俺が消えた日   作:れいめい よる

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アクションスリラー 一〜四


序・世界最北の都市

 

 

意識が覚醒するや否や満身創痍の肉体と見覚えのない廃墟が視界に広がっていた。

所々に老朽化した建物と何もかもを氷結させる雪景色。吐くたびにむらむらと朝陽に煌めく吐息が極寒を教えてくれている。人の気配が一切ないアパートの凍りついた非常階段に俺は座り込んでいた。

俺が今さっき居た筈の場所とは甚だしく異なっているばかりか、身動ぎするだけで鈍痛の走る節々。とりわけ鉛にでもなったかのように倦怠感が凄まじかった。

如何にかして四肢を緩慢な動作で動かして起き上がり周囲を見渡してみる。しんしんと降り積もる雪が等しく景色を白銀に染め、やはり軒を連ねる建造物群からは人間はおろか文明の様態すら漂ってこない。此の閑散とした場所は明らかに異様で不穏に充ちていた。

 

立ち眩みが治ってから壁伝いに歩を進めてみる。自分の置かれた状況を把握するにも階段を降りて外に出ないことには実現しようがない。そう思って引き摺った脚を庇うあまりに亀みたいな鈍足で歩き始める。すると、数歩も歩まぬうちに耳朶が音を拾った。感覚的に理解できる、視界にも映らなぬ程の遠方で雪を踏み締める複数の足音。それら振動が鼓膜に伝播した瞬間、俺の脚は勝手に駆け出したーー。

 

「はあっ、はっ...。」

 

不思議なことに遮二無二脚を動かしている間、俺の身体は疲労困憊の現実を忘れたかのようだった。

本能的な逃避行から暫くして、先のアパートから二角ほど離れた棄てられた襤褸屋に駆け込むと、力尽きたように膝から崩れちる。突然全力疾走した所為で荒々しくなった呼吸を落ち着けようと胸元を握りしめる。けれども自身の存在が悟られないよう物陰に身を潜めながら、障害物と一体化したかのように微動だにせず。万が一があればいつでもスタートダッシュを切れるように神経を張り巡らせて。そうして密かに身構えていると、先程の気配が目睫の間に迫ってきた。

極限の緊張が張り詰める。俺が隠れる冷蔵庫の手前の床が軋んだ。

 

Вы нашли его(居たか)?」

「いや。もう一度探すぞ...クソ、手を煩わせやがって。」

 

二人の男の声だ。酷く苛立たしげな口ぶりが横暴な足取りで他人様の家を歩き回っている。即興の隠れんぼに敗北するのを恐れて顔を覗かせることはしなかった。けれども頭ばかりか魂までもが煩いくらいに警鐘を鳴らしていたのだ。コイツらが何者であれ決して見つかってはならない、そうなれば地獄の底に突き落とされると...。だから俺は必死に息を潜めて男達が諦めて通り過ぎるのを待ち望んだ。

 

幸いにも程なくして収穫なしと判断した男達は襤褸屋から立ち去った。襤褸屋が完全に二人の視野から遠のいたのを確認すると、間も無く俺も再び歩き始めたーー。

 

 

不気味な廃墟区らしき地帯を後にした俺は、しんしんと降り積もる雪に見守られながらも徒歩で二里ほど離れた先の街頭の灯る小さな街並みにたどり着いた。霧のように吹雪く暴風雪は留まるところを知らず、恰も己が主役と主張せんばかりにビュンビュンと吹き付けている。縦横無尽に荒れる様は視界をチカチカと点滅させてしまうほどに煩わしく、純白と灰色を交差させていた。こんな悪天候の下を防寒具もなく孤独に歩き回っているからこそ、違和感を禁じ得ないでいた。

 

「...寒くない。」

 

そう、寒くないのだ。此程の荒天だというのに、皮膚はその寒気をまったく感覚神経に伝えていなかった。試しに掌を空に向けてみるが結果は同じ。まるで温度を感じる感覚神経を失ってしまったみたいだ。それでも未だに俺の身体に居座る重苦しくうんざりするような痛みは今起きている変事が明晰夢ではないこと教えてくれていた。

 

よくよく考えれば不可解の連続じゃないか...次々と湧き起こる摩訶不思議な出来事に頭を捻っているうちに、先程の怪しさ満点の男達までもが思い起こされた。十中八九俺を捜索していたと思われるあの二人組は間違いなくロシア語で会話していた。

大学一年になりたての俺が早々に選択した言語はロシア語だった。とりわけ言語に興味があったわけではないが学習に楽しみを見出した俺は春学期が始まる頃には日常会話ができるくらいには上達していた。けれども決して現地で通用するレベルではなく、精々がスーパーの店員とカタコトの交流をする程度だろう。にもかかわらずあの古ぼけた民家で俺は彼等の会話をまるで母国語の如く聞き取っていた。

兎にも角にもこの混沌極まった現状から脱出する為には人から直接新鮮な情報を得なければならない。追手ではなく、真面な会話ができる気を休められる人間と。

 

 

困惑や疲弊が胸中を波立たせるなかで歩き詰めに進み続けてやっとの思いで街へと辿り着いた。こんなにも活発に動き回ったのは高校時代に自主参加した冬マラソン以来じゃないだろうか。

近代的な鉄骨造の建築物が積雪に耐えながら建ち並ぶ街並みは、規模としては村に近かった。ぽつぽつと寂しく灯る街頭と、消え掛かった車輌の轍を頼りに裏口のフェンスから侵入し、近場のスーパーで足を止める。建物の外壁に庇と共に取り付けられてる時計の針は真夜中を指し示していた。道理で廃墟区と同様に薄気味悪いくらい静まり返っているわけだ。

そうこうしている間にも魔の手に捕えられるんじゃないかという珍妙な切迫感に掻き立てられて俺は一先ず鍵を壊して中に侵入した。

 

内装は気密性と断熱性に優れた木造建築。こんな夜更け、それも僻地で営業している店舗などあるわけがなく当然ながら闇がりに人影はない。天然素材を多分に多用した自然派の店内の会計机を通り過ぎると直ぐ横に衣料品売り場があった。極寒の地に合わせた防寒着ばかりが雑にハンガーに掛けられて横一列に並列している。店員の大雑把な性格が垣間見えるディスプレイだ。

依然として体感温度は夏だが、風邪を引かないようにとその場ですっかり濡れてしまった服を脱ぎ捨てる。残念ながら春の先取りのような薄手の衣類は置いておらず、手短な商品を手に取った。カジュアルなダウンシャツにコート不要の足首丈の黒のテーラードジャケット、下はシンプルなスラックスを。そのまま着替えようとして、見下ろした素肌の痛々しいまでにこびりついた血痕を拭ってしまおうと左右を捜索する。更衣室が目に留まった。好都合とばかりに閉ざされたカーテンを開いて...鏡に映ったモノに硬直した。

 

「え?え、何方様?」

 

調子外れな感想が転び出る。背骨を羽で撫でられたかのような混迷に見舞われたのは偏に視界に飛び込んできた鏡の中の別人にあった。

 

鴉のように漆黒で艶やかな短髪、燃え盛る炎を連想させる深紅の双眸、目鼻立ち一層際立たせる絹糸の如く透き通った白皙。何よりも視線の位置の感覚的な差異。ずっと単なる思い違いと自得していたが矢張り目線が明らかに高くなっていた。俺の記憶が正しければ大学入学時の身体検査では百七十五センチメートル程度、けれども目前の等身大の鏡に映る自分は低く見積もっても百八十は超えていた。スラヴ系の眉目秀麗な顔立ちと、それに見合った引き締まった体躯、すらりとしなやかに均整のとれた手脚...今直ぐにでも光源氏を再現できそうな容貌である。だが見事な見掛けにそぐわない傷跡が異質さを際立たせていた。一目で分かる銃創が腹部を中心に不規則な点状に体全体に散在しており自力で応急処置した努力も伺える。敢えて付け加えるならば作為的な切り傷や刺し傷、挙げ句の果てには夥しい注射跡までもがあることか。

富豪の虐待?半グレ抗争?何方にせよどう見ても事案でしかなかった。されど此処で考えあぐねているわけにもいかず、乾ききった血を洗面所で洗い流すと服を着て早々に店を出た。

 

見渡す限りの白一色の世界は相も変わらず殺風景な景観を造り上げていた。

街外れから中心街に直線に進みながら茫乎とする脳内の整理を試みる。この街の住民と話してみないことには確証は得られないけれども、例の二人組の共通語と衣服の値札に記されていたロシア語、ルーブル表記から推察するに此処はロシアか、若しくは某言語を公用語とする北国の何処かだろう。となると尚更疑念も増すけれど。何と言っても廃アパートの非常階段で意識が覚醒する直前までは俺は日本に居たのだから。  

 

 

ーーその日は珍しく寝坊をした。大至急身支度を整えて最寄り駅まで駆け込むと、地下鉄のホームの座り慣れたベンチに腰を下ろして次発を待つ。既に三十分の遅刻に気が滅入りそうだった。

 

焔、それがどこにでもいる普通の大学二年生の名前だった。専攻は哲学科、前期に提出したレポートが高く評価されて上級生の夏季特別講義に勧誘されて忙しなくも充実した夏休みを送っていた。昨日は人文学の現状についてのレポート課題に没頭するあまり気付けば朝日を拝んでいた。茹だるような極暑からの現実逃避も兼ねて学部研究会に熱中していたものの、時折無作為に指名される発表会擬きに流石に辟易していた今日この頃。

頭頂の照った壮年の教授が二限遅れを鼻息荒く叱責する様が浮かんでしまえば自然と背中も丸くなるものだ。

 

「はあ、もう二度と徹夜なんてするか。」

 

燦々と地上を照らすお天道様の真下、アスファルトを這う陽炎に有難迷惑の応援をされながら駅まで走った所為か、服の中が不快な汗でびしょ濡れだった。即刻家に逆戻りして冷たいシャワーを浴びる自分を想像してしまうほどに。生憎団扇を持ち歩く女子力のある男子でもない為にシャツを扇子代わりに旗めかせて涼んでいると、何処からか派手な擦れ音が聞こえてくる。首を回してみるとホームの向かいで面輪を火照らせたサラリーマンが書類の束を落と一緒に盛大に転倒していた。

細やかな微風に拐われて一枚が線路を浮遊する。光サラリーマンも俺も時間が止まってしまったかのように紙の行末を注視していた。ひらり、ひらり。不幸中の幸いか、紙は線路に落下することなく飛行機みたいに見事な軌道を描いてこちら側まで飛んできた。丁度、俺の足元に。居た堪れなくなった俺はそれを摘みあげる。同時に列車到着を告げるアナウンスがけたたましくホーム内に響いた。

 

「...どうせどやされるんなら一日一善、だよな。」

 

レールの軋りにかき消された囁きは奇遇にも対面のサラリーマンがその眸に宿す諦観と一致していた。

もはや抗いようのない遠回りを決意して立上がる。そして矢庭に、停車した車窓を隔てた向いのホームに飾られている絵画に目を惹かれた。

美術生の作品だろうか、キャンバス一面に鮮明な油絵で北方らしき地域の雪景色が巧みに描かれている。中心部には寂れた街が繊細に描写されていて、そこに佇む一人の美丈夫の姿態が白銀の景色と相まって息を呑むほどの幻想的な様を醸し出している。特に俺の視線を奪ったのは彼の純粋潔白な髪と灼けるように深紅の瞳だった。それは確かアルビノと呼ばれる色素に纏わる遺伝子疾患だったか...。美術に関する知識が浅い俺にとっても、望遠レンズの圧縮効果を表現したかのような絵画は一種の芸術という印象を抱かせた。

 

「昨日はあんな絵なかったような。夜のうちに飾られたのか。」

 

拾った書類を届けることをすっかり忘れて絵画を眺めていた俺に突如として異変が起こった。

最初に絵画に吸い込まれるような感覚に陥って眩暈が襲ってきた。対向の壁が絵画もろとも崩れ出す。驚嘆に喉を震わせる間も無く、続け様にキーンと烈しい耳鳴りがして頭痛に見舞われる。

 

ガタンガタン。ガタンガタン。

停車したはずの列車がいつの間にか猛スピードで眼前を走り抜けていく。地震の如き凄まじい轟音が鼓膜を揺さぶり、平衡感覚を奪う。足場がなくなったかのように覚束なくなる。踏ん張りが効かずにホームに転落する。前触れなく訪れた異常事態に混乱極まった俺は本能的な恐怖に瞼を硬く閉ざしたーー。

 

...数秒か、将又数時間か。どれ程の間蹲っていたのかは判らない。

いつしか漸く騒音と揺れが収まったのを理解すると、ゆっくりと瞼を開ける。そして現実が新たな局面に入れ替わったことを悟った。

 

目を開けた映じた世界は俺の慣れ親しんだ日本ではなかった。

 

* 

 

こういった破茶滅茶な経緯で俺は暫定ロシアに身一つでやって来た。誘拐にしては判然としない点が多すぎる怪奇事件...否、事故であると信じたい。訳ありな青年に成り代わるというラノベ的展開に至ってはお腹が一杯だ。いつかドラマで無関係の一般人に遺伝子レベルの整形を施して実行犯に成り代わらせるシリアルキラーの物語を観たことがあるが、フィクションと現実は別物でなければならない。第一、こんなにも幸薄そうな風貌の青年が超科学的サイコパスな筈がない...あくまで俺個人の主観でしかないけど。

兎も角、夜が明けるまで雪中を彷徨くわけにはいかず体力と気力を養える休息所を探す必要に迫られていた。他にも腹拵えや通信手段等々、あれやこれやと思案しているとまたもや心のブザーが鳴らされる。

 

ギュ、ギュと雪原を踏みしめる複数の足音が耳朶に届いたのだ。途端に胸を過ぎる暗澹とした影に傍近の空き巣の屋上に登って目を凝らしてみる。聴覚に狂いはなく、音の発生源は遠方だった。目測一キロメートル先でやけに仰々しく武装した集団がラングラーで一直線にこの街に向かって進行していた。...奴らだ!碌な止血もしないまま締まりのない頭で歩いていたのが仇になった。連中は俺が垂れ流した血の跡を手負の獲物を狙うハイエナの如く辿ってきたのだ。

性急に脳漿を絞る。爆走する車輌が此処に到着するまで三分未満、ハイエナのわりに詰めの甘い軽武装と人数から講じるに一挙に潰すのが最善手と思われた。そして都合の良いことにこの空き巣のライフラインは健在だ。

 

大至急ガス管に穴を開けて、斜め向かいの大型ドラッグストアから爆薬の簡易材料を揃える。奴等の到来まで一分弱、時間との勝負だった。勘定場裏で発見した一挺の拳銃と弾薬箱を抱えて急ぎ引き返す。迎撃の準備は着々と整えられていった。

 

手首に指を当て脈を測る。切羽詰まった状況でありながら身震いや動悸はなく、拍子抜けするほど脈は穏やかだ。鋭敏な五感、躊躇いもなく爆薬の材料を選別できる不必要な博識、無数の戦略を常々計算する導出する情報処理能力、常住坐臥周囲を警戒し成すべきことを推し量る冷静沈着さ。どうやらこの半グレ青年は常人を逸した才能を備えているらしい。それにしても記憶喪失な若者が覚醒早々物騒な連中に追跡されるという流れは某ハリウッド映画を思い起こさせるものがある。

 

閑話休題、武装集団が空き巣の真下で停止したのを死角となる庇から確認すると中に身を引いた。ドラッグストアからの帰路、敢えて先方の視界に移り込むことで俺の潜伏先を暗に示しておいたのだ。案の定奴らは此処までの距離を猪突猛進してきた。

 

いつしか雪は止み眼が眩むような白銀が地上を覆っているだけとなった。それでもドライアイスを気体化させたかのような寒気は衰えを知らず、凛とした静寂に包まれた空間に居座り続けている。自分が寒気を感じずとも雪達磨の如きジャケットのジッパーを上までぴっちりと閉めた男達の格好から極寒であるのは十二分に伝わっていた。

彼等は裏と表の出入口の二手に分かれてから密かに合図を送り合っている。粛々と交わされる刺々しいロシア語、よもや第三者が盗み聞きしているとは思うまい。

 

「こちらпопугай(鸚鵡)、配置に付いた。目標は家屋に潜伏中。応答願う。」

кле́тка для пти́ц(鳥籠)、感度良好。突入三十秒前。」

 

雪下に眠る原生動物にでも囁きかけるかのように押し殺した声音が無線機越しに伝送しあっている。雑音一つない乾いた忍び声は恰も岩肌で砕ける白波のように透き通って俺の耳を筒抜けた。残すところ二十九秒あまり。準備万端なのはこちらも同様だった。

...隔たりの向こうからも犇と感じるくらいに緊張を孕む連中に反して、タマを補填して先方の突撃を待ち構える俺は妙な感覚に陥っていた。今にも襲来せんとする厄難が日常茶飯事と変わらぬ瑣事のように、普通ならば気道閉塞を引き起こしてもおかしくないほどのガスが充満する室内で引鉄に指を掛けている。そこに力が込められる瞬間に放たれるものが殺意ではなく、数十秒後に家屋を包むであろう爆発が生み出す人的損害に対して同情の余地もなく...喩えるならば雄のひよこを処理する工場員の機械的な義務感だということを理会していた。日常では自主的にボランティアに参加しては人との温かな交流に泪ぐんでしまう程に温和な性格を自覚していればこそ、この喫緊事に尻込むどころか鉄仮面を貼り付けたままの自分が信じられなかった。本来の身体の持ち主が淡白な質なのだろうか。

 

二十秒。

こんなにも純白無垢な北の極地で深更の街は寝静まったまま、雪空模様と地球からは観測できない新月だけがあった。対極的に血腥い命の奪い合いも、平和な国で安逸を貪ってきた自分も、今後惹起される唾棄すべき命の奪い合いも...俺達を包む世界の凡てを空夜だけは超然と俯瞰していた。

 

十秒...五秒。

一層耳に通るようになった男の秒読みと俺の囁きとが重なり合う。

不図、昔とある精神科医が云っていた言葉が思い起こされた。死が老人だけに訪れるというのは間違いだ。

 

「三」 

死は最初から...

 

「二」

そこにいる。

 

「...総員突入!」

 

炸裂音が静謐な夜を叩き起こした。

錆びたスチールドアが蹴破られ、象徴的なボンバーハットを被った男達がAK-47を居丈高に構えて室内に雪崩れ込んでくる。初っ端からマズルフラッシュを起こさんとする横暴な連中に対抗して俺は爆薬の詰め込まれた筒を投げつける。全部で五つ。

予め足を引っ掛けていた屋根裏に腹直筋を使って素早く身体を引っ込める。...聞こえる。突撃銃の内部で撃針が雷管を打ち付ける音が、放たれた弾丸が罠を貫く音が。

 

刹那、凄まじい爆音が轟いた。屋上への狭隘なハッチから太陽を直視したときのような羞明が視力に引き起こされる。猛烈な熱風が俺の肌にまで伝わってくる。安全圏からですらこの反応なのだから、内部は如何程のものか。一個一個の威力は手榴弾に劣るものの狭い場で炸裂するには十分すぎる殺傷力を計算して作った。

爆音が収まってから一瞬の静寂の後、俺は間断なく階下に飛び降りた。

 

「あぁっ!」

「熱い...息が」

「立て!踏ん張れ!」

 

予想通り、現場の最前線たる屋内は悲壮な状態に陥っていた。

蔓衍させておいたガスの影響で威力は倍に跳ね上がってくれたようだ。破砕した窓硝子、破壊され尽くされた家具に内装...定員過多で狭小化した部屋の其処彼処で倒れる男達。誰も彼もが潰れた瞼やら破片の刺さった首元やらを抑えて命が零れ落ちるのを必死に引きとどめている。窓外から見える路上には爆風で吹き飛ばされた数人が転がっていた。それでも何人かは悍ましい唸り声を漏らしながらも仲間を鼓舞している。破けた兵装の穴からは生焼けの肌が見て取れた。

今の爆発で十六人あまりがお陀仏となった。残り九人。

 

ーー背後で風を切る音がして反射的に低く屈んだ。直後、鋭利なコンバットナイフの先端が闇を反射して縦一直線に空気を突き刺した。俺が直立していたならば心臓を抉られていたことだろう。俺は腰を落としたまま床に手を突くと、前方に重心を傾けて腰を捻りながら踵を大きく曲線に振る。蹴りは敵の脇腹に綺麗に入った。

 

「カハッ!」

「ッこの野郎!」

 

今度は前と左右両側から三人。今さっき落とした男が手から取り落としたナイフを拾い上げ振りかざしてくる。蹴り技の反動で上体を戻すと、体当たりを仕掛けて貫手を喰らわす。集中的に目と喉を狙って潰すと男達は声帯が裂けるのではないかと思うほどの絶叫をあげて沈んでいった。

一刹那、背筋を悪寒が駆け上り咄嗟に首を傾ける。

パァンッ!乾いた発砲音が響いた。一発分の弾丸が高速回転しながら耳輪を微かに掠めて通過していった。

腰に挿した銃を抜き残って振り向きざまに射込む。銃口から意気揚々と飛び出した拳銃弾は相手の顳顬に射入口を作って脳内で停止したようだ。撃ち込まれた男は反撃の小隙なく絶命した。これで最期の一人と気が緩んだ瞬間だった。

 

「くたばれ化け物!」

 

口にするのも憚られる下劣なスラングが鼓膜を逆撫でた。引き金に指をかけたまま振り向くと、一足遅かったことを悟った。 

最初に肝臓を深く凹ました筈の男がいつの間にか悶絶から回復していたのだ。

親の仇でも見るかのように俺を睨め付ける銃口からガスが膨張するのを視認する。施条痕を刻み込ませたライフル弾は音速で空気を切り裂きながら飛来してくる。滂沱の思考が神経回路を光速に侵してゆく。瞬間的なシミュレーションがスーパーコンピューターの若く遂行され、観念の二文字を叩きつけてきた。希望も絶望もない、どこか達観した無常感が脳内を占めたその時...己の内部で劇的な変化が生じた。

空気、音、光...認識の凡てが停滞した。それはまるで、携帯で撮影した動画が通常の速度からスローモーションに切り替わる時のように。撃たれる...頭の片隅でそう訴える危機管理装置に賛同するように弾丸の軌道は正確に俺の心臓の位置を捉えていた。

 

...いくら身体の持ち主が万能とはいえ従軍や死闘の経験もない一般人が訳もわからぬ雪国で命を賭した戦いなど土台無理な話だったんだ。ここで素直に凶弾を受け入れれば、災難の始まりである慣れ親しんだ駅のホームに戻れるかもしれない。或いは書類を持ったままの何処かに意識が飛んでいただけで、また何の変哲もない日常が然あらぬ顔をして過ぎ去ってゆくだけなのかもしれない。そうであるならば俺にとってはどれ程身も心も救われることか。天使のようで悪魔のような考えが胸を埋め尽くす。

途端、是迄の様々な場面が短い映像となって脳内に流れ込んできた。懐かしい思い出も、印象に薄い情景も、身に覚えのない記憶も...大して長くもない人生を振り返るそれは走馬灯と呼ばれるものだった。

 

瞬間、雷撃を直に受けたかのような電撃が全身を迸った。高速に脳漿が働き細胞という細胞が覚醒を起こす。理会するよりも早く、喪失しかけていた戦意が強制的に引き戻され、四肢が勝手に動いていた。

驚異的な速度で上半身を折り曲げると、俺の胸元を貫通するはずだった弾丸は目標を失って壁にめり込んだ。

 

「なっ...こ、この!」

 

勝利を確信していた男は銃撃を避けられたという信じ難い現実に須臾の間瞠目していたが、伊達に武装しているわけではないようで即座に指先に力を込めた。が、運悪く弾切れだった。慌てて弾倉を交換しようとする男に、操り人形みたいに見えない何かに誘導された俺は手を一直線に振った。

...ボウッ。

この時の現象を、自身を襲った衝撃をどう形容すれば良いのだろうか。喫驚すべきことに、空気を薙いだだけの俺の指先から一筋の炎が現れ、動作に合わせて男に向かって飛翔していったのだ。対して手元を狂わせていた男は突如として彼に襲い掛かった火の玉によって骨の随まで燃やされ、「ギャアアアア!」と煩わしい断末魔をあげながら死に絶えたのだった。

 

「は...何、今の。」

 

爆発の残り火がパチパチと燻っている。ぐちゃぐちゃに原型を留めぬ程に潰れた肉塊や欠損した死体が四散し、鼻につく鉄臭と硝煙の匂いだけが室内に立ち篭めていた。

視認できる限りの生命体が寂滅の不幸に見舞われた後に、唯一人生き残った...否、生存を勝ち取った俺はといえば束の間に起きた激動の数々が今頃になって処理できずに呆然と立ち尽くしていた。

 

 

ガス爆発に銃撃、想定以上に騒擾三昧を働いた所為か、清閑だった住宅街の端々からぽつぽつと明かりが灯り始め住民たちが飛び出してきた。住宅街の彼方からは通報を受けたパトカーや消防車のけたたましいサイレンまでもが迫っていた。暫しの間唖然としていた俺だったが、周囲のざわつきに我に返ると警察犬ですら追跡できないように自分の痕跡の抹消を試みる。そうしてイカれた武装兵が自滅した狂逸な空間を作り上げると、死んだ一人の帽子を拝借して外に出た。

 

「おいお前っ、何が起こったんだ!」

「知らないわよ!こっちが聞きたいわ!」

「突然爆発みてェな音が響いて、そうだ銃声も聞こえたぞ...」

「はぁっ?ていうかここ空き巣じゃない!管理人は何処?」

「皆さん落ち着いて!」

 

咽せ返るくらいの火薬と肉の灼ける香ばしい匂い、路上にまで爆散する硝子片と肉塊、完膚なきまでに破壊の限りが尽くされた空き巣...それは誰が見ても見紛いようのない事件現場だった。鳥肌が粟立つほどのグロテスクな有様に野次馬の最前列からは発狂寸前の悲鳴があがり、到着した警官たちが如何にか宥めようとしている様が見受けられた。漸くお目に掛かれた住民達から有意義な情報を得られないかと盗み聞きしていたものの大した収穫もなく、下手に前に出て警官の目に留まるわけにもいかず早々に諦めて闇に紛れた。

 

 

所代わって、空き巣から徒歩十分程の三階建てアパートに俺は身を移した。二階以上は入居者のいない物寂しいアパートだけど、不審な視線を避けたい俺にとっては最適の隠場だ。

 

「痛ったぁ!?」

 

たった数時間で染みついた野宿気分に非常階段で腰を下ろそうとして、鋸の刃を擦り付けられるような激痛に思わず眉を顰めた。空き巣での激闘で止血したての傷が数カ所開いてしまったようだ。幸いにもドラッグストアで頂戴した救急用具があった。

早速中身を取り出して際立って深い傷口の手当てを試みる。何かを抉り取ったような跡が太腿にあり、それ以外は八割が銃槍か刺創だった。アドレナリンが爆発していた先の戦闘で失敗らなかったのが奇跡としかいいようがない致命傷だらけ。これは本格的に半グレじゃなくてマフィアの世界に片足どころか両足どっぷり浸っているのでは、なんて穏やかならぬ考えが過ぎった。

 

「もう訳が分からん。教授ぅ...」

 

こんな混沌とした状況でも最初に助けを求めるのが親ではなく大学の教授とは...若し此処に父さんが居たならば一人暮らしも板についてきたな、などと的外れの感涙に咽んでいたに違いない。涙脆いのは血筋だ。

一日で起こった出来事が連日の悪夢のように感じられた。夢ですら滅多に視ない摩訶不思議で不道徳な事態ばかりが立て続けに起きて、現実味を感じる間もなくじっくりと思考に浸る余裕もなかった。目覚めたら暫定半グレ...マフィア絡みの厄介坊に成り代わっていたこと、暴力を生業としていそうな男達とのアメコミ並みの命懸けの交流ーー尚、失敗に終わったーー...殊更例の空き巣を殺人現場へと一転させた急変の数々は未だに突拍子もないことだらけだ。防御手榴弾の生成方法や武器の認識と扱い方、それから習ってもいない格闘術と平均以上の秀逸な状況判断…異常を一つ一つ挙げだせば枚挙にいとまがない。思考も感情もあと一滴垂らせば溢れだすコップの水の如く満杯だ。 

 

挙げ句の果てに激戦の果てに目の当たりにしたあの不自然発火の炎。

そうだ、サウナでじわりと汗が滲み出るときのあの感覚。あれに近しく、更に究極に過激化させたような感覚に陥ったのを覚えている。まさかと思いつつもあの瀬戸際の状況を思い出して指先に意識を集中させる。半信半疑の挑戦は見事に功を奏した。

 

ぼうっと、真珠と琥珀を薄めたような綺麗な色の炎が指先に灯った。

 

「うっそだろ、メラメラの実でも食ったのかよ...。」

 

事此処に至ればもはや何が起きても驚くまい。であれば尚更、彼程までに戦闘部族めいた身体能力を発揮した己が重症で倒れていたという謎に首を傾げずにはいられない。

とまれ、俺が優先すべき事柄は一刻も早い現状把握だった。

 

此処は目を覚ました時にいた廃墟区域と似たり寄ったりの街景観だ。欧州各国には歴史的な背景から地理的に似通った都市構造が多々見られるがそれとは少々異なっている。建物の造り、間隔、公共施設…その全てが非常に精緻だ。それが俄然、この豪雪地帯の人口過疎の異質さを助長させていた。最初の街で何かしらの事情があり住めなくなった住民たちが、新たな土地で同じ生活を営み始めたと推測するのが妥当だった。ネットではおそロシアとまことしやかに囁かれている国だし、大多数にとっての異常が此処の普通であっても何らおかしくはない。

それに最初の廃墟区域、あれはまるで…放射能か何かに汚染されたみたいだった。今の季節は視覚的に考えるまでもなく冬だ。踏みしめる雪の厚さはおそよ二メートル、ならロシアの北方で間違いないだろう。軍事施設らしき建築物が度々見られることから軍事介入された街の可能性が高い。

 

ここまでの情報から閉鎖都市という言葉が脳裏を過ぎる。元歴史学部志望者の身として思い当たるのはノリリスク、カイエルカン、タルナク、イガルカ、ドゥディンカ。自分の記憶ではどの閉鎖都市ももう少し人口が多かった気がするけど…。ともあれ、現状を詳細に理解するには朝方の、延いては人の動きが活発な日中の方が好ましい。そこまで結論づけて、余命僅かな夜が明けるまで仮眠を取ることにした。

 

次第に重くなってきた瞼を閉じれば、沼に引き摺り込まれるようにあっという間に意識は沈んでいった。

 

 

 

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