我思う故に我あり ——ルネ・デカルト——
自分を自分たらしめるものとは何かを考えた時、いつもこの言葉が最初に浮かんでくる。誰しもが一度は聞いたことのある高名なフランスの哲学者が遺した言葉だ。自分の存在意義を問うた時に簡単に答えを見出せる人間なんてこの世の何処にもいないだろう。何故ならばこの普遍的な哲学の問いこそが有史以前からの人類が生涯を費やして自問自答を続ける最大の課題であるから。それこそ畢生の証明とも謂うべき試練だから。
森羅万象を疑い自分の存在すらも疑う。それでも尚、人は追求することをやめない。それがヒトを思惟する人間たらしめる最大の価値なのである。
「——以上です、ご静聴ありがとうございました。」
青年が些か冗長的な発表を尤もらしい言葉で締め括ると、乾いた拍手が教室に疎らに響いた。適当に会釈をして席に戻った彼に誰よりも真心の籠った称賛が掛けられた。
「焔君、今回も素晴らしい発表だったよ。」
「ありがとうございます、教授。」
大学一回生となった焔が学内で尤も懇意にしている哲学部の教授だ。新学期が始まった四月の半ば、講義の度にパソコンを両手に抱えて質問を持ってくる熱心な生徒に、満更でもない気持で付き合っているうちに彼の潜在的な哲学思考を看破したのが始まりであった。自宅にまで押しかけては輝いた相貌で有為な議論を交わそうとする焔に度肝を抜いた教授が個人授業を開いて以来、半ば親子めいた関係を築きつつある今日この頃。
一生に一度の大学生活において友人関係に何ら興味を示さぬ優等生に懸念を抱く反面、彼との議論を毎回待ち望んでいる己に絶妙な葛藤を覚えているのが近頃一番の悩みである。尤も、教授の悩みの種たる張本人が聞けば一言であしらわれ新たな議題を寄越してくるのは目に見えているので決して悩みを口にしないのも彼の裡での暗黙の誓いだった。
「今日は用事があるので俺はこれで。」
普段ならば発表を終えるや否や詰め寄ってくる焔が今日に限ってはそそくさと荷物を仕舞う様に教授は小首を傾げる。滅多にない素っ気無さに暫し思見る。
——若しかして彼女が?いやまさか。なら友人かな?
もはや教授の中ではこの研究者気質の青年が恋人に己の時間を消費するという有り得ようもない可能性は全面否定されていた。己の最たる悩みが解消されたことを勝手に悟ると、彼は転じて恰も彼自身が友を得たかのような上機嫌ぶりで「…ああ!楽しんでおいで。」と両手を潔く振った。
一方でそんな教授の父親じみた腹案なぞ知る由もない焔は、一瞬眉頭を怪訝に寄せたものの直様鞄を肩に掛けて大学を後にした。
*
「あっつ。」
鳴き止む術を知らぬように昼夜合唱する蝉噪が殊今日だけはやけに耳に障る。じりじりと照りつける太陽がアルファルトの温度を必要以上に上昇させ、ヒートアイランド現象を発生させて俺に熱を反射してくる。どれだけ拭っても額から垂れてくる汗は遠慮というものを知らず、半袖の薄いシャツを濡らしていく。こんなことなら日傘を持ってくれば良かったと、今になって悔いたところで後悔先に立たずだった。
アイスを求めて三軒梯子したコンビニは全て品切れ。このままでは熱中症で倒れそうだった。
高校時代の交換留学でホームステイでお世話になったロシア人家族が来日するからと、嬉々として出迎えの為に早めに学校を出たのに再会が病院だなんて情けない事態だけは真っ平御免だ。
爽やかな笑顔で数年ぶりの友人と抱擁したい、唯それだけが今の俺の気力を保つ希望だった。
茹だる暑さに項垂れて覚束無い足をどうにかこうにか前に進めて、やっとのことで別のコンビニに辿り着いた。
聞き慣れた入店音も今じゃ教会で結婚式を挙げる新郎新婦にとっての鐘の音にも等しい尊さがあった。近辺の他店舗とさして変わらぬ内装の店内を奥へと進むと、最も渇望している宝を発見した。俺はアイスを掴んで有頂天に飛び跳ねながら会計へと走った。
「あれ、もしかして焔じゃね?」
イートインコーナーで身も心も震わせながらアイスを頬張っていると、不意と妙に聞き覚えのある声が俺は呼び掛けた。最後の一口を噛み砕いて振り返る。リュックを背負って恐る恐るといった風に伺っていたのは、高校時代の昼飯仲間だった。
………。
「へえ、結局哲学科に進んだんだ。」
「え、何その顔。なんでニヤニヤしてんの。」
「別にー?ま、高校ん時からずっと小難しい本読んでたもんな。ひょっとすると哲学者として教科書に載ったりして。」
「冗談。教授は褒めてくれるけど、俺みたいにそこそこできるやつなんて海外に行けばいくらでもいるよ。」
「できるのは認めるんだな、優等生。」
久々に肩を並べてアイスを食いながら帰路に就いた俺達は、所代わり地下鉄烏丸線今出川駅のホームのベンチに座っていた。思い出話に花を咲かせているうちに、卒業したって変わらない友人の能天気な笑顔に自然と暑さも忘れて頬が緩んだ。
「そういうお前こそ京大の医学部だろうが。現役首席合格なんて凄いじゃん。ていうかそういうのは合格した時に言えよな。」
「普通に忘れてたわ。俺は代々医者の家系だから渋々行っただけですぅ。」
全国の受験生に謝れと思わんでもないが、野暮な発言は飲み込んで一発のデコピンをお見舞いしてやった。
「まあまあそう拗ねんなっていつか俺が倒れるようなことがあったらお前に診てもらうって決めてんだからさ。」
そう云った途端に顔をあげて大喜びする変わりようには苦々しく笑うしかなかった。
「まじで!そんじゃ頑張っちゃおうかな。看板は「二十一世紀最高の哲学者が通院中」なんてのはどうだ?」
「ダサい。つーか俺万年通院確定じゃん」
「ええっ、何でだよ絶対人来るって!」
名門に通ってるとは到底思えない阿保な繰り広げているだけで、色んな思い出が蘇ってきた。授業中に居眠りして二人して廊下に立たされたこと、テスト勉強で互いの家に入り浸ったこと、一足先に彼女ができた俺に号泣して見捨てるななどと夜中に布団に潜り込んできた夜、卒業式で巫山戯て校長に叱られた同級生のことまで。どうして卒業以来疎遠になっていたのか甚だ不思議でならないくらいコイツとの間には俺の青春が詰まっていた。成人式まであと僅か、きっと白髪が生えて皺くちゃな老人になったって気の置けない仲で有り続けるのだろう、そあってほしいと切に願った。
電車が来るまでの間、隣り合って座って様々な話で盛り上がる
一面に広がる美麗な雪景色だ。幻想的な世界観に相反する廃れた街並みに独り佇む青年を中心に茫茫と広がっている独創的な構図だ。突然黙り込んで絵画を眺め始めた俺に、友人が視線の先を辿った。
「うーん、俺滅多にここ使わないから知らないけど…アレ、いつも飾られてんの?季節真逆じゃね。」
「いや、俺も初めて見た。なんか見てるだけで引き寄せられるっていうか不思議な心地がする」
「なに、お前芸術も分かるやつだったの?凄えな。」
「そんなんじゃないって」
態とらしく茶化されて小っ恥ずかしさにそっぽを向けば、友人は面白可笑しく笑った。瞬きの後には彼の絵画への興味は消え失せいた。近況に話頭を戻した友人に相槌を打っていれば、端なくも誰かの声が耳朶を掠めた。
「———。」
「ん?」
「どうした?」
「…いや、なんでもない。」
誰かが語り掛けてきた気がした。だが周囲を見渡しても友人以外にホームには誰も居ない。気の所為にして再び会話に戻った矢先、またもや幻聴が聞こえた。
「む、ら…」
まるでエコーをかけたような囁きが。俺の耳元で。
「え?」
「何なに、どうしたんだよ。」
「今俺の名前呼んだ?」
「呼んでない、ていうか俺の話聞いてた?」
「あ…悪い。」
何処を振り返っても声の主は存在しない。風が喋ってるわけでもあるまいしと、若干の薄気味悪さを感じつつも、不貞腐れる友人に意識を戻して…
「焔」
「誰っ?」
「ちょ、お前マジで怖いんだけど。」
今度こそ明朗と耳朶に触れた呼びかけに俺は立ち上って左右を見回す。やめろよな、と大袈裟に肩を摩って肝を冷やす友人には目もくれずに、今し方の鮮明な声の方角を辿ってみる。そうして至ったのは先程の絵画だった。
そんなはずがない、そう振りかぶりたいのに頭を固定されたかのように目が離せない。
雪のように白い肌と髪、白黒写真みたいに色褪せた雰囲気に際立つ深紅の瞳。それでも絵画に過ぎない青年に惹き込まれるようにして見つめていると、卒爾として隣の気配がなくなった。音も消え失せた。愕いて顔を動かせばベンチに座っていた筈の友人の姿は何処にもなかった。
俺は愈々怖くなって後退る。すると再び名前を呼ばれたような気がして絵画に視線を戻した。
その時、酷い耳鳴りが襲った。暴走列車が目前を通過する騒音に似た耳鳴りが平衡感覚を奪おうと頭の中で反響する。足場が無くなった感覚に陥って崩れ落ちた。これ以上聞いていればおかしくなりそうで力一杯耳を塞いでも雑音は大きくなるばかり。
パキパキ、パキパキ。凍った湖に亀裂が走るかの如く、突として裂け目の生じた世界が瓦解した。
………。
いつしか俺は見通しの悪い真っ暗闇に包まれていた。辺りを見渡そうとも無限に続く底無しの闇だ。そう、まるで深淵に引き摺り込まれたみたいだ。
走っても走っても四肢が動いてる感覚すらなく、出口のない世界を彷徨うにつれて孤独感と絶望が募っていく。恰も魂だけが肉体から抜け出てしまったかのようだった。
俺は走るのを止めた。そもそも何故こんな場所に居るのだろうか。現状に疑問を抱き始めると、徐々に理性的な思考が戻ってきた。
そうだ、俺は名探偵コナンの世界でピョートルという青年に成り代わったんだった。右も左も分からない俺を助けてくれたのが元ハッカーのイシードルで、日本に渡ってからは二転三転しながらも警察学校組の救済に勤しんでいた。ボーンシリーズとクロスオーバーした世界線なだけに途方も困難にも見舞われた。それでもイシードルと二人でどうにか凌いで来たというのに…遂に組織の連中に居所が露呈した。いや、露呈というには語弊がある。カナン博士の言い分では奴等は随分と前から俺の所在を掴んでいた。だというのに敢えて泳がして最適な釣りの機会を伺っていたのだ。
MI6に捕縛された後は恐らくCIAの数ある研究施設の一軒に監禁されていた。粗憂さ晴らしみたいな尋問にもあって…待てよ、でもさっきまで俺は元の世界で大学に通ってたじゃないか。高校時代の同窓と再会して駅で怪奇現象が起こって。ホームに飾られていた絵画、あれに描かれていたアルビノの青年は間違いなく今の俺だ。それと同時に俺はピョートルでもあって、ピョートルもまた俺自身で…
あれ、俺って誰だ?
段々と霞に包まれるように己の輪郭が、存在すらも朧げに霞んでいく。凡てが泡沫の夢の如く有耶無耶に消えてしまいそうだった。
——果てのない暗闇に支配された空間に一筋の光が射し込んだ。燦然たる太陽の如き光線を放つ光源が輝いている。魂そのものが焼き尽くされそうな恐怖が湧いて俺は固く目を瞑った。
……だが想像していたような悲劇は起きなかった。眩いばかりの光が何かに吸収されて収まっていったのだ。僅かばかり輝度の上がった瞼裏に俺は恐々と瞼を開けてみる。
あの底知れぬ暗澹とした寂寥感が嘘みたいに一掃された昏い虚空の只中にアルビノ姿の、自身が何度も鏡越しに見たドッペルゲンガーが立っていた。
誰?彼の正体は心が直感しているのに自然と問いが溢れた。生きているのか不思議なくらいに能面のようなドッペルゲンガーは俺を真っ直ぐに見据えていた。
「僕は君だよ、焔。」
一輪の竜胆さながらの達観的な相好に澄み切ったロシアの秘境を思わせる清らかな音色だった。
「ピョートル・ノリリスク」
彼の名を呼ぶとピョートルは眉一つ動かさずに、けれどもそこはかとなく淡い喜びの通った雰囲気で頷いた。
自分が成り代わっていた人物が今、目の前にいる。まるでスポットライトが当てられたかのように、二人の立つ場所だけが明るく照らされている。こんな状況でなければ舞台の一幕を鑑賞していると勘違いしていただろう。
焔…焔…そうだ、俺は焔だ。二人を包む陽だまりのような温もりのお陰で、俺は自己の存在を今一度確かめるように名前を反復する。途端に意識を失う前の記憶が鮮明に脳裏に蘇った。
「悪い。お前の体、傷つけた。」
成り変わったのは不可抗力とはいえ人様の体で好き放題に活動し、剰え預かりものの肉体を連中に預けたまま意識を失ってしまった。東都で首を突っ込んだ数々の事件を鑑みても俺のことを快く思ってはいないだろう。弁明のしようもなく力無い謝罪を溢した。それと同時に俺達がここにいる間にも進行しているであろう現実が気になった。
「俺はどうなったんだ。」
「心配しないで、五体満足だよ。それよりも謝らなければならないのは僕の方なんだ。」
意想外な言葉に面を上げてみる。端正な愁眉を曇らせてピョートルは俺を見透かしていた。
「君は元の世界に戻ることができない。あの日、僕が君を求めたから、君は僕に成り代わった。」
*
然る事情から政府機関によって人徳に背いた処遇を受けて以降の数年あまり、ピョートルは喜怒哀楽が酷薄な人間兵器として組織に勤仕してきた。感情がなければ不測の事態に際して焦燥することもない彼にもはや欠陥品の烙印が押されることは無くなった。常時百パーセントの遂行率で任務を達成してきたピョートルはEkS覚醒傍聴員No.2として上層部に重宝されてきた。
だが或る日、波風立たぬ彼の深層に一筋の風が吹いた。
繁忙が祟った故か、連日の体調不良を報告せずに暗殺任務に就いたピョートルは瑣末な失態を犯して手傷を負う羽目になった。
彼の魂には恐怖だけが刻まれていた。手ぶらで本部に帰還すれば折檻は間逃れない。地獄に君臨するルシファーよりも残忍なカナン博士が想像出来得る限りの手法で身も心も嬲り殺さんとするだろう。その悍ましさに耐え忍ぶ術も心構えも端から無かった。かねてより燻っていた鬼胎だけが絶対服従の楔を引き抜く気焰と化した。たった一つの負の感情が情緒を押し留めていた人工的なダムを決壊させたのだ。その結果、ピョートルは任務に際して本部との連絡手段であった
だが予想外に追手が多く、残息奄々になりながらもピョートルは辛うじてノリリスクの廃墟に身を潜ませ当分の難を凌ぐことにしたのであった。
廃れた街の中心部で朦朧となりゆく意識を繋ぎ止める彼の視界に、つとプロジェクターもかくやの映像が映し出された。走馬灯かと己の正気を疑ったもののそれは紛れもない現実だった。
映像に映し出されていたのはピョートルが見たこともない何処かの国の駅で己を見詰める一人の若者だった。
黒髪黒眼の東洋人めいた外見の青年は鞄を片手に駅のホームに散らばった紙を拾い上げていた。屈んだ所為で彼の鞄からはパソコンや筆箱が飛び出していた。さぞ煩わしげな溜息を吐きながらも紙を集めようとする所作の隅々から生来の穏健な雰囲気がありありと滲み出ている。
そんな大学生らしき青年を眼差しているだけで己が十数年前に自ら破棄した別の選択肢が情景となって浮かんで、ピョートルの胸は張り裂けんばかりに痛んだ。又同時に牧歌的な調和を漂わせる映像とあったかもしれぬ己の凡庸な未来とを重ねて荒んだ心が癒した。
太古の人間が太陽に焦がれたように、ピョートルは映像へと手を伸ばした。けれども指先は虚しく空を切り、朦朧としていた意識が視界を狭めていく。瞼を閉ざす最後の瞬間、彼はせめてもの祈りを込めた。
——願わくば、僕も彼のようなごく普通の人生を生きてみたかった。
*
「次に目を覚ますとこの空間に居た。僕に成り代わった君が嫌味一つ言わずに組織から逃れようと必死に足掻いている様をこの深層からずっと見守っていたんだ。」
ピョートルの口から語られたのは俺が彼に成り代わるまでの出来事だった。醜怪な大人が黄ばんだ歯をちらつかせて紡いだ世界平和という綺麗事に乗せられて、国際的な諜報機関に加わったピョートルが決して報われない道を走り続けた悲劇が海よりも深い哀調で紡がれた。
平静を装おうとして、終いにつれて震え出した調子で吐息の如く吐き出された謝罪に俺は徐に口を開いた。
「別にお前の所為なんかじゃないだろ。」
ピョートルは俯き加減の顔を上げると瞠目した。微かな見開きだったけれども、それでも表情筋の劣化した彼が最大限に驚いていることは伝わった。
「お前みたいな境遇にいたら誰だってそう願う。…確かに突然住む世界が変わって残してきた家族や友人のことを思うと不甲斐なさと孤独で死にたくなった瞬間だってある。このまま消えてしまえば元の世界に帰れるんじゃないかって。だけど家族みたいに大切と思える存在に出会えた。」
それに実のところ前の世界での俺は物足りなさを感じてた。原義的に愛知を意味する学問について教授と語り合う日々は確かに充実していた。実家暮らしの俺はホームシックを患うこともなかったし、望めばいつだって同級生と友達になれた。それでも一心に哲学に熱中したのは現代社会に生きる人々の生きづらさというものを何処かで感じ取っていたかもしれない。
刺激が足りない、物淋しい、拭えない漠然感。そんな取り止めのない虚しさが常に心の何処かで振り子時計みたいに行き来していた。哲学を学ぶからこそ人生の意味が判らなくなる瞬間がくると教授は以前云っていた。俺はまさしくその瞬間を生きていたのかもしれない。
譬えこのまま好調な学生生活を歩んだとして、所詮はちょっとばかし優秀な大学生止まり。大した出世なんて叶わずその他大勢と似通った平凡な一生を送るんじゃないかと名状しがたい不安さえ募らせていた。だから、
「若しかするとお前の願いに応えたのは神様でも能力なんかでもなく、俺自身だったのかもしれないな。」
そう本心を吐露すると、ピョートルは矢っ張り竜胆の蕾が綻ぶように花笑んだ。そんな笑い方もできたのかと俺も笑った。
「ほむらって呼んでも良い?」
「おう」
「ほむら。」
「ん」
「ありがとう。」
少しばかり訛りのある呼び方だった。何だか映画の感動的な場面を再現してるような感じになって、須臾の間二人揃ってこそばゆさに歯に噛んだ。
それから俺達は隣り合って座って、互いの人生についてを語りあった。
「にしても人生ってどう転ぶか分かんないな。俺なんてただの文系で、典型的な陰キャだったのに。」
「知ってる。焔の中学時代の記憶の中で女子に話しかけてこっぴどく振られたのも見た。」
「げ、そんなんまで見てんのかよ。プライバシーの侵害だぞ、プライバシーの。」
「ごめんなさい。」
「マジに謝んなよ、冗談だから。」
どうにも感情表現がとことん下手糞なピョートルはこちらが扱いに戸惑う節があった。時折覗かせる成熟しきってない幼さは俺に弟ができたような心地にさせてくれる。それにしても、俺達がこうして話している最中にも現実世界の進行が過って仕方ない。話を深めるにつれて浮き足立った俺に気付いたピョートルが胸中を察して時計でも見るみたいに空の闇を見遣った。
「焔が尋問されていたのは二ヶ月、それから僕達の頭を勝手に弄っていた期間が二ヶ月くらいかな。念入りに検査して任務復帰への障害がないと診断されてからの約一年間は僕が代わりに表に出た。此処に沈んだ焔の意識体が中々見つからないからこれでも焦ってたんだ。」
「つまりアイツら四ヶ月も俺を虐めてくれてたわけ。本当腐ってんな。合算して粗一年半…って一年半!?」
衝撃的な事実に弾けるように身を起こした。一年半は拙い、非常に拙いぞ。スコッチの救済も事前準備も何一つ済んでないってのに…!悠長に雑談している場合ではないと、今にも闇の彼方へと走り出しそうな俺をピョートルが制止した。
「スコッチのことなら問題ないよ。君の記憶と想いを共有してるから僕が手を回しといた。エリセイと接触して警察庁内の裏切り者と諸伏景光の居場所の特定を頼んだんだ。けどそろそろ起きないと厄介なことになるかも。」
彼の言葉に俺は安堵に胸を撫で下ろして、けれど最後の奇妙な台詞に首を傾げた。
「起きるって、お前の身体だろ。俺はお役御免なんじゃないのか。」
「それは、ある意味ではそうなんだけど」
肯んじた彼はやけに歯切れが悪かった。焦ったくて詰め寄れば、彼は渋々といった風に胸襟を打ち明けた。
「本音を言うと僕は疲れてるんだ。この十八年間の総てに。だから君をこの世界に呼んだしこれからも君に任せたいと思ってる。」
「俺が身体を勝手に使って、嫌な気持ちにならないわけ?」
「ほむら、君だから…そうやって僕を気遣ってくれる君だからこそ、僕は安心して肉体を任せられるんだよ。」
一切の躊躇いのない口調だった。俺を正視する奇麗な面輪に表明された強い意志が、本気で身体の所有権を明け渡すつもりだと告げてくる。俺は勘案する。少しばかり複雑な心地は否めないが、他でもない張本人が覚悟を示してくれたのなら。
「けどお前の身体は貰わないよ。これから警察学校組を救済して、大学に通って就職もして…お前が望んだありふれた生活を送ろう。だからさ、ピョートル。お前が再び人生を再開したいって願うその日まで俺はお前の身体を預かることにする。」
彼は突然目頭を覆った。こんな暗がりでは、震え出す透き通るように白い指先を見なければ彼が泣いているとは分からなかっただろう。「ありがとう。」と掠れた音色が静謐な空間に零れ落ちると俺でさえ感傷的な気持ちになった。感情を共有しているというのはこういうことだったのだろう。
彫刻みたいに華奢だが強靭な肉体を抱き締めてやると、程なくして震えは治った。ピョートルは赤くなった瞼を擦りながら額を突き合わせた。
「よく聞いて。僕達は超能力を保有する数少ない人間の中でも五指に入る逸材だ。彼等は決して諦めずに何度だって連れ戻そうと画策するだろう。だけど僕は…僕達は抗い続ける。」
一生ものの傷痕を心身に刻まれた実験室の光景がフラッシュバックした。思い出したくもない地獄がもう感じない筈の痛覚が鮮やかに再現されて身震いが起こる。拷問とも謂うべき責め苦の数々が人格に影響を及ぼしてはいないか、そんな懸念すら覚えてしまう程に辛く耐え難い四ヶ月だった。
「君にお願いがある。」
ピョートルの温かな両手が俺の頬を包んだ。不屈の精神を反映した双眸が寄り添うように俺を正面で見据えた。
「今から君に僕の記憶を渡す。」
「え?何言って」
「僕が君と成り代わるまでの十八年間の記憶。だけどその一割が欠けてしまってる。僕が候補生に志願した理由、組織に反抗した直接的な要因…誰かに奪われてしまったみたいに思い出せない記憶が幾つかあるんだ。僕はそれを思い出したい。だけどそんなに気張る必要はないよ。時間に余裕ができた時にでも探って欲しい。それが僕の願い。」
「ちょっと待て」
「あと目覚めたら驚くだろうけど、冷静に対応してね。それじゃあ記憶の旅にいってらっしゃい。」
待てこら。思っていたよりも人の話を聞かないピョートルを止めようとして、ぐらりと視界が揺れる。
「何かあれば僕を呼んで、いつでも見てるから。...まあ、危険が及んだ時は勝手に出てくるかもだけど。」
そうして終ぞ別れの挨拶を交わすこともなく、ブラックホールに吸い寄せられるみたいに視界が暗転した。