「ここが、あの龍の夢の中か…。」
目覚めるとそこは、静寂に包まれた部屋だった。窓があって、扉があって、ベッドがあって、何の変哲もない部屋なのに、何処か寂しさに包まれた、そんな部屋。
「龍が見る夢も、人間とあんま変わらないんだな…。」
俺はそんなことを呟きながら部屋の中を見渡してみる。何気なく、次の部屋に移ろうと扉を開けた時だった。
廊下の突き当り、暗がりの中で少女が膝を抱えていた。
声を上げて泣くわけでもなく、ただ小さく体を揺らしている。暫く寝ていないのだろうその目を見開いたまま固まり、爪が剥がれそうなほど強く自分の腕を握りしめていた。少女の視線は何処かを見るわけでもなく、その焦点の合っていない目は、薄暗い部屋と風呂場を交互に彷徨っていた。
――俺のことは見えていないのか…?
扉を開けたまま固まった俺を、少女は全く気にすることなく震えていた。視線がチラッとこちらを見ることもなければ、少女を見つけてから数秒間の間、まるで俺が存在していないものかのように、体制や態度を変えることはなかった。
俺は少女の定まる事の無い戸惑った視線の先が気になって、少女に近づいてみた。
リビングでは、古びたブラウン管テレビが淡々と午後のニュースを流している。キャスターの平坦な声と、時折挟まる賑やかなCMの音が、狭い室内を満たしていた。
ソファには父親らしき若い男性が座っていた。血の固まりかけた黒ずんだシャツのまま、フィルターの根元まで焦げた煙草を指に挟み、薄目を開けてどこか遠い目で画面を眺めていた。灰皿からは細い煙が真っ直ぐに立ち上り、天井の黄ばみに吸い込まれていく。彼は一度も振り返らないし、煙草を吸う口元以外、ピクリとも動かない。
反対側に目線を逸らしてみた。脱衣所の扉は半開きになっていた。
隙間から見える白いタイルの上に、ぬるくなったお湯が静かに、止まることなく溢れ出していた。浴槽の縁から垂れ下がっているのは、濡れて黒く張り付いた長い髪と、力なく垂れ下がった人間の腕だった。水面に浮かぶ赤はすでに薄まり、ただの濁ったピンク色の水になって、排水口へとしゅくしゅくと吸い込まれていた。
――これが…あいつの夢の中なのか…?
恐らくは、幼い頃のトラウマが悪夢となっているのだろう。
カチ、と父親が新しい煙草に火をつける音がした。その小さい音に、少女の細い肩が、ビクッと跳ねた。部屋は依然変わらず、変化と言えばライターの小さな火花が、暗い部屋を一瞬だけ照らしたことぐらいだった。
俺はただ、そこに置かれた家具や、床に落ちた埃と同じように、その部屋の景色の一部として存在していた。何をすればいいのか、何をしたらあの龍はこの夢を終えることが出来るのだろうか、そんなことばかりが脳内を駆け巡っていた。
「――ぅがっ…!!」
そんな時だった、突然腕に鋭い痛みが走った。前腕からなるその痛みは、間違いなく現実世界で俺自身がカッターで切りつけた切傷だった。
―――ッ…龍が目覚めようとしているのか…!
あまり時間は残されていないようだった。何かアクションを起こしてこの夢を終わらせなければ…!何か…何か…!!
「おい、何しようとしてんだ?」
突如低い声が俺の左から聞こえた。
「…ライン…セント…?」
少女の父親だった。
「何で、ここに…?」
「あ?決まってんだろうが、あのガキ殺すんだよ。」
ラインセントはそう言うと廊下の奥でガタガタと震えこちらを見つめる少女を指さした。
「折角うるせぇあの女殺せたと思えば、俺が見てねぇ隙に逃げ出しやがってよ。龍になったつーから来てみりゃ、アンタどうやら夢の中に入れるどかっていうからよ。さっき血を吸って倒れたときにピーンと来たね。」
作戦会議の時に見せた不敵な笑みが目の前に広がった。
「アンタの血吸えば“ここ”来れんだな。」
「ッ…!」
「あんな龍を殺す手段は俺にはねぇが、こいつの心の中でなら存分に殺せる。あのガキが逃げ出さねぇ内に、俺がこの手で――」
ラインセントはそういうと少女に向かってゆっくりと歩き始めた。少女は酷く怯えた顔で後退りしている。
「――俺がオメェにどれだけ迷惑かけられたと思ってんだクソガキッ!!」
俺は足元に転がったカッターを手に取ると、拳を振り上げたラインセントの首に突き刺した。
「ウガァッ…!?」
ラインセントの拳は空中でピタッ…と止まり、僅かに震えていた。
「オマェ…何故…!コイツァ…龍だぞ。」
「逃げろ!」
少女は変わる事の無い怯えた顔を変えることなく固まっていたが、俺の声に気が付いたのか、すぐに俺達に背を向けて一目散に走っていった。
「龍だと?お前がそうさせたんだろうがッ!!!」
俺は二度三度とラインセントの首元にカッターナイフを突き刺す。暫くするとラインセントの身体がぐったりと地べたに倒れ込んだ。
――これで、よかったんだろうか…。
首から血を垂れ流して横になったラインセントを見つめながら、俺はその場に立ち竦んでいた。
何処からともなくか細い女の子の声が聞こえた。
俺は辺りを見渡す。もう、少女の姿はない。だがしっかりと聞こえた、弱々しくも晴れ晴れとした少女の声。