乳白色のけぶった薄明が夜の帷を薄ませやがて初々しい朝陽が雪原の彼方から浮き出してきた。重さに耐えきれなくなった積雪が重力に抗うことなく枝から落下した音で起床した。混じり気のない白に反射した曙光に視覚が順応するのには少し時間を要した。 アカオカケスの硝子を啄くような囀りに促されて体を起こす。
手首に指を当て脈を測る。カイロを貼りたくったみたいに体温は温かく脈拍は穏やかだ。ネックレスを引き上げてピルケースを開くと錠剤を取り出す。二粒を取って躊躇いなく口に放り込んだ。...........。
「え、今何飲んだ?」
我ながら面食らって中を改める。着色料とは少し異なる透き通った赤と青、どちらも無味無臭だ。見るからに何処ぞの研究所で被験体に渡されるような怪しげな薬だというのに何故俺は思い切りよく飲んでしまったんだ。第一何でこんな得体の知れない物を肌身離さず保管しているんだ。けれど今更喉に手を突っ込んで吐き出すわけにもいかず、そも其れ程までに抵抗を感じないことから懸念を抱きつつもそれ以上構わないことにした。
変わらずの曇天の隙間から漏れ落ちる薄明光線は溜息が溢れるほどの美観だ。服屋でおまけに貰ってきたデジタルウォッチは早朝を表している。深夜の大騒動が原因か人出が活発だ。殊の外、白い息を吐き出しスクレーパーで揚々とアイスバーンを砕き続ける除雪車が張り切っていた。仮眠で最低限の活力を養えたので当初の予定通り情報を求めて街に繰り出そうと立上がって、羽根のような身軽さに愕いて自身を見下ろす。ダウンシャツを捲ってみる。
...ない。彼程止血に苦労した創傷が過去の痕跡を除いて一箇所も見当たらない。瞼を擦ってみても傷が治っているという現実は変わらなかった。もう驚くまいと思っていた矢先に直面した現実味のない現象に、愈々動転した俺はその場に力無く座り込んだ。
..........。
複雑な事情だらけの街で禍々しい逃避行、正直あのままふて寝してしまいたかったけれどいつまでも錯綜とした現実を受動的に受け入れてるわけにはいかないと気を取り直した俺は、手始めに周囲の散策を開始した。
単色の自然に恵まれた北部の朝は人口密度が低いながらも生気に溢れていた。皮膚を突き刺すような寒さに流行り物だのという概念は脱ぎ捨てて、素肌を厚手の防寒着でみっちりと隠した人々が雪で覆われた道路表示を気にせず縦横斜めに横断している。近くの公園では子供達が凍てつくような寒さに凍えながら積雪で意味を成さなくなった遊具に見向きもせずに雪遊びに励んでいた。気の赴くままに逍遥しているうちに徐々に都市構造が感覚的に理解できるようになってきた。
この街は要塞に類した構造をしており城壁や塀などの代わりに電気の通った有刺鉄線という日本の電気安全法が度肝を抜くようなフェンス囲いになっていて、中心部に聳え立つ大聖堂の鐘楼を軸に円形に住宅が広がっている。イタリアの城塞円形都市ロコロトンドの劣化版、人口にして二、三百人あまりだろう。ロコロトンドとは違いこの街の道路は超重量戦車TOG2に蟹歩きさせても余裕があるほど道幅が広く、数少ない路地のような狭路が大路に合流するように通っている。どちらかといえば公道よりかはC経路の役割が強く、辺境の軍事拠点の予備として住宅街が付随しているように思われた。現に駐車場やガソリンスタンドは目を剥くほどに広々としていて給油トラックもまま見られた。附言して所々に飲食店や生活雑貨店はあるがショピングモールなどの大型公共施設も見当たらない。通りがかった市場が最も混雑している箇所だった。
それにしても過疎化した街で早朝から雪掻きの重労働や徒歩通勤で急ぐ人々は過酷な環境に暮らしているにもかかわらず誰もが温厚な人となりをしている。先ほど通りがかった市場では香ばしアミノ酸の美味しそうな匂いに誘われた足を止めた俺に女のせり人がニジマスのホイル焼きを提供してくれた。素直にお金がないと伝えると尚更精をつけろと温かなホットミルクまでくれるものだから思わず涙脆さが発揮されてしまった。昨夜の俺が引き起こした騒動を除いては屯する軍人も笑顔が絶えず住民同士の近所付き合いは賑々しい、治安も悪くない。住民の満足度といえば高得点を誇れるんじゃないだろうか。此処よりもずっと都会に住んでいながらこの街で暮らす人々が羨ましく感じられた。
そんな感想を抱きながら街を眺め歩いていると、市場から五分ほど離れた区域に構えるある店の前で立ち止まる。
『電化製品の病院ーどんな電化製品も修理しますー』
紫外線を浴びて薄まった効果的なキャッチコピー。妙に既視感のある看板だった。唐突なデジャブが存在しようもない己の記憶を呼び起こす。以前にもこの街を訪れてこの店の前で留まった、その時の情景がありありと脳裏に過ぎるのだ。
俺のものではない五感と認知と思考、あまりに縁の薄い心理作用はこの体の持ち主のモノに他ならなかった。あわや凶弾で落命しかけたときに流れてきた走馬灯、そこに紛れ込んだ別人の記憶。今の俺の眼前に在る店もその一つだった。
初見のパズルを解くかのように全体像を掴む為の一ピースを見出せたような心地になって自然と爪先は店の方へと向いていた。
ーー中に入って早々ロボット掃除機が出迎えた。ガコガコと小道具の詰まった車輪を軋ませて、ルンバの紛い物みたいな円形掃除機はクリーニングブラシを一意専心に振り回している。とうに寿命を迎えてるであろう力走中のルンバ擬きを跨ぐと直ぐ、準備中のパネルスタンドにぶつかった。どうりで薄暗がりの店内が静まり返っているわけだ。「御免ください。」声を掛けてみるものの、待てども待てども人のやって来る気配はない。電気屋のくせして呼び鈴も壊れている。暫し逡巡した末に俺は奥に進むことにした。
店は一見するよりも奥行きがあり、家電量販店というよりかは雑貨の取り扱いが六割を占めていた。雑然と置かれた一昔前の八ビットパソコンや撹拌式洗濯機がショーウィンドウ越しにその手の客達の購買意欲を高め、一歩店に訪れれば博物館じみた床から天井まで古拙感満載の内装が完全に心を奪う仕様になっている。何も遊び心満載の意図的な装飾とは思えないけれど、少し塵の被った締まりのない管理が却って個性を感じられる店だ。果たして現代でも使えるのか微妙なガラクタの展示を抜けて歩を進めれば今度は古本をぎゅうぎゅうに乗せた木製本棚が所狭しと並んでいる。政治、歴史、地理……品揃えから店主の趣味が伺えた。
雰囲気満点なアプローチに続いて死倉入りされた書物に興味を惹かれて一冊を手に取ってみる。
ノリリスク、閉鎖都市、原子力産業。通覧した内容はソビエト連邦からロシアへの変遷史と軍事産業に関するものだった。諸都市と産業と軍事戦略の概略が明細化された詮索好きな読者向けの叢書。そこに記載されているある地域の特質を読み解くと自ずと答えは導き出された。
「...ビンゴだ。」
現在地はクラスノヤルスク地方の閉鎖都市ノリリスクで間違いないだろう。ということは、仮説通り最初に目を覚ました廃墟区域はソ連時代の核開発の成れの果てであり、帰還困難となった地域住民らが大々的に移住したのが
疑念の一つの解決とともに潜在していた他の謎もまた浮上してきた。
見解を述べるとすれば、昨晩アサルトライフルと手製爆弾の刺激的な応酬を繰り広げた男達は間違いなく軍関係者だ。ノリリスク駐在兵士かは不明だが獲物の追跡捕獲に特化した手練であるのは奴らの即応能力から一目瞭然だ。なら、一体何をやらかせば銃火器を携帯した物騒な連中と命懸けの鬼ごっこを強いられているのか。半グレやマフィアならまだ良い...良くはないが軍人の靴に唾を吐きかけた程度の一線を越えたゴロツキなら千歩譲ってまだましだ。だが仮に政府で秘匿されているような存在であるなら事情は異なる。極北の深すぎる闇の息遣いが迫ってきているのに現状把握だなんて悠長にしてはいられない。是迄は思いがけない超常現象の冥加に救われたもののこれからも都合良く難を逃れられるとは限らないのだ。
今我が身に迫っている展開は夢でも物語の世界でもなく現実だ、ノンフィクションの御涙頂戴の映画やドラマみたいにハッピーエンドが待ち受けているわけじゃない。万一元通りにならなかった最悪に備えてハリネズミの如く慎重に振る舞うべきだろう。その為には仮初の自分自身を明らめるべきだ。
ーー毛穴が絡みつくようなむず痒さに思考が途切れた。己の心理的領域に触れるか触れないかの距離で看過できない変容が佇んでいる。気配は一人だ。
手元の本に挟まったペンを握り込む。みるみるうちに鋭気を研ぎ澄ます俺を背後の誰かも勘付いたのを肌で感じた。考えてる余裕はなかった。粗反射的に、ペンを持つ手が腕ごと半回転した。遠心力にならって勢いよく翻る。先回りしたのは俺の方だった。
マズルコンペンセイターを装着した銃口にペンの下半身が挿入した。コンマ数秒の差でリボルバーの撃鉄が起こされた。銃身から順に手、肩へと瞬きの内に視界に膨大な情報が流れ込んでくる。その唇がシングルアクションを持参したことを悔いるように歪んだのを認識した。それでも暴発を恐れずに指先に力を込める微動を捉えて、俺は片手の本を頸椎目掛けて直角に振り投げようとして...
寸止めされた本が掌から零れ落ちる。
最後の最後で脳が視覚から判別した相手の全体像に動きを止めた。それが誰かを理解する間も無く、針で刺された風船のように戦意が萎えていく。相手が喋った。
「誰だよ、人様の店で盗みを働く不届モンは...ってあれ」
北部ロシアの訛りの威圧的な語勢は語尾につれて腑抜けていった。
挿さったペンを引き抜いて銃口を下す男...否、青年と俺は面食らった様子でまじまじと互いを見詰める。雪を塗したような金髪、皺一つないが乾燥で突っ張った生白い素肌、頬骨で注目を集める褐色の雀斑。瞥見して二十代半ばと思われる青年は此処の若店主だった。正体を見抜いた俺とは違い、仄暗い室内で彼は俺の頭から爪先までをさも砂粒に紛れた砂金でも選別するように凝視する。寸秒薄暗闇で悪戦苦闘していた彼だったがやがて観念して電気をつけると「なんだ、お前か」と呟いた。
「驚かせんなよ。つーか俺のリボルバー潰すなよ、頑張ってブルーイングしたんだぞ。ていうか来るの早くね?明後日の予定だろ。」
俺を俺と認識するや否や彼は自身が握るM29の初速並みの早口で捲したてた。
出し抜けに立て板に水の如く詰め寄られた俺はといえば、金髪青年の愛銃自慢云々よりも一方的な顔馴染みと捉えられる発言に勘案していた。口ぶりからしてこの野砲図な青年と俺は知己だと推定できるが、果たして俺が別人だと分かればどんな反応をするかな。互いに見合うこと僅か五秒未満、今後の行く末を按じた俺の結論は...。
「事情があって予定が前倒しになったんだ。悪いな。」
上手く誤魔化すことだった。口数を減らして出方を探ると、彼は疑う素振りもみせずに「そうか…まあいい、準備はできてる。
成程、合点がいった。年代物の電化製品や古本の大群で奥に入るにつれて足掛かりを奪って不安定な狭小面積をつくりあげていたのは何も店主が整理整頓が苦手な怠け者だからじゃない。開店前に入店した俺に問答無用で、唸るような反応速度で銃口に火を吹かせようとしたのも単に彼が臆病だからでもない。地下の隠し部屋に通じる扉を隠蔽したかったのだ。
この店は単なる家電屋じゃない、彼が特定の客層の為に築いた心臓部への入り口なのだ。
青年に促されるがままに階段を降りれば壁掛けランプが点々と間隔を開けて昼白色に彩る一本通路があった。
ペンダントライトと花形の電気スタンドだけが唯一の道標だった一階と違って本体はアンティークなものの真昼の如く明るいLEDを採用しているのは彼なりのユーモアなのだろうか。長く入り組んだ廊下は戦前の防空壕跡の一部なのだろうか。なんて、昔修学旅行で通った物珍しい教会の地下通路を思い出しながら夏の空を連想させる丁度の通路を黙々と前進してゆく。
彼此三分弱歩いただろうか。暖房機器もなく石造がマイナス十度を下回る過酷な環境を生み出している地下通路の突き当たりに新たな扉が現れた。今度は楯式片開きの鉄製だった。青年は「さっむ、さっむ。お前そんな薄手でよく平気でいられるな。」とガムの咀嚼音と唱和しながら、心底嫌そうにジャケットから手を出して生体認証式の鍵に触れる。如何にもロシアらしい、厳かめいた色合いの扉は蝶番から激寒下の労働に文句を軋めかしながら開かれた。
青年の後に続いて足を踏み入れれば、表の店と同等面積の機械尽くめの部屋が広がっていた。
ピピピ、と数台のパソコンが機械的なひっきりなしに喚いている。街中の電化製品に代わって全ての重労働を押し付けられているかのようなやかましさだ。片手で数える程度の就眠中の数機を除いて、作動している機器ではプログラムが実行されていた。冷却装置のファンが単調な唸りを上げる疎外感のある部屋の最奥にもう一つのアルミドアが直立している。隙間からは開きっぱなしの武器庫が見えた。
上階よりは幾分か整頓された部屋を観察していると何処かへと消えていた青年が二つを抱えて戻ってきた。
「ほらよ、頼まれたもんだ。あと預かってたのも。」
そう云ってパソコンを退かした机に投げ置かれたのは二つの黒色のボストンバック。「預かり物」と走り書きされた紙が貼られている方を覗いてみる。コンバットナイフやスチェッキン等護身用にしては殺意高めの武器類や札束、ネックレス型カプセルに入っていたのと同じものがPTP包装されて詰め込まれていた。もう片方は偽造パスポートに何かのセキュリティカード、その他諸々自分の身分を証明する書類等が複数枚束ねられていた。店主以上のきな臭さに心の隅に抱いていた淡い希望が呆気なく亀裂を走らせ崩れ落ちてゆく。
ロシア国籍のピョートル・ノリリスク、デンマーク国籍のカイン・E・クリスチャンセン...他にもフランスやキューバ、中国など社会主義や共産主機を標榜している国家の旅券に偏りがみられた。年齢も十代後半から三十代前半と不揃いだった。
他にも物色していると菊の御紋を発見する。赤色の十年用旅券、表紙を開いて最初に飛び込んできたのは仰天すべき印字だった。
「嘘だろ、」
溢れでた困惑を拾って青年が「どうした?もしかして不備でもあった?」と覗き込む。俺は力なくかぶりを振るだけだった。
「篠宮焔 東都米花区米花町ーー丁目ーー番」
先ず最初に早鐘を打たせたのは焔という同名、次に記された住居は俺の心臓をとびきり撞いてきた。俺の知る限り東京に米花町なんて存在しない、一目しただけで脳裏に浮かぶのは只ならぬ不吉な世界観。某探偵漫画の死神の町だけが心当たりだった。頭が真っ白になって青年の両肩を引っ掴む。
「変な質問をさせてくれ。日本で一番の難関大学は?」
「マジで変な質問だな。そりゃ東都大学だろ。学生証、適当で良いっていうからそこにしといたぜ。海外からの飛び級っていやあ問題ないだろ。」
「トロピカルランドって知ってるか?」
「はいはい、遊園地でしょ。日本行ったことねえから知らないけど、ジェットコースターが名物だってな。因みに刺激目的ならヤクーツクの遊園地にでも行けば...って何これ、クイズ大会の予習?」
「詰んだわ。」
よりにもよって成り代わり先は名探偵コナン...デストピアでなくとも犯罪件数がベネズエラの三十倍、一日に〇・七二の事件が勃発する治安最悪な世界線だなんて、記憶にもない前世の罪咎を再審査して欲しいところだ。江戸川コナンという主人公がいる限り永遠に時が停滞したままの街に訪れる訳あり青年?何それなんてデスゲームですかってんだ。原作は始まっているのだろうか、まさか黒の組織関連に首突っ込んでるとかじゃないよな。ドライアイスを素肌の寸前で吊るされているかの戦慄に、一縷の望みを掛けて尋ねてみる。
「工藤新一って知ってるか?高校生探偵の。」
「なあ、それとパスポートが何か関係あんの?知らねェよ、けどクドウつったらあの小説家のユウサククドウじゃねェの。少し前に女優のフジなんとかユキコと結婚したって話題になってた。」
願いはいとも無惨に打ち砕かれた。
「良いから早く離せよ」と言われて思わず力を込めすぎてしまった両手を降ろす。悉く期待が潰えて頓挫感に肩を落とせば彼は胡乱な眼差しを送ってきた。兎にも角にも、原作が始まってないのがせめてもの救いだった。...原作前、即ち物語の肝となる人物がまだ誰も亡くなってない比較的平穏な時代。
摩訶不思議な成り代わりを経験する昨日までは俺は一介の大学生に過ぎなかった。大学から帰れば部屋に篭って漫画を読んだり家族と買い物に出かけたり、休みは友達と映画やライブを観に行ったりと細やかな幸せを享受する毎日。本当に、例に漏れずの学生生活を送っていた。
紙の向こうの世界に行けるなら、二次小説じみた妄想をしたのは一度や二度じゃない。実際に登場人物を生で見たい、時を遡ってあのキャラクターを救いたい、オタクにはありがちな悲願を胸に神社で手を合わせたこともある。そんな夢が部分的に叶った今、黒ずくめの犯罪者予備軍が跋扈する街で可能性のある願望は心の片隅で輪郭を現していなくもない。けれど現実と理想は違うんだ。何よりも肝心俺自身が全貌のみえない苦境に追い込まれている限り、主人公やら救済やらといった原作への介入は完全に自己解決の範囲外、夢のまた夢なのだ。いつ牙を剥くやもしれないピラニアや鮫のような肉食魚が廻旋する果てのない大海原の真っ只中で、滴る血を放置したまま岸を目指して泳ぎ続けるだなんて無謀を一体如何してできるだろうか。
それでも中学生気分が抜けきってない頭の中には、単行本越しに爆死してしまった推しの姿が好奇心に揺らめいていた。何れにせよ、俺が直面する現実に決着をつけずに成し遂げられるべき志はない。現在地と世界観が判明したのだが次なる課題は自身に纏わる謎の解決だ。家出か、半グレか、マフィアか、政府案件か。どれでも良くはないが身体の主に関する情報を集める、それがこの危険な大海原でせめてもの救命浮環を獲得する唯一の術だ。超能力というとっておきの手札があるのは幸いした。更には圧倒的レジリエンスも骨身に染みているようなので昨晩のようなハリウッドじみた派手な撃ち合いは控えて暗躍すれば上手く事が運ぶかもしれない。
そこまで思い至ると切り替え早く青年と向き合った。
「パスポートとその他諸々の準備、感謝するよ。…アキーモヴィチだったか?」
「イシードルだ、掠ってもねえよ。…仕事だからな、金は勝手に差し引いといた。」
「そうしてくれ。」
名前を聞いた途端、靄が晴れるように彼の身分が明快に脳内に流れてきた。
エリセイ、卓越したハッキング技術で裏世界に名を馳せる情報屋。彼に偽造身分証を作らせれば機械ですら見分けがつかず、新居を任せれば十年あまりのあり得ようもない近所付き合いが形成されているなど、闇の錬金術師とまでいわしめられる人物だ。彼の正体が三十路にも満たない青年だと知って驚愕した記憶まで呼び起こされた。
「これでも客は選ぶ質でね。ピョートル、お前ならもう一つや二つサービスしてやるよ。」
ピョートルという名を呼んだイシードルはそう云って俺の胸を小突いた。付き合いの長い友人に対するように莞爾として笑って。単なる仕事関係でしかない筈の彼の極端な親しみやすさに不思議に思った俺はサービス心旺盛な理由を訊いてみる。すると彼は意表をつかれとばかりに黄土色の双眸を揺らめかせて「ええっと、アイツとの繋ぎだから?暇だから?いや気に入ったから?」と逆に質問を返してくるものだから俺も返答に倦ねた。もう理由だのはどうでも良くなって話を進めることにする。
「お言葉に甘えて。俺についてを調べてほしいんだ。」
「…お前について?記憶喪失でもあるまいし意味が分からない。」
「ほら、俺としてはこれからもお前と長く付き合っていきたいと思ってるから。その為にもお前には俺のことを知っておいてほしい。」
「なんか気持ち悪い言い方だな。」
「やかましいわ。」
記憶喪失という単語が他人の口から溢れるとどうにも鼓動が高まるものだ。綻びが出ないように慎重に言葉を選ぶと、歳の近いフレンドリーな情報屋は露骨に渋面をつくった。
「百聞は一見に如かず、俺の技量を測るってわけか。」
「気に障ったか?」
「いや、益々気に入ったよ。俺たちの世界じゃ猜疑心が処世訓だ。承ったよ。...さて、出発だけど急いでるなら今日が良いだろ?パイロットに連絡しておくからそれまでは此処で寛いでけよ。」
「出発?」
「ジェット機の手配を頼んでおいた。ここから九十キロ東北東にいったヴァリョク空港B4ゲート、深夜に離陸する。空港関係者だから奴等の包囲網に引っ掛かることもないだろう。」
複数の身分証と大金、足が付かない航空便の準備...用意周到にも予め進められていた段取りは俺の要望だったのだろうか。だとしたらイシードルの言う通り余程急いていたらしい。
「行き先の安全対策は滞りないのか。」
「下見も済ませてある。日本の入国審査なんて隣ん家のアラム爺さんの便の出よりもガバガバだから大した対策も要らないけどな。まあなんだ、何かあればいつでも連絡しろよ。」
名刺を手渡すと「もう一つ渡すモンがある。」と云い、再度奥の扉を指差してから彼は出て行った。
............。
部屋は白で統一された角部屋で簡素なベッドにトイレ、それとシャワールームと武器庫だけの殺風景な内造だった。以前に薬品の収納でもしていたのか鼻が詰まる匂いが漂っている。荷物をベッドサイドテーブルに置いて、ベッドに四肢を投げ出せば適切な硬さが体重を受け止めてくれた。
横たわって掃除の行き届いてない部屋隅の埃をぼんやりと見詰めていると仮初の自分の風姿を確かめたくなってを体を起こす。シャワールームに直行すれば、矢っ張り眉目秀麗な青年が自身の動きに合わせた瞬いた。
鏡越しに映る寝不足で暗い翳が差す目元に飾り付けられたような白い睫毛は却ってうっとりするような妖美を孕んでいる。これが俺ならばきっとギリシャ神話のナルシスのように水面に映る自分に見惚れるだけで日が暮れていただろう。キュラソーのオッドアイややジンの銀髪でさえ米花町では浮世離れした容姿で浮いているのだから、白髪に加えてアルビノだなんて世の芸能事務所が黙ってないだろうから極北で廃墟に埋もれていたのはある意味正解だ。
まじまじと自分の容姿を観察していると、席を外していたイシードルが戻ってくる。 はいこれ、と手渡されたのはカラーコンタクトの箱と市販の髪染め。
「焦茶?」
「そんな見た目じゃアジアで溶け込めねェだろ?折角俺が居場所を整えてやったんだから少しくらい馴染む努力はしてもらわないとな。絶対にバレねェ自信作だけど一ヶ月分しかないからタイミング見極めろよ。」
自分から提案したくせに不満げに口を窄めるイシードルは、大学入学時に持ち物を再三確認してくる母さんのような面相だ。滲み出る面倒見の良さに「おかんかよ。」と呟けば地獄耳は「なんか言ったか。」と眼光をぎらつかせたので即刻首を横に振った。
「なんでもない、気遣いどうも。」
頭を下げれば堅苦しいと手振りで応えてイシードルは部屋を去ってしまった。
完全に彼が遠ざかるのを感じ取ると、俺は再びベッドに身を投げ出した。途端、取り止めなく今日一日の目紛しい出来事が浮かび上がってくる。
それにしても元俺が望んだ目的地が日本ということが妙に腑に落ちない。同名であること、少なくともこの地域には縁のない極東を選んだこと、この世界が名探偵コナンの世界であること、これらの俺自身との関連性は果然等閑にして良いのだろうか。
けれども考えを纏めようとしても、錘を五体に引っ提げたような倦怠感が思考回路に朧げな靄をかけていた。訳も分からぬまま事故物件級の他人の身体に乗り移り物騒な輩に命を狙われ...怒涛の勢いで巻き起こった数々に疲労が蓄積するのも無理もなかった。断続的な仮眠でも足りない疲弊を少しでも回復させたくて瞼を閉ざせば、真っ暗になった視界はすぐに意識を闇へと誘った。
*
人の気配に意識が覚醒する。直後、ドアが叩かれた。返答する前に気兼ねなく入室してきたのはイシードルだった。
「悪ィ、寝てた?」
「いや。今何時だ。」
「十八時三十二分。本当はもうちょい時間が欲しかったけどお前が急かすから持ってきた。」
そう云ってUSBメモリを手渡すや否や、彼は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。興奮やら焦燥感やらを滲ませた眸がかち合った。
「骨が折れたよ。いや、俺の能力なら電子だろうか人間だろうがどんな情報網にも潜り込めるけど、こんな短時間で五段階の最高機密よりも更に上位レベルの情報を抜き取るのは流石に糖尿病になるわ。正直もっと深掘りしたかったんだが時間が足りないのと逆探知の危険もあったから一部しか抜き取れなかった。」
親睦会はこれで勘弁してくれよ、そう言い残すとイシードルはそれ以上用はないと踵を返した。と、ドアノブに触れてから思い出したとばかりに見返って...
「言い忘れてた、先方から連絡がきて出発は今日の深夜で問題ないってよ。どうせ暇だから送ってやる。」
ーーこれから述べる内容はあくまで資料の概略だ。
EkSプロジェクト、それは、先進各国の政府機関が共存共栄の利害の元国営研究機関と共同実施した超常科学的挑戦である。
かつて過酷な地球環境に生息していた哺乳類の古代種が保有し、進化の過程で失われていったとされる特殊な細胞PAST。この細胞はそれ単体では何の価値もないが、約1億5000万年前に蔓延ったとされるとあるウイルスNOAH-150と結合することで潜在能力を誘発させ超能力EkSが覚醒すると仮説されていた。近代になって、失われたと思われていたPASTは尠少な割合で類人猿の、干し草の中から針を探すほどに少ない人数にのみ存続していることが判明した。仮説を立てたソビエト連邦の研究者アファーナシ・セメノビッチ・ロゴウィッツを中心に世界中の有能な科学者が集い数々の実験が成された。しかし当時の技術ではNOAH-150を復活させるための科学機器を設計製作することは困難とされ戦時の研究は断念された。
時は流れ二⚪︎ーー年、現代科学の技術が著しく発展した
EkSと呼ばれる超能力を開花させた優秀で従順な候補者を報員兼対軍隊人間兵器として運用することが主目的であり、先陣を切ったロシア連邦のFSBを中心に、CIA、MI6、BDN、DGSE、RAW、ASISと名だたる防諜機関がプロジェクトに参画している。無論、日本や中国、スペインやベルギー等の先進国からも厳しい選考から選び抜かれた一流科学者が非公式に関与しておりプロジェクトの規模はまさに一世一代であった。
尚、これらの詳細は米国防省のJWICSにおいてはレベル五以上に分類されておりプロジェクトの候補者、進行状況及び投資家、研究者等関連情報は格上層に収められ機密解除は極一部のみとされている。(以下、敬称略ーー)
「EkSプロジェクト アンスロアーマ作戦 五ー三」
候補生No.2経過報告
本名:ヴィクトル・イリイチ・ラドゥロフ
改名:ピョートル・ノリリスク
二〇ーー年五月五日、十歳。FSB工作員ーー(間柄:父親)の推薦により候補生入隊。作戦への参加意欲有り。動機、公共の福祉。
PAST数値66 適正率96.8%
:
:
二〇ーー年八月二十四日、十四歳。アンスロアーマ作戦正式加入。二〇ーー年八月二十五日より初任務任命。
:
:
二〇ーー年十二月四日、十五歳。他被験体及び大衆実験への抵抗感。精神疾患の兆候、任務違反多数。決議の末ーー博士の監修の元処置を執り行う。
:
:
二〇ーー年一月五日、十五歳。任務再開。今後も経過観察を定期的に記す。
*
パソコンを閉じるとブルーライトに侵されて疲労した目頭を強く抑える。泥まみれの石でも乗せてるかのように瞼はねっとりと重かった。
A4にしてたった数枚分に纏められた資料の中身はこの世の負を煮詰めても昇華きれない程に凝縮されていて、理解の範疇を優に超えた膨大な情報の波に押し潰されそうだった。
イシードルが齎す情報が確度が高い。EkSと呼ばれる俺の超能力は換言すると某海賊世界のメラメラの実のような能力だ。そして俺の他にも超常現象を操る力を開花させた候補者はいるに違いない。
暗殺、洗脳、人体実験、管理者の賄賂…古今東西、政府が巨大化すればその影を追いかけるように膿が沈滞していくものだ。一律に犯罪化できない膿はじわりじわりと社会に蔓延し、表沙汰にならないようにひた隠す努力に勤しんでいる間に骨の髄まで腐ってゆく。腐敗のリスクのない国家や組織など何処にも存在せず、だからといって誰もがそれを事前に理会したうえで公職に務めるとは限らない。俺が成り代わったこの身体の持ち主、ピョートル・ノリリスクも然り。どのような経緯で彼がプロジェクトの参加者に名乗りをあげたのか依然として詳細は記されてないが、断片的な記録を一読しただけでも彼の苦悩は容易に察せられる。
公益という盾の後ろで暴利を貪る大人達に利用され、志高き志願者が途方もない不条理を直視した諜報員。EkSという超能力を有しているが故に使い捨ての駒にはされなかったものの彼等が直面しなければならない現実は心臓が張り裂けんばかりの悪夢だった。若し、若しも俺がピョートルの体に乗り移った原因が感情のない機械として酷使され続けた彼の魂が抜けてしまったような結果ならば...
「胸糞悪すぎだろ。」
嘆息とともに絞り出された呟きは慨嘆に耐えぬ低く震えた調子だった。哀れの一言で済ませられない形容し難い、業を煮やして天高く湧き上がる溶岩の如き憤り。元来俺はこういった悲憤慷慨の裏話に滅法弱かった。 或いはひょっとすると、肉体に残った蓋然とした未練の残穢なるものが俺を怨嗟の渦に引き込んでいたのかもしれない。何に対する激情かって?そんなの、成人もしていない年若く無垢な青年に不幸を押し付けた元凶に決まってんだろ。
抜き取ったUSBを持つ手に激情が込められて、 筆舌に尽くし難い心中を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。肉体が他人のものだからか意外にも憤りは素直に腹に収まってくれた。
今一度仔細を読み深めようと握りしめた手を開いて、目前で火花を散らされた鳩みたいに愕然とした。
赤、それよりも太陽を映し出したかの如き橙色の液体...マグマだ。融解状態の物質がナイルの滝の如く掌から湧き上がりその熱量がUSBメモリを変わり果てた姿にしてしまっていた。狼狽して手を逆さにすると灼熱のマグマは重力に抗うことなく床に流れ落ちる。いつかイタリア旅行で食べた鉄板に乗ったフォンダンショコラみたいにそれはグツグツと煮えたぎりながらフローリングを溶かしていく。声を失い佇立したまま手を翳せば、瞬きの後にはマグマは魔法のように消えてなくなり高熱を帯びて窪んだ床だけが残された。
USB上の記録にはEkSについての補綴はなく、確か開花する能力の優劣は個人差があると記されていた。とすれば今さっきまでメラメラの実だと思っていた能力はその実マグマグの実でもあったというわけで...
「つまりメラメラの実の上位互換的なもんってこと?」
続いて漏れ出た「嘘だろ...」なんて蚊の鳴くような草臥れ声は、誰の耳にも届くことなく空気に溶けて消えていった。
*
午後十一時三十分。予定通りイシードルとノリリスクを出発してから丁度一時間が経った頃、ヴァリョク空港の非公式の滑走路にて俺たちは
「で、情報はお気に召した?」
「
「当然だろ、俺を誰だと思ってんだ。」
継穂が無くなって沈黙が舞い降りた。痛いほどの静寂に何だか居た堪れなくなって滑走路を眺める。夕方頃から降り始めた吹雪は今も尚意気盛んに猛り狂っていた。しんしんではなくごうごうと鼻息を荒げ、人間にとってはだだっ広いが空港としては些か狭苦しい滑走路を占領しようとしているものの凍結防止剤と絶えず稼働している除雪車の影響で目論み通りとはいかないようだ。道中の車内ラジオでは深夜にはマイナス五十度を下回ると予報されていたので今頃は北部中が除雪作業で大忙しだろう。日本に住んでいれば想像もつかない過酷な環境だ。
蒼卒に、真隣から奇怪な視線が突き刺さって尻目に見遣る。俺とは正反対の手袋に帽子、マフラーの寒さ知らずの着ぐるみ状態でイシードルは俺を信じられないものでも見るかのような目で凝視していた。
「なんだよ。」
「資料はザッと通覧したけどお前のEkSって痛覚ないとか体温感じないとかそんな感じなの?」
「んなしょぼいわけあるか。」
大袈裟に肩を竦める彼は無言の圧を送ってくる。その双眼は屈託のない煌めきに彩られている。闇社会の人間らしからぬ邪念のなさだ。弱肉強食の世界で生き馬の目を抜く狡猾さと卑屈さで情報屋の地位を築き上げてきたという仄聞だったが、矢張り街談巷語に過ぎないものなのだろうか。
期待に満ち満ちた眼差しを受けて指先にマグマグの実擬きを実演してみる。ホワイトアウト寸前の氷点下に、鋭く弾け散らす火花が生まれ次第に炎、マグマへと変容していく。例えばこの地で水浴びをすれば俺の体は如何なるのだろうか。
「大抵の物質は燃やせるし溶かせる。高体温質で基本寒さには耐性がある。」
罷り間違っても痛覚や体感皆無だのという自律神経操作系の能力ではないことを強調する。謂わばあの大食い雀斑兄貴と正義大好きマンを足して二で割って弱点を補ったような無敵の能力である。流石に肉体が自然物に変化しないのは口惜しいがそれでも十分実用的だ。何なら無人島に遭難しても活かし方によっては身一つで生き存えられるんだからな。
一通りデモンストレーションしてから指先で発現する赤々とした燃焼現象を消滅させるとすぐ、はち切れんばかりの拍手が湧き起こった。横を見遣ればカブトムシを捕まえた少年のような爛々とした目遣いが一心に注がれていた。
「凄ェな!火には水、だが水には溶岩。汎用性の高さでいやぁ一番なんじゃねェの。」
「それは俺も思った。」
それから程なくして送迎車が一台到着した。
「イシードル、色々と世話になったな。」
「仕事だし気にすんな。日本に着いたら連絡入れろよ。」
「ああ。」
人生で最も濃厚な二日間、思いがけずして出会った助け舟に救われるとは思いもよらなかった。
硬い握手を交わすと、手袋を外した手が握り返してきた。雪みたいに冷たくて繊細で骨ばっている。透き通る肌に浮き上がる血管その一本一本にイシードルという男の優しさ、誠実さ、温かみ...誇るべき人となりが現れているように感じられた。最後にその感触をしかと胸に刻んで、彼に見送られながら車へと乗り込んだ。
............。
轟轟とエンジンを咆哮させて機体が大空を舞う。雲の遥か上空五千フィートを飛行するジェット機はさながら鉄の鳥だ。肘掛けのボタンを押せばブラインドが上がり霜の結晶に覆われた窓ガラスが下層の曇天に模様を描いている。
軽快な音が鳴りシートベルトのサインが消えると、一人のキャビンアテンダントが飲み物を片手に他人行儀にやって来た。
「当機は現地時間午後一時に到着予定です。御用がございましたら遠慮なくお申し付け下さい。」
「どうも。」
旅の疲れを癒すのに相応しい白い革張りの背凭れに背中を預けると自然と体の緊張は解れた。ウェルカムドリンクに今更ながら口をつけると、ミードの香り高い蜂蜜が口内で蕾の開く花のように広がった。舌に浸透するコクを程々に堪能してから半分ほど中身の減ったグラスをダークブラウンの木目調のトレイテーブルにそっと置く。着陸まで余裕があるのでシャワーに入って髪を染めておく。イシードルの自慢通り、視界明瞭の裸眼との区別がつかないカラコンも装着すれば美々しい白は抑えられたものの、ベクトルの異なる優面に変貌しただけだった。
服も着替えて清々しい心地で席に戻ってから腕を捲れば日付は変わっていた。
習慣に習って脈を測ってから錠剤を服用する。生憎余りは一ヶ月分もない。記録には俺が毎朝接種する錠剤については一切記されてなかった。ネックレスとボストンバックの備蓄が切れれば効果は持続するのだろうか、将又肉体に何らかの悪影響を及ぼすのだろうか。現時点では見当もつかない。
走馬灯に紛れ込んでいたピョートルの記憶には訓練生時代に彼と緊密な間柄だったと思しき人物が存在していた。イシードルの調査曰くそいつはカナン博士という初老の男で外面上は遺伝学者、裏ではCIAの権力下で非人道的な人体実験に加担するマッドサイエンティストだという。約一ヶ月後に東都でG20サミットが開催されるがそれは名目に過ぎず、カナン博士を含めたEkSプロジェクトに関わる重鎮が一堂に会して重大な会議を真の目的としているらしい。元諜報員たる俺の離脱が発覚した今、彼等は是が非でも行動を起こすだろう。
今日は十月二十七日、サミットの開催は十二月二日。因みに萩原研二が殉職するのは十一月七日だが、それが今年かは判然としない。まあ用心するに越したことはないだろうけど。
もしも俺が元の世界に戻ったらピョートルはどうなるのだろうか。成り代わりの原因はこの世界の一流の科学者であろうと解明できないだろう。短い関係だとしても本人の境遇を気の毒だと胸を焦がす程には親近感を抱いているのは如何してだろうか。よしんば全てが元通りになったとして、帰還したピョートルが向き合うべき現実が彼が渇望した安寧とは限らない。ならせめて、赤の他人が勝手に体を拝借した詫びとして悪逆非道な輩との幕引きは果たさせてもらおう。そうすればきっと元の世界に帰る時が来ても心穏やかに日常に戻れるだろうから。
そんな決意を胸に、俺はまだ見ぬ未来に想いを馳せていたーー。