担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第七話

着順掲示板にタイムが表示されると、スタンドからはどよめきが起こった。

 

タイム:2・26・9

 

決着時計は、平均的なものだった。

しかし。

 

3F:32・7

 

フラッシュが叩き出したこの上がり三ハロンのタイムは、日本ダービー史上最速のものだ。

後ろから行く娘には不利なスローペースであったことを心配したが、フラッシュにこれだけの脚を使われては、どんな逃げウマ娘でも逃げ切ることは不可能だったことだろう。

 

不遜を承知で言えば、全盛期のサイレンススズカでさえ逃げ切れなかったと思う。

 

エイシンフラッシュというウマ娘は、俺の想像を超えたすごいウマ娘だった。

 

偉業を達成したフラッシュに、一刻も早くお祝いの言葉をかけてあげたい。

そう思って駆け出そうとする俺に立ちふさがるように、トレーナー待機所にはたくさんのマスコミが詰めかけていた。

 

「トレーナーさん!ダービー制覇おめでとうございます!」

「今のお気持ちをぜひお聞かせください!」

「今回のダービー優勝で最年少ダービートレーナーの記録を塗り替えられましたね!お気持ちのほどをぜひ!」

 

最年少ダービートレーナーの記録更新……?

そういえば、そんな記録もあったような……。

いや、今、そんなことはどうでもいい。

 

「勝ったフラッシュが強かったんです。ただ、それだけです。今日はどうか、優勝したエイシンフラッシュを褒めてやってください!」

 

俺がそう嘆願しても、記者たちは『挑戦的な若いトレーナーさんらしく、まだ日本では知られていない最新のトレーニングなどを取り入れたりしたのでしょうか?』『トレーナーさんはウマ娘トレーナー学科に通われていた大学時代も、素晴らしい成績を収められてたそうですが?』(どこ情報だ、それ?俺はいつもギリギリの成績で進級していたぞ)など、やくたいもない質問が飛んでくる。

 

「フラッシュも僕も、目の前にあるやるべきことを、やれる限りこなしてきただけです。お願いですから、そこを通してください!」

 

俺が九十度ほど頭を下げてお願いしても、彼らは俺に質問を浴びせかけてくるのを、やめなかった。

 

*

 

結局俺がフラッシュのもとにたどり着いたのは、彼女がウイニングライブのためのお色直しを終え、控室から出ていこうとしていたときだった。

 

「フラッシュ!」

「トレーナーさん」

 

激戦を戦い終えたフラッシュからはあの恐ろしいまでの闘気はすでに消え失せていて、美しいながらも接しやすさのある、いつもの彼女に戻っていた。

 

「ダービー制覇、本当におめでとう!」

「ありがとうございます」

 

俺の祝辞に、フラッシュは花のような笑顔を浮かべてくれた。

 

「融通の利かない私を担当してくださったのがトレーナーさんだったからこそ、来日してからの夢だった日本ダービーを制することができました。本当に、ありがとうございます」

「いや、それは俺のセリフだよ。君の担当トレーナーとして、俺を選んでくれて、ありがとう」

 

フラッシュとの出会いは、ほとんど最悪の部類のものだった。

彼女からすれば、小さな親切のつもりで大きなお世話を焼いてくる、単なるおせっかい男に思えたことだろう。

 

そこから少しずつお互いに信頼関係を築き上げ、いくつかの偶然と必然が重なって、フラッシュを担当することになった。

 

 

ついでに言うなら、フラッシュには一目惚れをしたのかもしれないし、出会ってからの悲喜こもごもの中で、好きになったのかもしれない。

 

 

トゥインクルにデビューしてからは、初勝利があり、重賞初優勝の栄誉があり、トラブルがあった。

 

病気のせいで想定外のローテーションを強いられ、初めて挑戦したGⅠでは悔し涙を流した。

 

担当したのが俺でなければ、フラッシュはもっと活躍できていたのではないか。

そんな思いに囚われた夜も、一度や二度ではなかった。

 

紆余曲折はあったものの……俺たちの歩んできた道程は、そう悪いものではなかったのかもしれない。

 

至らないところだらけのトレーナーであったことは確かだが、こうしてクラシックを、日本ダービーという最高の栄誉を、フラッシュにプレゼントできたのだから。

 

「さ、そろそろライブの時間だ。ダービーウマ娘として、最高のライブをファンたちに届けてきてくれ」

「もちろん、そのつもりです。あの、それで……」

「わかってる。ご両親に見ていただく動画の撮影だろう?任せておいてくれ!」

 

俺を信頼してくれているのだろう、それではよろしくお願いします、とだけ言って、フラッシュはライブシアターへ向かっていった。

 

*

 

フラッシュは、日本ダービーに勝利して世代の頂点に立った。

 

そして今日、ウイニングライブで【winning the soul】をセンターとして歌う。

 

毎年、ジュニア級に登録されるウマ娘は、中央地方合わせておよそ九千人ほどだと言われている。

 

フラッシュは、そのトップ・オブ・ザ・トップに上り詰めたのだ。

 

 

走れ今を まだ終われない

 

辿り着きたい

 

場所があるから その先へと進め

 

涙さえも強く胸に抱きしめ

 

そこから始まるストーリー

 

果てしなく続く

 

winning the soul

 

 

光のシャワーを浴びながら、きらめくステージ上で力強く歌い踊るフラッシュを見ていると、なぜか彼女が遠い存在に感じられた。

 

それはファンたちが作り上げるライブの熱気のせいかもしれなかったし、録画状態にしたスマホでフラッシュを追いかけているからかもしれない。

 

フラッシュはダービーウマ娘になった。

 

超一流のウマ娘になったのだ。

 

俺は去年初めて担当するウマ娘を持った、単なる新米トレーナーでしかないにもかかわらず。

 

不相応といえば、これ以上ない不相応な組み合わせもあるまい。

 

彼女に恥じないトレーナーでいるためにはどうすればいいのか、今の俺には、わからなかった。

 

*

 

昨日のウイニングライブのあと、記者会見室でものすごい数のマスコミからの取材があった。

 

勝ったフラッシュのことならいくらでも答えて差し上げられたのだが、【最年少ダービートレーナー】とやらを更新したらしい俺のことを聞かれても、『勝ったフラッシュが強かったんです』『素質あるウマ娘を担当することができて、幸運でした』ぐらいしか言えなかった。

 

最高の栄冠を掴んだのはエイシンフラッシュというウマ娘なのだから、もっと彼女のことを掘り下げてほしかったのだが。

 

 

朝起きてスマホを確認すると、今まで経験したことのないような数のメールやLANEの通知が舞い込んでいた。

 

それらの送り主は、母さんを始めとした親戚身内、学園の関係者、学生時代の友人たち……。

送信されてきていたメッセージのすべてが、ダービー優勝を祝福してくれる祝辞だった。

 

それは連絡先を交換していたすべての人たちが祝辞を送ってくれているのではないか、と思える数だ。

 

昔からの親友の充からはもちろんのこと、その中にはイッセイ・ケンジ・マキという、トレーナー科時代によく一緒に遊んだ連中のものもある。

 

まだ大学を卒業して二年しか経ってないのに、もうなんだか懐かしい感じがするな……。

 

そんなことを思いながら、俺は一人ひとりに祝辞の御礼メッセージを返していった。

 

 

今朝配信されたばかりの【週刊ウマ娘・日本ダービー特別号】を朝飯(と言っても焼いた食パンだが)を食べながらタブレットで確認していると、【最高峰のレースを制したのは、七番人気のエイシンフラッシュ!トレーナーは最年少ダービー勝利の記録更新!】という一面の見出しが目に飛び込んでくる。

 

いや、俺のことなんか、ベタ記事のすみっコの方にでも書いていてくれたらそれでいいんだけど……。

 

朝からげんなりしながらそれを読み進めていくと、記事の半分は俺の事が書かれていた。

 

ダービーのことを取り扱った記事としては、かなり異例である。

……勝ったフラッシュが七番人気と、ファンやマスコミからはあまり期待されていなかったこともその一因だろう。

それで結果的に、【最年少ダービートレーナー】というわかりやすくてインパクトのある記録にマスコミの興味が集まってしまったのだと思われる。

 

別に嬉しくないわけでもないのだが、優勝した担当の娘と同じぐらい注目されてしまうというのは、なんとも複雑な思いがする。

 

その複雑な思いがする記事は【今回の快挙について、彼は「勝ったフラッシュが強かったんです」「素質あるウマ娘を担当することができて、幸運でした」と謙虚に答えてくれた】とまとめられていた。

 

こんなテンプレみたいな回答でも、そのまま記事になってしまうのか……。

 

レース前のフラッシュにさえ気の利いたことが言えない俺は、自分の語彙力がたいしたことないことを自覚している。

 

望む望まないと関わらず、これからもきっと【ダービートレーナー】として注目されてしまうだろう。

 

下手に口を滑らせるのはもちろん良くないが、あまりに陳腐な言葉ばかり使って取材に応じていると、『あのトレーナー、担当とのコミュニケーションは大丈夫なのか?』と疑われてしまって、うがった記事を書かれてしまうかもしれない。

 

「はぁ……」

 

なんで俺はダービーを勝った翌日に、憂鬱なため息などをついているのだろう。

 

そうだ。

今日はフラッシュもトレーニングはお休みだし(レースの翌日はたいてい休養に当てる)、ダービー優勝のお祝いとしてなにか一緒にうまいものでも食べに行こう。

 

昨日は取材やら表彰式やら、レースの事後処理で結局二人でゆっくり勝利を噛みしめる時間を取れなかったのだ。

 

ダービーの報奨金も入ることだし、ちょっとばかり贅沢するとしよう。

たまには、フラッシュの前で見栄張ってカッコつけてみるも悪くないだろう。

 

そんなことを考えながらスマホで店探しをしているうちに、憂鬱な気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。

 

*

 

「は、はあ。僕の祝勝会ですか……」

 

生徒たちの授業時間が終わり、そろそろフラッシュに食事のお誘いのLANEを入れようと思った矢先、校内放送で理事長室に呼び出された。

 

で、あの秋川理事長に出し抜けに言われたが『ご苦労!ところで今夜、君の祝勝会をしたいという話が入ってきているのだが、予定は空いているだろうか?』ということだった。

 

「左様!先方が食事でもしながら最年少ダービートレーナーになった君の話を、是非に聞きたいとのことでな。いかかだろうか?」

 

またそれか。

俺の話を聞きたいって言われても、フラッシュが頑張ってくれたということ以外、話すことなんて特にないのである。

俺は苦々しくそう思う気持ちを顔に出さないようにするために、かなり神経を使わされた。

 

「はぁ。お気持ちは嬉しいのですが、その記録を更新できたのはエイシンフラッシュという素質あるウマ娘に恵まれた、というだけのことですから。それに大変申し上げにくいのですが、今夜はすでに先約がありまして」

 

まだ正式にフラッシュからOKをもらったわけではないが、そう言っておけば角は立たないだろう。

だいたいお偉方が主催する会やらパーティやらというのは、気を使うばかりでちっとも楽しくないからあまり出たくない、というのが本音である。

 

もちろんそういう会に出てくる食事はそれなりに豪華なものであるが、好きな人とサイゼにいくのと、別に尊敬しているわけでもない、気を使うだけの上司とキャバクラにいくのなら、前者の方が数千倍も楽しいし、嬉しいに決まっている。

 

「そうか。それは困った……」

 

となりにいたたづなさんと視線を合わせ、珍しく理事長が言葉通りに困惑の表情を浮かべた。

 

「と、いいますと?」

「いや、その祝勝会を主催してくれると言ってきた先方なんだがな。毎年、我が学園に大口の寄付をしてくださっている企業の社長さんでな……」

「……そうでしたか」

 

ふとたづなさんの方を見ると、彼女もやはり、困ったような苦笑を浮かべていた。

卵の殻が尻についているような、社会人としてまだまだひよこの俺が言うのもなんであるが、オトナの世界は大変なのである。

 

「わかりました。先に約束していた人には、事情をお話して予定を変更してもらうことにしますよ。祝勝会の方、どうかよろしくお願いします」

 

まさか『本当は約束なんてありませんでしたから、別にそちらへ行ってもいいですよ』なんて言えるわけもない。

俺はわざと悩ましい表情を作りながら、お二人に頭を下げた。

 

「陳謝!そして感謝!では先方には『彼もぜひお願いします』と言ってくれたとお返事しておこう!」

 

まぁ、言った言葉は嘘ではないのでそうしてもらって全然構わない。

ただ、本当は全然行きたくないだけで。

 

「はい。で、その祝勝会の時間と場所を教えて下さいますか?」

「時間は今夜の八時から、と聞いている。場所は……」

 

*

 

普段友人や同期のトレーナーと飲みに行く時は、だいたいが新宿か渋谷の飲み屋というのが定番である。

 

先輩に連れて行ってもらえる時は、これが恵比寿や新橋あたりになったりする。

 

銀座なんて場所は、デートの時にぶらつきながら彼女のウィンドウショッピングに付き合う時に行くぐらいのものだった。

 

ましてや高級クラブが密集している(らしい)八丁目なんて、長年東京に住んでいながら初めて足を踏み入れたのかもしれない。

 

学園前まで迎えに来てくれた黒塗りの高級車で連れてこられたのは、なんというか【お金のない庶民さまのご入場は固くお断りさせていただいております】みたいな圧を感じるビルの中にある、高級クラブの個室だった。

 

クラブの扉には、当然のように【会員制】の文字が書かれたプレートが埋め込まれていた。

 

もちろんこんな場所に俺一人で入れるわけもなく、車で連れてきてくれた運転手さんに案内されてきたわけだが。

 

「はじめまして!ダービー優勝、そして最年少ダービートレーナーの記録更新本当におめでとう!」

 

豪奢な調度品に囲まれた個室で出迎えてくれたのは、高級スーツに身を包んだ、いかにもやり手のビジネスマンといった雰囲気の中年男性だった。

 

ちなみに一応、俺も持っている中で一番いいスーツを着てきたが、値段で言えばあのスーツの十分の一から二十分の一ぐらいかもしれない。

 

この方が、今夜お招きくださった社長さんだろう。

 

「はじめまして。ご丁寧な祝辞を頂いた上、この度は私のためにこのような席を設けてくださり恐縮です」

「いやいや、こちらこそ急に無理を言ってすまなかったね。さ、堅苦しい挨拶はここまでにして、まずは乾杯といこうじゃないか」

 

そう言われて案内された席には、二人の美女がすでに笑顔で着席していて、きっとお高いんだろうな、ぐらいしか分からないワインがすでにグラスに注がれた状態で用意されていた。

 

幸いなことに社長さんが先に着席してくださったので、どちらに座っていいか迷うことはなかった。

 

「ダービーの、そして最年少トレーナーの栄冠に乾杯!」

「乾杯」

 

そう言って俺達は、顔と同じぐらいの高さにグラスを掲げた。

 

一応調べてきた限りだと、こういうフォーマルな場では使われているグラスも高級なことが多いため、ぶつけないのがマナーだそうだ。

 

社長がグラスに口づけたのを確認してから俺もワインを口に含んでみたが、『なんだか重くて口に合わないな』ぐらいしか感想が出てこなかったあたり、俺の舌も相当に貧困である。

 

「それにしても、今年のダービーは凄かった。私も長い間ダービーを見ているが、あれだけの末脚を繰り出して勝ったウマ娘というのは、初めて見たよ」

「!そうなんですよ、本当にフラッシュは強い勝ち方をしたと思います」

 

俺の祝勝会、なんて聞いてきたものだから俺のことばかり根掘り葉掘り聞かれるではないかと少し身構えてここに来たわけだが、この社長さんはそういうわけでもないようだ。

 

「うむ。私は指定席からダービー前のパドックを見ていたのだがね。エイシンフラッシュの仕上がりと見栄えは本当に素晴らしいものに映ったよ。ただ、彼女が勝つのに100万円を賭けられたか?というと、それは少し難しかったかもしれないがね」

 

そう言って社長はニヤリと笑う。

 

「正直、私も勝つまでは厳しいと考えていました。なんせ今年は【史上最高レベルのメンバー】とまで言われたダービーでしたから」

「実をいうと、私の推しはヴィクトワールピサだったんだがね。一番人気を一蹴した、エイシンフラッシュは一体どんなトレーニングを積んでいたのか。よかったら聞かせてくれないか」

 

この質問で、彼はただ俺にタニマチっぽいことをしたかっただけでなく、本当のレースファンなんだということを確信できた。

 

「よく聞かれるのですが……トレーニング量もクラシック級の娘が普通にこなしている平均的なものでしたし、内容も坂路とダートを中心にした、オーソドックスなものだったと思いますよ」

「ふむ。当たり前のことを当たり前にやってきた、という感じかね?」

「ありきたりな結論になってしまいますが……結局はそういうことだと思います」

 

俺は決して、喋り上手というわけではない。

どちらかといえば、聞き手に回るほうが得意なぐらいの男だ。

せっかく高級クラブに招いてくださった社長さんには悪いと思うが、そこまでして聞く価値のあった話を提供できたかは分からなかった。

 

席についていた二人の美女もなぜか結構レースに詳しく(社長のようなレース好きの常連のために興味がなくても勉強しているのだろう)、マニアックな会話を繰り広げる男二人をうまく盛り上げてくれる。

 

「やっぱり、デキる男性って謙虚ですよね」

「担当されているウマ娘さんも、きっとそんなトレーナーさんに指導してもらったからこそ、結果が出るまでがんばれたのだと思いますよ」

 

世辞とわかっていても、美女にそう言われて嬉しくない男がいるわけがない。

 

そうして場を盛り上げながらもそれでいて俺達の間に深入りしたり、自分たちが前に出るような会話を決してしなかったところに、彼女たちの接客のプロとしてのスキルを見せつけられた気がした。

 

「うむ、彼女たちの言うとおりだ。君は担当に恵まれただけというが、そのダイヤの原石を美しく磨き上げたのは間違いなく君の手腕だ。それは誇っていいことだし、君にはきっとトレーナーとして才能があったのだろう」

「才能だなんて、そんな……」

 

一応謙遜してみせたものの、そう言われればそんな気がしてくるのは、きっと酒が回っているせいだろう。

 

そんなこんなで意外に楽しい時間が過ぎてゆき、そろそろお開きかな?という雰囲気を感じ始めたときだった。

 

「そうそう。これは最年少ダービートレーナー記録更新の御祝儀だ。取っておいてくれたまえ」

 

そう言って社長は胸ポケットからご祝儀袋を取り出して、それを俺に差し出した。

 

「え!?今日はこのような席を設けていただいた上に、そのようなものをいただくわけには……」

「ほんの気持ちだよ、受け取ってくれたまえ」

 

こういう席でのご祝儀というのは、受け取っておくものなのだろうか。

俺はしばらく迷ったが、お祝いの気持ちを無下にするのもそれはそれで失礼か、と思い直して「恐縮です。本当にありがとうございます」と礼を述べて、ご祝儀袋をかばんにしまった。

 

「さて。楽しい時間というのは、あっという間だね。名残惜しいが、そろそろお開きにするか」

 

社長は立ち上がると、ブラックカード(初めて生で見た!)をボーイさんに手渡し、会計を済ませてしまう。

 

こういう場所での支払額に興味が沸かないわけでもなかったが、『ちなみに、おいくらなんですか?』と聞くのはあまりに失礼だということぐらいは、酔っ払った頭でも理解していた。

 

帰りも車で送ってくれるらしく、ビルの前にはあの高級車がすでに止まって俺を待ってくれていたようだ。

 

「今夜は貴重な話を聞かせてくれてありがとう」

 

社長は俺のような若輩にも高圧的になることもなく、今夜酒を飲み交わしている最中も、まるで旧知の年下の友人と談笑してるかのように振る舞ってくださっていた。

 

きっと元々そういう方なのだろうし、俺達のようなレースに関わる人間に一定のリスペクトを払ってくださっているのだと思う。

 

「いえ。大したお話もできないのに、すっかりごちそうになってしまって。今日は本当にありがとうございました」

「いやいや、君の話からは大事なことを教わった気がするよ。大きな結果は、決して突飛なアイデアや奇抜な行動からではなく、毎日の仕事で当たり前のことを当たり前にこなすことから生まれるものだということを。そしてそれは私の仕事の理念でもある。私のビジネスセンスも、それほどひどいものではなかったということだ」

 

ビジネスに関して百戦錬磨であろう、社長の自信に満ちた笑いに、大学新卒の手取りに毛の生えたぐらいの月給で生活している俺は、追随の愛想笑いを浮かべることぐらいしかできなかった。

 

「では、気をつけて帰ってくれたまえ。ダービートレーナーとしての、これからの君の活躍に期待しているよ」

「……はい。今夜は本当にごちそうさまでした。それでは失礼いたします」

 

気さくに手を振ってくださる社長に最後の挨拶を交わして、俺は車の後部座席に乗り込んだ。

 

運転手さんは扉を閉めると小走りで運転席へ向かい、それからすぐに車は発進した。

 

酔った頭で、俺は考える。

 

ダービートレーナーとして、か。

 

ダービートレーナーとして恥ずかしくない振る舞いというのは、どういったものなのだろう。

 

酒の入った頭ではまともな答えが出せるとはとうてい思えなかったので、俺は酔い冷ましも兼ねて流れ行く銀座の夜景を車窓からぼーっと眺めていた。

 

「ふぁあぁあぁっ……」

 

眠い。

まだそれほど夜の深い時間というわけでもなかったが、ちょっと飲みすぎたせいか、急に睡魔が襲いかかってきた。

 

運転手さんには申し訳ないが、学園に着くまで少しうたた寝させてもらうことにしよう……。

 

意識が落ちる瞬間、脳裏にフラッシュの微笑みが浮かんできた。

 

フラッシュの屈託ない微笑は、なぜか俺の心にちくりと鈍い痛みを与えた。

 

*

 

目を覚ましたのと同時に襲ってきた強烈な頭痛に、俺は思わず顔を歪ませた。

 

「いてててて……」

 

というか、頭痛で目が覚めた、と言ったほうが正しいのかもしれない。

良い酒は二日酔いしない、なんていうのはどうやら都市伝説だったようである。

 

昨夜は学園前まで送ってもらって……車を降りたことまでは覚えている。

 

そこから先の記憶がどうにも曖昧だが、こうして寮のベッドで寝ている、ということはなんとか無事に自室へ帰ってこられたのだろう。

 

しかし、ひどい二日酔いだ……。

 

社長も美女も聞き上手の呑ませ上手だったこともあり、俺は久しぶりにこんな状態に陥るほどに痛飲してしまったらしい。

 

枕元のUSBに突き刺さっているスマホを手に取り(酔っ払っていてもスマホの充電はちゃんとして寝たらしい)、今の時刻を確かめた。

時間は……五時半か。

いつもならとっくにトレーナー室にいて、フラッシュの朝練の準備をしている時間だ。

 

通知を見るとスマホはいつもどおり午前五時にアラームを鳴らしてくれたらしいが、どうやら全く気づかなかったようだ。

 

とりあえず水をがぶ飲みして二度寝したい誘惑に駆られるが、まさか二日酔いで仕事を休むわけにもいくまい。

俺は洗面所に行ってカラカラの口をすすぎ、冷蔵庫に常備しているミネラルウォーターを取り出した。

 

二リットルサイズのそれはまだ半分以上入っていたはずだが、数秒もしないうちに全部飲み干してしまう。

 

「ぷはぁ……うまい」

 

二日酔いの朝に飲む水は、勝ったスポーツの試合後に飲む水の次ぐらいにうまいと思う。

ひどい二日酔いの寝起きは、とりあえず水分を取るに限る。

 

トレーナーになってからは前後不覚に陥るほど飲むことはなくなったが、学生時代は本当に俺はトレーナーになれるのか、という不安を紛らわせるために、よく朝まで飲み歩いたものだった。

 

そんな不安を抱えていたのは俺だけでなかったようで、トレーナー科に所属する友達同士で飲みに行くことも多かった。

 

特に仲が良かったケンジ・アイ・イッセイ・マキとは、一時期毎晩のように新宿や渋谷で朝まで飲み明かしたものだった。

 

アイとは、ワンナイトの関係になったことがある。

酔った勢いということも、確かにあった。

五人の中でも特に成績が悪かった俺達二人は、本当にトレーナーになれるのかいつも不安に苛まれていて、お互いに励まし合っていたということもあるだろう。

事後に好きだと告白されたが、俺はなぜか返事することができなかった。

彼女は次の日から大学に姿を見せなくなり、いつの間にか大学を辞めていた。

 

わりかしテストの点も実習の成績も良かったケンジは、大学四年になってみなが就活を始めると、トレーナーへの道に見切りをつけて一般企業に就職した。

 

理由は、別に聞かなかった。

トレーナー科の中でも、そんな奴は別に珍しくなかったからだ。

 

ケンジはそれなりの企業に就職し、『男はやっぱり甲斐性がないと!』と常日頃からいっていたマキと去年結婚した。

 

いつから二人が付き合っていたのかは、誰も知らない。

 

マキはトレーナー科の中でもトップクラスに成績が良かったが、ああいう性格なもんだから収入が不安定なトレーナーになることへの不安があったらしい。

 

ひょっとしたらケンジは、そんなマキのためにトレーナーを諦めて安定した大企業に就職したのかもしれない。

 

マキは結婚後すぐに新卒で就職した仕事をやめて、専業主婦になった。

 

俺とイッセイはもちろんその結婚式に参加させてもらったが、アイとは連絡が取れなかったようだ。

そのことを残念に思ったのか、ホッとしたのか、今もよくわからない。

 

いつもつるんでいた五人の中でトレーナーになったのは、結局俺とイッセイだけだった。

 

でも、イッセイはトレセン学園のトレーナーになることはできなかった。

 

イッセイもURAのトレーナー試験を受けたのだが、残念ながら不合格だったのだ。

それでも同時に受けていた高知レーシングスクールのトレーナー試験には合格し、今はかの地でトレーナーとしてがんばっている。

 

高知は彼の地元で、普段からURAでトレーナーになれなかったら、地元の地方レースに所属しているレーシングスクールのトレーナー試験も受けてみるとよく言っていた。

それもダメだったら、実家に帰って家業の漁師でもやるわ、みたいなことも言っていたように思う。

 

考えてみれば大学時代一番成績の悪かった俺だけがトレセン学園でトレーナーをやっているわけで、そんな俺がダービートレーナーになった。

 

全くこの世というのはどうなっているのだろう。

世の中、どうにもわからないことだらけだ。

 

……こんなどうでもいいことを思い出したのは、きっと久しぶりにやってしまった二日酔いのせいだろう。

 

俺は薬箱から頭痛薬を取り出すと、水分摂取も兼ねて新しく開けた大量のミネラルウォーターとともにそれを胃に流し込む。

 

即効を謳っている薬であるが、さすがに飲んですぐに頭痛が治るわけもない。

 

俺はズキズキ痛む頭で、とにかくフラッシュの朝練のトレーニングメニューを練り始めた。

 

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