陰謀の交錯する陰影から突如として引っ張り出された佐藤さんは、寝床を襲われた小鹿さながら色褪せた形相で躓きながらも脚を動かしていた。急激に襲来する不測の展開の連続に抵抗も忘れて纏まりのつかない頭を働かせようと、「え?」だの「ぁ」だの混迷を転び落として引き摺る勢いで駆け続ける俺に一生懸命ながらも着いて来てくれる。幾秒前に自身を狙撃した男が窓際で打ち倒れている様が相当な精神的打撃を彼女にも与えたのだと理解できた。
廊下を突っ走って元来た非常階段を降りようとして、不意に手の中の感触が失われる。見返れば彼女は力尽きたようにその場に屈んで太腿を抑えていた。雑な止血で猛然と走った所為で傷が刺激されたのだろう、解けかけた布切れは血に塗れていた。
一言断って慎重に取り外してみれば、案の定射創から鮮血が留めどなく垂れ落ちて床に血溜まりを作りはじめた。傷口をじわじわと蝕む疼痛に歯を食い縛る佐藤さんの状態にこれ以上身を削らすのは酷だと判断する。幸い大動脈までいってはないもののひしゃげた弾が体内に留まったままなので、一刻も早く取り除く必要があった。
俺は傷が悪化しないように慎重に佐藤さんを横抱きにして階段を降りる。一階下のお手洗いに入ると洗面台の上に座らせた。イシードルに押し付けられた救急道具入りのポシェットが役に立つとは…したり顔をするイシードルが容易に浮かんできて苦笑を堪える。
「悪化する前に弾丸を取り出す。痛かったら俺の肩を掴んでもいい。」
心急かれて同意を待たずにピンセットを傷口に差し込む。生々しく血が湧きだす。「イっ!」と悲痛な呻き声が耳元であがった。肩に食い込んだ爪は痛くも痒くもなかった。入口に差し込んだピンセットを動かして弾を摘出する。悪質な全被覆ホローポイント弾が螺旋状から広がって筋繊維に食い込んでいた。
外に摘み出された弾丸がカランと洗面台を転がった。傷口を消毒液で拭き取って消毒すると、簡潔に糸で縫合する。最後に千切ったガーゼで感染しないように覆うと止血は完了した。
「タマの摘出は成功した。傷口も塞いでるけどあくまで応急処置だから後で医者に行くように。」
「貴方は一体…」
もの言いたげな目遣いには答えずに制帽のつばを深く下げる。
「一分だけ休んでから直ぐにここを出る。」
帽子で顔が明らめられないうえに声調も普段より一段階低い白髪の警備員を佐藤さんが篠宮焔と認識することはないだろう。
応急処置を終えて少しばかり痛みが軽減された佐藤さんは、プールの水に素足をつけるような軽快な挙動で洗面台から降りた。己が受けた銃創も忘れて歩き出そうとするものだからすかさず制止する。
「歩くとまた傷口が開くかもしれない、俺が下まで運ぶ。」
——刹那、乱暴に扉が開かれた。
頭部を出血させて、二本足で蹌踉とすることなく入口に立ち塞がっていたのは数分前に蹴り飛ばしたはずの金髪野郎だった。
「
皮肉にもロシア語で溢した感嘆を聴き取った男は如何にも悪役めいた不敵な笑みをつくって拳銃を構えてくる。携帯性に優れた九ミリ口径名銃、グロック19。けれどもその銃口が指す矛先は俺じゃない。…俺ではなく——
「ッ、佐藤さん!」
視覚が捉えた光景を危険信号として脳に送るよりも早く、俺は力一杯佐藤さんを突き飛ばした。
大砲が破裂せんばかりの炸裂音を狭小なお手洗いに響めかせた。銃身から火を噴いて飛び出した9mmルガー弾は無情な害意を寸前に位置を移し替えた俺に直撃させた。
「ッぁ!」
奇跡的にも弾丸は俺の胸を貫かなかった。強硬な金属でできたペンダントの飾りの中央を貫通せず凹ませる程度に留まったのだ。それでも威力を抑えきれずに膝をつけば、口元に嫌に生温い感触が伝った。
突き飛ばした佐藤さんが血相を変えて駆け寄ろうとするのを片手で制して正面を見据える。正対する男は目標を射抜けなかったことに指して悔しがる素振りも見せない。俺が庇うことを見越していたらしい、性根の腐った野郎だと心の中で悪態と血混じりの唾を吐き出さずにはいられなかった。性懲りも無く再びトリガーを引く男に、俺は直ちに火の壁を生み出して妨害する。連続で発射された弾丸はひしゃげる間もなく高熱で溶けて鉛へと戻った。
背後では矢庭に現れた火の壁に屡叩く佐藤さんがいる。俺は横顔を晒して呆然とする彼女に声を張り上げた。
「アイツを斃してくるから此処から絶対に動くな! 絶対にだ!」
そうして熱を鎮火させると。幻のように消えてなくなった壁の向こうで佇立する男を廊下の先まで蹴り飛ばして、自身も後を追うように飛び出したーー。
*
照明の落ちた廊下には邪念ともいうべき不吉な夜霧が立ち込めているようだった。これから俺と面前の男によって生起されるであろう血腥い情景を、寸前の殺意の構えを何処からか差し込んだ月明かりが一直線の焦点を当てて不気味に魅せていた。恰も奈落の底で一世一代の死闘に奮い立つように。
双方が遠い窓の外の街明かりと己の暗闇への暗順応力だけを頼りに一定の間合いを取っていた。
「............。」
「............。」
先手を打ったのは俺だ。男が重心を軸足を移したのを目視した瞬間、タックルを入れる。切るよりも前膝を落として受け止めの姿勢をつくった男は、だがしかし突撃の勢いに押されて靴を床に摩擦させながら背進滑りする。組み技を展開するよりも五メートル未満の非常階段に落とした方が手っ取り早かった。
ところが順調に落下させる予定だった相手は不覚にも手摺にぶつかったことで踏ん張りを効かせた。間髪置かずに払腰で投げようと試みるが、逆手に取られて軸足を払われる。
却って投げ出されそうになった己の身を手摺を掴んで持ち堪えて受け身をとった。体を捻り衝撃を緩和させて跳ね起きる。
「…ハッ、」
「っち!」
流れるような動作で掌を握り締め、
強烈なカウンター突攻にかはっと咽せ返った男は体勢を崩した。即刻柔道の投げ技を使って階段から投げ落とそうとする。だが、
「ノリリスクゥ!!」
地を這うような咆哮が鼓膜を揺さぶった。落下の直前、死なば諸共の精神で男が俺の胸ぐらを掴んだ。手摺の隙間から足首を掬われる、堪えられずに踵が浮かんだ。
「くそ、離…」
「堕ちろ」
「うわっ!」
地の底を這うような低音が真下で這い上がってくる。浮遊した体は成す術なく道連れに、手摺を超えて空中に放り出された。
一連の流れが、地面衝突までの目路がスローモーションのように視界に映じる。
此処は三十九階。よしんば密着して俺を離さない男を下敷きにしても落下の衝撃は相殺されることも軽減されることもなく、俺は九十パーセントの確率でこのムカつく野郎と無惨な最期を分かち合うことになるだろう。
「
じっくりと回避方法を打算している余裕はない。どうする...どうするっ...?
如何にか最初に昇ってきた時と同様に炎の翼を広げようとするが、アドレナリンによる回復から全快でないばかりか先程の銃撃と格闘による疲労が蓄積した所為で節々が痛くて上手く集中できない。
地面との追突まで六秒足らず。
落下の影響で雲散した集中力を如何にか斯うにか手繰り寄せる。すると、不完全ながらも飛行機のターボブレードのような翼付きのあの動翼が片方だけ出来上がった。エンジンを蒸すように片翼を全力燃焼させれば、パラシュートを開いた時みたいに落下が急激に減速する。
瞬間的な浮遊感に見舞われていると、いきなり胸倉を締め付ける力が失われた。手を離した男と目線が交差する。みるみるうちに遠ざかっていく男の収縮した瞳孔に宿るのは恐怖でも驚愕でもなく、奇妙な憧憬だった。
常識では測れない奇異の胸懐を無意識に読み取ろうとして、気を逸らした所為で只でさえ心許ない片翼が陽炎の如く消えてしまった。急降下が再開する。即刻翼を創り出そうとしても上手くいかず速度は増すばかり…そして遂に八階あまりの高所から地面に堕ちた。
「ッイ.....ぐァ!」
手負猪もかくやの情けない呻吟に留められただけでもマシな方だ。寸秒先に地上で潰れた男が緩衝材となったこと、なけなしの防御がミリ程度の効果を成したことで致命傷は避けられた。それでも内三がひっくり返り、皮膚が大型トレーラーにあらゆる方角に押し潰されるかの激甚な痛みが伴った。
あまりの辛さにのたうちまわりながら浅い呼吸で必死に苦痛を逃そうとする。骨は間違いなく数カ所逝った。チカチカと明滅する頭の中が脳震盪を言い立てている。衝撃を和らげるために特に無意識に庇った右腕と右足首が杭を打ち込んだかのような錯覚に陥らせた。それでも他の追跡手の影を憂慮してしまえばがいつまでも地べたに這いつくばっているわけにはいかなかった。何よりも置いてきた佐藤さんが心配だ。
俺は亀よりものっそりと起き上がると、鼻腔から空気を吸い込んでからゆっくりと吐き出す。システマの呼吸の応用だ。徐々に気休め程度に芯から訴える疼きが和らげられると、疼痛に悶える身体に鞭を打ち二本足で立上がった。
「…まーじで大っ嫌い、クソ野郎ども。」
なんて行き場のない怨念をピョートルの所属していた諜報組織に密かに送った。
瞼を閉じて瞑想に没入すると、今度はターボではない真正の炎の翼が美麗に広がった。肉体の直立に必要な総てのエネルギーをはためく翼に依存して、最後に死んだ男の亡骸を見下ろすと、俺は宙へと舞い上がった。
............。
何処かで落としてしまったらしい制帽は諦めて上階に戻れば佐藤さんは気もそぞろといった風に帰還する勝者の気配を待ち侘びていた。お手洗いの中を行ったり来たりして、そわそわと指先を重ね合わせていた彼女は満身創痍の俺の姿を捉えてすかさず血相を変える。
「何があったの?大怪我じゃない!」
「問題ない。そんなことよりも今直ぐ出よう。」
座るように促す手を断って、その場で屈んで自身の両腕を差し出せば佐藤さんは当惑したように視線を彷徨わせる。しかし直ぐに意図を察して恐る恐る二度目の横抱きを受け入れてくれると、丁度打ちつけたばかりの箇所に肘が当たって息を詰まらせた。
「ッ、」
やっぱり私降り…」
「駄目だ、貴方に何かあれば悲しむ人がいる。それに下で待たせてる人がいるからこれ以上余計な遠慮に煩わされたくない。」
彼女の配慮を遮って突っ撥ねれば佐藤さんはぴしゃりと口を閉ざした。折れた腕の骨の痛みに耐えて彼女を抱いたまま廊下を渡る。
彼女の治療の為に脱いだジャケットを頭から被せて許可するまで被ってるようにと指示すると、内側からジャケットが握りしめられたのが伝わった。
階段の踊り場に辿り着くと、足場の狭い手摺の上に立つ。二人乗りの負荷に耐えられるよう四枚の翼を具現化させて。
コンドルみたいに鷹揚に羽ばたかせてから、俺達はゆっくりと地上に舞い降りていった。
*
フロント階に着地して佐藤さんを下ろせば、被りを取って辺りを見渡した彼女はと胸を突かれたように目を丸くした。
「エレベーターはもう使えないんじゃなかったの?」
「使ってない。階段を降りてきた。」
次いで彼女は踏み止まって息を呑む。その視線の先にはプレス機に半端にかけられたような肉塊が横たわっている。訊かれずとも胸裏は容易に察せられて、不慮の事故だと素っ気なく先んじて云えば、彼女は少しばかりの憮然を寄せられた眉根に乗せる。けれども俺が先を催促すると大人しく着いてきてくれた。
…博士は管制室の前で迷子になって途方に暮れる子供のような心細さを輪郭の端々にあらわして、同じ場所を右往左往していた。由々しい事態でも起きたのかと警戒してみれば、彼女は俺達の姿を見留めた途端ぱっと微笑んだ。
「博士、何かあった?」
「貴方がそこの女性と非常階段に向かうところまでは観てたんだけど、警備員が起きそうになったから外で待ってたの。」
小走りで寄ってきて、互いの距離が縮まるにつれてついさっきの佐藤さんと同じように表情を変貌させる。「なんて酷い怪我っ!」青褪めた博士は近くの管制室を憚って控えめに声を荒げた。
「アドレナリンの注射で強制的に生体機能を活性化させただけで全快には程遠いのよっ?なのになんでこんな…真っ裸でバークレイマラソンを完走したみたいな酷い有様になってるのよ!」
「言い当て妙だな。」
「巫山戯てないわよ!」
夢の墓場と呼ばれる百マイルのレースに喩えられては彼女の剣呑さに反して失笑せずにはいられない。けれども噴き出そうものなら平手打ちが飛んできそうな剣幕に俺は込み上げる愉快を堪えた。距離を狭めて負傷具合を確認しようとする博士を、佐藤さんの面前で万が一にも正体の手掛かりを与えたくないと阻止する。
「派手にぶつかっただけだから気にしないで。それよりも早くここを去ろう。そうだ、この人は佐藤美和子さん、日本の警察官だ。」
次いで佐藤さんにも博士を紹介する。
「この人はシェアリング博士。貴方と同じように奴らに狙われてて一時的に保護してる。日本語は話せない。」
二人は海を隔てた島国出身の女性らしくたおやかな挨拶を交わすと快く話し始めた。果たして佐藤さんが外国語に堪能かという懸念は杞憂だったと、二人を眺めつつ腕時間を確認する。最初に管制室を出てからもう二十分も経過していた。
そんな時、絶妙の間でイヤホンがノイズを発した。イシードルからだ。
『ピョートル、生きてるか。』
「お陰様でピンピンしてる。何処にいる?」
『お前が止めてるバイクの横。』
「今行く。…佐藤さんも連れてるから顔隠せよ。」
『ん?』
面倒臭い説明を迫られる前に通話を切った。佐藤さんとシェアリング博士は眉尻を下げて散々な一日の苦難を共有している。そんな二人に横やりを入れる。
「二人共、仲間が迎えに来たから行こう。」
「帰ったら怪我を診るからね。」
有無を言わさぬ博士の物言いには何も返せなかった。
...........。
駐車場に行き着けば俺の言い付けを守ってヘルメットを深々と被ったイシードルがバイクに寄りかかっていた。途中で歩けなくなった佐藤さんを負ぶった俺と、隣に寄り添って歩くシェアリング博士を視界に捉えると彼は待ち草臥れたとばかりに組んだ腕を解いた。耳辺りの良いロシア語が耳打ちしてくる。
「酷え怪我だな、何があった。」
「勘弁してくれよ。」
「おま、人が心配してるのに…まあいい、その人が?」
白けた薄目で呆れを示してから、次に博士を好奇の目で見遣る。俺は首肯した。
「ああ、お前は博士を連れて先に帰ってくれ。俺は佐藤さんを病院まで届ける。」
「了解。気をつけろよ。」
イシードルは博士はバイクに跨って早々に発進した。二人の背中が夜の杯戸町に溶け込んでしまうまで見届けると、俺は佐藤さんをタンデムに乗せた。病院まで送ると云おうとして、
「焔君。」
出し抜けに本名を呼ばれて肩が揺れた。俺の反応に確信を深めた彼女は「やっぱり焔君なのね。」と囁めいた。どんな辯解を並べ立てようとも聞く耳を持たない雰囲気を醸し出す佐藤さんに誤魔化は効かないと観念する。
「どうして気付いた?」
外すべき制帽もなく持て余した手で前髪を整え向き直ってみれば、知人としては未だかつて対面したことのない警察官の職業倫理漲る相貌が俺を見据えた。
「勘よ。私を庇った時、佐藤さんって呼んだ貴方の姿が彼と…如何してか篠宮焔君と重なったの。」
「.........。」
あの一刹那の一言、たった一言の本音で見抜いたというのか。それならば女の勘というのは下手な諜報機関の捜査なんかよりも侮れないものだ。
とまれ、俺の正体を知った彼女に彼女にどんな説明を施せば良いものかと勘案していると案の定佐藤さんは言い訳無用とばかりの口調で問い糺してくる。
「貴方、一体何者なの?」
「とある国の特殊部隊に所属していたとだけ言っておきます。話してしまえば貴女の身に危険が及ぶ。」
「…今朝、人を三人も殺害した容疑者を必死に追いかけて駆けずり回っただけなのに、気付けば理解不能な会合を目撃した所為でよりにもよって被疑者に殺されかけて…貴方が助けてくれたかと思えば今度は不慮の事故だと平然と言い訳を装って誰も彼もが他人の命を奪ってる。そんな悪夢の一日の終いに漸く謎明かしの糸口を見つけられて、そんな申し開きで通用すると思ってるわけ?」
胡乱な視線を突き刺してくる佐藤さんに小さく息を吐いた。彼女の疑問を百点満点で満たせられる回答を持ち合わせているはずもなかった。彼女が戸惑い、疑い、苛立つのも宜なることだ。
だけど、それども真実を明け透けに話せるはずがない。若し全てを明かしてまえば彼女は意図せずして俺と博士が拘う血と硝煙の悪臭が漂う泥沼に両足をどっぷりと浸すことになる。平穏に警察官としての務めを果たして、順風満帆に刑事になる人物の未来を改変してしまうかもしれない。原作の為にもそんな事態だけは避けねばならないのだ。けれども俺が普段の愛想を振り撒き下手に出たところで彼女は誤魔化されてはくれないだろう。
俺が同じ立場ならきっと見苦しいくらい取り乱してただろうし、それが判るからこそ残された道は懇願一択であることも承知していた。だから俺は今はまだ巡査の、されども気鋭の誇りを魂に宿す眸を見通した。
「佐藤さん、俺は貴方が
——願わくは、彼等がピョートル・ノリリスクの死臭に塗れた過去を掘り起こす日が来ませんように。
例え己の台詞が真実でなくとも、ちっぽけな誠実さで向き合いたかったという意志だけは伝わるように。その一心で正視すれば、口を一文字に結んだ彼女は俺を見詰め返してくる。
冬の寒空の下で、只目線を合わせるだけの数秒が永遠のようにも感じられた。
程なくして、佐藤さんは心底疲れた面相で溜息混じりに沈黙を破った。困ったように片笑んで。
「…その言葉、信じるわ。」
存分に溜めた末の一言に、胸のつっかえが豁然と払われた心地になった。俺の真剣な心持ちを佐藤さんは正しく汲み取ってくれた、その事実が何よりも嬉しくて報われた。
「それに私の命の恩人だもの。さっきだって、私より酷い怪我をしてるのに悲しむ人達がいるって純粋に心配してくれたのに、そんな貴方を疑ったら私、お父さんに顔向けできなくなるわ。」
「そっか。」
ありがとう、そんな小さな囁きは彼女の耳に届くことなくバイクの排気音に掻き消された。
インドリクが凱旋式を挙げるように図太くいななきながら朧げな半月の下、一夜の地上を駆け抜ける。外気に晒された白髪が縛れる暴風に慌ただしく右へ左へ踊っている。
病院を目指して走り始めて須臾の間が経ち、一つ重要なことを聞き忘れていた俺はミラー越しに佐藤さんに話しかけた。
「佐藤さん、さっき会合見たって言ったけど…会議の内容は何か聞いた?」
「何も。聞こうと思って身を乗り出したら花瓶を割ってしまったの。」
「なら良い。今日あの建物内で見聞きしたことは全て忘れて。」
ヘルメットが縦に動いた。
「…分かったわ。けど走り回ったし死体だって出たから明日には公安主導で捜査されると思うけど。」
「それはない。奴らは臆病だから今晩の出来事は揉み消すさ。」
そう、となんとも胸襟の読み取りにくい返事が風に紛れた。
「ていうか焔君、敬語外せるなら普段からそうしてよ。」
「それは色々と緊張が解けただけで...まあいいや、わかった。」
彼女にとっては悪夢と化したビルとは一転して、他愛ない会話を交しているうちに病院は目前に迫っていた。時間は遅いが警察病院なので問題ないだろう、彼女が上手く誤魔化せればの話だけど。
裏口に停めるとバイクから降りた佐藤さんはヘルメットを返してくれる。
「俺と一緒に居たのがバレたら拙いことになる。一人で入って適当に騙すんだ。口裏合わせが必要なら協力するから。」
「なんとかするから大丈夫。…助けてくれてありがとう、また今度改めてお礼をさせて頂戴。それと、貴方も帰ったらちゃんと治療をするように。」
「うん、明日にでもお見舞いに来るよ。お大事に。」
そうして彼女が中に入ったのを見届けると、俺はバイクの尻を翻した。染み透る冷気が肌を突き刺す蕭条たる冬の日、惻隠混じる人情が交差してなにが無しに温もりを感じていた。