未だ昼過ぎであるにも関わらず、空を覆い尽くす雨雲は太陽が沈んだように都会の景観を覆っている。このままでは天岩屋戸伝説の如く世界が闇に包まれてしまうのではと錯覚してしまうほどに目に映る凡てが昏く鈍っていた。それが己が付けているサングラスの所為だと気付く頃には目的地に到着していた。
東都空港を離れて街を駆け抜けてからビルに至るまでには二十分弱を要した。
依然として得体の知れないアルミツールケースと一緒にビルに入館して早々、まさに映画の世界に飛び込んでしまったかのような見晴らしが広がった。
大理石でできたフロアが白い光を放つ照明に反射しては場外の梅雨を追いやらんばかりに煌めいている。頭上を仰げば豪壮なエレベーターが左右二つに分かれて、時折交差するかの複雑な姿勢で上へ上へと続いている。此処こそが名探偵コナンの聖地が一角、西多摩市が誇る高層建築物、ツインタワービルである。
欣快の至りにその場で浅く飛び跳ねていれば、エントランスの受付係が物言いたげな視線を突き刺してくる。我に返って己を見下ろす。豪雨の中帽子も被らずに力走していた所為でせいで津波を被ったみたいにずぶ濡れになった全身から滴り落ちた水滴が水溜まりを作っていた。一体誰が床を掃除すると思ってるんだ、そんな毒づきが言葉にせずとも犇と伝わってきた。
逃げるようにお手洗いに直行すればエントランスだけでなく細部にまで拘った建築デザイナーの魂が感じられる内装が出迎えてくれた。
個室に閉じ篭って纏わり付く服を脱ぎ捨てると、掃除道具ロッカーから拝借した比較的綺麗なタオルで体を拭く。水を絞り切った服をドアフックに掛けて能力を使ってみる。ゴーゴーと温風が吹き荒れる音が狭い空間に響き渡った。差し詰め人間ドライヤーである。
『んで、何か弁明は?』
念の為にインカムが水漏れしていないのを確認して通信を繋げるや否や、大層不服そうな音色が耳朶に触れた。セーフハウスでポテチを頬張りながらふんぞり返ると思わず口角が愉快めいた歪みをつくった。。
「悪いって、ちょっと厄介な筋肉達磨と一戦交えてたんだ。」
『はぁ…もう善い。んで、到着したわけ?』
「ああ、何階か教えてくれ。」
『六十九階のラウンジ。落ち合うまで三十分余ってる、思ったより早く着いたな。若しかして飛ばした?』
その問いには答えずに俺は人工ドライヤーの風速を上げた。腕時計を確認すればイシードルの言う通り分針は三十分前を示していた。先にラウンジで待機して時間を潰そうか、悠々と思案していれば不平たらしい気配がインカムの向こうで唸った。
『いい加減なんで俺だけ留守番にしたのか教えろよ。』
妥当な詰問だった。というのも、此度の依頼を受諾するにあたってイシードルにはセーフハウスでの絶対待機を約束させたのだ。G20サミットの際も然り滅多に別行動を取らない俺に、元MI6の連絡員の一件に限っては念の為にという曖昧な理由付けで待機を指示されたことが釈然としない胸中は容易に察せられた。
「お前には悪いがこの依頼、どう考えてもおかしい。」
セーフハウスで談義していたときは確証もなく明言できなかったが、東都空港での騒動を通して不吉で不可解な影を俺は確信していた。今回の依頼は何処か引っ掛かる。
そも、ハッカーを引退して円満家庭を築いている男が経済テロの阻止を依頼してくるだろうか。奪取からの手渡しを指定したこのケースだって重みから推し測れば金品以上の価値を秘める七面倒な代物であることは考えるまでもない。
何より、優秀な人材はいくらでもいるというのに事業を起こしてから一年弱の——いくらエリセイの推薦とはいえ——新米ボディガードを選択したのも気に掛かる。MI6の長官は行政機関所属の優秀なSPが毛を逆立てたハリネズミの如く張り付いていて、危険のきの字も見当たらなかった。
何にも増してハッカーとして、EkS諜報員の連絡係として一生困らない程度には稼いだ男が株の大暴落とはいえ、一航空会社の損失を気にする必要が何処にある?イシードルの彼に関する個人的な話では浪費家どころか極度の節約家としての印象を抱いたというのに。依頼内容のどれもこれもがまるで取ってつけたような口実に感じて仕方なかった。
「そういうわけでニュートンは何者かと組んで俺達を奸計に嵌める為に依頼してきたんじゃないかと俺は踏んでたんだが…案の定、今日の空港での捜査官達の振る舞いに確信を持ったわけなんだ。これは絶対に裏がある。」
感じてきた違和感の数々を言語化していくうちに、裡に燻っていた蟠りは益々明瞭化されていた。それを一つ一つ紐解きながら説明をすると、イシードルの動揺と戸惑いの滲んだ弱々しい吐息が聞こえてきた。
『あいつがそんな…根は良い奴なんだ。間違っても悪意を持って俺を騙すような奴じゃないし、誰かに脅されている可能性も』
「あるな。」
『じゃあッ!』
「だからこそお前は待機なわけ。記憶がない所為で情のない俺が直接会って彼の言動から真意を確かめた方が良い。」
『なんでそんな事言うわけ。この依頼を通したのは俺だ、なら責任は俺自身が負うべきだ。』
焦燥を募らせた声調でイシードルは訴え続ける。心配を掛けるほど柔ではない俺を純真に按じてくれる思い遣りと普段は研二さんみたいに浮ついてる癖して肝心な時には度胸を示してくれる相棒が俺は好きだ。人として、友として心から信頼している。だからこそ何が何でも彼を巻き込むわけにはいかなかった。俺を重んじてくれるのと同じくらい俺だってイシードルを大切な存在だと思っているから。
「偶には俺だけに花を持たせろよ。ニュートンは俺が何とかする。何事もなく一杯飲んで帰るだけかもしれないんだしあんま間に受けんなよ。」
何れにせよ今更セーフハウスを出ようたってもう遅いのだ。
通信機は依然として沈黙を貫いている。もう一押しとばかりに懇願籠った音色で相棒と呼べば、漸く彼は参ったとか細く笑った。
『わあった、今回は俺の負けだよ。家で空港の証拠隠滅でもして待っとくよ。…ルール二は?』
「危険が及んだ時は自分の身の安全を最優先に。」
完全に乾いた服を着直して個室を出る。必要のなくなったインカムを外して洗面器に流した。
鏡と対面すれば黒髪朱目の美丈夫がこちらを見詰め返してくる。どうにも幸薄そうな面輪だと呟こうとして、言霊になってしまうような気がした言葉は喉元に引っ込めた。
洒落た黒のスーツを纏えば巧みな妖美さが添加されて若くして出世街道を驀進した大学生企業家もかくやの敏腕家の風格が醸し出された。サングラスを捨てて外れたカラコンの代わりに黒縁の眼鏡を掛ければ、今度は大手IT企業に勤める優秀な社員だ。勿論、腰元に提げたベレッタと足首のタクティカルナイフが無ければの話だけど。
「…よし、頑張れ焔。お前ならできる。」
己を激励して深呼吸する。募るばかりの不穏な予感を吹き消すように。
収まらない胸騒ぎを抱えたまま俺はニュートンが待つラウンジへと向かった。
*
ツインタワービル六十九階。其処には東京に訪った金満な起業家や政府要人までもが酒の憩いを求めて身を運ぶ、会員専用の高級バーが在る。日本語のみならず外国語が絶えず飛び交う東都における最高峰の国際交流場としても名高く、利用客の間では「オリエンタルアイランド」の通称で親しまれている。
備え付けられたカウンター等の具足はどれをとっても高品質を誇る老舗メーカーのブランド名が記されており、心身の安らぎをテーマに暗色に統一され設えられたリクライニング家具はどれをとっても職人の手腕が薄暗がりに光っている。百ルクスに調光されたシャンデリアの下で各席に灯される蝋燭の揺らめきが店内の格調を底上げしていた。
昼過ぎにも関わらず遮光が成されたバーのテーブル席の殆どが埋め尽くされているのは、偏にオリエンタルアイランドが提供する一流のおもてなし精神の賜物である。
ドレスコードの指定されているこの場においては女はめいめいの魅力を際立たせようと雅趣に富んだドレスを身に纏い、男は皺一つないスーツで成熟した英俊の強調を試みる。昼はひねもす夜は夜もすがらアルコールとネームバリューに酔いしれようと勇んで来店した客達を、これまた練達のバーテンダーとラウンジスタッフが爽やかな笑顔で迎え入れるのである。
控えめでありながらも内容の色合いを際立たせる澄明なグラスに注がれた酒を嗜みながら豊かな身なりの者達が談笑する贅沢な光景は手の届かぬ者にとってはハンカチを噛み締めるに違いない栄華を映し出していた。
斯様に豪壮なバーの入口付近、仕切り板の向こうで一人掛けのレザーソファーに腰掛ける男が居た。
上品な茶髪と調和を図る明眸皓歯は外国人であると一目で見抜ける濃い目鼻立ち、同フロアに居座る他の客達と同様の良質な焦茶の正装をしている。緊張が齎す居住まいの悪さか、将又別の要因か、己の左手首に巻き付く金の腕時計を確認しては机下で忙しなく足を組み替えている。
バーという空間で乾燥した酒も頼まず口内を潤すためだけに水を口に運ぶ様は明らかに誰かを待ち侘びていた。獲物を物色しにカクテルグラスを掲げる女達は話しかける機会を伺いつつも何れ訪れるであろう何者かを各々静思していた。
——不意に、ベルを鳴らしてエレベーターが同階に到着した。女声のアナウンスが入口付近に響き渡る。
開かれたエレベーターから一人の若い男がオリエンタルアイランドへと一歩を踏み入れた。途端、店内を漂う空気が変貌した。
黒檀のような黒髪に国籍を感じさせぬ紅い眼、百八十センチはあろう均整のとれた高い上背。品性を保証する場を弁えた正装。鼻筋の通った小顔は雪のように白い肌と相乗効果を成し、絵画から出てきたかの錯覚に陥らせる程であった。美麗という称揚が此程までに似合う人間は世界の何処を探しても他にいまい。茶髪の男に続き絶世の若紳士を目の当たりにしたラウンジ内の女達は息を呑んで青年ともいうべき若々しい美貌の虜になった。
一方で四方八方から注がれる好奇の眼差し尻こそばゆさを感じた男は係員に声掛けると 颯と仕切り板の向こうへと姿を消した。彼の背中を最後まで見送った多くの女が、茶髪の男との関係性に喫驚と安堵をもって想像を膨らませた。次に二人が現れた際には彼等の魅惑的な声音に陶酔できんことを切に願って。
*
係員にバーの仕切りの奥のテーブル席へと案内されると、レッドベルベットのシェルアームチェアに腰掛ける男が居た。名前を呼ぶとニュートンは俯かせた面を上げて待ち侘びていたとばかりに立上がった。
「久しぶりです、ピョートル。お元気でしたか。」
「見ての通りだよ。久しぶり。」
いっそ清々しいくらいにぎこちない笑顔を貼り付けた彼と握手を交わすと、促されるまま対面のソファーに掛ける。傍に控えるラウンジスタッフを目配せで呼びつけると炭酸とジンを頼んだ。ニュートンとは対照的なスタッフは朗らかな微笑を浮かべると丁寧なお辞儀で去って行った。顔を戻せばニュートンが素っ頓狂な面相で俺を凝視している。
「まだ水しか飲んでないようだったから。」
「え、ええ。構いませんよ。」
拙い返事をするニュートンを俺は改めて正面から見据えてみる。
イシードルの紹介通り実際に対面すれば事前の想像とはまた異なった印象を受けた。元ハッカーと聞いていたので無精髭を生やした引き篭もりみたいな姿形を想像していたのだが、寧ろ何処かの御曹司と言われた方が納得ができるくらいに垢抜けた雰囲気をしている。
無遠慮に観察する俺の視線に更に居心地を悪くしたのか、怪訝そうに何か、と尋ねてくるので俺は首を横に振った。
「エリセイから聞いた通りの見た目だと思ってな。」
唯でさえ顰められていた柔らかな眉頭が余計に屈曲した。
「貴方とは何度もお会いしたでしょう。」
「ああ、
さぞ不可解な面持ちを諒解に変えてやるつもりもなかった。どうせ此処には悪魔達が潜んでいるのだから。他でもないニュートンが呼び寄せた悪魔が。
「MI6の長官の護衛は随分と骨が折れたよ。」
彼は答えない代わりにMI6という単語に顕著に反応を示した。露骨に指先を忙しなく絡めては小刻みに足を動かしだす様は緊張に弱い典型的に難儀な質の人間だ。俺は密かに憐れみを抱きつつ、ニュートンが敢えて触れようとしない横髪で塞がれた右耳に指を伸ばしてみる。案の定、露わになったのは小型の通信用インカムだった。
俺が策略に勘付いたことでニュートンは顔色を豹変させる。謀ったのは彼なのにまるでこちらが恐喝しているみたいだった。その恐怖を宿した双眸を見据えると、唇に人差し指を当てて黙らせる。耳元に流れる指示に従うように目配せで促せば、彼はともすれば震えてしまう喉を俺が注いだジントニックで誤魔化した。
「今はエリセイと一緒にいるとか。組織を抜けてからずっと何処にいたんですか?」
「アジアを動き回っていた。今日は仕事があるから日本に来ただけだ。」
「家は?」
「千葉の方にセーフハウスを一つ。他にも香港やバンコクに。」
罷り間違ってもイシードルの居場所が割れないよう嘘を織り混ぜて答える。組織の人間に対しては猜疑心の強い元諜報員の手応えの無い返答を続けていれば、茶番に勘付かれるのも時間の問題だろう。悠長にしている場合ではない。
紙とペンがなかったので指先で卓上に断続的に線を引いていく。モールス信号だ。
「エリセイから結婚したと聞いた。」
——何があった
「はい、有難いことに子供も二人授かりました。」
——家族を人質に取られた
「結婚式に参加できなくて残念だ。」
——指示を出したのは
「気持ちだけで十分ですよ。」
——MI6
俺は唸りたくなるのを堪えた。恐らく俺がニュートンの繋ぎでエリセイの手を借りて組織を離脱したのが露見したのだろう。それならば彼の家族が人質に取られたのは俺の責任だ。
「ちなみに、
「
「はは、是非とも貴方の新たしい家族に会いたくなったよ。…っと失礼、知人から連絡が」
「お気になさらず。」
携帯を取り出すとイシードルに事態を報せる。
『モナコでニュートンの家族が人質に。家族の救助とニュートンの保護を。この携帯はニュートンに渡す。』
相棒ならばこれだけの情報で全容を読み取ってくれるだろう。後は彼の技量に任せるのみ。
携帯を仕舞うと気つけにジントニックを一口飲む。炭酸の清涼感と、ニュートンのよりも濃度を高めたヘンドリックスの仄かな苦味と甘味、鮮烈な香りが俺の闘志を掻き立ててくれた。
「失礼。それで、依頼に関してだが例のケースは手に入れた。」
——家族に関してはもう心配はいらない
「いえ、お疲れ様です。鍵を下の階に置いてあるのでそちらにご案内しても?」
——何とお詫びすれば良いのか
「構わない。そうだ、折角なので連絡先を交換させてくれ。」
——エリセイがセーフハウスで待ってる、携帯貸せ
「分かりました。」
差向ケースを譲渡して、代わりに渡された携帯にセーフハウスの住所を暗号形式で打ち込む。多少難解だが、冴えた彼ならば難なく解けるだろう。そろそろ俺達の話を盗み聞きしてる奴らも密話を察知する頃合いだった。
俺は会計を済ませてニュートンを連れ立ってバーを出る。
エレベーターに乗り込み、ロビーへのボタンを押してドアが完全に閉まってからニュートンのインカムを踏み潰した。呆気に取られるニュートンにインドリクの鍵と俺の携帯を強引に握らせる。
「このままロビーに向かう。敵の数は分かる?」
「い、いえ。ただバーで接待するようにと命じられました。作戦は一切知らされていません。」
「インカムを壊したから連中はロビーで盛大に出迎えてくれるだろう。俺が奴らの気を引くからその間に裏に停めてあるCVOに乗ってセーフハウスに迎え。エリセイが匿ってくれる。…暗号は解けたよな?」
「はい、しかし貴方はどうするんです?」
「戦力が不透明な現状で先を予測するのは難しい。若し俺がセーフハウスに戻って来なかったらエリセイに松田さん達には上手く言っといてくれと伝えてくれ。頼んだ。」
「私のせいで、本当に申し訳ありません...!」
「善い、元は俺が貴方を仲介にした所為だ。責任を取るのは当然だ。」
エレベーターの自動音声が一階に到着したことを告げる。閉口ボタンを押したまま、懐からベレッタを取り出すと分厚い隔たりの先の気配を探ってみる。
入口付近に横一列に二十人、エレベーターを囲むように八人、全員武装しているうえに正面を集中的に建物を包囲している。エレベーター内部からも人員が下降しているのが視えた。
「プラン変更、先ずは貴方を裏口に逃す。ドアが開いても兎に角俺の後ろに隠れててくれ。合図を出したらすぐに裏口へ走れ。」
戦場には赴いたこともないが、極度の緊迫感というものはきっと今の俺達が直面する危機に際してエレベーターを手狭なエレベーターに漂う差し迫った空気と同じくらい厳しい重苦しさなのだろう。
…フロント階に着いた。俺はニュートンが確りと頷くのを確認すると開閉ボタンを押した。
危機感のないアナウンスに従って徐々に扉が開かれていく。滑らかに、悠長に。そして一人分の隙間ができた瞬間、俺はこじ開けるようにしてエレベーターから飛び出した。
果然真正面で待ち構えていた武装集団に.40S&W弾を打ち込む。連続してフロントに反響した銃声を合図に夥しい銃弾の雨が行き交い始めた。
「
急所に被弾した幾人もの悲鳴と、制止の怒号が銃弾とともに飛び交う。全方位からの反撃が俺に辿り着く直前に炎上網をつくって敵の視界を塞ぐと後ろに向かって叫んだ。
「今だ!」
俺の懸声に弾かれたようにニュートンは駆け出す。炎幕を飛び越えて来た果敢な敵を撃ち払いながも徐々に交代する。後方の連中が消化器を取り出したのを見留めると、牽制も程々に身を翻しニュートンの背中を追いかけた。
一直線に続く裏口に迫ると第六感を全稼働させて外を伺ってみる。
ざあざあ降りの中、扉前に二人、十メートル離れた位置に十八人。一体何処から此程の人員を日本政府に黙って結集させたのか、是非とも工作の秘訣を聞きたいところだと嫌味ったらしい舌打ちが漏れた。
拳銃で纏めて潰すには面倒臭い、何より騒動を大きくすれば通報を受けた警察が駆け付けて逃亡の成功率も急落する。こうして考え倦ねている間にも正面玄関を包囲していた別働隊がこちらに回ってきてるのが視えていた。
迅速に戦術を捻り出して蓋然性の高い幾つかを採用すると、軽く息を吐く。
この先は敏捷性と正確性のみが己が命運を左右する。俺は早速ニュートンに動かないよう指示して扉を蹴り破った。
けたたましく軋んで倒れた扉の正面に二人、心臓を狙い撃った。声も漏らさずに崩れ落ちた二人を一瞥もせずに次なる標的へと目線を滑らせる。視野に映り込む全ての敵を。
引鉄を引きつつも全身から沸々と湧き上がる灼熱に意識を集中させる。
止まれ、動くな、逃げ場はない。阿保の一つ覚えみたいに放たれる警告を無視して、サウナで汗を滲ませるように腕から溶岩を垂れ流す。この悪天候下で炎は使うことはできない。だがたとえ火が使えなくとも雨にも負けない紅蓮のエネルギーがあるじゃないか。俺の脳内に明確に描かれているのは某海賊世界のマグマグの実の能力。流星火山と同様に周囲への被害が危ぶまれるので是迄に試したことはなかったが…こんな正念場で使わずして一体何時使えば良い?
熱と共に漲る戦意に釣られて己の口角が吊り上がっていく。
溶岩が十二分に溢れ出す様に俺は前をみすえるとに、目に見えない壁を殴りつけるように左腕を突き出した。
「犬噛紅蓮!」
渾身の叫びに合わせて放たれたマグマは見る見るうちに犬の形をとり、十八に分裂しながらまるでそれぞれに意思があるかの動きで男達に襲いかかる。本家とは違い身体を炎やマグマに変化できない分下位互換だが、自分の身体から放った熱ならば一定の距離内で自在に操れる。
「ガァアア!」
「熱ィあツいアツイ!」
「化け物だッ」
千二百度の獰猛な犬達の前に男達は成す術もなく断末魔を上げながら絶命した。自業自得だと吐き捨てて、それ以上誰も起き上がってこないのを見定めると俺はニュートンの腕を引っ掴んでバイクの所まで連れて行った。
インドリクに跨り渡した鍵でエンジンを始動させるニュートンに気紛らわせのヘルメットを被らせる。
「右のカーブを回ってから左に進んで、通り道をしてからセーフハウスに向かうんだ。」
矢継ぎ早に言い募った俺にニュートンは何度も点頭して元から白い肌が青褪めるほどにハンドル握り締めた。雨滴のついたシールドで表情は見えないものの、彼を纏うオーラが暗示的な悲観色に彩られているのを視てしまえば罪悪感が切実に伝わってきた。俺は悔恨の念に苛まれる彼の背を押すように叩く。別れの挨拶は要らなかった。
「どうか気をつけて。」
それだけ言い残すとニュートンはキックペダルを踏み込んだ。もう振り返りもしなかった。ズドドドと激しい排気音を発生させて、全てを押し流す濃い雨の中をインドリクで駆けて行った。
…彼の後ろ姿が完全に見えなくなるのを見届けた頃に、タイミングを見計らったかのように正面から回ってきた別働隊が現れた。
ニュートンの逃亡に気付いていないのか、将又標的が登場した時点で用済みであったのか、俺を視認した途端ショットガンやらマシンガンやらを障害物の影から一斉射撃してくる。先程の連中とは異なり殺意の濃度が桁違いだ。間一髪で回避を試みるも避けきれなかった散弾が横腹を掠めた。
イシードルが新調してくれた白シャツに生々しい鮮血が滲んでゆく。続け様に右頬をつと一筋の赤い雫が伝った。ほつれて動きを阻害してくる忌まわしいスーツを脱ぎ捨てて、ネクタイも解き捨てた。
と、軌道を見極めることに集中しすぎた所為で両端から突進してきた男達に反応が遅れてしまった。
強烈なタックルが両脇から伸し掛かる。三人揃って勢いよく吹っ飛んで建物の中へと逆戻りした。
半ば下半身を引き摺るようにして抑え込みから抜け出せば、屈強な男二人が追撃を仕掛けてくる。瞬時に身を起こして蹴りと拳を使って骨を折る。覆面の下から悲鳴が聞こえた。
ソイツらをベレッタで撃ち殺したところでまた別の奴らが突入してくる。間断なく放たれる弾雨に後退を余儀なくされた。
…敵は予想以上に巧妙だった。日本の司法なんぞ知ったことかと云わんばかりの武力行使は大胆不敵極まり、豊富なサブウェポンを駆使して距離を縮めようと猛攻する。彼等は疑いようもなく本国から呼び寄せられた精鋭だった。
いつしか俺は奴らの策略に嵌り最初のエレベーターの前に追い詰められていた。だからといってこちらも易々と弄されるつもりはない。徐々に八方塞がりになった俺は到頭炎を纏わせた。
だが次の瞬間、ビーーー!と火災警報機が耳を劈いた。天井のスプリンクラーから冷水が豪雨の如く放出される。
「
予備の弾倉はもうない。炎の手段も奪われた。
悪態吐いてナイフを取り出す。イシードルがこういった事態に備えて軍用のタクティカルナイフを特殊な素材で加工して作った千度まで耐久できる命綱だ。
俺は亀裂の入った伊達眼鏡を捨てて、ブレードに高熱を纏わせた。
そこからは熾烈な殺意の応酬が繰り広げられた。
自分の持ち得る才能を最大に使い、真向かってくる弾丸を弾き返す。時に回避し、相手の急所を掻っ切り。細胞に刻まれた呼吸法で常時息を整えつつ致命的な一撃を刻んで、また避ける。遮二無二でナイフを振り回し続けた。だがそんな攻防も増援の所為で疲労は蓄積するばかりだった。
ザシュッと肌を切り裂いて、何十人目かの男が崩れ落ちるのを視界の端に、俺はまた背進した。無限に散水するスプリンクラーが煩わしいことこの上ないが能力が全て使えなくなったわけじゃない。
刃毀れの目立つナイフを落として左腕に力を濃縮させる。溢れ出すマグマを目にした男達が危険を察知して退く。
犬噛紅蓮と同様、本家と比べれば雲泥の差だが狭い屋内で使うには十分な威力を発揮する究極の技と謂える。物質を溶かす灼熱が拳に集った。メジャーリーガーがボールを投げるように、俺は大きく左腕を頭上に振り上げると心の中心で叫んだ。
——流星火山!
刹那、高層ビルの頂上まで打ち上がった溶岩の塊が数多に分裂し加速しながら急落下し始めた。
「退避ー!」
誰かが肺腑から叫んだ。石造りの床を踏み鳴らす足音を大災害の轟音が無惨に掻き消した。
ドン!ドンドン!
地上に墜ちた高温の岩石はステーキでも焼くかのように凡てを飲み込んでゆき…やがて地上から生命の息吹が消えた。
陳腐な謝罪は、無意識に口から出てきた言葉にかき消された。
火災報知器がウォンウォンとけたたましく鳴り響く。
合図を受けたスプリンクラーがより一層激しく水を放出させ、冷たいシャワーが徐々にボコボコと沸騰する床に溜まった熱湯を冷ましてゆく。人も物も全てが跡形のなくなった空虚なビルの中心に俺は佇立していた。
一周回って熱というものが分からなくなる程に上昇した体温にしとど浴びる水は氷みたいに冷たい。数分が経過して漸く固まりつつある凸凹の足場で放心したように自身の両の手を見下ろす。流れ去った筈の他人の血がどうしてだが俺の目にはへばりついているように見えた。
…自業自得だ。俺はまた、か細く囁いた。
「そうだ、死は最初からそこにいるんだ…だから」
——その時、硬質な靴音と、粘着的な纏わりつくような視線が背筋を撫でた。
俺は素早くナイフを構えて顧みる。そうして視野が捉えた景色に思わず喫驚を漏らした。
…如何にも紳士的な装いの小粋なスリーピースーツのズボンに両手を突っ込み、入口を塞ぐ外国人。高い鼻梁と頬骨、海のように深い碧の相貌が聞かずとも男の出身を語っていた。オールバックの茶髪を撫で上げ高慢ちきな目付きでこちらを見据えている。長官殿だ。俺が昼のイカロス航空の催事に際して東都空港で密かに護衛していた筈のMI6経済部門の長官が憫笑を浮かべて立っていた。
意想外の人物の出現に俺が動揺を示した一刹那の隙だった。
突如として首に衝撃が走った。蜂に刺されたような短く鋭い痛みだ。ナイフが床に転がる。空いた手で痛みを感じた箇所に触れれば極太の針が刺さっていた。
遠方を探れば向かいのビルの屋上で麻酔銃らしき物を構えて伏せる覆面のスナイパーが潜んでいた。とんだ間抜けだった。突撃隊に気を取られるあまりスナイパーの存在を失念していたのだ。
急激に回り始めた麻酔で平衡感覚が保てずに膝を突く。抜き取ったところで効果は鎮まるどころか益々眠気が増す一方だった。近寄ってくる長官の背後から更に複数人の男達が現れた。
瞬きの後には目線が床と同じになっていた。どうにか指先だけでも動かそうと試みるも上手く力が入らない。そればかりか思考能力すらも奪われつつあった。
「—————。」
——霞がかった眼前で男が何かを言っている。その言葉を理解するよりも先に、襲いくる眠気に抗うことができずに俺は意識を手放した。
*
「随分と久方ぶりだな、ノリリスク。」
麻酔が効き己の挨拶が届く前に夢の世界へと旅立った青年を見下ろす。二年の月日が経過しようとも世界そのものに愛想を尽かしたような美貌は衰えを失ってなどいなかった。
ピョートル・ノリリスク。表向きの身分はFSBの諜報員として、裏では機密軍事同盟を結んだ先進国の政府機関の子飼として管理されていた筈の人間兵器。約一年半前に消息を絶って以降、英国諜報部が厳選した人材で構成された特別捜査班が血眼になって足跡を辿っていた青年が今、己の足元で平伏している。
ノリリスクの失踪以前に他国の諜報部が施した保険から彼の行方に関する連絡が送られたのは一年前のこと。機関の中でも最も謎めいた部隊を出動させるか、或いは特別捜査班で完結させるべきかを議論し始めてから実に無駄な月日を費やしたものだ。それが半年前になって、私の説得により漸く重い腰をあげた外務大臣の命令でMI6の権勢を誇るべく長年欠席していたMI6東都支局での会議への参加を決意することになった。
私は更に確度の高い情報を得てから特別捜査班に命じて緻密な作戦の検討と周到な手回しをさせ、国防省に無理を云って本国の特殊部隊までをも呼び寄せた。準備は万全、あとは獲物を罠に引っ掛けるのみだった。
そして今日、滞りなく会議を終え空港の待合室で今か今かと待ち侘びていた私に班員は朗報を告げてきた。この機を逃せば二度とNo.2をMI6が単独で捕らえられる機会は訪れまい。よもや此程までに甚大な被害を生み出すとは予想だにしていなかったが。
能力の持ち主から離れても尚熱を放ち続ける御影石が屋内を真夏日和の如く蒸していた。見渡せば彼のEkSによって殲滅された特殊部隊班たちの肉塊が其処彼処に転がっている。天まで届かんばかりに立派な高層ビルも、恰も此処だけが局所的に被爆したかのように何もかもが熔融していた。一度解体し建て直す以外に再起させる道はないだろう。
日本のパトカーのサイレンが遠い彼方で喚いている。今後本国に帰ってからひっきりなしに寄せられるであろう警察庁からの苦情電話に既に嫌気が差す心地だが、又それを遥かに上回る歓喜が私を包んでいた。
拘束具を施されようとも子供のように熟睡するノリリスクを死体袋に入れてビルを後にする特別捜査班に続いて私も踵を返す。英国軍が開発した強力な麻酔を撃ったので短くとも三日は目覚めないだろう。次に目を醒ませばCIAが抱える秘密研究所の地下深くに繋がれていよう。
「ベル長官、例の鞄、、、がベイカー諸共消えました。」
「良い、放っておけ。どうせ使い捨ての駒に過ぎない。」
心地良いレザーの座席に背中を預けると額を水滴が伝った。…否、水滴などではない、あの茹だるような建物に滞在した束の間に滲んだ汗だ。腹の底から湧き上がる法悦が私の口角を緩ませた。
ハンカチで拭って窓の外を見遣る。丁度二台のパトカーが近辺の住人の通報を受けて到着したところだった。薄鈍いとばかり思い込んでいた日本の警察も存外素早いじゃないか。
私は部下が寄越したハンカチで汗を拭いつつ、この素晴らしき朗報を一刻も早く報告すべく携帯を握った。