蝉が遠くで鳴いている。
窓から見える景色は、ずっと先へ続く海と、無機質な軍港だ。
太陽は柔らかい橙色に変わり、少しずつ海の向こうへと沈もうとしていた。
執務室からぼうっと外を眺めていた俺の背後から、微かに扉を叩く音がした。
消え入るような、か細いこの音を出すのは、一人しかいない。
あわよくば気づかれないまま、とっとと自室へ戻ろうとする俺の秘書艦だ。
窓の外を見たまま、入るように命じる。
小さく扉が開く金属音が鳴り、そっと人の気配が流れ込んできた。
「作戦が完了した…です」
特型駆逐艦三番艦・初雪。
相変わらず、面倒そうで気だるそうな表情だ。
今日は特に暑かったから、三割増しでだるそうにしている。
しかし目立った外傷もないようで何よりだ。
初雪は俺と目を合わせることなく、ぼつぼつと完了した作戦内容を報告している。
俺たちがこの鎮守府に着任して、既に半年以上が経過していた。
だが初雪はこの秘書艦の仕事が未だに苦手なようで、
指折り数えて報告内容に忘れているものがないか、確認しながら話す。
「…以上、です。………帰ります」
「ん、了解した」
念仏のような報告を言い終えて、やっと初雪の表情も和らいだ。
ふぅっと息を吐き出し、手首の力が入っていない彼女らしい敬礼をする。
踵を返す彼女の後ろ髪に、ふと目についたものがあった。
長く整然と揃った黒髪に若干焦げがある。
俺は初雪の綺麗な黒髪が好きだった。
まさか戦闘で火の粉でも被ってしまったのかと、慌てて歩み寄り、髪を撫でた。
「…いやだ、触らないで…!!」
突然触れた俺の手から、初雪は逃げるようにしゃがむ。
俺の手には、彼女の髪から落ちた黒っぽいゴミだけが残った。
「悪い、なんかゴミだったみたいだ」
いつも眠たそうな目が、一瞬だけ大きく開いて泳いだ。
気まずそうに目を伏せたまま、初雪が立ち上がる。
(彼女と俺は、変わらないくらいの背丈だ)
白くふっくらした頬に、長い髪がかかった。
俺が触れた髪を、彼女も触る。
髪を指先でいじりながら、伏し目がちのまま小さくお辞儀した。
そしてそのまま執務室を出ていってしまった。
ゴミをとってくれてありがとう、なのか。
拒絶してごめん、なのか。
はたまた違う意味のあるものなのか。
そのお辞儀の意味は、はっきりとは分かりかねた。
「もう半年以上、一緒にいるのにな…」
初雪が今の今まで立っていた場所を、じっと見つめた。
「いや、本当はもっとずっとずっと一緒だったのにな…」
俺と目を合わせるのも、俺が触れることも嫌がる初雪。
何を恐れるのか。
俺を“知らない人”だと恐れているのだろうか。
*******************
どうしようもない気持ちで、俺も執務室を出た。
初雪の居場所は検討がつくが、まさか追いかけたりしない。
一人で港まで下りていって、波を眺めていた。
この時間は入渠やら夕食やらで、港あたりに誰もいない。
行き場のない怒りや寂しさのようなこの気持ちを抱えて、
うだうだするのに最適な場所だと思う。
先ほど執務室から眺めていた時は鳴いていた蝉も、
いつのまにか黙っていた。
夕日もそろそろ、水平線に触れそうになっている。
港も俺も、空も海も、赤色と灰色と黒色だけになった。
今の俺の気持ちに似ている色だなんて感傷に浸っていると、
急に青色が目に飛び込んだ。
「浸っているの?」
背中を丸めて座っている俺の横に、
アイロンがけでもされたかのようにピンと立つのは正規空母・加賀だ。
冷静かつ的確に、俺の状況を確認してくる。
「浸ってるんだよ、ほっとけよ」
体育座りでさらに背中を丸めて、俺は加賀に背を向ける。
「拗ねているの?子供ね」
「子供だよ。俺は中学生だよ」
「でも提督だわ」
俺は顔を伏せていたが、加賀が俺の前へ移動してきたことは分かる。
俺より背の高い加賀の影に、すっぽり入ってしまって辺りが真っ暗になったのだ。
きっと鋭く刺すような目で俺を見ているに違いない。
加賀は何でもかんでも冷たいから嫌いだ。
声も言葉も、態度も視線も。
そうだ。
『あの日』だって加賀は、とんでもなく冷たかった。
憎らしいほど冷たかった。
**************
『あの日』。
俺たちがここへ来ることになった日だ。
俺はいつも通りの学徒動員の帰りだった。
深海棲艦とかいう訳の分からないものと戦争をしていて、大人の数が減っていた。
俺みたいな学生も労働力として駆り出され、もはや学校でお勉強などしていない。
父が海軍兵学校を出て、連合艦隊で戦っている。
憧れだったし、俺自身も同じ道を歩むものだと信じていた。
せっかく中学生になれたのに勉強出来ない、
なんて悔しがっていた時期もあったが、
これだけの国難ともなれば諦めるしかない。
俺と同じくらいの中学生が運転する電車に乗って、家へ帰っていた。
(電車の運転だって子供がやるほど、人手が不足しているのだ)
大人が減って荒れ始めていた街を眺めていたら、
見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「おい、今帰りか!?」
電車から飛び降りる。
突然降ってきた俺に驚いて、その子はビクリと大きく揺れた。
「あぶな…っ…。やめてよ、お兄ちゃん」
―――俺の妹だ。
「下手くそでちんたら走っているから、飛び降りたって怪我しないさ」
俺を心配する可愛い妹の頭をグリグリと撫でてやる。
今の栄養不足になりがちな食生活なのに、妹の髪はとてもきれいだ。
栄養素は全部髪の毛にいっているのかもしれない。
母に毎朝整えてもらう長い髪は、
撫でると上質の絹のようにさらさらとしていた。
「もう、さわらないでよ…」
そう言う割には、口角が上がっている妹。
たった一つしか年齢が変わらない俺たちは、
兄妹であり幼馴染の親友のようでもあった。
それは俺が中等学校、妹が高等女学校に行っても変わらない関係だ。
「おまえも動員の帰りか」
「うん…。工場で縫い物…してきた」
「女らしいなあ」
俺たち男子は、製鋼所に行っていた。
妹の手を見るとどうにも針で刺したような跡もある。
女らしいと褒めたものの、まだまだ未熟なようだ。
「こんなんじゃ、嫁に行けないぞ。…俺が養うしかないか」
「…………ばか」
妹は引っ込み思案で、こうやって俺と話していても声さえ小さくて、
俺にとってずっと守りたくなる存在だった。
そんな俺に妹も懐いていて、どこでも俺についてきてそのまま後ろで隠れている。
今だってこうやって並んで歩けば、俺のやや後方を歩く。
肩の後ろに妹の肩が時々触れる。
実際の背の高さはほとんど変わらないが、うつむきがちな妹は俺より小さく感じた。
「おい!何だあれ!?」
妹と歩いていると、前方から見たこともないものが飛んできていた。
背中が緑色に発光しているカラス…?
違う。もっと異質なものだ。
ギラリと光った頭部から、禍々しい大きな歯が見えた。
歯があるのに、機械のようで、しかし飛行機などとは全く違う。
「逃げるぞ!」
目はないようだが、視線が合ったような気がしたので妹を引っ張って逃げた。
火の粉などがかからないように、風向きと逆方向へ来た道を走った。
俺たちよりもずっと後方で、爆音が響く。
あれはきっと深海棲艦の飛行機なんだろう。
どこかでも空襲があったと聞く。
ついに俺たちの町にも空襲がきたのだ。
家には戻れなかったが、幸いに近くの防空壕へ逃げられた。
周囲は燃えてしまっているようで、防空壕内へも熱気が風で運ばれてくる。
年寄りと女子供ばかりの防空壕の中で、俺は妹を包むように抱いて外を睨んだ。
誰も守ってくれないのだから、俺が妹を守らなければならない。
+++++
空襲そのものは長くなかった。
しかし家々が燃え広がって、防空壕を出ると焼け野が原になっていた。
「お兄ちゃん、もうやだ…帰りたい…」
妹が俺の服の裾をつかむ。
その白い手が震えていた。
「お母ちゃんが家にいるはずだよな。早く帰ろう…」
震えが止まるように手を強く握って、妹と家へ走った。
しかし走っても走っても、家なんてほとんどない。
木造住宅ばかりだから燃えてしまっている。
俺たちの家も、どこにあるのかさえ分からなくなっていた。
どこまで歩いたのかもよく分からず、俺と妹は疲れて立ち尽くす。
外は明るいが、これは炎のせいだ。
本当はもう夜になっているはずだ。
「…帰りたい……」
か細い妹の声は、本当は叫んでいたんだと思う。
「戻ろう。お母ちゃんもどこかの防空壕に逃げたかも知れない」
重たすぎる足を、なるべく元気に見せかけて歩いた。
妹の足取りは重い。
声には出さないが、一足ごとにぽつりと涙が零れていた。
隠れていた防空壕へやっと戻って来た時には、すっかり夜らしくなっていた。
この防空壕は小さな山をくり抜いたような横穴だ。
奥が広くて、柱もあるし、作りがしっかりとしている。
だから多くの人がここに避難していると思ったのだが、
何故だかしんとしている。
誰もいないのだろうか。
だが妹は疲れ果てている。
ここで問題ないはずだ。
「今日はここで寝よう」
「ん…」
ぽっかりと空いた横穴は、奥が見えず闇そのものに見えた。
だが妹も恐怖より眠気が勝ったんだろう。
嫌がるかと思ったが、すんなりうなずいてくれた。
二人で支えあうように横穴へ近づく。
すると突然。
「待っていました」
そこで冷たい声に、歓迎された。
思わず妹と二人でびくついてしまったが、現れたのは二人の女性だった。
俺たちよりは大人に見えるが、こうも暗いとよく分からない。
分かるのは、弓道着のような服を着ている赤色と青色の二人組だということだ。
「急にごめんなさい。でも、聞いてほしいの」
赤色の服の女性は、優しげに話しかけてくれた。
どうぞ、と言われて俺たちは防空壕の中にあった座布団に座った。
赤色の人が防空壕に明かりを点けているうちに、青色の方が話し出した。
「単刀直入に言います。あなたたちの両親はどちらも死んでいます」
事実だけを淡々と告げる、思いやりのない声だった。
「母親はこの空襲で死にました。父親は既に海で戦死しています」
冷たいかき氷を一気に食べると頭が痛くなるが、
冷たい言葉を一気に浴びせられても頭が痛くなるようだ。
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中学生が運転する電車ってのは、
祖父から聞いた実話です。