迎えた七日後の今日、俺は東都空港の国際線第三ターミナルにやって来た俺は警備員に扮して出発ロビー周辺の警備を装い周囲の様子を見張っていた。普段通りの黒髪黒眼の篠宮焔の見目形だ。
既にゲートの先では就航している航空機の最前線で豪華な飛行機が存在感を放っている。搭乗用階段の着脱や清掃整備の為に数多くの職員が東奔西走している。それに加えて近辺を密かに巡警する空港関係者ではない、ある筋の者達が滞りない運航の為に眼光を四方八方に光らせているのを捉えると、何故だかこの多様な職種の人間達の連結模様が社会の有り様を表現しているように見えた。
「それにしても拙いな」
『何が拙いんだ?』
不意に呟いた俺の言葉に、左耳に取り付けていた小型インカムがロシア語を返してきた。それは今朝方の出発前に矢張り心配だからと懇願されて、後援を拒否した手前拒否するには忍びなくて受け取ったものだった。俺は自然仕種で音声機能を遮断した警備員用通信機を口元に寄せて囁く。
「イシードル、任務中は話しかけてくるなと言っただろ。」
「雑談するために付けたんじゃないぞ。緊急事態にのみ使用する約束だろ。」
『はは、悪い悪い。んで、何が拙いんだ?』
何ら反省の素振りのない口調は俺が答えるまで永遠に話しかけるぞと暗に脅迫している。羊みたいに温和しやかに見えて割と恨みを引き摺る質のようだ。
「予想よりも人が多くてターゲットを見つけにくい。それとメディアが厄介だと思っただけだ。」
『それだけ?』
「…それだけ」
予め搭乗者は把握していたけれどもよもや此程の規模のメディア関係者が集って来ようとは、一体誰が想像できただろうか。大方航空会社の広報官が高値でネタを売ったのだろうが、それにしても規制を怠った空港側の意図が図りかねる。第一、第二ターミナルの下見は済ませてあるがこの調子ならば従業員通路を利用できる警備員に扮して正解だった。
俺の回答に懸念を見出さなかったイシードルはそれきり語りかけてこなくなった。
俺は一挙一動を完璧な警備員に見立てて足を進めつつ、脳裏に実行犯の写真を思い起こす。
先日新たに依頼者から送られたテロリストの男は中南米に特徴が見られる褐色肌だった。丸い鼻先に引き締まったたらこ唇。低フェードの頭髪は印象に薄い。
警察庁は外事第四課、国際テロを捜査対象とする部署が出動しているだろう。秘密裏に来日している他国の防衛機関も然り。乗客に扮しているが俺と同様に隙のない挙動で周囲を窺っている様はその世界の者ならば瞥見して気付ける今一つな完成度だ。
搭乗口付近の警戒も程々に俺はイシードルが作成したセキュリティカードで近場の警備員用休息室に向かった。国際線には警備管制としても活用される管理室が幾つか存在している。迷子のテロリスト探しにはもってこいだ。
「お疲れさん。」
「どうも。」
入り口の警備員と挨拶を交わして入室するとオペレーターの視線が突き刺さった。数人が帽子の下に見える若々しい面立ちに怪訝な眼差しを送ってきたものの、次いで時計を見遣って警備員交代の時刻だと誤認してくれたようだった。再び目線をモニターへと落としてブルーライトを浴び始めた彼等の間を通って奥に進めば、仕切りの向こうの特殊区域を映し出した監視カメラを覗き見た。
今回の護衛対象の長官殿は警護の男達を出入口に控えさせて個室内で寛いでいた。着目すべき不審な点は見当たらない。別の映像を具に確認していくうちに、つと業務員用手洗いから出て行く一瞬のみ映ったラウンジスタッフが俺の関心を引いた。
「ん?」
「どうした。」
「…いや、なんでもない。」
全方位を撮影する監視カメラに映る人や物陰の絶妙な物陰に身を隠しつつ移動する熟達した足取り。顔貌は一向に露わにならないものの恰幅の良さは事前に得たテロリストの身体的特徴と一致しているように思われる。
近辺の一般人を装った捜査官の目を掻い潜って蛇行しながら何処かへと進み続けている男が唐突に足を止めた。方向転換をすると運航常務職員用のレストルームに入っていった。
空港の見取り図を振り返るにその部屋には入口は一つしかない。換気口は狭く大の大人が通れる幅ではないので様子見でいいだろう、そう断じて待機の姿勢に入った矢先に例の男がまた現れ出いでた。今度はイカロス空港会社の社章の刺繍が施された白黒の制服を着用して、片手にアルミツールケースを提げて。
直感的にコイツだと理解した俺は呼び止める声も無視して足早に管理室を出た。無線の周波数をセーフハウスに合わせて。
「
『
人混みに紛れて後を追跡する。直ぐ脇を通報を受けた警察庁や他国の捜査官らが第三ターミナル運航常務職員室を目指して先を急ぐように過ぎ去って行った。俺は警備員の服を脱ぎ捨てると下に着ていた白シャツにネクタイを通す。売店のサングラスも拝借してサラリーマンの一般利用者へと変装した。
こちらの気配を悟られぬよう慎重に尾行し続けていると、五分程度歩いた先にある今日は使用される予定のないゲートからテロリストは滑走路に出た。
…イカロス航空の飛行機が離陸予定のC滑走路から二百メートル程度離れた空港警備区域に行き着いた。男は路面点検車の下に回って細工を施しているようだった。それをエプロンに駐機する機体の傍から観察していればソイツは唐突に振り返って…そして車に乗り込み走り出した。
勘付かれた…!テロリストの癖して動物じみた勘の奴だと盛大に舌打ちして目線を走らせる。滑走路には場違いな二台のバイクが停車していた。先日開催された滑走路試乗会で持ち込まれた物だ。俺はこれ幸いと駆け寄ると一台のGB350に飛び乗った。
………。
轟轟と、二十馬力の二輪車が精一杯に鼻息を荒げる音がC滑走路に響き渡る。滑走路と空港警備区域境で生じている異変に作業員達が動きを止めて何事かと騒音の出所を一様に注視し始めていた。
どうにかして法定速度を超えて疾走する路面点検車に追いついた俺はバイクのハンドルを固定する。バランスが崩れないのを確かめるとタンク上に立ち膝を屈して…バネのように大きく跳躍した。
靴が銅板音を鈍く叩いた。着地の衝撃で地面に振り落とされそうになるのを堪えて、四肢の力を最大限に振り絞って屋根にしがみつく。吹き荒れる風に流されるように目線を後方へと送れば、乗り主を失ったバイクが痛ましげな音を幾度となく弾かせて走行中の空港用路面清掃車にぶつかった。急停止した車両から作業員が大慌てで避難したのが捉えられた。
頭上で響いた音で俺の現在地を理解したテロリストが進路をぐるぐると蛇行しながら一気に加速する。俺は暴走馬に騎乗するカウボーイさながらに爪先をルーフモールの僅かな隙間に食い込ませて運転席の窓に手を伸ばす。今日は天気予報通りの大雨だ。雨水に触れれば溶岩は急速に火成岩へと変じてしまう。だが今はそれで十分だ。
パリンッ!掌から放出される高熱に耐えきれなくなった窓ガラスが音を立てて弾け割れた。
人の手によって窓ガラスが割れるという異常事態に怯んだ男はアクセルを踏む足を一瞬緩ませる。その隙を狙って遮るものがなくなった窓のドアバイザーを掴むと、俺は両脚から車内へと飛び入った。
男が反撃に出る。ハンドルから両手を離しこちらを迅速に叩き出す腹積りだった。車体の下回り以外に何処に予備の爆弾を隠しやも推し量れない以上下手に火気を用いるわけにもゆかず、窮屈な空間で鈍い打撃音がひたすらに繰り返される。互いに相手の意識を落とそうと必死だった。
「ぐっ…!」
目紛しく腕と腕が交差し、男が背後から俺の首を絞めようと試みる。
気道が抑えられた。力が強まる一方で、徐々に視界が霞んでくる。咄嗟に目に入ったシガーライターを押し込み通電させる。
——早く、早くしてくれ!
男の腕に爪を立てる。後頭部に手を回す。懸命に踠いて意識を紡いでいると、生理的に浮かんだ涙でぼやける目端で押し込んだライターが飛び出してきた。俺は震える指先を伸ばして赤熱するシガーライターを男の眼に押し付けた。
肉の表面が焦げるような嫌な芳ばしさが窓枠から車内を通り抜ける風に紛れて忽ち充満した。眼球を燃やされる激痛に男が悲鳴を上げる。同時に俺の首に回された腕も緩められた。酸素が一気に意識を冴え渡らせた。俺は直ちに身を捻ると足でドアを蹴り破って、男を外に放り出した。
「はァッ、はあ…!」
上擦った息遣いだけが進路を失った車両内に響いていた。ザザ、という電子音とともに俺の無事を確かめる声が届く。マイクを起動して一言返すとブレーキを踏んで緩やかに停止させた。
車の下にはカプセル式小型爆弾が取り付けられていた。軍で用いられているプラスチック爆弾で威力は破壊工作の精鋭たるC4爆薬に匹敵する。俺は爆弾を慎重に取り外して助手席に置いて改めてみる。既にタイマーは開始されていて爆発までの時間は残り僅かだった。後部座席には地面に放り出されたテロリストがあえなく置き去りにしたアルミツールケースが鎮座していた。それを手にして後ろに回る。
トランクから程良い大きさの機材を発見してアクセルの上に置いた。キキーッと、耳障りな軋みを上げてタイヤが急速に回転する。直後、飛行機とは正反対のターミナル外へと勢いよく発進した。
地面を跳ね回ったバイクと蛇行運転の車はとっくに周辺の作業員達の注目を浴びている。挙句祭り騒ぎの勢いで暴走した車が今、遠方で爆炎とともに破片を飛散させた。片目を潰したテロリストも骨を何本かお陀仏したようで微動だにせず倒れ伏している。直にテロ対処部隊がやってくるだろう。
テロの未然阻止——少なくとも飛行機に被害は及ばず——、MI6長官の心身の安全確保、それから目的の代物入手。曲折あったものの任務は達成した。これ以上此処に留まり捜査官達の世話になる前にと、俺は奪ったケースを確りと持って滑走路を後にした。
*
第三ターミナルに戻る頃には異様な数の要員が異変に気付き騒めき始める人々を静めようとする地上勤務員の努力なんぞそっちのけで空港内を全力疾走していた。雨天の中滑走路上で大炎上する路面点検車の中々の迫力を目の当たりにした利用客らは呑気にも携帯やカメラを掲げていた。
俺は身なりを整えつつ姦しくなる一方の渦中のターミナルからそそくさと離脱して駐車場へと向かった。
「イシードル、任務完了だ。行き先を教えてくれ。」
『お疲れ様。証拠隠滅は俺がやっておくから気にすんな。行き先は西多摩市ツインタワービルのろ」
俺はイシードルの言葉を最後まで聞き届けなかった。通信の最中、突如として得体の知れない気配が背筋を凍り付かせたのだ。
咄嗟に前のめりに身を屈めてから振り返る。完全なる奇襲を回避された刺客は僅かばかり瞠目して、俺の後頭部目掛けて伸ばしていた手を収めた。驚いたのは彼だけではなかった。
確かに滑走路へと踏み出したあたりから妙な視線を感じていた。好奇ではない、獲物を模索するような猜疑心の強い視線だ。その正体とサングラス越しに遂にお眼通りを果たさんと揚々と見返って、まさか絶句する羽目になろうとは。
「僕の日本で許可もなく勝手に暴れるとは、到底見過ごせないな。何処の者かは知らないが一先ず本庁にご同行願おうか。」
どうせ付近のグランドハンドリングスタッフか通り過がりの作業員、それか観察眼の鋭い捜査官だろうと高を括っていたのが仇となった、事もあろうにピョートルの感知能力を欺こうと尾行していた公安の潜入捜査官が出張っていただなんて一体誰が予想できただろうか。
こちらを外国人と見做したのか英語で高圧的に言い放った降谷零に俺は心底慨嘆した。膝から崩れ落ちたい気分だったが正対する男が幾多の死戦を潜り抜けてきた百億の男であるという現実は変わらない。故にピョートルとしての俺は瞬きすら侮れない相手を前に流れ星の速さの如く脳漿を絞っていた。
一向に喋らなくなった俺に異変を感じたイシードルがインカム越しに呼びかけてくる。俺は後で掛け直すと一言返すと相手が何かを言う前に一方的に切電した。
ケースの中身に振動を与えぬよう慎重に地面に置いて日本を背負う警察官と対峙する。
恰もサバンナの肉食動物同士が決闘に挑むかの如く懸待一致の様相で、互いに睥睨し合う。彼はサングラス越しの俺の瞳孔を見極めるように、一寸の挙動も見逃さない確固たる面差しだった。
数秒か、数分か。唯見詰め合うだけの時間が唐突に終わりを告げた。
先手を打ったのは降谷の方だった。
座礼も所作もへったくれもない、とうに刑罰の定まった罪人を打ちのめさんとする看守さながらに、降谷は邁進して距離を詰めると拳を振りかざす。
素早く風を切る音がした。人中を狙ってきたソレを上半身を逸らすことで避け、軌道に乗ったままの相手の肘を力強く掴む。そのまま足払いを掛けようとすると、降谷は掴まれていた肘を捻り抜けて軽やかに後退した。
攻防の火花は散り出したばかりだ。
素早く体勢を取り戻した降谷が綺麗な自然体で大きく踏み込むと、今度は蹴り技を仕掛けてくる。またもや人間とは思えぬ風切りを立てて。俺は咄嗟に両腕を眼前で固めて防御に入った。
強烈な横蹴りを腕が受け止めた。腕に伸し掛かった重みに踏ん張りが効かずに数歩後退る。隙ありとばかりに彼は左トリプルを狙ってきた。
「
猛烈な拳を右脇腹に喰らって体を崩れかけさせる俺に、更に降りかかろうとする追撃を辛うじて躱す。後方転回してから瞬時屈むと、左足を軸にして一瞬俺を見失った相手の足を素早く払った。舌打ちが降ってきた。
バランスを崩した降谷は両腕を構えたまま遠ざかる。円を描くように足を捌きながら一定の間合いを取った。
存外に四肢を大袈裟に使いすぎたのか少しばかり乱れた呼吸を肩で整えながら、瞬き一つせず俺を睨め付けてくる。そろそろ終わらせたかった。
俺はARB特有の構えをつくった。
速やかに相手の首の一点目掛けて突きを繰り返す。当たる、避けられる、防がれて、また当たる…段々と防御が崩れてゆく降谷の鳩尾目掛けて留めの一撃とばかりに
ガッと触知した箇所から気の毒な音を軋ませて、降谷は下腹にめり込んだ衝撃に耐えきれずに呻きながら後ろ向きに倒れた。流石は警備局に配属されるだけあると感嘆すべきか、本来ならば首に入った一撃で時点で卒倒ものの攻撃を耐え抜いたらしい。されども力めて起き上がろうと奮闘しつつも今の攻撃で余力を奪われ生まれたての小鹿のように腕を震わせるのみ。俺はせめてもの牽制にと睨み上げる降谷の頸動脈を圧迫して気絶させた。
避難させていたケースを手にして、昏々と意識を失っている降谷の首根っこを掴んで引き摺り歩く。肩に担ごうとして筋肉達磨の想像以上の重さに断念したのだ。万が一にも日本全土に根を張り巡らせる非合法組織に潜る潜入捜査官としての彼が発見されないようにという俺なりの心配りだ。強く伸してしまったのは申し訳ないが今回は俺にも事情があったから許して欲しいと胸中で謝罪を呟いて。急所への連続で打撃の所為で当分はまともに動けないだろうけれども長期的に後遺症が残らないように細心の注意は払った。
序盤の攻撃でコンタクトが外れてしまったが幸いにもサングラスは恐るべき耐久力で俺の耳元にしがみ付いてくれた為に顔は露呈していない。
人気のない駐車場のとりわけ車通りの少ない隅に寝かせてやると眠り続ける彼に別れを告げずに階下に降りる。
インドリクに跨ると直様エンジンを掛けた。目的地は西多摩市のツインタワービル。クラッチレバーを離すと、俺は鉄の相棒と共に空港を脱出した。
………。
空港に到着する以前と変わらず、天気は土砂降りの雨だった。アスファルトを叩きつけるかの本降りが繊維を通ってじわじわと素肌に侵食してくる冷えた感触は不快感を募らせる。米花町をインドリクを駆け巡りながらも瞼の裏に過ぎるのは今し方初対面を果たしたばかりの警察官の姿だった。
降谷零は俺が紙越しに憧憬を抱いていた通りの風貌をしていた。明るい褐色肌に綺麗な金髪、激しく動いて乱れたシャツの間からは垣間見えた精悍な筋骨からは努力の蓄積が一目瞭然だった。
日本社会の安寧を最上の志に、日々身を粉にして弱気を助ける彼には元日本国民としては頭が上がらない思いだ。学生時代に観た映画では市井の命をその一身に背負い孤独に奔走する姿に何度心打たれたことか。彼のおかげで警察学校に志願する受験生が増えたといっても過言じゃないだろう。それ程までに画面の向こうの闇夜で月光の如く輝く彼は多くの人々にとって憧れの対象だった。
警察学校組が生きていたらといった妄想をしては虚しさを抱かずにはいられなかった。いつか彼等全員が揃って原作の終わりの先を迎えるという奇跡を幾度となく夢想してきた。
そんな何でもない大学生はある日奇跡を叶える力を獲得した。この世界に来れば救済への唯の儚い空想は手堅い現実の目標となったのだ。今回敵対してしまったのは口惜しいけれども、いつの日か敵味方なんて心の隔たりを取っ払って松田さん達みたいに親しく触れ合ってみたい。一つの願いが叶いそうになったら、また新たな希望が生まれるのだから俺という人間は熟欲深い生き物なのかもしれない。
「お前は俺を馬鹿だと笑ってくれるか、インドリク。」
自嘲気味に鉄馬に問い掛ければ、人間語の代わりに潔い鼻息を荒げてインドリクは応えてくれた。心なしか鼓舞されているような感じがして、俺は促されるままに回転数を上げると先を急ぐべく急加速した。