俺が消えた日   作:れいめい よる

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ゼロ

 

 

悲劇の発端は携帯に届いた一通のメールだった。 

『悪い降谷。奴らに俺が公安だとバレた…。逃げ場はもう、あの世しかないようだ。じゃあな零…。』

 

腕を振り乱し、両脚に力を込めて走り続ける。肺の中の酸素が尽きようが構わない。この世でたった一人のかけがえのない幼馴染の為に、冴え返った夜道を直走ることに心血を注いだ。人生で大一番と謂えるくらいの全力疾走だった。

 

月は素気無いまでに白く輝き街灯の乏しい闇路を浮かび上がらせていた。人気のない都会の市街は森閑に充ちて星々が堕ちてきそうな重たさを孕んでいる。通行人すら寄り付かぬ廃れた団地を駆け抜けるにつれて、恰も墓場を突っ切っているかの心胆までもが凍りつく境地に陥っていた。

 

つっかえるような呼吸を何度も繰り返して上手く空気を取り込むことすらできなくなった頃、遂に辿り着いたのは郊外の廃ビル。微風に軋みをあげるくらいに老朽化した外観は冬霧も相俟って幽霊屋敷もかくやの様相だ。風見に探らせた景光の携帯のGPSが示していた場所が此処だった。

陸に揚がった魚みたいな喘ぎ呼吸をどうにか堪えて心拍を落ち着ける。ここが正念場なんだ、しっかりしろと自身に鞭を打って。

孟冬に滴り落ちる汗を腕で乱暴に一拭きすると、僕は大きな一歩を踏み出した。

 

「頼む、まだ死んでくれるなよ…ヒロ!」  

 

景光を保護することだけを一心に思っていたこの時の僕は、まさか己が如何なる弊害を生んでいただなんて、想像が及びもしなかった。神様でも悪魔でも良い魂だってやるからヒロを助けてくれと、非現実に縋り付くくらいには正常な判断を失っていた。

 

カン、カンッ!と一歩を踏み出す度に錆びついた階段が逸る鼓動を表していた。後少し、もう一息でヒロを救える。屋上への距離が縮まるにつれて疲弊していた身体は嘘のように軽くなっていった。だが夜は無情にも己の駆け足よりも引鉄の方がずっと軽いと僕を諫めてきた。

 

…耳を劈く絶望が空高く響いた。咄嗟に宙に浮かせた脚を止める。全身が硬直した。仕事柄、夢の中ですら聞き馴染んだそれは紛れもなく発砲音だった。

心臓が一際大きく脈打つ。危懼と絶望とが一瞬にして脳内に弔鐘を鳴り響かせた。最悪の光景が脳裏を掠める。僅か数秒の金縛りから解き放たれた僕は一目散に階段を駆け上がった——。

 

…やっとの思いで錆びれた鉄扉を蹴り破った先で己が目の当たりにした光景は、直前の最悪最低の想像には反していた。解体工事なんてしなくとも数ヶ月後には倒壊してしまいそうな屋上で、立格子に凭れ掛かってヒロが蹲っていた。スコッチの人格でも物柔らかな吊り眼は不安定に揺れ動き胸は不規則に弾んでいる。相貌を苦痛に歪めて止め処なく血が零れ落ちる右手を抑えていた。それでも彼は生きていた。慥かに呼吸をして己の面前に生身で存在していた。それだけで凍りついた血液が正常に巡り出した。けれども僕が安堵に弛緩しなかった…否、できなかったのは彼の足元でこちらに背中を見せる男が居たからだ。

 

「バーボンか。」

 

潜入している組織の幹部ライ。コードネームを授けられた当初はジンの命令でスコッチと共にスリーマンセルを組んで任務に勤しんだ。七百ヤード遠方から的の中心を正確に狙い撃てる練達のスナイパーで、狙撃技術に限らず怜悧狡猾で抜け目のない厄介な男だ。協調性のない一気狼で飄々とした態度がどうにも気に食わず顔を合わせる度に険悪になる、僕にとってはジンと肩を並べるほどの警戒人物だ。其奴が今、僕の目の前で黒の組織の裏切り者となったヒロを粛清せんと拳銃を握っている。

己の弛みかけたねじが引き締まるのを感じた。腑が煮えくりそうだった。僕は歯軋りを堪えてバーボンの仮面を貼り付けた。兎にも角にもライとヒロを引き離さなければならない。

 

「一体どんな輩が僕の獲物を取ったかと思えば…貴方でしたかライ。スコッチの確保ありがとうございます。裏切り者の尋問は僕の方が適しているのはよくご存知でしょう。ここからは僕にお任せ下さい。」

 

ただでさえ連続殺人鬼のような顔貌がより一層極悪非道な趣に顰蹙した。そんなに手柄が欲しいのかと貪欲な殺し屋をこの場で罵らなかったのは奇跡に等しい。 

 

「ご安心下さい、手柄なら貴方に譲ってあげますから。どうぞ帰ってジンに好きに報告し」

「待てゼロ。」

「なッ、スコッチ!」 

 

窮地に瀕するヒロの為にライと対峙しているというのに、如何いう心境か他でもない本人が僕の渾名を呼んだこと僕は泡を食った。果然、「ゼロ?」と所得顔になるライはその頭脳をもって今は胸に秘めいていた旭日章に勘付いた。一巻の終りだった。ヒロを責めるよりもこの危地を逃れるのが喫緊となった今ライを始末するのもやむなしと拳銃を抜こうとして、ヒロが放った台詞にライも僕も動きを止めた。

 

「待てって!多分俺達は同類(、、)だ。」 

「成程、長い間とんだ茶番をしていたようだな。」

 

ヒロは酷く神妙な顔つきで僕とライを交互に見据えた。

魂が抜けたみたいに呆ける僕を差し置いて、二人は得心がいったと謂わんばかりの眼差しを送り合っている。到頭置いてけぼりを食らうわけにはいかないと詰め寄ればライが尻目を寄越した。

 

「嗚呼、君には自己紹介がまだだったな。俺は赤井秀一、FBI捜査官だ。」

「FBI?FBIだと?だが僕達(公安)は…」

 

同類、FBI、それらが示唆するところは一つしかなかった。僕の潜入時にこちら(警察庁)連邦捜査局(FBI)からの捜査共助要請があった旨は長官から伺っていない。それは即ち、事あるごとに尤もらしい理由付けで警察活動における国際法を軽視して他国の警察機関の手を煩わせるアメリカの十八番捜査が日本でも横行していたということで…。いくらスパイ防止法がないとはいえよくも正式な手続きもなしに無断で僕の日本にと、腸を煮えくり返らせて詰問しようとした僕をライ基赤井秀一が遮った。

 

「積もる話はあるがその前に此処を出よう。君が駆けつける直前に何者かがスコッチを狙撃した。」

「何だと?」

「恐らくスナイパーだ。ゼロ、一先ずお前のセーフハウスに向かおう。」

 

赤井の手を借り立ち上がって辺りを見渡すヒロに従い僕も目線の先を辿る。廃アパートの周りは不気味な闇が立ち込めているだけだった。霧は濃度を増すばかり、スナイパーと思しき影はおろか一寸先も不明瞭。けれども拳銃らしからぬ銃声を聞き届けたのも事実だし何よりヒロが負傷している。詰まるところ脅威はまだ去ってなどいなかった。

一足先に階段を降りていった二人の後を追いかけるようにして僕はその場を後にした。

 

 

セーフハウスに着いて早々赤井の口から順順に語られたのはあの廃アパートでの衝撃的な一幕だった。組織からの一斉通知でヒロが警視庁公安部に所属するNOCだと知れ渡って僅か半刻後、丁度僕が風見に教えられた住所に到着した頃のことだった。僕よりも早く屋上へと至った赤井は破滅を悟って自殺を試みようとしたヒロを制止した。己の身分を明かし、二人が腹を割って話そうとしたところに別の脅威が訪れた。…僕だ。僕が自暴自棄になって階段を駆け上がった足音を新たな刺客と勘違いしたヒロが赤井の腕を振り切って自殺を図ろうとしたのだ。その時に闇夜を劈いた一発のライフル弾がヒロの手から拳銃を弾いて、その隙に赤井が彼の安全を確保したというわけだった。

あろうことか己の存在が却って幼馴染を死に追いやるところだったこと、宿敵にも似た厭忌を抱いていた赤井が引き留めてくれなければ僕はあの場で死体となったヒロを見下ろしていただろうこと。それら凡てが僕に忸怩たる思いを抱かせた。

 

「だから自殺しようとした彼をあまり攻めてやるな。」

「ライ、その言い方はよしてくれ。」

「すまない。だが君を救うならば尚の事慎重さを欠くべきではなかった。今回の失態は彼にとって教訓になるだろうから言っておきたくてな。」  

 

釈然としない心持ちで向かい合っていた僕の心境を正確に読み取った赤井はやや指弾するかの物言いで云った。 

ヒロが赤井を咎めるが僕は一言(いちごん)を返す余地はなかった。FBIと公安、違法捜査云々の確執を差し置いても何よりも真っ先に義理を通すべきなのは僕自身だった。

 

「いや、お前の言う通りだ。僕が悪かった。きっと僕は間に合わずにヒロを殺していた。」

「ゼロ」

「赤井、ヒロを救ってくれて心から感謝する。」

 

衷心からの謝意を示せば、ライとして日常的に飽きるほど見てきた刺々しさが雲散した。口角に乗せられた温容さは僕もヒロも立場故にこれ迄に一度として目の当たりに出来なかった彼の本質を表していた。

片隅で直感的には感じていた。双方が属する社会を承知していればこそ、何れ対峙する日が来ると判っていればこそ認めたくなかった。この寡黙な狙撃手がその実思慮分別に長けた心根の善い男で、不器用ながらもさりげない気配りで任務の遂行を後方から支えてくれていたことを。… 気性が合わないのは否定しようもない事実だが。それでも彼がこちら(正義)側だったことに愁眉を開かずにはいられなかった。 

 

仕切り直して、僕たちは建設的に本題に移った。

 

第一に、庁内で蠢いてると思しき利敵行為の元凶、その全体像を把握できるまではヒロをFBIの承認保護プログラム下に置くことを断じた。赦されざる不道徳を犯した輩が判明した暁には公にFBIと協定を結び黒の組織を壊滅する為に両機関が折衝できるように上に頼み入ることも。勿論現段階ではあくまで一捜査官同士の口頭約束に過ぎない。三者が同じ最終地点を目指しているが故に話合いは比較的速やかに纏まった。 

 

………。

 

「何?…判った、引き続き調べてくれ。…ああ頼んだ。」

 

風見からの通話を切ると卓上の時計を見遣る。時刻は早朝四時を指していた。窓外の街の景観は微睡みから覚醒へと移ろう薄明を空一杯に描いていた。連日に渡る徹夜の所為で治まらない頭痛を醒ますようにバーボン喉に流し込んだ。燃えるような熱が体内を巡って少しばかり倦怠感を紛らわしてくれた。

そんな僕にヒロが気遣わしげに休憩を促してくる。米神を抑えて片手を振り払うだけに留めると、昔から殊人の変化に関しては鋭敏な幼馴染は不心得な面相をつくった。僕は溜息を零した。

 

「緊急事態で駆り出されてたんだ。昨晩、本庁に何者かが侵入してある物を置いて行ったものだからその対応に駆り出されていた。」

「興味深いな。ある物とは何だ?」 

 

好奇心を掻き立てられた赤井がソファーの背後でロックグラスを回していた。

 

「ゼロの記録保管室への侵入という警備の体たらくに上を下への大騒ぎだというのに、侵入者があんな物を置いていけばそれこそテロリストの宣戦布告と捉えられてもおかしくないだろう。」

 

素直に打ち明けてしまうのは何だか癪に障って勿体ぶって一度区切った。

 

「プルトニウムだ。三キロトン分の核爆発もある。」 

 

まさに開いた口が塞がらない呆然ぶりの二人を滑稽だと撮ってやりたいところだった。さもありなん、このような異常事態に僕だって叶うならやけ酒に明け暮れたいところである。

 

「犯人は明らかになったのか。」

「いいや、痕跡すらない。」

 

幽霊の仕業などという戯言まで出回る始末だが、人員を割いて全精力を傾けて残痕を掴めないようでは現実逃避に走る捜査官がいるのも無理もない話だ。潜入捜査官の身の僕に出来ることといえば本部が何かしらの手掛かりを発見できることを願うことだけだった。

それよりも現時点で拘うべきは半刻前の一件であった。赤井が推定した狙撃距離にして千ヤード相当の現場に風見を向かわせたところ見事見通しが当たったのだ。どうやら影も形も見せない第三者は赤井と同格かそれ以上の腕利らしい。

ヒロが驚愕に息を呑む一方で赤井は瞬時瞠目したものの、心底悦ばしげに目尻を歪ませた。

 

「ほぉ。この冬霧の中、高層ビルから諸伏君の拳銃を正確に狙い撃つとは相当な自信家らしいな。実際に腕前も大したものだ。」

「薬莢は回収されていたが幸いにも手練のスナイパーは怪我を負っていたようだ。おまけに火急の用事でもあったのか拭ききれなかった微小の血痕が目地に残っていた。資料を検査してから該当する犯罪者が居ないデーターベースで照会してもらう。」

「結果が楽しみだな。」

 

誰か一人でもDNAが該当すれば良いのだが。如何してか僕には立て続けに起こる珍事件が蜘蛛の糸の如く繋がっているのではないかと突拍子もない妄想を膨らませずにはいられなかった。きっと疲労で脳がやられてしまったに違いない、らしくない不安を誤魔化すようにグラスに残った最後の一口を含んだ。メーカーズマークのオレンジと蜂蜜とバニラの調和の取れた甘味が心を癒した。

僕はソファの軟性に全身を預けた。数時間後にはまた登庁しなければならない。ヒロのこともプルトニウムの件も含めて処理すべき課題が山積みだった。

 

——嗚呼そうだ。ヒロが離脱するなら僕がもっともっと頑張らなければ。

今だけは思い巡らしたくもない覚悟を口の中で温くなったバーボンと一緒に流し込んだ。複雑で繊細な口当たりが胃に沈むと、釣られるようにして僕の瞼は閉ざされた。

 

*   

 

東京都米花町警察署、殺人や傷害事件等の盗犯捜査を主軸に担当する刑事部強行犯捜査三係。犯罪蔓延る大都市において管轄地域の保安に勤めるべく早朝から登庁する警察官らの多くの姿が各事務室で見受けられた。

印刷機やシュレッダーの稼働音、コンピューターの冷却ファンから電話口の張り上げ声まで多種多様な雑音が今日も今日とて刑事課に溢れている。誰もがめいめいの業務に空が白んだばかりの時刻よりあくせくと励む日常茶飯事の後継の中、佐藤もまた書類業務に神経を尖らせている複数人の警部補の内の一人であった。

 

「うーん、おかしいわね。」

「どうした佐藤。」

 

纏め終えた解決済みの事件の報告書を幾度となく捲り直しては小首を傾げる様に、松田が声掛けた。稀有なことに姿を見せた。常時遅刻魔と揶揄される刑事の早朝出勤——それも欠伸一つしていない——を目の当たりにした佐藤ばかりか付近の警察官らは揃って三度見した。

「あら、松田君。珍しいわね。」佐藤は書類を置かず目線のみを上げた。稀有な刑事の登場に反応を示す場合ではなかったのだ。「書類が三枚無くなってるのよ。誰かが持っていっちゃったのかしら、ちゃんとクリップで止めておけば良かったわ。」と、つと己の足元を指した松田の先を辿って地面に散乱していた三枚を発見すると、彼女の頬は茹蛸もかくやに染まった。実に十分余に及ぶ無益な時間の浪費を取り繕うように松田に向き直った。

 

「ま、松田君こそどうしたの?今日は萩原君と伊達さんと焔君に会いに行く予定だったでしょ。」

「アイツらには先に行ってもらった。少し調べたいことがあってな。」

 

そう云うと彼は己のデスクと真向かった。直様パソコンを立ち上げ手先を忙しなくさせる松田からは普段の傍若無人な気配は一切感じられない。異様なまでの真剣な顔付きに違和感を禁じ得ない佐藤は身を乗り出した。 

何事かと問うても松田は答えない。返答の代わりにキーボードを弾ませると、蒼卒と動きを止めた。画面をじっと凝視する。それからいつまで経っても微動だにしない松田を見かねた佐藤は画面を覗き込む。そして同様に顔を硬ばらせた。

 

『戸籍附表調査結果

・篠宮焔 該当なし  

・アラン・隼人・クリスチャンセン 該当なし』

 

 

 

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