俺が消えた日   作:れいめい よる

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#アイデンティティ 十二〜十八


奇妙な依頼

 

 

曇天の空が果てしなく広がっている。蝉の姦しい鳴く声は未だ聴こえてこないものの、ザーザーと降り注ぐ水の礫がいずれ夏が訪れることを告げてくる。大抵の人間は辟易とするだろうが、俺にだけは違った。

塞ぎ切ることができずに前進の度に跳ね返ってくる水に眉を顰めつつ屋内を目指して進み続ける。この雨が上がる頃には今年も蒸し暑い季節がやって来るのだろう。早くも夏の到来が待ち遠しくて仕方ない。 

 

土砂降りの中に行手を妨げる程に関心を唆るものなどある筈もなく、黙々と歩いていればあっという間にセーフハウスへと帰ってきた。激しく降り注ぐ雨音に掻き消されていた硬質なコンクリートを踵が叩く不規則な音も、屋内に入ったことで耳に届くようになる。エントランスに入ると迎えの挨拶を告げてくるベルボーイとフロント係に軽く会釈をして、エレベーターに乗る。途中での乗降者もなくロケットさながらに円滑に上昇してくれるエレベーターはあっという間に目的の階に到着した。

傘も差さずに外を彷徨いた所為で服がずぶ濡れになってしまった。身体から発する熱風でドライヤーみたいに乾かせば人間全自動乾燥機の完成である。水分の重みが消えた服に軽快な足取りで中部屋に入れば珍しくも寝癖を直したイシードルが玄関に佇んでいた。

 

「おかえり。」

「ただいま。ジュース買ってきたぞ。」

「お、サンキュー。」

 

帰路にコンビニで買ってきた炭酸ジュースを手渡せば嬉しそうに受け取って「ま、入れよ」などと促してくる。俺が買ったマンションだという事実はとうにすっぽ抜けているらしい。何れにせよ普段からアパート暮らしの俺とは違いセーフハウスに実質四六時中住んでいるのはイシードルだし、追々名義の変更を検討しても良いくらいは内装も相棒仕様になっていた。

 

 

俺が日本に来てから彼此一年半が経過していた。G20サミット以降の数ヶ月間、自ずから荒波を立てずに影を潜めさせていたからかその後魔の手が忍び寄ることもなく平穏な毎日を過ごせている。この世界にいる以上平和という言葉で表すには語弊はあるのだが。  

暇だと喚くイシードルは驚異的な速度でアジア圏の言語を習得したり、最近では俺と一緒に潜入捜査官の二人を除いた警察学校組と仲良く出かけたりして日本を満喫している。

 

余談だが佐藤さんは約束通りあの晩に交わした秘密を守ってくれている。唯、顔を合わせる度に猛禽類の如き眼付きで正体を探る彼女の明からさま詮索が却って他の登場人物に影響を及ぼすのではないかと懸念を抱かずにはいられない。 

その他には気分転換の遠出先で事件に巻き込まれたり、担当刑事がスコッチの兄だったり、テロに巻き込まれかけて阻止したり…なんてこともあったが、偶に訪れる激しくも愉快な珍事件以外はそれなりに充実した日々を送っていた。  

 

斯くいうわけで今日この頃は世界的組織やら何やらの脅威が完全に消え去ったのではないかと錯覚しつつある。唯一の気掛かりといえば元の世界に戻る兆候を一切感じられないことくらいだ。これに関しては煩慮したところで解決してくれるわけではないので気長に変化が訪れるのを待ち詫びるしかない。  

 

表向きは大学生として米花町に住む俺達だが、近頃は別々に個人業を営んでいる。現状経済的に窮しているわけではないがこのままプータローでいれば何れ無一文になるというイシードルの提案だった。彼は情報屋兼ハッカーエリセイとして活動を再開し、俺はエリセイ紹介のボディガードとして働き始めた。とはいえ高額なうえに依頼も厳選されるから仕事は少なく、暇を極めた末に大学に通い始めた。

ところで初登校の俺を笑顔で出迎えてくれた自称友人達に俺が大層驚いたことは特筆すべきだ。ゲームでもあるまいし、人間の記憶の中に突然見知らぬ青年が同級生として認識される筈もない、大方イシードルの計らいで派遣された仕事関係者なのだろうが実際には無関係の他人同士が友人を偽って学業に勤しんでいるのは些か不気味でもある。

とまれ、イシードルと一緒に交代制でレストランコロンボでバイトもしている。もう六ヶ月が経つが松田さん達も頻繁に来てくれるので正直ボディーガードよりも遣り甲斐のある仕事だった。  

 

ついでに付言すると同居するうえでイシードルと取り決めた決まりが幾つかある。

一つ、仕事は互いに自己責任。

二つ、危険が及んだ際は自分の身の安全を最優先に。

三つ、報連相は怠けるべからず。

単純明快で態々態々合意するほどでもないルールだが双方の立場を考慮すれば今一度認識を改めるのは大事なことだ。長くなるので割愛するが、先程のテロに巻き込まれた云々も、イシードルの仕事関連で先に入手した情報だったからこそ阻止することができた。

ともあれ、早朝から河原で体力維持のトレーニングに励んでいたところイシードルから連絡が来て仕事を手伝って欲しいというので、体に纏わりつくような鬱陶しい悪天候を我慢して足を運んだというわけである。

 

俺のセーフハウスはもはやエリセイの仕事場と化していて、とりわけ直近一ヶ月は依頼急増の所為で多忙を極めて部屋に篭っていた。以前、中国の衛生画像を寝落ちしそうになりながら盗んだら逆探知されかけたと笑いながら告げられた時は本気のアルゼンチン・バックブリーカーを仕掛けてやった。いつかコイツが大失態を犯して警察に突入されないようにと願うばかりである。 

 

「それで、今回は何の仕事だ。」 

 

口調を切り替えて問えば彼は何故か上機嫌に口笛を吹いた。

 

「聞いて驚け、あのニュートンから連絡が来たんだ!」

「ニュートン?物理学者の?」

「そうそう、サー・アイザック…じゃなくて、ニュートン・ベイカーに決まってんだろ!くそみたいなボケかますなよ。」

 

余程懇意にしているらしいが露いささかも心当たりがない。

 

「だから誰だよ、お前の知り合いか何か?」 

 

苛立ち混じりに放った問いにイシードルは一瞬眉を顰める。間を置かずに打って変わって真顔になった。

「お前マジで言ってんの。」両肩を鷲掴みにする手を解きつつ俺は頷く。益々眉尻を逆立てた神妙な顔つきが俺を覗き込むと、漸く俺は己の失態に心付いた。こちらが訂正する間もなく彼は確信めいた面持ちで詰め寄った。 

——お前、なんか隠してるだろ。

 

…実をいうとこの世界で生きていくうえでもう一つの懸念があった。この世界に来て早々ノリリスクの空き巣で視たピョートルの記憶が不完全なことと、俺自身の元の世界での記憶が薄れつつあることだ。このサイボーグと疑うほどに高性能な元諜報員の頭脳は瞬間記憶能力を有している。だからこそ焔にとっての友人関係がすっぽりと抜け落ちた日にはワクチンの後遺症を疑ったがそれからも色褪せていったのは俺の記憶に限られた。

人間関係…最近では中学卒業頃までの記憶がまるで水彩画みたいに元から部分的にしか蘇ってないピョートルの記憶と滲みつつある。されど、次元を超えたなんていう奇譚な事情をイシードルに打ち明けられるはずもなかった。 

 

「何というか…記憶がないっていうか、俺が俺じゃないっていうか」

 

あーだのうーだのと返答に思い倦ねていると、イシードルは的確な詰問を矢継ぎ早に繰り出してきた。 

 

「正確にはいつから?」

「ノリリスクで最後に会った時くらいから。」

「俺とは何処で会った。」

「覚えてない。」

「…身に覚えの無い言動を取ったことは?」

「お前とノリリスクで会う以前なら多々ある。」 

 

彼は俺の濁した回答から粗何も覚えていないという意訳を正しく汲み取ってくれた。腕を組み濃い憂慮を顔色に滲ませて深く思考する仕種をみせる。

妙な沈黙が続く。暫時、空中を睨め付けていたイシードルだったがいつしか結論に至ったようだった。 

 

「よく判った。詰まるところ解離性同一性障害だな、うん。」

「…俺が二重人格?」

「記憶が曖昧、身に覚えのない言動、お前の言った離人感…口調だって初めて会った頃とは真反対だし。」

「そうかもしれない。」

「そうかもしれない、じゃなくて他に言うことあるでしょうが。報連相はどこいったんだよ!」

 

額に張る青筋が温厚なイシードルの稀有な本気の気配を窺わせる。真実を明かせない弊害で思わぬ誤解を生んでしまったが上手い説明の施しようもないのでひたすらに平謝りするしかできないでいると、イシードルは草臥れた頬で目頭を摘んだ。そして静かに「こんな大事なこと次からは絶対に言えよ。」と釘を指されれば只々頷くほかなかった。

 

「道理でおかしいと思った。一人称も変化してるし」

「一人称?」

「それすら自覚ないわけ?」

 

もはや呆れというよりかは喫驚を露わにしてイシードルはピョートルが僕っ子だったことを告げてくる。

ピョートルの人格を把握できていなかったので尊敬する諜報員ジェイソンボーンを真似して公私混同を避けた口調を意識していたのだが、どうやらそれすらも俺のとんだ誤解だったらしい。寧ろピョートルは一見諜報員とは思えないほど礼儀正しく柔順で自己主張の少ない諜報員にあるまじき性格をしていたそうだ。俄には信じ難いが十八歳なら未だ成長段階として納得できなくもない。

 

どうにも違和感が拭えず複雑な胸中を抱く俺を他所にイシードルは話し合いは終わったとばかりに必殺仕事人の如き面相に切り替える。エリセイの仮面だった。

 

「お前のその症状に関しては色々とまだ聞きたいことがあるが、こっちが先だ。」

 

彼はそう云ってパソコンの画面を向けてくる。英語の文書らしき一面に二枚の写真が載っていた。

 

「これは?」

「ニュートンからの依頼。嗚呼、そういや焔、はニュートンのこと知らないんだったな。」

 

イシードルの古き良き友人にして仕事の競争相手、元凄腕ハッカーのニュートン・ベイカー。元というのは三年前に結婚してから所属のMI6を辞めてハッカーを引退したらしい。今では子供も二人いるそうだ。

ムラのない粋な茶髪と相似する双眸、ふんぞりかえった鼻尖、国柄の判りやすい目鼻立ちからは英国紳士の雰囲気が漂っている。俺のEU圏内での諜報任務の連絡員の一人で、俺とイシードルの橋渡し役を担ってくれた人物だ。若干二十六歳にしてEkS諜報員管理局に務める程なので凄腕捜査官なのは間違いないだろう。

 

「二年程連絡が取れなくなっていたんだけど昨晩突然連絡が来たんだ。それも依頼人としてな。」

「成程、大体理解した。俺を呼び出したってことはその依頼に何かあるんだろ。」

「ご名答。朗報は今までお前を追ってきた政府に繋がるかもしれないってこと。」

「悲報は」

「任務自体は瑣末だからお前の探しているカナン博士に行き着く可能性は限りなく低い。」  

 

シェアリング博士との一件以降一年間は組織の脅威なんて露ほども感じられなかった。だが、元の世界の記憶まで薄れだしたうえにピョートルの記憶が万全でない以上、今俺がニュートンを認識できなかったように身に迫る危険を感知できない危険性が跳ね上がった。もし偶々街ですれ違った輩がピョートルと因縁浅からぬ関係者だったら?俺が米花町にいることが奴らに嗅ぎつけられれば、芋づる式で俺に関わる人間が消される可能性もある。もう悠長に構えてはいられない。

ピョートルの教育に携わった第一人者カナン博士に会えれば記憶に関する問題を解決できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、人脈を広める為にボディーガード「ホムラ」として活動を始めたのだ。危険が付き纏うのは重々承知だが藁にもすがる思いだった。無論、思い通りに事が運ぶわけでもなく開業してからも大した成果は得られていない。

 

「上々だ、任務の詳細を教えてくれ。」 

「七日後の日曜、羽田空港で自爆テロが起きる。」

「序盤からぶっ飛んでんな。」

 

色々と物申したいところであるが、話の腰を折るなという非難めいた視線を受けて続きを促す。彼は写真をもう一枚見せてきた。

 

「××カンパニーの経営担当のスコット・ベル。裏の顔は黒の組織の傘下会社のCEO、お前がウイルスを注射した研究所だ。俺達が介入した二ヶ月後に自宅での原因不明の爆発事件で表向きは行方不明に。そいつが今、どっかの犯罪組織と手を組んで金儲けをしようと企んでるらしい。」

「ターゲットは?」

「十三日に東都空港で開催されるイカロス航空の二階建て飛行機に搭乗する人物。今回の初フライトには多くの世界企業が投資していた。」

「つまりこの企画がパーになればイカロス航空の株が大暴落し、それにより大儲けする奴らがいるってことか。そしてそいつらに関わってんのが」

「スコット・ベル。しかも乗客にはMI6の経済部長官もいる。」

 

そんな事態が起きれば自爆テロを阻止できなかった日本側に責任の追求がいくだろう。

 

「公安は知ってんのか。」

「既に動き始めてるけどあいつらの情報網じゃ厳しいと思う。そこで白羽の矢が立ったのが、近頃どんな要人でも守り抜くと有名なボディガード…そそ、お前だよ。彼等は長官を影で護衛しつつテロリストが運ぶある代物を奪ってほしいそうだ。」

「ある代物?」

「中身は明かさなかったけどよっぽど大事なモンらしい。長官を護衛して且つケースを奪えばテロが起きようが報酬は倍弾むってさ。」

 

MI6の長官を守りつつ自爆テロを事前に防いで謎のケースを奪う。俺はイシードルが印刷してくれた空港警備の配置や当日の護衛の動線等の必要な資料を徹底的に頭に叩き込んで作戦を練り始める。

 

「まあ、監視カメラとかのバックアップは俺に任せ」

「いや、いい。」

「公安が知ってんなら、当然MI6や他の機関も動くだろう。下手にセキュリティに干渉しちまえばコッチの存在(第三者の介入)に勘づかれる可能性がある。それに…」

 

微かな靄が思案を朧げにさせていた。しかしそれを言語化するには漠然としすぎていて、何より確信もないままコイツに告げるのは気持ちが憚られた。不満げに先を促すイシードルに俺は横かぶりで誤魔化した。

 

「問題ない、これでも元ロシアの諜報員だぞ。全て終わればその代物の場所を指定してくれるだけで良い。いつも通り何かあれば自分の身を最優先に動いてくれ。俺もそうするから。」

「…了解した。」

 

渋々といった調子で同意が零されると俺は眉を八の字にして苦笑してしまった。常日頃から後方支援をしてくれていたから如何にも蟠りが拭えないのだろう。手拍子で二人の間の空気を雲散させると、ふと頭に湧いた疑問を呟く。

 

「そういやその日って雨降る?」

 

間髪おかずにイシードルがキーボードを叩く音がした。いやに嫌味な面相でおめでとうと云われれば一気に遣る気が萎えてきた。

 

「やっぱその依頼やめよっかな」

「待て待て。」 

 

嵐の前が凪のように静寂であること知っている筈の俺達は、この時はまだ不穏な未来を夢想もせずに呑気に笑い合っていた。

 

 

 

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