URAが運営するトレセン学園には、世界的に見ても最高レベルのトレーニング施設と、それに付随する機材が揃えてある。
と言っても個人で用意しなければならないものもあり、例えばトレーニングで使用するシューズや蹄鉄、それにレース用のシューズなどがそうだ。
他にも自主練用の筋トレ器具にサプリやプロテインなど、ウマ娘本人が必要と思うなら自腹で購入しなければならないものがそれなりにあったりする。
「すみません。個人的な買い物にお付き合してもらった上に、器具までトレーナーさんに買っていただいて……」
俺の担当ウマ娘のエイシンフラッシュが、恐縮しながら頭を下げた。
今日はフラッシュと一緒に、自主トレの器具や彼女が普段飲んでいるサプリメントなどの買い出しのために、学園から電車で数駅のところにあるショッピングモールに来ていた。
こういう時、担当に片思いしているトレーナーの気持ちは複雑なものがある。
好きな人とお出かけできる!という嬉しさと、これも仕事なんだから浮ついた気持ちで彼女の買い物に付き合うのは申し訳ない、という自責感がせめぎ合って、なんとも言えない気持ちになる。
まぁ、これもきっと職場恋愛あるあるなのだろう。
このショッピングモールにはスポーツ関連の器具やサプリを扱う店が数件あり、トレセン学園の生徒もよくここへ足を運ぶ。
「いやいや、大丈夫。ダービーのトレーナー報奨金と最年少ダービートレーナー更新のお祝い金がURAから出たからね。これも君がダービーに勝ったからこそ、支給されたお金だ。君に還元できるなら、それ以上の使い道はないよ」
「でも……。いえ、ありがとうございます」
フラッシュはなにか言いかけたようだったが、それを飲み込んでいつもの可憐な笑顔を浮かべてくれた。
このまま謝罪と遠慮を言い続けても、かえって気を使わせるだけだ、と思ったのかもしれない。
「この器具を有効活用して、もっとトレーナーさんに勝利をお届けできるよう、がんばりますね」
「うん。その心がけは嬉しいんだけどさ。しつこいようだけど、オーバーワークにだけは気をつけてくれ」
「……はい、もちろんです」
一拍空いたのが気になったが、柔らかく微笑むフラッシュを見ていると彼女の言葉を疑う気にもなれなかった。
「しかし、いつもフラッシュが飲んでいるサプリが売り切れていたのには困ったね」
俺が話題を少し変えると、彼女もそれに乗って苦笑いを浮かべる。
「そうですね。日本だとドイツの健康食品メーカーから輸入しているでしょうから、いつもお店に置いておくというわけにもいかないのでしょう。見つけた時にはそれなりの数を購入して、ストックしておくようにはしていたのですが……」
今日はフラッシュがいつも利用しているという大型のスポーツ用品店をはじめ、いくつかの専門店に足を運んだのだが、残念なことに彼女が愛飲しているサプリメントはどこも切らしてしまっているとのことだった。
お店の方で発注してもなかなか入手できない物らしく、次の入荷がいつになるのか、まったく目処が立っていないらしい。
「サプリメントなので必ず服用しなければならない、ということはないのですが、習慣になっていることが途切れてしまうというのはなんとも落ち着かないものですね……」
「確かになぁ」
少しばかり眉をひそめてつぶやくフラッシュに、俺は腕組みしながら同調する。
と言っても俺はサプリメントを飲んでいないし、実は物事を習慣づけるということがどうにも苦手な人間なので、完全に彼女の気持ちに共感できたわけではない。
それでもフラッシュのような真面目な娘にとって【習慣が途切れる】ということは、言いしれぬ気持ち悪さと罪悪感がつきまとうのだろうな、ということぐらいは想像できた。
「ネットでも入手困難となると、あとは似た成分のものを探して代用するぐらいしか俺には手段が思いつかないな」
「そうですね」
一応肯定風の返事をよこしたフラッシュだったが、いかにも気乗りしない、というふうに苦笑いしている。
うんまぁ、サプリや薬ってそんなもんだよな。
ジェネリックの方がいつもの薬より値段が安くなって効力も変わらないというのに、どうあってもそれを拒絶する人が一定数いる。
こういう人たちも理性では『ジェネリックも効力は変わらないし、安くなるぶん得だ』と分かっているのだが、『いつもと違う薬はなんか嫌だ』という感情が先に立ってしまって、なかなかジェネリックを服用しようという気になれないのだろう。
ちなみに俺は【効力が変わらなくて安くなるなら、絶対にそっちがいいに決まってる】と単純に思えるタチである。
「あっ、トレーナーさん。あそこに新しいお店ができているようですね」
「ん?そうなのか」
フラッシュはそういうと、モールの一番端にあるお店を指さした。
彼女たちはよくここに足を運んでいるからこそ、そういうところに気がつくのだろう。
その店は【ウマ娘レース用具専門店・フィーキ】という看板を掲げており、こじんまりしながらも綺麗そうな店構えである。
「じゃあ、ちょっと寄っていってみようか。新しいお店なら、品揃えもまた違うだろうからフラッシュが探しているサプリも置いてあるかもしれないな」
「そうだといいですね」
「そういやそのサプリって、いつ頃から飲んでるの?」
俺が何気なくそんなことを聞くと、フラッシュは少しはにかんだ。
「実は中学生の時、成長痛に悩まされて走りの方でも記録が伸び悩んでいた時期があったんです。その時に母が私に勧めてくれたサプリメントが、それだったんですよ」
「なるほど。お母さんもきっと、そんな悩みを抱えた時期があったんだろうね」
「きっとそうだと思います。サプリメントですから飲み始めてすぐに効果があったわけではないのですが、少しずつ成長痛も収まってきて、また記録も伸び始めたんです。体に悪いものでもないですし、それほど高価なものでもないので、習慣的に飲み続けているという感じですね」
彼女にとってそのサプリメントは辛い時期を支えてくれたものであり、母との絆のひとつなのだろう。
俺達はそんな話をしながら、その小綺麗なお店に向かった。
*
お店の敷地面積は外から見たとおり、それほど広いというわけではなかった。
しかしその分商品の配置に工夫をこらしてあり、品揃えは今まで見回ったスポーツ店と遜色ないどころか、結構レアなものも取り扱っているようだった。
「トレーナーさん、ありました」
そう言って彼女は嬉しそうに、ドイツ語で(おそらく)商品名が書かれたプラスチック製の瓶を見せてくれる。
「おっ、よかったな」
「このお店、品揃えがとても豊富ですね。サプリだけでなく、シューズも蹄鉄もよいものをたくさん揃えているようです」
「みたいだね」
俺は相槌を打ちながら、店内を改めて見回してみた。
品揃えがよいだけでなく、お客さんが商品を探しやすく取り出しやすいように商品棚やポップも様々に工夫されている。
このお店はただ商売としてウマ娘のレース用品を扱っているだけでなく、彼女たちの競技人生に少しでも寄り添いたい、という気持ちで仕事をしていることを感じ取ることができた。
「はい。サプリに関してはとりあえず三ヶ月分、買って帰ろうかと思います」
「そうか。買うのはそのサプリだけで大丈夫かい?」
「はい」
俺はドイツ語はさっぱりだが、目立つところに書かれている90というアラビア数字を見るにあれ一瓶で一ヶ月分なのだろう。
俺はフラッシュの手の中にあった三つの瓶をそっと取り上げると、レジに向かって歩き始めた。
「トレーナーさん」
「まぁまぁ。今日はいいから」
遠慮するフラッシュをやんわりと制してサプリをレジに持っていくと、そこには24・5歳ぐらいのウマ娘の店員さんがいて、にこやかに「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれた。
「これ、ください」
「はい、ありがとうござ……」
俺の顔を見て彼女は大きく目を見開いた。
そして次にフラッシュを見ると。
「!!あなたたちは今年のダービーを勝ったエイシンフラッシュさんと、そのトレーナーさんなのでは!?」
驚いていただいているのに大変恐縮だが、行った先々のお店で同じアクションを見せられていた俺達はもうそれに慣れてしまっていた。
「はい。まぁ一応……」
一時期、高学歴の人がどうしても自分の出身大学を言わなければならない時、大学名の前に『一応』をつけるのが云々、みたいな話が流行ったが、今なら彼ら、彼女らの気持ちが少しばかり理解できた。
ちなみに俺の卒業した大学もそれなりの偏差値の大学なのだが、『K大学ウマ娘トレーナー学部卒です』というと世間様には『ああ、そうなんだ……』みたいな顔をされることが多い。
K大ウマトレ部も他の学部に比べて著しく偏差値が低い、というわけでもないのに微妙な反応をされてしまうのは、世間に『こいつらは将来、トレーナーという収入の安定しない仕事につく人たちなんだな』という認識が出来上がってしまっているからだろう。
今はさすがにそんなことはないが、戦後すぐぐらいのころはウマ娘のトレーナーというと、博打打ちと同じような目で見られていたような時期もあったんだそうだ。
逆に戦前・戦中は軍属ウマ娘を指導する教官として、それなりに世間の尊敬を集めていたという。
閑話休題。
「あの、少々お待ち願えないでしょうか!?店長呼んできますので!」
こちらの返事など待たず、その店員さんは『店長店長~!今年のダービーウマ娘、エイシンフラッシュさんがご来店なさいましたよ!サインもらわないと!』と大慌てでバックヤードに行ってしまった。
「……自分で言うのもなんですが、ダービーを勝つというのはやっぱりすごいことなんですね」
本日五回目の、他の店でもされてしまった同じような店員さんの反応を見て、フラッシュは困ったような、照れたような笑みを浮かべる。
「ダービーはレース界にいる人間なら、誰もが憧れる大舞台だからね。しばらくは世間のこういう反応も仕方ないと思うよ」
「注目していただけるのは、嬉しいことなんですけどね」
そう言ってフラッシュは困ったように肩をすくめた。
フラッシュは競技者として結果を出すことで人々に注目されたい、称賛を浴びたいというタイプではなく、あくまで自分の中での走りを追求したいという職人気質のウマ娘だ。
そんな性格の彼女からすると、今の状況は決して心地よいものではないのだろう。
「こうして騒がれるのは君の性に合わないのはよく分かってるけど、これもダービーウマ娘の一つの役割と思って受け止めてくれないか?こんなふうにサインを求められるということは、レースというものが世間に浸透しているという証拠でもあるしね」
「あっ、もちろんこうして注目していただけるのが迷惑と思っているというわけではありませんよ。ただ、ちょっと苦手意識があるといいますか……」
そんな会話を交わしているうちに、店の奥からあの店員さんになぜか背中を押されながら、一人の女性が姿を表した。
「あっ……」
その女性の姿を見た俺は、思わず息をつまらせてしまった。
「……いらっしゃいませ。ご来店まことにありがとうございます」
営業スマイルで俺達を歓迎してくれた女性は、ややツリメ気味の凛々しい目元をした美女だった。
艶のある黒い髪を背中の真ん中あたりにまでのストレートロングにしていて、それがよく似合っている。
最後に会ったときから約三年の月日が流れていたが、彼女の美貌は何も変わっていなかった。
「アイ……?」
「お久しぶりですね」
俺の問いかけに彼女は別段変わった様子も見せず、あくまで営業スマイルのまま俺に会釈を返してくれる。
『あれ?』
二人のウマ娘の声が、ハモった。
「店長、お知り合いでしたか」
「トレーナーさん、こちらの女性とお知り合いなんですか?」
店員さんとフラッシュの質問に、俺と彼女はこれまた同じようなタイミングで「大学で同じ学部だった同期の人だよ」「大学時代の知り合いです」と返すよりなかった。
「商品のお買い上げ、まことにありがとうございます。それと大変恐縮なのですが、よろしければこちらの色紙にサインを頂くことはできませんか?」
アイは手際よく俺達が購入したサプリを袋に詰めてから、申し訳なさそうにペンと色紙を俺達に差し出した。
こういうお店に著名人がやってきた時、お店側はこういってはなんだが、さほど自分が興味のないジャンルの有名人であっても、サインをお願いするのがマナーのようなものなのである。
大学生の時、著名人がお忍びで来るような、ちょっとお高い飲食店でアルバイトしていたことがあった。
そのバイト先にあまり興味のないスポーツの著名人がやってきたことがあって、周りが騒いでいるなか俺だけボーっとしていると、店長から『なにしてるんだ、早くご挨拶してサインを貰ってもいいか聞いてこい』と怒鳴りつけられたことがある。
そして著名人の方も店側がよっぽど失礼な頼み方をするか、ポリシーとしてプライベートの場でサインはしないというタイプでもない限り、サインを断ったりしないものなのだ。
もちろんこの店はウマ娘のレース専門店であるわけで、フラッシュに全く興味がないけどとりあえずサインをもらっておこう、ということはないだろう。
「フラッシュ。君さえ良ければぜひ書いて差し上げてほしい」
「え、ええ。もちろん喜んで書かせていただきます。書かせてもらう書体は、アルファベットでよろしいですか?」
「もちろんです。ありがとうございます」
フラッシュの質問に、アイは笑顔で返事する。
フラッシュの問いかけの意図だが、ウマ娘の名前はレースに出走する国によって、登録する表記名を変えなければならない。
例えばフラッシュが欧米のレースに出走する場合は【Eishin Flash】と英語表記で登録するし、香港のレースに出るのなら【榮進閃耀】と登録することになる。
今日立ち寄った二軒目のお店は華僑の方が経営するお店で、『できれば香港表記でエイシンフラッシュさんのサインを頂きたい』とお願いされたことが彼女の意識にあったのだろう。
ペンと色紙を受け取ったフラッシュは、少し崩した筆記体でサラサラとサインしていく。
そうしている間、ウマ娘の店員さんが俺にも色紙を差し出してきた。
「あの、よろしければトレーナーさんにも一枚……」
「こら。あまりわがままを言うものではありませんよ」
そうたしなめるアイだったが、それほど本気で言っているわけでもなさそうだ。
今日は五軒のスポーツ用品店に立ち寄って、その全部のお店がフラッシュにサインを求めてきたが、トレーナーの自分にまで色紙を差し出してきたお店はここが二軒目だった。
俺にサインを、と言ってくれたのはここと同じくウマ娘のレース専門店で、実のところよほどのレース好きでもないかぎり、ウマ娘のトレーナーの名前なんて知らないのが普通だ。
男子100M競走の世界記録保持者、ウサイン・ボルトの名前は誰もが知っている。
でもそのメインコーチを務めたのは誰かなんてまで知っているのは、同じフィールドで戦っている競技者か、相当コアな陸上ファンだけなのと似たような感じである。
「あ、いえ。俺で良ければ書かせてもらいますよ」
「ホントですか!店長、トレーナーさんもこうおっしゃってくださってますし、お言葉に甘えてもいいでしょう?」
「まぁ、トレーナーさんがそうおっしゃるなら」
アイは学生時代から、誰とでも仲良くなれる特技を持っていた。
今の二人のやり取りを見る限り、雇用主と被雇用者という関係にしては少しフランクすぎる気もしたが、きっと彼女たちはそれでうまくやっているのだろう。
色紙を受け取ったが、サインと言ってもフラッシュのようにかっこいい筆記体が書けるわけでもなく、書類に署名するのと同じような文字で自分の名前を書くことぐらいしかできない。
「ありがとうございます!フラッシュさんのサインといっしょに飾らせてもらいますね」
末尾に【フィーキさんへ】とお店の名前を書いた色紙を店員さんにお返しすると、こんな拙いサインにも関わらず喜んでくださった。
フラッシュのサインはぜひ店の目立つところに飾ってほしいが、俺のサインなんてバックヤードの片隅にでも置いておいてくれればそれでいいんだけどね。
さて。
お願いされたサインも書いたし、必要な買い物はすべて終わった。
あとは学園へ戻るだけなのだが……。
「アイ。仕事中なのは分かっているが、少しばかり時間を取れないか?」
消息不明だった同期生を目の前にして、俺はそう言わずにいられなかった。
「ごめんなさい。今からはさすがに……」
俺の誘いに、彼女は苦笑しながら首を横に振る。
……そりゃそうだ。
仕事中云々の前に、俺みたいな男の誘いに応じてくれるわけもあるまい。
突然の再会に、ちょっと頭がおかしくなってしまっていたのだろう。
「そうか。それはすまなかった」
連絡先を聞くのも未練たらしいと思い、俺はサプリの入った袋を手にとってお店から辞そうとした。
「店長。もう品出しも終わってますし、あとの仕事は私だけでも大丈夫ですよ。トレーナーさんとお会いしたのも、久しぶりなんでしょう?ちょっとお話されてきたらどうですか」
アイにとっては余計なことを、俺にとっては助け舟を言ってくれたのはウマ娘の店員さんだった。
「……あなたがそう言ってくれるなら、ちょっとだけ休憩もらおうかしら」
店員さんのその言葉に少し渋い表情を浮かべたアイだったが、その申し出をことさら拒絶するのもおかしいと思ったのだろう。
「軽く着替えてきますから、ちょっと外で待っててもらえますか?」
「ああ、分かった。フラッシュ、行こうか」
「……はい」
アイの言葉を受けて、フラッシュと一緒に店の外に出た。
モールから覗く空はもう薄暗くなっていて、赤い夕陽がそろそろ西のビルの谷間に姿を隠そうとしていた。
「フラッシュ。すまないが今日のところはこれで夕食を済ませて、一足先に学園に戻っていてくれないか」
アイとのやり取りを静観していたフラッシュに、俺は一万円札を差し出した。
しかしフラッシュは困惑した表情を浮かべて、それを受け取ってくれようとしない。
「こんなに預かるわけには……」
「余ったら余ったで構わないよ。残りは次のサプリメント代として預けておくから、取っておいてくれ」
「……。わかりました。ごちそうになりますね」
フラッシュはどこか納得できないような顔をしながらも、その一万円を受け取ってくれた。
「夕食までごちそうになってしまって、今日は本当にありがとうございました」
「いや、最後まで付き合えずに申し訳なかった。この埋め合わせは必ずするから」
そういう俺に彼女は何も言わず、深く一礼して早足でこの場を去っていく。
フラッシュは人間ができているので、その端正な顔に感情をさらけ出すようなことはしなかったが、ああいう歩き方をするときの彼女は少々機嫌が悪いことを俺は知っている。
俺から買い物に付き合うよ、と申し出て途中で帰らせるような真似をすれば、普段温厚なフラッシュでもさすがに怒るよな……。
「おまたせ」
この失態をどう埋め合わせするか……と頭を巡らせながらフラッシュの背中を見送っていると、お店の名前とロゴの入ったエプロンを脱いでカーディガンを羽織ったアイがお店から出てきた。
「ああ、いや……」
「エイシンフラッシュさん、先に帰ってもらったのね。担当のお出かけに最後まで付き合わなくて大丈夫なの?」
不義理や理不尽に感じることを見聞きすると、少し詰めるような物言いになるところは学生時代から変わっていないようだった。
「フラッシュは本当にしっかりしてる娘だから大丈夫だよ。夕食代も少し多めに渡しておいたし。それが罪滅ぼしになるとは思ってないけど、なんか美味しいものでも食べて帰ってくれると俺も気が楽なんだけどね」
「あら、私とのごはんは必ず割り勘だったのに」
……これは純粋に、皮肉というかイヤミだろう。
「君と最後に食事に行ったのなんて、何年前の話だよ。それに、あの時は俺も苦学生してたせいで金がなくてだな……」
「そうね。あなたと最後に食事へ行ったのはあなたに振られた日のことだから、もう三年以上前になるかしらね」
「勘弁してくれ」
冗談っぽく急所を突いてくるアイに、俺は肩をすくめて恐縮するよりなかった。
「俺が仕事の邪魔したわけだし、今日はごちそうさせてもらうよ。なにか食べたいものはあるかい?」
「そう?ダービートレーナーがそう言ってくれるなら、お金の心配はすることなさそうね。それなら……」
そういう彼女が指定したお店に、俺は苦笑を我慢できなかった。
*
店内は十代の若いカップルに部活帰りの生徒や学生、それに外回りの最中に一休みしているであろうサラリーマンたちで賑わっていた。
ここはたびたびSNSなどで『大人のデートスポットとしてはどうなのよ』と話題になるゼイザリアだ。
「大学生のときはよくここに来たもんだね。安い安いって言われてるけど、貧乏学生だった俺にとっちゃ、結構なごちそうだったんだよな」
週に一度、ここで食べるハンバーグと大盛りのライスは俺にとって本当に楽しみにしていた【ディナー】だった。
アルバイトの給料日には食後のスイーツをつけて、ちょっとした贅沢気分を楽しんだものだ。
「私にとっても、ここでの食事はそうだったわ。たった三、四年ほど前のことなのに、もうなんだか懐かしいわね」
アイはそんなことを言いながら遠い目をして、店内をさり気なく見回した。
注文を取りに来てくれた店員さんに俺はハンバーグセットを、彼女はパスタを注文する。
そして、ドリンクバーを二人分。
それは俺達が一緒に食事に来たときの定番メニューだった。
「飲み物取ってくるよ。なにがいい?」
「じゃあ、コンポタお願い」
「了解」
食事のときだけに限らず、大学でもアイは温かい飲み物を飲んでいることが多かったのを俺は思い出していた。
俺は席を立つとドリンクバーにおもむき、コップとマグカップを手にとって俺はコーラ、そしてマグカップの方にコーンポタージュを注ぎ込む。
美味しそうな湯気の香りを感じた俺は、やっぱ俺もコンポタのほうが良かったかな、などと思いつつ、飲み物を両手に持って席に戻った。
「はい」
「ありがとう。……そういやマキ、ケンジ、イッセイは今どうしてるか知ってる?」
戻ってきた俺に彼女は懐かしそうに、それでいて少し後ろめたいような感じで旧友の現在を尋ねてくる。
「イッセイは地元の高知に戻って、そこのレース学校でトレーナーやってる。ケンジは大企業に就職して……マキと結婚したよ。そのマキは今は家庭に入ってケンジを支えてやってるみたいだね」
「ああ。やっぱり二人ともトレーナーにならなかったのね」
「えっ?」
二人の話を聞いてさもありなん、といった感じでうなずくアイに、俺は小さな驚きと疑問を隠しきれなかった。
「ケンジもマキも成績良かったのは、君も知っているだろう?それなのにどうして彼らがトレーナーにならなかったって予想できたんだい?」
「マキは最初の実習に行ったときから『アタシ、この仕事向いてないかも』って言ってたし、ケンジはマキに一目惚れして長い間彼の片思いだったから……。マキが男性に経済力を求めるタイプなのは周知の事実だったし、その辺含めて考えればケンジとマキの将来図はある程度予想がついていたのよね」
「……そうか」
俺はマキがそんな時期からトレーナーになることに対して消極的だったなんて知らなかったし、ケンジがマキに長期間片思いしていたなんて、まったく気づきもしなかった。
俺達はよく将来については語り合っていたが、恋愛のことや進路に関する本音などはほとんど話した記憶がない。
というより、お互いに気を使ってそのあたりの話題を意図的に避けていたように思う。
ウマ娘トレーナー科を卒業したからといって、全員がトレーナーになれるわけではない。
そんな椅子取りゲームのような競争の激しい環境だと、どうしても【恋愛なんかにかまけている余裕あるのか?】という空気感が強くなる。
このあたりがトレーナーという夢を追いかけている人間たちの、友情や恋愛の難しさだった。
「マキも君には進路のことを話していたようだし、ケンジとマキの関係なんて、俺は気づきもしなかったよ。……ひょっとして、みんな君にだけはいろんなことを話していたのかな」
友人たちの間で俺だけが知らなかった、となると大学時代からの彼らとの友情も色々と考え直さないといけなくなる。
疑心暗鬼の俺に、アイは静かに首を横に振った。
「マキの進路のことに関して言えば、私には女同士だったから話しやすかったのかもしれないわ。マキとケンジとの関係は……まぁ、二人を見てたらなんとなくそうなんだろうな、って。強いて言うなら、女の勘ってやつかしら」
女の勘、ねえ。
俺はそんなものまったく信じていなかった。
本当に女性にそんな第六感的なものが備わっているのなら、賞金十億円のポーカー世界大会のファイナルテーブルには女性しか残っていないはずである。
しかし現実はそんなことにはなっていないので、普通に考えれば女性にそんな能力はないと結論づけるのが理論的というものだろう。
「信じてなさそうね?」
「まぁ……」
「そんなんだから、学生時代彼女ができても長続きしなかったんじゃない?」
「うっ……」
そう。
男にありがちなのだろうが、俺は恋人と口論になってしまった時、理詰めで相手をやり込めてしまうタイプだった。
男女のケンカの原因なんてたいてい感情のすれ違いやもつれなのだから、言い負かすだけならデカい声で理屈を並べ立てたほうが勝つに決まっている。
よく【理屈は感情に勝てない】というが、なんとなく正論っぽいことを言い続けられて、延々と感情をぶちまけられる人間はそうそういない。
たいていの人間は感情に理屈をぶつけられると、自分が感情的であることが恥ずかしくなって押し黙ってしまうか、降参する(ようなふりをして会話を打ち切る)かのどちらかになる。
『口ゲンカになると男は勝てない』なんて言っているカップルは、お互いに妥協点を見つけ合うのがうまいんだろうなと俺なんかは思う。
でも、当時の俺にはどうしてもそれができなかった。
ロジカルなものこそが正解であり、感情的なものはすべて論理に劣っていると決めつけていた。
今思えばそんな男といれば精神が疲弊していくばかりだろうから、別れを告げられて当然と分かるのだが、当時は絶対に俺は間違っていないと思い込んでいたのだ。
「私はそんなあなたのことが、嫌いじゃなかったけどね」
そんなドキリとするようなことを言って、アイはドリンクバーで注いできたコーンポタージュに口をつける。
「…………」
アイの中で俺は自分を振った男ということになっているのだろうが、実は俺自身、彼女を振ったという自覚がなかった。
告白されたあの夜、俺は確かに返事をしなかった。
正確に言うなら、返事ができなかったのである。
アイは他学部や他の大学の男子からも言い寄られるぐらいの美貌の女子大生で、校内だけでなく付近の大学でも噂になるぐらい、かなりの有名人だった。
彼女も自分の容姿の良さは自覚していただろうが、それを鼻にかけるような性格でもなく、講義もきちんと出席して人との約束は絶対に守るような誠実性の高い女性であったことも、アイの人気に拍車をかけていたように思う。
そんな高嶺の花に比べて、俺は頭もそれほど良くなかったし、別に金持ちの御子息というわけでもない。
実家は自営業を営んでいて決して貧乏というわけではなかったが、なんせ俺はそこの社長(つまりオヤジ)から絶縁されている身である。
大学時代の俺は学費と生活費を稼ぐためのバイトに忙殺されていて、苦労して入った大学の単位もなんとかギリギリ取得できていたという感じだった。
そんな俺が酔った勢いの事後に告白されて、自信を持って『もちろんオッケーだよ。こちらこそよろしくお願いします。絶対に君を大切にするよ』なんて言えるはずもない。
だからあの夜、俺は沈黙するよりなかった。
昔の文豪の小説に『どうしようもない男というのは、幸運の受け取り方さえ下手くそを極める』なんて一節があったが、それにまるっと当てはまる男が俺だった。
「……アイは大学辞めてから、一体どんなことをしていたんだ?」
どうにも気まずくなった俺は、話の矛先をアイに向ける。
話をそらされたことはもちろんアイにもわかりきっていただろうが、彼女は気分を損ねたふうもなく、マグカップをテーブルにおいて少し儚げに微笑んだ。
「あの時期の私は好きだった男に振られるし、両親とはうまくいってなかったし、大学での成績も良くなくて、小さい頃からの夢が絶たれてしまそうだったしで、色々と人生に行き詰まりを感じていたのよ。もうとにかく、今すぐこの場所から消えてなくなってしまいたい!と毎日思って過ごしていたわ」
当時のアイに少し影が差していたのは俺も薄々感づいていたが、彼女も成績があまり奮っていなかったからきっとそのせいだろうとだけ思いこんで、それ以上アイのプライバシーに踏み込むようなことはしなかった。
「あの日の朝は、とっても天気が良かった。ときどき自殺が脳裏によぎるぐらい落ち込んでいたあのときの私でも、どこかに出かけたいな、と思うぐらいに。まぁ死ぬぐらいなら出かけたほうがいいよね、なんて自虐的に思っちゃてさ。それならどこ行こう?と自問してみたのよ。で、ふと思いついたわけ。そうだ、海外に行ってみようって」
アイの壮絶な回想に、俺は口を挟むことなんてできなかった。
自殺まで考えていた人間が海外へ行きたいと思うだなんてちょっと突拍子が過ぎるとも思ったが、死にたいと思うほど追い詰められた人間が、自分が今まで行ったことのないぐらい遠くへ行ってみたいと考えるのは、それほど不自然なことではないかもしれない。
俺は黙して彼女の瞳を見据え、話の続きを待った。
「その足でコンビニのATMへ向かって、通帳に入ってたお金全部をおろしてね。高校時代にアルバイトして貯めていたお金もあったから、それなりの金額が入っていたのを覚えているわ。で、羽田から韓国へ行ってね。それから中国、インド、中東、アフリカ、ヨーロッパって巡ったの」
「高校時代からの貯金があったとはいえ、よくそれだけの国を回れたもんだね」
韓国からヨーロッパと言うと、ほとんど地球半周の旅である。
当時はご両親ともうまく行ってなかったようだし、路銀は一体どうしたのだろうか。
「ああ、もちろん日本から持っていったお金で旅費全部を賄えたわけじゃないわ。行った国の先々でアルバイトしながら旅を続けていたの。そんな放浪めいた旅をしていたら道中『あ、これ私死んだな』って思ったことが何回もあったけど、意外と人間って簡単には死なないものねえ」
まるでそれが笑い話のように聞かせてくれたが、若くて美しい女が一人でそんな旅を続けていれば、修羅場を潜ったことも一度や二度ではなかったはずである。
「で、不思議なもので人間本当に生きていくことで精一杯になったら、なぜか死にたいとは考えなくなるのね。とにかく食うために文字通り一日中働いて、夜は泥のように眠る。そんな旅をしていた私の楽しみって、一体何だったと思う?」
「えっ、そうだな……」
唐突なアイの質問に、俺はすぐに答えられなかった。
普通の観光旅行なら豪華絢爛なショッピングモールでの買い物や、風光明媚な景色などを楽しみに行くものだろう。
しかし、ほとんど流浪の民のような旅を続けていたアイに、そんな余裕があったとは思えない。
「その土地土地の、安くて美味しい物を見つけて食べることとかか?」
「もちろんそれもあったけどね」
アイは苦笑を浮かべると、喋り通しで乾いた喉を癒やすために水を一口含んだ。
「行く先々で私を楽しませてくれたのは、ウマ娘たちのレースだった。知ってる?欧米やドバイ、香港だけじゃなくて、世界中どこに行ってもウマ娘のレース場ってあるのよ。もちろん、日本みたいに整備が行き届いて、何万人もの観客が収容できるような立派なレース場がある国ばかりじゃないわ。開発途上国とかだと砂地にロープを張っただけだったり、線を引いただけのレース場もあるの」
「そうなのか」
それは一人のレースを愛するものとして、非常に興味深い話だった。
ウマ娘のレース、というとどうしても日本や欧米で開催されているような、活気ある華やかなレース場で、美しい芝や手入れされたダートを走るものというのを想像してしまう。
しかし、当然ながらウマ娘が存在するのはそんな先進国ばかりではない。
アイが話してくれたように、様々な国で様々なレースが行われていて、ウマ娘が走っているのだ。
「確かに、そういう国のレース場の設備は貧相かもしれない。貧しい国だとトレーニング設備にお金を投資するのが難しいし、そもそもトレーニングに時間を割けるほど、裕福な家のウマ娘ってほとんどいないのよ。むしろその娘が一家の経済を支えていたりするわ」
バリキ、なんて言葉があるように、ウマ娘には常人離れした脚力の他に、腕力の方も普通の成人男性とは比べ物にならないものを持っている。
産業が成熟しきった先進国と違い、開発途上国の人々は第一・二次産業に従事することが多いだろうから、ウマ娘のその力はさぞかし重宝されるに違いない。
「確かにそういう国で走っているウマ娘たちは、お世辞にもレベルが高いとは言えなかったわ。でも、レースに懸ける思いや情熱は、日本のトゥインクルを走っているウマ娘たちに決して劣るものじゃなかった。それにレースに優勝するとそれなりにお金がもらえるから、家族の応援もものすごいものがあるのよ」
「それは……きっとそうだろうね」
開発途上国で厳しい生活を営む親にすればその賞金はとてもありがたいものだろうし、ウマ娘たちも家族を喜ばせるために文字通り命がけでレースに臨んでいることだろう。
その熱意は決して、人生を懸けてトゥインクルを走る日本のウマ娘たちに劣るものではあるまい。
「そんな感じで三年ほど世界を放浪してたんだけど、いつまでもこんな旅を続けられるわけじゃないことは、わかっていたわ。一応の旅の終着点はイギリスにある、世界最古のレース場と言われているチェスターレース場って決めていたの。そこで観戦していた時に、そろそろ自分の人生と真剣に向き合わないといけないなって思ったのね」
ウマ娘のレースの発生については諸説あるが、クラシック競走などが体系化された近代レースの始まりは、十八世紀のイギリスに於いてだとされている。
そういった意味では、イギリスは今行われているすべてのレースの故郷ということもできる。
そこをウマ娘を巡る旅の終着点とするのは、ウマ娘とレースをこよなく愛するアイらしい選択だと思った。
「レース発祥の地の、安宿のベットの上で色々考えた。今からでも大学へ行き直して、手堅い企業に就職するか。旅で培った語学力を活かした仕事をするのもいいかもしれない。でもね、そのたびに頭によぎったのは、世界中のレース場とウマ娘たちの熱い戦いだった。その時、やっと気付いたの。ああ、私やっぱり、ウマ娘とレースが本当に好きなんだ、って」
自分の【好き】を語るアイの表情は、『将来はケーキ屋さんかお花屋さんになりたい』と周囲にお話している少女のような、純粋無垢なものだった。
「私やっぱり、自分の【好き】を仕事にしたい。今更日本に戻ってもトレーナーになれるわけじゃないけど……なにかウマ娘たちの競技人生に携わる仕事がしたいな、思ってね」
「それで日本に戻ってきて、あのお店を始めたわけか」
「そう。ウマ娘に携わる他の仕事も、考えてはみたんだけどね。旅先でいろんなウマ娘の、いろんなレースを見ているとレースに使う器具って本当に大切だなって改めて気付かされたの。貧しい国のウマ娘が使っている、蹄鉄やシューズってどんな感じか知ってる?」
そう聞く彼女に、俺は素直に首を横に振る。
「蹄鉄はもう錆びついてボロボロになっていて、レースの途中に壊れてしまいそうなものを使っていたりするの。実際壊れてしまって、レースを中断した娘もいたわ。シューズもそう。お姉さんのお下がりだとか、すごい娘だとお母さん、二人のお姉さんとお下がりしてきたものをツギハギだらけで使っている娘もいたりする。もっとまともなものを使えれば、日本のウマ娘に負けない走りを見せてくれるぐらいの素質の娘は、いくらでもいたのにね」
「……そうか」
アイの見てきた【世界】について、俺は一人の人間として、一人のトレーナーとして、何を言えばよかったのだろう。
そんな世界の現状に『やっぱり貧富の差は絶対になくなるべきだ』といい切れるほど俺は幼くもなかったし、『そんな国に生まれたウマ娘はかわいそうだな』と上から目線で言うほど、恥知らずな人間でもなかった。
「それとね。ああいうお店をしながらなら、開発途上国のウマ娘のために私ができることもあるかなって。【もう使わなくなった蹄鉄やシューズ、当店にぜひお持ちください!】ってポップ、お店のあちこちに張ってあったでしょう?」
「ああ。そういや……」
見かけはしたが、一体そんなもの何に使うんだろう?と思ったぐらいで、別段気にもとめていなかったのだが。
「専門店にレース器具を買いに来るようなウマ娘なら、必ずその【お古】を持っているでしょ?日本にいたら当たり前すぎてなかなか気付けないけど、日本産の蹄鉄やシューズってとっても品質が良くて、少しぐらい古くても、なんなら壊れていたりしても、修繕すれば十分に使えるものがたくさんあるのよ。それを集めて、開発途上国のウマ娘たちにネット通販で安く販売しようと思っているの」
「寄付したりはしないのか?」
俺の安直な疑問に、彼女は苦笑を隠せなかったらしい。
「それも考えたんだけど、長く続けようと思ったら寄付って形じゃなかなか厳しくて。修理は私が自分でなんとかするつもりだけど、輸送費とかもバカにならないでしょ?売上は基本的に、輸送費の一部に充てるつもり」
売上の一部を輸送費に充てるのではなく、輸送費の一部に売上を充てるという取り組み方に、俺はアイの本気を感じることができた。
「いいじゃないか。……何か俺に、できることはないか?」
今日、アイに話を聞けて本当に良かった。
大学時代の彼女は俺が想像していたほど、イージーな人生を歩んでいる女子大生ではなかった。
俺と同じように壁にぶち当たっている現実に悩み、人間関係に悩み、恋に悩んでいた一人の女の子だったのだ。
しかし仮にそのことに気づいていたとしても、当時の俺に一体何ができたというだろう?
無力な俺はきっと『アイはあれだけの美人なんだから、俺じゃなくてももっと優秀な誰かが喜んで助けてくれるだろうさ』と決めつけて、傍観者を決め込んでいたに違いない。
トレーナーになることができて、俺はようやくアイに何かをしてあげることができそうだ。
「協力してくれるの?」
「ああ。こういうことに取り組むのなら【ダービートレーナー】という肩書が役に立つこともあるだろう」
「うん、そうね。……本当に、ありがとう」
そう言って彼女は、キャンパスでも見せたことのない、透き通るような綺麗なほほ笑みを浮かべてくれた。
……うん。
アイほどの美女にこんな微笑を見せられたら、男なら誰だってドキッとしてしまうに決まっている。
たとえ、本当に惚れた女性に片思いしている最中だったとしても、だ。
「といっても今はそういうアイデアがあるってだけで、お店でレース用品のユーズドを回収している以外、具体的になにか進展してるわけじゃないから……。プロジェクトを進めていくうちにトレーナーの意見を聞きたいこともあるだろうから、よかったら連絡先交換しておかない?」
「ああ、そうするか」
俺達は初めて大学で出会ったときのように自然にお互いのスマホを取り出し、そしてLANEのIDを交換する。
レース界の厳しさによって断絶された俺達の交流は、レースを通じて再び復活した。
「ごめん。私の長話のせいで、ハンバーグとパスタ、すっかり冷めちゃったわね」
「ああ。でも外食って基本的に味付け濃いから、冷めてもそれなりに美味しく食べられるだろ」
「それもそうね」
二人で苦笑を交換しながら、いつのまにか店員さんが持ってきてくれていた、冷めきった食事にようやく手を付け始めた。
学生時代にも、こんなことがあったような気がする。
今思い出そうとしても、何を話していたのか思い出せないような中身のない会話を、延々と繰り返していたあの頃。
思い出せるのはお互いバカみたいに喋りまくっていたことと、そんなつまらない会話で周りが眉をひそめるぐらいに笑い転げていたこと。
そしてそれが、今思えば眩しいぐらいに楽しかったことぐらいだ。
「ところで……あなた、エイシンフラッシュさんのことが好きなんでしょ」
いきなりのカマ掛けに、俺は思わず咀嚼していたハンバーグを吹き出しそうになってしまった。
「な、なんでそのことを……」
カマ掛けだと分かっていたのだからきっぱり否定すればよかっただけなのに、なぜか俺は本当のことをアイに漏らしてしまった。
昔からどうにもアイの前では、嘘をついたり何かをごまかしたりすることが憚られてしまうのだ。
「なんていうか、買い物してた時のあなたの様子を見てたらなんとなくね。これも女の勘ってヤツかしら?」
なんだ?
マジで女性にはその手の第六感が備わっているのか?
それとも、俺がわかり易すぎるだけなのか?
万が一なにかの拍子に俺の気持ちがバレてしまって、フラッシュに『トレーナーさん。担当の私が好きだなんて、ちょっと気持ち悪すぎます。今すぐ契約解除してもらって構いませんか?』なんて言われた日には、俺はもう二度と立ち直れないかもしれない。
「あ~あ、なんだか残念ねぇ。オトコって結局、若くてキレイでおっぱい大きい娘が好きなのねえ。しかも、その相手が自分の担当しているウマ娘だなんて……。あなたはそんなオトコじゃないって信じてたのに」
「いや、ちょっと待って。たしかにフラッシュはグッドルッキングウマ娘だけど、彼女を好きになったのは決してそれだけが理由じゃなくて……」
俺が慌てて弁明しようとすると、彼女は冗談っぽく舌をペロッと出してウインクした。
「ごめんごめん。少しからかってみただけよ。昔好きだった男がいい女に片思いしていたら、私としてもちょっと面白くないじゃない」
そうだった。
アイは誠実性が高い反面、こうして人をからかって楽しむような一面があった。
その二面性がアイの小悪魔的な側面を引き立たせて、より彼女を魅力的、蠱惑的に魅せていたのだろう。
「まぁ、トレーナーが担当に片思いしてるなんてことが褒められたことじゃないことぐらいは、自覚しているよ」
「確かにフラッシュさんの年齢を考えると、年の差的にはどうなのよ、とは思うけど、お互いを支え合いながら人生を懸けて一つのことに邁進しているんだもの。そういう気持ちを持ってしまうことは、止められないと思うわ」
「アイ……」
そう言ってもらえるだけでも、俺は少し救われるような気がした。
「あっと、勘違いしないで。私はあなたの恋を応援するつもりはないわよ。友人として、理解ぐらいは示してあげるけどね」
それはアイなりの、【これからの俺との付き合い方】宣言だったのだろう。
「それだけで十分だよ。……ありがとう、アイ」
「どういたしまして。あ、そうだ。今日はあなたのおごりなのよね。食後のデザートも頼んでいい?」
「そりゃ構わないけど。摂取カロリーは大丈夫なのか?」
俺の心配に、なぜか彼女は怖い笑みを浮かべる。
「昔から思ってたんだけど。あなたって本当に余計な一言が多いわね。そんなんだから大学時代も女子たちに……」
「え?なに?俺女子たちにどう思われていたの?」
「なんでもないわ。あ、店員さん、すみませ~ん。注文お願いしたいんですけど」
「いや、そんな言われ方したら気になるだろ。頼むから教えてくれよ」
「きっとエイシンフラッシュさんにも、同じことを思われているでしょうね……。あ~あ、なんてかわいそうなトレーナーさん……」
「なんだよ、それ!?頼むから教えてくれ!!」
見掛けだけはそれなりの社会人風になっていた俺達は、この日ばかりはあの大学生の頃に戻って、そんなバカげた話を閉店間際で繰り広げた。
ちなみに大学時代俺が女子たちになんて思われていたか、アイは決して教えてくれなかった。