現代ダンジョンに入れない一般人は好きにアイテムを買い漁って楽しみたい 作:現段出禁
ランニングでも始めてみるか。ふと、江沼はそんなことを思いついた。
ポーションを飲み始めてから一週間。歴史的な早寝早起き記録は相変わらず続いていて、途切れる気配すらない。自然、朝起床してから通勤するまでの間に、手持ち無沙汰な空白の時間が生まれていた。
江沼は普段、ほとんど運動はしない。平日は仕事があるし、退社後となると元気も時間もそれほど残っていない。その点、早朝ランニングは良い考えに思えた。朝ならば身体は疲れていないし、空いた時間の有効活用になる。どのみち、何かしら運動はした方が良いのだ。最近返ってきた健康診断の数値は、運動不足気味な生活習慣を如実に反映していたのだから。
そうと決まれば、江沼の行動は早かった。早速その日の仕事帰りにジャージとランニングシューズを購入し、翌朝には身に付けていた。
「まずは入念にストレッチから、だったな」
昨夜見たランニング初心者向けのサイトを思い出しながら、ゆっくりと身体の各部を伸ばしていく。想像以上に強張っていた運動不足の身体に、思わず苦笑が漏れる。いきなり張り切って走りだしたりしなくて良かった。せっかく運動をしても、怪我をしてしまっては元も子もない。
「今日は無理せず、ウォーキング中心にしておこうか」
何でも、初心者はウォーキングに少しずつジョギングを混ぜていくのがいいらしい。単純にいきなり長時間走るのは体力的にきついし、膝や腰を痛めるリスクもある。少しずつ走ることに身体を慣らし、無理せず続けていくことが重要なのだそうだ。
近場のランニングコースには、早朝にもかかわらず既に何人かの人影が見えた。信じがたいことに、世の中にはポーションなど無くとも早起きが苦でない種類の人間が少なからずいるらしい。
「よし、そろそろ俺も始めるか」
歩き、時々思い出したようにジョギングを始める。すぐに息が上がり始め、緩やかに速度を落としてウォーキングに移行する。それだけの、およそ運動とも呼べないような軽い動作を繰り返していく。体力のない自身の身体はもどかしいが、不思議と苛立ちは感じない。それは、早朝の澄んだ空気が心地良いからかもしれないし、日が昇りきる前の薄明るい空の色のおかげかもしれない。あるいは、錆び付いたネジが外れるように、徐々に調子を取り戻している実感があるからなのか。
「なんか、段々息が上がらなくなってきたかも」
少しずつジョギングの時間が長くなる。心なしか体が軽い。苦しさが薄れ、景色を眺める余裕も出てくる。朝焼けに照らされた街。本格的に人々が動き出す直前の、この独特の雰囲気。悪くない。いいじゃないか、早朝ランニング。
「これもポーションのおかげ、かな」
たとえ、公式にはそんな効能は一切認められていないとしても。
走りながら、江沼はポーションについて調べたことを思い返していた。ダンジョンオークションに出品されているポーションには、早寝早起きの効能も含め、あらゆる効果・効能が認められていない。それどころか、飲食品ですらない『観賞品』という扱いをされてしまっている。
といっても、別にポーションに有害な物質が含まれているとか、そういう話ではない。構成成分的には一般的な健康ドリンクと大差はなく、飲んでしまっても健康を害するなんてこともない。むしろ、当初は特定保健用食品――いわゆる『トクホ』として大々的に売り出す計画すらあったらしい。しかし、その計画は中断を余儀なくされた。ポーションには有害な成分は入っていなかったが、同時に健康に役立つ効果の方も確認されなかったのだそうだ。まさに、『毒にも薬にもならない』という奴である。
「俺にはこんなに効いてるのに、不思議なもんだな」
いまいち腑には落ちないが、こういう事は無いでも無い。効果に個人差が生じることは珍しくないし、単に『プラセボ効果』が効いている可能性もある。プラセボ効果とは、思い込みによって効果が表れてしまう現象の事だ。これによって、何の薬理作用も起こさないはずの偽薬を飲んだだけなのに、難病が治ってしまうことすらある。それほど、人間の思い込みの力は大きいわけだ。だからこそ、思い込み抜きでも本当に効果のある物なのかどうか、を客観的・科学的に検証することが重要になってくる。
ポーションについては、まさにそういった検証――二重盲検試験とか、ランダム化比較試験とか――がしっかりと行われたらしい。特定保健用食品は認定の基準が厳しく、健康に役立つ有効性を科学的に証明し、国の審査で認められなければならない。そのためには、厳密な検証が必要だったというわけだ。しかし、ポーションの有効性を証明するために行った検証は、皮肉にもポーションが何の効果も持たないことを証明してしまっていた。
その検証の結果を受け、ポーションをどういう扱いにするのか、という点はかなり揉めたらしい。当初はトクホの代わりに栄養機能食品は機能性表示食品として販売する案もあったようだ。似たようなものに思われがちだが、特定保健用食品とそれ以外の栄養機能食品や機能性表示食品では認定基準などに明確な違いがある。だからそちらならどうか、という話になるのは自然な流れだろう。
実際に内部でどんな話し合いがあったのかはわからない。しかし、議論が揉めに揉めた結果、最終的にいっそ普通の嗜好飲料ですらない『観賞品』という扱いにしてしまおう、という結論になってしまった。断片的な情報を繋ぎ合わせると、どうもそんな経緯のようだった。
「議論は踊るって奴かね。まあ、おかげで簡単に買えそうだからいいけど」
何の効能も無いことが確認されていて、飲料扱いすらされていないポーションをわざわざ買うようなモノ好きはそうはいない。江沼がポーションに入札した後、他に入札する人がいなかったのも、その辺の事情を知れば何の不思議もない話だった。
だから言って、江沼にはポーションの摂取をやめる考えはない。有害な成分はないとのことだし、たとえ思い込みの効果だとしても、早起きも続けられているのだから。
「……でも、次はもう少し安い金額で入札しよう」
人知れず、そっとそう決意する江沼であった。
□
数日後、江沼の家には見覚えのあるデザインの段ボール箱が届いていた。
「おっ、来た来た」
前回より数割安い値段で落札できたポーション1ダース。もはや見慣れた箱を開けながら、いそいそと中身を確認する。
「よしよし、ちゃんと12本入ってるな。ビンが割れたりもしていないようだし……ん?」
ポーションを1本1本眺めて確認してく途中、江沼の目の端に何か違和感のあるものが映った。箱の底、ポーションのビンとビンのあいだの隙間。本来何もないはずのそこに、何か青っぽいものがある。
邪魔な近くのポーションのビンを抜き取って、もっとよく見てみる。なんか、冷んやりしてそう。江沼は一目見て、真っ先にそう思った。青みがかった半透明の、弾力のありそうなぶよぶよとした謎の物質。ジェル、ゼリー、あるいは――。
「……もしかして、スライム?」
江沼がつぶやくと、謎物質がぶるぶるっと震えるように動いた。