暑い。背中に食い込むほどの陽気と寝苦しさに起きる。蒸し暑くて、それでいて燦々とした陽だまりに包まれているような怠さだ。茹る足で布団を蹴り飛ばした筈なのに、背中周りに伸し掛かる妙な息苦しさは軽減されない。
俺は大きく伸びをして寝返りを打つ。一晩を越えて硬くなった背骨の一個一個がボキバキと爽快な音を鳴らした。左肩に触れる柔らかな重み、不思議な感覚にまだ纏わり付く睡魔を押し退けて重たい瞼を持ち上げる。久しぶりの快眠を一体何が妨げてるんだと、適度な硬さのマットレスを軋ませて更に半回転して…
「っ!」
偶さか視界一面に飛び込んだ輪郭線に声にならぬ声が喉で鳴った。仰天に目を擦ってみる隙間もなく、寝床をペットか子供にでも奪われた境地で緩り緩りと引き退がる。ベッドの端まで後退して、ようやっと跳ね起きた。
起こした上半身はミイラみたいに包帯が巻かれていて衣服すら着ていない。俺の肩を枕にして寝息を立てていた博士は今も気持ちよさそうに熟睡している。俺は記憶を遡ってみる。そうだ、昨晩は佐藤さんを病院まで送り届けてからセーフハウスの方に帰ってきて…。あまりの疲弊っぷりに玄関で靴も脱がずにリビングに入ったあたりから曖昧だった。治療は博士が?それにしても何故彼女が俺の真横でベッドを共有している?
声を堪えて有り得ない状況に慌てふためいていれば、聞こえよがしの失笑が耳朶に触れた。口角をひくつかせて腹を抱えるソイツは朝っぱらから見事なまでに俺の殺意を引き出してくれる。
「あはははは!ははっ、ははは!」
「お前かイシードル!ふざけんな...ッいで。」
拳の一つでも喰らわさねばとベッドから飛び出そうとして、全身に迸った稲妻のような鋭利な痛みに思わず胸元を押さえて蹲った。まだ笑いの波が引けないイシードルが腹を抱えながらコップの水一杯を差し出した。
「ふは...まだ動くなよ。右足と右腕、左尾骶骨の骨折、肋骨にヒビも入ってる。おかしいな、高いところから飛び降りでもしなきゃそんな傷はつかない筈なんだがな。」
ピンピンしてるって聞いたんだけど。そんな皮肉の込められた眼差しに俺は目を逸らした。気紛れに水を飲めば乾ききった喉が潤っていくのを感じて昨日の昼から何も飲んでないのを思い出した。
「…俺が一緒に行ってればそんな怪我負うこともなかったのに。」
「そんなこと言うな。お前の協力なしじゃ成し得なかったんだ。感謝してる。」
怪我をしたのは自業自得だというのに、やたらと人の良すぎるコイツは自責の念を感じているらしい。労りの言葉を投げかけると、イシードルは陰りのある面相で頬を緩めた。
隣で眠りこけていた彼女がん、と吐息を洩らした。窓明かりに当てられて漂白されたみたいに透き通った華奢な指先が、俺の腰元に伸びてきた。
「あ。」そう漏らしたのは誰だったか。細い腕が腰元に回った。ぴくり、閉じ合わせた長い睫毛が痙攣する。手繰り寄せるはずだった布団の繊維らしからぬ感触にゆるりと瞼が持ち上げられる。
焦茶の双眼に映り込んだ半裸のミイラにカッと効果音が付きそうなくらいに見開いた。
「待って、博士これは…」
「きャああア!」
「はははは!」
頬に大きな手形をつくった俺を指差して腹を捻らせるイシードルの哄笑だけがその後暫く部屋に反響していた。
*
朝チュン騒動はさておき、随分と熟眠していたようで実際には太陽は頂点に昇っている頃合いだった。着替えを終えてリビングに出る頃には白日が美しい調度を室内に齎していた。
高層ビルでの惨事の後始末をイシードルに押し付けて、俺と博士はリビングで一杯のエスプレッソの休憩をなだらかな真昼間に委ねていた。
寝室での珍事が尾を引いてるのか、将又人の頬に全力ビンタを喰らわせたことが罰が悪いのか、目を合わせる度に茹蛸みたいに火照る博士にこっちまで居住まいが悪くなってくる。気を逸らしたくて美味しくも不味くもないと判っているエスプレッソの味を問うてみれば「まあまあね」だなんて正直な感想を言い渡された。
お陰で懐に仕舞ったまま忘れかけていたある物を思い出した。レシートやら小銭やらが入っただらしない尻ポケットからそれを取り出して手渡せば、博士は不思議そうな面持ちで小首を傾げた。
「これは?」
「博士の新しい身分証だよ。クレジットカードには十万ドルばかりだけどもう入金してある。酷なことを言うけど今までの人生は捨てて新しい土地で新しい人生を始めるんだ。」
人生のリスタート、言うは易く行うは難し…そう易々と受け入れられることじゃない。喩え拳を振り上げられようとも、悔し涙を流されようとも、どんな反応が返ってきても第二の人生以外の選択肢を与えられない俺は実直に受け止めるしかできない。パスポートからクレジットカード、その他身分証を一つ一つ見分する彼女を俺は只静かに見据える。少しの間それらを眺め続けていた博士は、やがて無言のうちに全てを自身の胸ポケットに仕舞った。
「ありがとう。」
意外にも波一つ立たぬ凪の如く澄み渡った二つの焦茶に真っ直ぐと見詰められると目を見張るのは俺の方だった。罵詈雑言の一つや二つ浴びせられる覚悟でいたというのに、罵倒どころか感謝をされるとは思ってもみなかった。神経を慰撫するような穏やさで紡がれた言葉に惑いを隠せず彼女に尋ねる。
「怒らないの?今までの人生、家族も職場も思い出も全て捨てろって言ってるんだよ?」
「私の為を思ってやってくれたことなのに、どうして怒るのよ。...確かにマルタ・シェアリングを捨てるのは悲しいし苦しい寂しい。けど人生なんてその気になればいつだってやり直せるもの。」
彼女は目尻を温厚にしならせた。明朗とした声音には揺るぎない決意が宿っていて…。
シェアリング博士という人格の内面から溢れ出す凛と咲く一輪の花のような美しさと強さに直面してしまえば、俺は息を詰めるしかなかった。佐藤さんにしても博士にしてもこの世界の女性は心清く優しく、それ故に煌々たる月光のように眩いばかりだ。熟感心させられた俺はこれ以上彼女達の先行きを按じるのは却って失礼と思えた。
もう一つ、イシードルと協力して作ったある物をポケットから取り出して彼女に渡す。ハート型の琥珀が控えめに埋められた、鍵モチーフのブレスレットを。博士の身に危険が及んだ際の緊急警報役として作ったものだ。スイッチ代わりの琥珀を押せば俺かイシードルの携帯に位置情報が届くように設定されている。そう説明を施すと、シェアリング博士はまるで壊れものでも扱うように丁寧に首に付けた。艶感のある茶髪と琥珀は相乗効果を成して一つの宝石のように輝いていた。
「ありがとう、大切にするわ。」
大層嬉ばしげに花笑むものだから、その陽気に充てられて自然と微笑が滲んできた。
「アメリカ行きの飛行機が今日の昼に出るから送ってくよ。」
「ならタクシーを使いましょう。折角だし美味しいお店でも寄りながら行きたいわ。」
「はは、案内は任せて。イシードルも連れて行こうか。」
早速タクシーを手配したところで、何がなしにスピンオフ作品が思い起こされた。シェアリング博士がここにいるなら、アーロン・クロスは如何なったのだろうか。いや、そもそも彼やジェイソン・ボーンはこの世界に存在するのだろうか。ソファにもたれ掛かってチョコレートを味わっている博士に興味本位で質問してみる。
「ところで博士、アーロン・クロスって知ってる?No.4って言ったら分かりやすいかも。身長百七十五センチくらいの焦茶の髪に青い瞳なんだけど。」
博士は目をぱちくりとさせると、「ああ!」と思い至ったようにカップとソーサーをかち合わせた。
「No.4なら知ってるわ。私が担当してたの。そういえばここ半年は研究所に来てないわね、何してるのかしら。」
愕きに共鳴するように、黒く染め直した髪先がちらりと火を纏った。