきました。
今作を書くに当たって、何度か史実のエイシンフラッシュのレースを
見返したのですが、やっぱりすごい末脚でしたね。
あの素晴らしいレースを私の筆力で表現しきれたとはとても思えませんが、
少しでも臨場感が伝わっているといいなあ、と思います。
ところで坂路トレーニングと言えばミホノブルボンの
ハードトレーニングが有名ですが、実馬の彼も坂路調教は
かなり辛かったらしく、坂路の前に行くと調教を拒否するような動きを
見せたそうです。
しかし、そこはスパルタで知られた戸山調教師、【ぶっ叩いででも走らせろ】と
騎手に指示し、尻を叩かれたブルボンはうなだれながら坂路に向かって
歩いていったそうです。
(まぁ、まさかウマ娘でそれを再現できないでしょう……)
ただ、戸山調教師は決してスパルタなだけなトレーナーではなく、
真摯に、愛情を持って馬たちに接しておられたそうです。
だからこそ馬主さんや周囲のホースマンたちの信頼を勝ち取って
あれだけ素晴らしい成績を残せたのだと思います。
今回も長文を読破していただき、本当にありがとうございました。
また、近いうちに第七話をお届けしたいと思っておりますので、
更新時はどうぞよろしくお願い致します。