担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第九話

トレーニングの前はいつも、トレーナー室で今日の体調やトレーニングメニューなどを話し合うためにミーティングを行っている。

といってもそんな長時間行うわけでもなく、たいていは5分10分必要な事項を確認して練習場へ行く、というのがいつものパターンだ。

 

今日もいつもと同じように、短時間の話し合いを終えたあと。

 

「そうだ、フラッシュ。もう使っていないシューズや蹄鉄を持っていないか?」

「え?そうですね、先日トレーナーさんに新しいものを購入していただきましたから、今まで使っていたものならありますが」

 

俺の質問に、フラッシュは怪訝な様子を隠せないまま答えてくれる。

 

「そうか。もし捨てるつもりだったのなら、その前に俺に預けてくれるとありがたいんだが」

「それは別に構いませんが……そんなもの、一体何に使うつもりなのですか?」

「この前外出した時、最後に行ったお店覚えているか?」

「……ええ。トレーナーさんとお知り合いの、非常に美しい女性が店長をされているお店ですよね」

 

俺が確認すると、フラッシュの青い瞳に少しばかりの険が宿った。

どうしたのだろう。

あの店で買い物をした時、なにかカンに障るようなことでもあったのだろうか。

店長のアイも、ウマ娘の店員さんも常識的な接客していたように思うのだが……。

 

それは今度聞くとして、今はとりあえず話を進めよう。

 

「そうそう。実はそこの店長がな、開発途上国の厳しい環境でもレースに情熱を注いでいるウマ娘たちのために、なにかできないかって取り組みをしてて……」

 

俺はアイが進めようとしているプロジェクトについて、簡潔にフラッシュに説明した。

それを聞いた彼女は、なぜか何かを恥じるかのように顔を赤くする。

 

「な、なるほど。それは素晴らしいプロジェクトだと思います。前のシューズも使えないほど傷んでいるわけではありませんし、私のユーズドでよければぜひ役に立ててください」

「そうか。フラッシュならそう言ってくれると思っていたよ」

「では、明日にでも持ってきますね。それにしても、そのプロジェクトは本当によいアイデアですね。プロジェクトに関して、なにか私にできることはありませんか?」

 

笑顔でそう言ってくれるフラッシュの気概は、本当に嬉しかったが……。

 

「その気持ちはありがたいんだけど、実はまだプロジェクトが具体的に動き出しているわけじゃないんだ。今の段階で先走りすぎると、そのせいでプロジェクトが頓挫する危険性すらある。例えばフラッシュ、君のような著名なウマ娘が、中古のシューズや蹄鉄の寄付をSNSとかで呼びかけたとするだろう?」

「私が著名かどうかは議論の余地があるところですが……。ええ、実はトレーナーさんの許可が得られれば、今日早速そうするつもりでいました」

「そうするときっと、全国から山のようにユーズドのシューズや蹄鉄が学園に届くことだろう。行き先も置き場所も決まっていない、善意の山だ。それらを修繕したり、配送の準備や手続きをする人材も集まってない状態でそんなことになると……」

「……管理する場所にも困り、たくさんの人に迷惑をかけてプロジェクトは頓挫。そして送られてきたものは費用をかけて焼却処分、という末路を辿りそうですね……」

 

突っ走った善意で起こり得る事態を説明すると、フラッシュは顎に手を当て困ったような表情を浮かべながらも、コクリと小さく頷いてくれる。

 

自然災害の被災地の例を出すまでもなく、善意で届けられた大量の寄付物資のせいで、却って現場が迷惑を被ったという事態はよくあることだ。

 

「だから今はお店のポップで小さくユーズドを集めて、ホームページに英語や現地の言語だけでユーズド販売予告をしたりして需要の反応を見ているところらしい。評判が良ければそれなりにモノも必要になってくるだろうから、そのときには改めてフラッシュに寄付を募る呼びかけをお願いしたい」

「わかりました。その時はぜひ、私に協力させてくださいね」

 

フラッシュの善意に、俺はすっかり嬉しくなってしまった。

本格的にプロジェクトが動き出した時、ダービーウマ娘が協力・協賛してくれることはきっと大きな力になることだろう。

 

担当ウマ娘の優しさに触れた俺は、いつもより軽い足取りでフラッシュとともに練習場へ向かった。

 

*

 

6月後半に行われる宝塚記念が終わると、すぐに夏合宿がやってくる。

 

夏合宿はクラシック級のウマ娘にとって、競走人生の分岐点になるイベントの一つだ。

 

クラシック級の夏は現役中一番能力が伸びる時期だと言われており、秋の大レースに向けて合宿所でトレーニングざんまいの日々を送ることになる。

 

逆にこの時期に伸びきれなかった娘は、春に活躍していたとしても早熟の娘だったと言われ、少しずつ世間から忘れ去られていく。

 

そんな娘達の中には合宿中に自分の才能に見切りをつけて、トレセン学園を退学してしまう子も少なくない。

 

しかし、幸いにしてダービーウマ娘になったフラッシュはその後の経過も順調で、明らかにこれから先も戦っていける能力を有していた。

 

秋には菊花賞、それが終わればその後はジャパンカップ・有マ記念と、シニア級の歴戦のウマ娘たちとの戦いが控えている。

 

「もちろんそれらのレースに挑戦し、勝利するのが私の目標です。トレーナーさん、少しでも実力を伸ばせるよう、合宿中は厳しいトレーニングをお願いします」

 

フラッシュは合宿に向けて、そんな意気込みを見せてくれる。

トレーナーとして、それは喜ばしいことだったが。

 

「うん、フラッシュのやる気は十分に伝わってきた。でも、水着に着替えてくるのはちょっと気が早すぎないかい?」

 

そう。

フラッシュは一体いつ着替えたのやら、学校指定の競泳水着で俺の前に立っていた。

……抜群のスタイルと水着から伸びる白い太ももが、ちょっとばかり目に毒である。

 

「少しでも有意義に時間を使いたかったものですから。トレーナーさん、ご指示をお願いします」

 

宿場についたらまず荷解きをしたかったのだが、担当にここまでやる気を見せられては仕方ない。

俺は長距離移動の疲れを顔に出さないようにして、トレーニング場所に指定されている浜辺へ向かった。

 

*

 

フラッシュの秋初戦は、神戸新聞杯(阪神・芝2400M)への出走を予定していた。

菊花賞のトライアルレースには中山で行われるセントライト記念もあるが、ダービーを勝ったフラッシュにはこちらのほうがより適性にあっていると考えたからだ。

 

ここをひと叩きし、菊花賞へ向かう。

その後はフラッシュの体調次第だが、ジャパンカップ・有マ記念とシニアの第一線に挑戦するつもりである。

 

今年の初頭、フラッシュが三冠路線へ挑戦することを決めた際、皐月賞・ダービー・菊花賞の中で一番勝利する可能性があると思っていたのは、実はダービーではなく菊花賞だった。

 

フラッシュのお母さんは日本の菊花賞に当たるドイチェスセントレジャー(ドルトムントレース場・芝2800M)を勝っている。

しかもドイツのレース場の芝は日本のものよりかなり重く、走り切るには相応のスタミナが要求される。

 

フラッシュの実績は今のところ中距離に集中しているが、血統的には長距離を得意とするステイヤーなのだ。

 

俺はゴリゴリの血統論者、というわけではないが、ウマ娘も生物である以上、ある程度は親の遺伝子を引き継ぐものだという考え方を持っていた。

 

ひょっとしたらフラッシュは中距離もこなすステイヤーウマ娘、という可能性がある。

 

フラッシュは【史上最高レベルのダービー】とまで言われた激戦を制覇したウマ娘だ。

今年の秋には菊花賞と有馬記念という長距離レースのG1が、そして来年シニアの春には大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念という中長距離の大レースが控えている。

 

フラッシュのこれからの成長次第では、これらのレースをいくつも制する歴史的ウマ娘になる可能性すら秘めているのだ。

 

彼女はきっとこれから、いくつもの栄光を掴み取るウマ娘になる。

 

そんなウマ娘の素質を活かすも殺すも、俺の組み立てるトレーニングメニューやメンタルケア次第なのだ。

 

その責任の重さと同時に、俺は今まで体感したことのない気持ちの高ぶりを感じていた。

 

*

 

真夏の太陽光が、まるで俺達を蒸し焼きにせんとばかりに燦々と容赦なく降り注いでくる。

 

そういや昔、サンサンっていう凱旋門賞ウマ娘がいたっけなあ。

 

いや、こんなことでも考えて猛暑日の気温と紫外線から意識をそらさないと、汗だくのこの体が酷暑に負けてしまいそうなのである。

 

「こらー、フラッシュ!スピード落ちてるぞ!気合い入れ直せ!」

 

俺は自分の身長の2倍以上、体重の3倍はあろう巨大なタイヤの上から、これを腰に縛り付けた縄2本で引っ張っているエイシンフラッシュに檄を飛ばす。

 

「すみません!」

 

フラッシュはそう言って脚に力を入れ直したようだったが、正直、スピードはほとんど変わっていない。

 

しかし、実のところこれでいいのだ。

声を張り上げた俺も、彼女を怒鳴りつけたぐらいでスピードアップしないことぐらい承知している。

 

これは要するに、限界を迎えたところから自分の力を維持する、一種のメンタルトレーニングなのだから。

 

学生時代の研修でこのトレーニングを最初に見た時、『これって単なるトレーナーのサディズム的趣味なのでは?』とうがった見方をしたものだ。

だが、このタイヤ引きをゴールまでやりきれるウマ娘とギブアップしてしまうウマ娘では、最後の直線での競り合いの勝率や距離の克服率がデータ的にかなり違ってくることが分かっている。

 

炎天下のもとでこれだけの大きさのタイヤを引っ張るトレーニングは、人間離れした力を持つウマ娘にとっても辛いものであるが、彼女たちの成長を望むのであればどうしても避けることのできないものなのだ。

 

それに、実をいうと座って檄を飛ばすだけのトレーナーも、決して楽じゃない。

 

真夏の太陽に焼かれたクッソ熱いタイヤの上に座るのは、あまり楽しい作業ではなかった。

 

それに、時間帯によっては大きなタイヤの影がウマ娘をかばってくれるが、その上にいるトレーナーは年中無休で真夏の直射日光にさらされることになる。

 

しかし、担当の根性を鍛えるトレーニングでトレーナーが弱音を吐くわけにもいくまい。

それに一番しんどいのは、この地獄のような重さのタイヤを引っ張っているフラッシュなのだから。

 

「あと10M!エイシンフラッシュ、根性見せろ!!」

「はいっ!」

 

必要なこととはいえ、自分の愛バに厳しい言葉を叩きつけるのも俺にとっては愉快なものではなかったが、それでも俺は『これもフラッシュのためなんだ』と自分に言い聞かせて、彼女に最後の発破を掛けた。

 

*

 

合宿場裏の、海が一望できる普段あまり人が来ないような場所に、その小さな石碑はある。

俺を含めた何人かのトレーナー、そしてウマ娘がこの石碑に手を合わせていた。

 

【太平洋戦争戦没ウマ娘慰霊碑】

 

早朝の朝日に照らされている石碑には、そう刻まれていた。

こういった慰霊碑は全国各地に点在し、あまり知られていないが、トレセン学園にももちろん建設されている。

 

今日は、8月15日。

太平洋戦争の、終戦記念日だ。

 

先の大戦では、信じられないほどの人数のウマ娘たちが犠牲になった。

普通の男性より力持ちで脚の速い彼女たちは、まさしく一騎当千の兵士であり、優秀な通信兵であり、一人で何人もの負傷兵を運べる心強い衛生兵だったのだ。

 

そんな彼女たちは個人の事情などお構いなしに、絶望的な戦場へ次々と送り込まれていった。

 

シニア3年目の20歳になってようやく迎えた最盛期に徴兵を受け、戦死した晩成のウマ娘がいた。

引退直前に招集を受け、ラストランをファンに披露することもなく、戦火に散ったウマ娘もいた。

 

……トレーナーとの婚約後、二人して戦場に送られ、あの世で結ばれたウマ娘も。

 

そんな悲劇に見舞われていたのは、日本だけではあるまい。

 

あの戦争もすでに80年ほど前の話になり、どんどん【過去の歴史】になりつつある。

 

しかし、今のレース界の隆盛はそんな人達の犠牲の上に立っていることを、俺は忘れてはいけないと強く思っている。

 

だから俺はレースとウマ娘と平和を愛する一人の人間として、終戦記念日にはこうして慰霊碑に手を合わせることにしていた。

 

いつまでも平和で、今のようにウマ娘たちがレースに心血を注げるような、そんな世の中であってほしいと心から思う。

 

ガラにもなくそんなことを考えながらスマートウォッチで時間を確認すると、待ち合わせ時間の3分前になっていた。

 

っと。

もうこんな時間か。

 

さて。

平和な日々に感謝しつつ、今日もしっかりフラッシュをハードトレーニングで鍛え上げるとしますか。

 

俺はときおりやってくる参列者たちに会釈しながら、フラッシュと待ち合わせている合宿所の玄関前に急ぐ。

 

しかし5分前行動をポリシーにしているフラッシュは、体操服に着替えてすでに玄関前で俺を待ってくれていた。

 

「おはよう。ごめん、フラッシュ。ちょっと遅れたね」

「おはようございます。いえ、厳密にはまだ6時1分前ですからトレーナーさんは遅刻なさったわけではありませんが……。合宿所の裏手からやってこられるのは、珍しいですね」

「ああ。今日は終戦記念日だからね。平和を祈って、裏手にあるウマ娘の慰霊碑に手を合わせていたんだ」

「……?……そうなんですね」

 

俺の行動に、フラッシュはあまりピンときていないようだった。

 

まぁ、高等部の娘に先の戦争について思いを馳せろ、というのも無理があるよなぁ……と思う反面、終戦記念日ぐらいは意識しておいてほしいとも思ってしまった。

 

といっても俺が戦争中のウマ娘の悲劇を知ったのは大学の講義での話だし、じゃあ俺自身、高校生の時そんなことを意識していたかと言われれば明確にノーである。

そのことを考えると、フラッシュのことを責めれたものでもないのだが……。

 

「あ、そうか。ドイツだと終戦記念日がまた違うのか」

「……そうですね」

 

俺のよけいな一言に、フラッシュは難しい感情を含んだ微笑を浮かべた。

 

……っ、しまった。

これは俺の気配りが足りなかった。

ドイツの第二次世界大戦の記憶は、日本以上に難しいものがあるようだ。

 

フラッシュと契約した直後、一緒に食事へ行った際にこんなことがあった。

 

彼女はお店で店員さんを呼ぶ時、人差し指を天井に差し向けるように腕を上げるジェスチャーを取る。

不思議に思った俺はなにげなしにその理由をフラッシュに聞いたのだが、日本だと普通に行われている指をすべて伸ばした形の手を天井に上げて店員さんを呼ぶあの仕草は、ドイツでは特定の政党や人物への忠誠を想起させるが故に禁忌なのだそうだ。

 

自分のジェスチャーが変に目立ってしまうのはわかっているが、この習慣を日本のものに変えるのは少し難しいのですよ、と苦笑交じりに教えてくれたのを俺は思い出していた。

 

「申し訳ない、俺の配慮が足りなかった」

 

俺は自分の軽率さを自省し、フラッシュに謝罪した。

黙って何事もなかったかのようにやり過ごそうかとも思ったが、それは俺の良心が許さなかった。

 

「いえ……」

 

フラッシュは苦笑しながら首を小さく横に振ってくれたが、なんとなく空気が重い。

 

これは完全に俺が悪かったな……。

 

もっとフラッシュの育ってきた環境について勉強して、彼女を理解するようにしなければいけない、と猛省する。

 

少し気まずい雰囲気の中、俺たちはいつもの浜辺に向かった。

 

*

 

そんな事件はあったが、トレーニングの方は順風満帆だった。

 

フラッシュは日々の厳しいトレーニングに音を上げることもなく、確実に力をつけている。

 

「ふぅっ……」

「お疲れ。遠泳もだいぶ慣れてみたいだね」

 

俺は海から上がってきたフラッシュに、バスタオルを手渡した。

 

「はい。もともと泳ぐのは得意ですからね」

 

つやのある黒髪を丁寧にふきながら笑顔で答えてくれるフラッシュの息は、合宿序盤のものよりかなり穏やかだった。

そのことは確実に、スタミナがついてきていることを意味していた。

 

基本的に、ウマ娘は生まれつき泳ぐことが得意だ。

理由は諸説あるが、圧倒的な腕力や走力を生み出す筋骨のわりに、それらが軽いことが泳ぎが得意な要因だといわれている。

 

もちろん例外ってのはどこにでもいて、現役だとヒシミラクルなんかは泳ぐのがとても苦手なことで有名だった。

 

今年の夏もヒシミラクルのトレーナーは集めた空き缶で大きな音を立てながら彼女を必死に海に追い立て、なんとか遠泳のトレーニングさせていたようだ。

 

ヒシミトレさんもこのあたりは複雑な心境であるはずで、できることなら無理に泳がせるようなことはしたくない、というのが本心だとは思う。

 

しかしステイヤーであるヒシミラクルのことを考えると、どうしても遠泳というスタミナトレーニングは外せないという切実な事情もある。

 

ウマ娘も人間であるから、トレーニング内容の好き嫌いや得意不得意があるのはある程度は仕方ない。

その点フラッシュは少なくともそれらを表に出すようなことはしなかったし、指示したトレーニングは的確に、確実にこなしてくれていた。

 

そしてその努力は、確実に実を結びつつあった。

 

「でも、こうして海で泳ぐのも今日が最後になりますね」

 

二ヶ月に及んだ今年の合宿生活も、今日がトレーニング納めの日だった。

 

「そうだね。成長の手応えはどうだい?」

「はい。少々厳しい合宿ではありましたが……その分心身ともに、しっかりと鍛え上げられたという実感があります」

 

そう言ってくれるフラッシュに、俺は胸をなでおろす。

今回の合宿は、クラシック期のウマ娘にとってかなりきつめのトレーニングメニューを組んでいたからだ。

 

毎日のトレーニング強度を高めに設定したのはもちろんのこと、他の娘たちが月に一度は海に遊びに行って息抜きしている中、フラッシュにはレースの座学をしながら体を休めるように指示した。

 

正直、体力的にも精神的にもギリギリの合宿だったと思う。

当然、できる限りのリスクマネージメントはしたつもりだ。

それでも合宿中に倒れてしまい、望まぬ休養を強いられて残りの日々をトレーニングに勤しむ他のウマ娘を眺めながら過ごさねばならないという可能性も、決してゼロではないようなトレーニングメニューだったのだ。

 

しかしフラッシュの成長を限界まで引き出すには、どうしても必要なトレーニングだった。

 

それでもフラッシュは、文句一つ言わず俺についてきてくれた。

 

「ありがとう、フラッシュ」

 

俺はフラッシュに対して湧いてきた尊敬と感謝に、自然と言葉が口をつき、丁寧にこうべを垂れていた。

 

「?あ、いえ。どういたしまして」

 

何に対しての礼だったか、フラッシュにははっきり伝わらなかったらしく、ちょっと困惑したような返事をよこしてくれる。

 

こうして、俺達の夏合宿は終わった。

 

*

 

秋風が吹く阪神レース場。

 

本日のメインレース、GⅡ・神戸新聞杯のパドックは、GⅠのときにも劣らない熱気に包まれていた。

そのパドックにひときわ毛艶の良いグッドルッキングウマ娘が姿を表すと、観客たちの熱気は最高潮に達する。

 

「さすがダービーウマ娘、貫禄が違うよ」

「夏を超えて、さらに良くなった感じがするな」

「今日のレースはもちろんのこと、菊花賞もこの娘で決まりかな」

 

ダービーウマ娘・エイシンフラッシュが約三ヶ月ぶりに、レース場へ戻ってきた。

戦場へ帰還した英雄を目の当たりにした人々は、彼女の偉容を見て口々に褒め称え、そして惜しみない拍手を送る。

 

フラッシュへの期待は数字にも現れていた。

その単勝支持率、なんと35%。

もしこれが競輪やオートレースというギャンブルであったなら、単勝1.9倍しかつかない一本かぶりの大本命である。

 

観客に頭を垂れ、それから堂々と胸を張って絶好調をアピールするフラッシュからは、ダービーウマ娘のプライドを感じさせた。

 

実際、フラッシュのデキはトレーナーの俺から見ても完璧で、今日の彼女を負かすのは至難の業だろう。

 

一番気をつけるべきは今日の二番人気でダービー二着のローズキングダムなのだろうが、正直、今のフラッシュの相手じゃない。

 

今日は割と気楽に見てられるな……。

 

そんなことを考えながら、俺はトレーナー待機所へ向かうことにした。

 

*

 

ゲート入りに難を示していたのは、夏場はプレオープンを戦っていた娘だった。

 

春のクラシックに間には合わなかったものの、夏に力をつけ、今日の大舞台に駒を進めてきたのだろう。

 

彼女はきっと、この重賞独特の雰囲気に戸惑っているのだと思われる。

 

対照的にダービーウマ娘・エイシンフラッシュとその二着に来たローズキングダムは、落ち着き払って自分のゲート入りの順番を待っていた。

 

全員、枠入りが完了。

 

ゲートが開く音が、初秋の阪神競馬場に響き渡ってレースがスタートした。

 

若干ばらついたスタートになったが、内と外から二人の娘がバ群から抜け出してレースを作りにいく。

 

フラッシュはその娘たちに無理についていくようなことはせず、内で様子をうかがっているようだ。

対抗ウマ娘のローズキングはもう少し前の位置でレースを運びたいらしく、わずかに脚を使って先行集団に取り付いた。

 

序盤のポジション争いが一段落し、フラッシュはいつもどおり中団の6・7番手に控えた。

 

ローズキングダムは、現在フラッシュより少し前の4・5番手でレースを進めている。

本バ場に出てきた彼女を見て驚いたのが、春先に比べて一回り大きく成長していたそのバ体だった。

ダービー時は少し華奢な印象があったローズキングダムだったが、フラッシュ同様彼女も夏に厳しいトレーニングに耐えてきたのだろう。

 

まるで筋肉の鎧を着込んだようなローズキングダムからは、もはやそんなイメージは一切感じられなかった。

 

その彼女をぴったりマークするかのように、フラッシュは順位を上げてローズキングダムの少し後ろにつけている。

 

レースは淡々としたペースで進んでいたが、先頭の娘が第3コーナーに差し掛かった時点で流れが変わり始めた。

 

先行集団の娘たちがペースを上げ始め、後ろにいた娘も少しずつ順位を上げ始める。

 

フラッシュはローズキングダムと並ぶような位置にいるが、まだ脚は持ったままだ。

 

まだ、フラッシュは動かない。

内からはローズキングダムが、少しずつ動き始めた。

 

残り、600M!

 

先頭の娘が第4コーナーをカーブしたが、その先頭は変わらず今までレースを引っ張ってきた娘で、そのまま逃げ切りを図るつもりだろう。

そうはさせじと、先行集団が彼女に襲いかかってゆく。

 

さぁ、最後の直線勝負!

 

9番の娘が先頭だが、フラッシュはどこだ。

まだ、5番手ぐらいの位置取りか。

 

9番の娘が逃げ粘る。

1番の娘もやってきている。

 

しかし、飛び抜けた末脚でバ群を割って出てくるウマ娘が、二人。

 

ローズキングダムとエイシンフラッシュだった。

 

やはり最後は、ダービー1・2着ウマ娘の闘いになるか。

 

先に抜け出して先頭に立ったのはローズキングダムで、フラッシュが懸命に追いすがる。

 

3番手の位置でがんばっていた1番の娘も必死に前を追いかけるが、ダービー連対者の二人はまるで格の違いを見せつけるかのように、後続を三バ身、四バ身と引き離してゆく。

 

残り100M。

 

ローズキングダム。

エイシンフラッシュ。

 

優勝争いは、完全に前の二人に絞られた。

 

ローズキングダムが、粘り込みを図る。

しかしフラッシュもダービーウマ娘のプライドに懸けて、負けられない。

 

じりじりと、しかし確実にローズキングダムを追い詰めてゆく。

 

「うぉおぉぉおおぉっ!今日はっ!ぜっっったい!負けないっ!!」

 

ローズキングダムがレース場全体に響き渡るような雄叫びを上げ、まるで鬼神のような形相で隣を走るフラッシュを睨みつける。

 

フラッシュも、その迫力に負けじと歯を食いしばって仇敵を鋭い眼光で睨み返したが……。

 

体一つ分、気迫で先にゴールを奪い取ったのは、逆襲の最優秀ジュニアウマ娘の方だった。

 

「いよっしゃああぁあぁっ!!あたしの、勝ちだぁっ!」

 

1着でゴールしたローズキングダムは、何度も何度も拳を振り上げ、勝利の喜びを爆発させる。

その喜びようは、初GⅠ勝利の朝日杯フューチュリティステークスよりの比ではなかった。

 

彼女ももちろんレースの格を軽んじているわけではないだろうが、それより自分がライバルと認めたウマ娘を打ち負かすことに高い価値を置くタイプの競技者なのだろう。

 

勝者が見せる純一無雑な歓喜と派手なパフォーマンスに、大観衆もそれに応えて彼女がGⅠを勝ったときよりも、さらに大きな拍手と大喝采を送った。

 

ローズキングダムのファンたちは、彼女の一本気で負けず嫌いな性格をよく知っているのだ。

 

二着でゴールしたフラッシュは立ち止まって息を整えながら、その様子を無感動な瞳でいつまでも眺めていた。

 

*

 

「トレーナーさん、申し訳ありません。トレーナーさんのみならず、たくさんの方の期待を裏切ってしまって……今日のレースは、はっきり力負けでした」

 

ウイニングライブのお色直しのために控室に戻ってきたフラッシュは、自分を責めるかのような強い口調で俺に謝罪した。

 

「いや、フラッシュは最高のレースをしてくれたよ。今日はローズキングダムが強かった。今日のところは素直に彼女の勝利を讃えよう」

「……そうですね。今日のローズキングダムさんは気魄に満ちた、本当に素晴らしいレースをなさったと思います」

 

相手の敢闘を称えつつも、フラッシュはその美しい細面をわずかに屈辱に歪めていた。

だいたい、素直に心から自分を負かした相手を褒め称えられるような性格の娘は、トゥインクルに挑戦しようとすら思わないものだ。

 

トゥインクルシリーズの、特にトップクラスで戦っているウマ娘たちは程度の違いはあれど『自分が一番強い』という矜持を持ってレースに挑んでいる。

 

フラッシュは感情からくる行動をコントロールできるタイプなので、はっきりと態度に出すような真似はしなかったが……。

 

ダービーを制して世代の頂点に立ったフラッシュは人一倍その気持ちが強いはずで、今日の敗戦は彼女のプライドを大きく傷つけたに違いない。

 

そして、レースで傷つけられたプライドは、レースに勝利することでしか癒せない。

 

「フラッシュ。負け惜しみを言うつもりはないが、今日のレースはあくまで前哨戦だ。今日の借りは【最も強いウマ娘が勝つ】菊花賞で、たっぷり利息をつけてお返ししよう」

「もちろんそのつもりです。そのためにも、もっともっと自分を追い込まねば……」

 

そう言ってフラッシュは、胸の前で震えるほどきつく右手の拳を握りしめた。

 

いつもなら『オーバーワークも程々にね』となど言ってたしなめるのだが、強い決意を見せるフラッシュに、そんな水を差す気になれなかった。

 

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