警察学校を卒業して以来疎遠になっていた同窓の宛先に駄目元で連絡を送れば意想外にも返された返事に、俺と萩と伊達の三人は急遽警視庁公安課へと赴いていた。到着早々案内された先は十三階の一室、横幅の広い事務机に対面してもう一人増やせば誰かが席を立ちたくなるような狭小な部屋だった。
「でも松田だってあの子の傷は深く見てないだろ。必ずしも犯罪に手を染めてるとは限らないじゃん」
「察しが悪ィこというなよ。この国で重傷、しかも銃創を時点で刑事事件なんだよ。お前だってよく分かってんだろ。」
朝っぱらから顔を突き合わせるや否やどこぞのやかまし教官みてェに騒ぎ出しだ萩原は、依然として俺が二人の青年の身元詐称を明かしたことに不満を抱いているようだった。苦情、不平…いや疑惧といったところだろうか。尖らした口と若い癖に皺の寄った目尻を一瞥だけして、俺は煙草を一本抜いた。
「此処に来た一番の理由は疑念を晴らす為だろ。何もなけりゃそれでいい。」
「だけど俺達は兄弟何だろ?だったら端から疑うこと事態が間違ってるんじゃねーのって言ってるの。」
「俺は実際に見てないから俄には信じがたいが…若しそうだとしても俺達が正しい道に引き摺ってでも戻してやれば良い。そうだろ?」
いつかの学校時代、俺と降谷が寮部屋の険悪化させた空気を吹き飛ばした時とさして変わらぬ迷惑そうな手振りで伊達が横滑り出し窓を開けた。実際には煙草の充満した室内を勘気するような煩わしげな眉間で。
瞼を閉じれば実の兄みたいに慕ってくれる二人の青年の姿が浮かんでくる。俺を急き立てた不信感も、取った行動も何一つ間違っているとは思わない。だが萩原の主張する杞憂だって分からなくもない。だからこそ伊達の云う通り未成年の更生を名目に最初の扉を叩くべきなのだ。譬えその先に挫折が待ち受けていようとも、道を誤るった若者を正すことは警察以前に俺達大人の義務だ。日々の勤務でそうしてきたように、若しもアイツらが盛大に足を踏み外しちまってんなら殴ってでも恨まれてでも道標になってやれば良い。
それに存外、何も出てこずに肩透かしで終わる可能性だってあるのだ。現段階で深く悩み倦ねる心配する必要なんてない。
伊達の言葉に渋々萩原が席に着くと、丁度扉が叩かれた。返事を待たずに開扉して入ってきたのは、警察学校卒業以来随分とご無沙汰してた旧友だった。
声帯を奪われたみたいに互いを見詰め合う。他の二人がどんな反応を示しているのかは判らないが僅かに喉仏が上下する音と無音の継続から察するに俺と同じように言葉を失っているのだろう。浦島太郎って程でもないが、ソイツは最後に会った時よりも幾年の経過が見て取れる無精髭を生やしていた。
「久しぶりだな、お前ら。」
「諸、伏…?」
あの青春の面影が口際に湛えられた。数年前と変わっちゃいない、数日ぶりの友人とでも会うような口調でおう、と片手が陽気に挙げられると途端に彼は俺の視界から残像の如く消した。萩原が全力の突進をかましたのだ。態と本気で痛ましげな呻きを上げて、諸伏は辛うじて壁に激突する前に踏ん張った。
「諸伏。長年音信不通だったお前らが何処に所属したのか、大凡の見当はついちゃいた。にしても一言くらいあっても良かったんじゃねェの。」
「悪かったって。お前らの予想通り、数年前からとある犯罪組織に潜ってたんだ。」
「で、なんで今になって返信したの?」
いつにも増して当たりの強い萩原の物言いの裏で旧懐の情が流露しているのを感じ取ってしまえば苦笑せずにはいられない。言い難そうに口籠ってあーだのうーだの喃語を呟く諸伏に、落としの名人たる伊達が被疑者に云うようにぴしゃりと咎めれば諸伏は即刻観念した。
「所属がバレて殺されそうになったから離脱したんだ。」
予想以上の一言にさしもの俺も度肝を抜かれて絶句した。
「なんで!?」
「何があった?」
「うわっ…ちょっと待て!大事な話があったんだろっ?」
俺が詰め寄るよりも先に萩原と伊達が迫ると、情報というよりかは性根の底まで絞り出される未来を察知した諸伏は強引に話題を転じた。どうにも癪に障るはぐらかし方だったが、午前中にでも是が非でも肯定的な結果を望んでいた椅子に掛け直して、諸伏は対面の椅子に座った。
「で、詳しい話を聞こうか。」
篠宮焔、アラン・隼人・クリスチャンセン。何方も容姿から認められるようにアメリカ育ちのアメリカ人。約二年前に渡日して東都大学に入学。偶然クラスで同級生となったのをきっかけに互いが遠縁にあたる関係だと判明して意気投合、当日中に米花町のアパートで同居することになった。というのが俺達が本人から聞いた話だ。
「特に公安案件には思えないが」
「まあ待て、問題はここからだ。焔は一年半前に忽然と行方を眩まして音沙汰がなかったんだが...一ヶ月、何の前触れもなく戻ってきたかと思いきや満身創痍の状態で病院に運ばれた。」
「狼狽した隼人に呼ばれて応急処置を施して119したのは俺と松田だった」
あの晩、怪我の具合を確認した俺達が目の当たりにしたのは明らかな暴行の痕跡だった。それも殴打に留まらず銃創や切創の類が大半。病院の医者どもは揃いも揃って茶を濁したが、彼が不在の期間に唯ならぬ厄介事に、俺達刑事が介入すべき事件に巻き込まれたのは一目瞭然だった。これは警察官としての勘に過ぎないが、二人の身内の不幸云々の説明は七割方が嘘だと踏んでいる。これに関しちゃ萩原と伊達も違和感に同意している。
「俺達が降谷の携帯に連絡を入れた一番の理由はアイツらの戸籍がなかったからだ。」
「俺としては裁判沙汰の相続問題に血縁者の隼人が日本に留まってた点で引っ掛かるがな。」
俺と萩原の諍いを仲裁したくせに、班長はそも二人の関係性自体を疑っているようだった。諸伏は二人の顔写真を針の穴を見通すように凝視していた。
「要するにこの二人が公安案件のリストに載っていないかを調べて欲しいってわけだな。」
「けど別に二人が犯罪者だとかは思ってない。ただ面倒に巻き込まれてないか確証が欲しいわけ。警視庁のデータベースなんかにアメリカの記録なんか上がってこないだろ?」
「それでも態々
確信めいて深められる笑窪は、己の洞察力は年月が経とうとも衰えないと自慢しているようだった。
「公安のデータは膨大だから一先ずこの件は預かっとくよ。何か判れば近日中に改めて連絡する。」
「できれば早めに頼む。こっちもすっきりしないと二人に会った時に居住まいが悪くなるからな。」
「了解。」
一段落がついたと誰がなしに溜息が吐き出された。室内に漂っていた僅かばかりの緊張感が緩和された気がした。写真の裏に何かを書き込むと諸伏はそれをポケットに仕舞うと、早速伊達が快活な手拍子を鳴らした。
「じゃあ、久しぶりに飯でも行くか。ここの食堂なら諸伏も問題ないだろ。」
「お、いいねそれ。俺牛丼ー」
「なら俺は餃子」
次々に食欲が望むものを言い捨てるとそそくさと二人は事務室を出て行った。腕時計を確認すると丁度昼飯を食っても良い頃合いだった。二人に続いて「素麺」と呟き部屋を出ようとして振り返る。あまりの展開の早さに諸伏一人置いてけぼりを食らっていた。俺は大股に翻って、椅子に座り込んで呆気に取られる
「おら、早く行くぞ。」
「せめて外では緑川唯って呼んでくれ。」
「その話もちゃんと聞かせろよ。」
うげっと口を窄めた諸伏を逃さぬように一層腕に力を込めて、俺達は数年ぶりに隣合って歩いた。
*
シンガーポールから帰国して一週間後、俺はレストランコロンボにて勤務してた。あくまで米花町に住まう東都大学生焔にとっての日常の一幕である。
カランコロン、電子的なドアベルの鳴音がして厨房の掃除を止めて表に出れば見慣れない男性客が入店していた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい。」
祝日でもない水曜のお昼時は混雑もなく、閑靜で快適な憩いを求めて常連が訪れる。今日は店先の人通りが全体的に少なく、看板を上げても訪う客は疎らで人気のない店内はひっそりとした長閑な雰囲気に満ちていた。何も閑古鳥が鳴いてくれないが珍しいわけじゃない。世のサラリーマンの繁閑の具合なんて知らないが、少なくとも俺の雇用以来ピョートルの顔面目当てに学校をサボって来店する女性客は先週から今週に掛けて試験期間の真っ只中だと聞いている。それ以上の年代の奥様方はきっと旦那に釘でも刺されたのだろう。
客を席に案内すると、マニュアル通りにコップ一杯注がれた氷水を差し出した。彼は既に注文を決めていた。
「ナポリタンとコーヒー一杯お願いします。」
「ナポリタンセットですね、畏まりました。コーヒーはミルクお付けしますか。」
「いえ、結構です。」
「畏まりました。」
注文用紙を捲って伝票立てに挿してキッチンへと向かった。体調不良で急遽欠勤の連絡を寄越した店長以外に今日出勤予定のバイトは俺だけ。一人で切り盛りする飲食店はそれなりに快適だった。
冷蔵庫から材料を取り出して料理に取り掛かれば数分のうちに食材の香ばしい匂いが厨房を漂い始める。嗅覚を癒して食欲を刺激するソーセージ焼ける音は我ながら料理の才があるんじゃないかと思わせてくれる程に耳心地が良い。煙やら湯気やらで益々刺激されて腹が鳴り続けていたのはバイトとして雇われて初期の頃だけ。一週間後には空腹を凌ぐコツは完璧に掴んだ。
ところで何も数日前に発生した悲劇的な困難を忘れて悠長にコロンボでバイトをしているわけじゃないのは断っておこう。イシードルにある頼み事をした礼のバイトのシフトを一ヶ月分肩代わりすることになったのだ。普段から俺の願いには無償で対応してくれるイシードルだが、報酬を求められないことに気が引けた俺の提案で近頃はポイントカード的清算方法で一定数の授受が貯まったらこちらも希望を一つ聞くことにしている。今回のバイトに関しては店長が俺達が血縁関係で同居していることを知っているので快く承諾してもらった。
六日間、俺はシンガポールをはじめとして世界各国を飛び回ってシェアリング博士を殺した犯人を追跡した。近一ヶ月足らずに多発した不審な爆発事故の現場へと赴き己の眼で確認したかったから。犯人を炙り出す為に俺へと繋がる痕跡を残してきたので直にこちらの居場所を割り当てて姿を見せるだろう。
『——フランク・ディートリヒ?』
『EkSプロジェクトの訓練兵時代、ロシアで共に候補生として生き延びた男だ。今ではNo.1を冠している。候補生から昇格して実践に投入されるようになると、訓練生は各々の母国に戻って通常は自国のスパイとして活動していた。アイツはドイツ出身だから大方
昔話を打ち明ければ、イシードルは解せないとでも云いたげに首を傾げた。
『お前が再び逃亡したことでそいつが動いたのは分かった。けどあの慎重な組織の連中が表立って行動を起こすとは思えない。』
『その通りだ。ディートリヒはEkSを開花させてから自分の力に溺れるようになった。度々問題行動を起こしては各国の関係機関が揉み消してきた。』
『つまり今回の事件を連中は掌握してない可能性があると』
奴の意図か組織の陰謀か、そんなことはどうだって良い。大事なのはシェアリング博士が殺されたという事実のみ。他のEkS関係者が存在していると判っておきながら警戒を強化しなかった俺の所為だ。俺さえもっと気を配っていればこんな事態を引き起こさずに済んだのだ。所詮はピョートルとは違う、成り代わっただけの紛い物でしかなかった。
だからといって博士の死にどん底で竦んでいる暇はなかった。自責の念に駆られて足踏みしているよりも成さねばならないことがある。ディートリヒを始末して組織との悪縁にけじめをつけなければならない。
その為にはイシードルにニュートンと佐藤さんの身の安全を確保して貰らなければならない。俺がディートリヒに拘ってる間に魔の手が忍び寄ってくるやもしれないのだから。万が一があれば相棒に駆けつけて二人を守って欲しかった。それからもう一つ、他でもない彼にしか頼めない願い事を告げると、こっちが頼んだにも関わらずまるで戦地に赴くかの真剣な眼差しで応えてれた。
『責任重大だな。』
『二人に関しては見守ってくれるだけでいいんだ。元よりこれは俺の問題だ、佐藤さん達には指一本触れさせない。』
『なら俺も他に何か手伝うよ』
『要らない。ディートリヒは俺が殺す。それでシェアリング博士も少しは浮かばれるだろう。』
人智を超えた危険人物をあろうことか日本に誘き出すなんて真似は以前の俺ならば絶対にしなかった。復讐心だけじゃない、もっと何か別の人為的要因が歯止めを壊しているような、砂利が脳味噌を流れてるような気色の悪さを感じていた。感情と感覚が切り離されて、どこか遠くから全体を眺めてる他人事の自分がいた。
『ピョートル』
——ピョートル
「ッ!」
憐憫の籠ったイシードルの呼び掛けが博士と重なった。彼等が呼んだのは何方の俺だっただろうか。若し、若しも来る大惨事の間接的な原因があのイかれた科学者の手術の賜物ならば、この先徐々に俺の魂が悪魔に魅入られた外道さながらに黒く染まってしまうとしたら…。
物思いを払拭するべく握り込んだ携帯は制御の効かない高熱によってどろどろと溶けていった。何も無くなった掌中を固く握りしめ空虚を睥睨する。
ディートリヒを殺せれば何か答えが見えてくるかもしれない。問いさえ浮かばぬ不快な堕落の感覚に対する明確な答えを。許せないという忿怒に身を任せて目前の必要事に集中していれば自ずと望む未来へと導かれるだろうから。そうだ、今はそれでいい。
——サイフォンから抽出されたコーヒーが濃縮された豆の香りを鼻腔から脳に届けると、意識は急速に現実へと引っ張り戻された。
食器の擦れる音、水の流れる音、ターナーがせかせかとフライパンを叩く音だけがキッチンに響めいている。カウンター席の上に設置されたテレビの音声が微かに雑音に入り混じる以外には外の様子は聞こえてこなかった。
俺はカップにコーヒーを注ぐとナポリタンが冷めないうちにテーブルへと向かった。
「お待たせしました。ナポリタンとコーヒーです。」
「ありがとう。」
男は客席でギターケースに触れていた。声掛ければテレビの音に掻き消されるくらいにか細い囁きを返して、やけに観察する目付きで俺をぎょろりと見詰めてくる。ソッチ系の趣味とは断じ難い、こっちの筋の人間でなければ気付けない程度の控えめな監視めいた視線だ。組織の連中かと訝って、だがツイタワービルで前線もかくやの銃撃戦を仕掛けてきた奴らが寄越すには悲しいくらいの人手不足だ。
勘付かれない程度に手を隠すように後ろに持っていくと、今度は俺の顔を凝視し始める。今の俺はイシードル手製の裸眼にしか見えない黒のカラコンを装着している。髪はアッシュブラウンに染め直して極普通の留学生といった見てくれだ。髪色は入院の一ヶ月前にピョートルが自ら変えたものを放置しているだけで深い意味はない。
それにしても妙に引っ掛かる。この男、何処かで見たような気がしてならない。
茶色のパーカーにジンズという比較的ラフな格好。目尻に印象的な釣り上がりをみせる猫目と黒髪。俺が料理を提供してから今この瞬間に至るまで十秒足らず。だが気配、仕種、目の配り方一つとして挙動の全てに隙がないことを互いに理解していた。
組織の人間でなくとも面倒事を持ち込む輩ならば場合によっては殴打以上の応酬も厭わないと、俺は店内を改める。幸いにもこの場にいるのは店員の俺とこの客だけだった。仮に客が居たとしてもキッチンに誘導して引き摺り込むだけだが。
けれども密かに戦闘の意志を問うた俺に対して、相手は殺り合う気はないと纏う雰囲気を緩和させて返してきた。殺気を納めると二人を包む緊迫感は瞬く間に雲散した。
俺は警戒は緩めずに接客の笑みを貼り付けて尋ねてみる。
「音楽がお好きなんですか?」
「え?」
突然の場違いな質問に、てっきり身分でも聞かれるのかと思っていたらしい男は素っ頓狂な声を漏らした。次いで俺が指差す先のギターケースを拍子抜けした面相で見つけて、得心がいったとばかりにそれを抱え込んだ。
「ああ!ベースを弾くのが趣味なんだ。」
「良いですね。僕もサークルで一時期ベースやってたので懐かしくてつい…」
「大学生か。留学生かな。若しかして専攻は国際関係とか?」
「はい、アメリカから来ました。専攻は哲学部です。どうしてそう思われたんですか?」
「だってほら、さっきロシア語で歌ってたでしょ。」
今度は俺が気勢を削がれる番だった。それもそのはず、彼が云っているのは俺が料理中に口遊んでいたソビエト連国歌だったのだ。
ピョートルの訓練生時代、候補生達は毎朝国歌斉唱を義務付けられていた。他にも紋章を胸に着けたり、組織発足の先駆者の彫像に敬意を示して平伏したりと、様々な方法でまだ幼い志願者達の愛国心を増長させてきた。無論ピョートルにも
「今度大学で国際交流会があって、僕が日本を紹介する相手がロシア人なので折角だから国歌を覚えておこうって練習してたんです。」
「へえ、そうなんだ。あ、俺は緑川唯。売れないバンドをやってる。」
「…篠宮焔です。」
すんでのところで大袈裟な喫驚が口から溢れ出そうになったのは辛うじて堪えられた。差し伸べられた手を握力で握り潰さなかったのは平常心の維持訓練が功を成したと謂えよう。
緑川唯は原作前の時間軸で死亡したスコッチの本名が公式で発表されるまで、ファンの間で長く考察されてた本名のうちの一つであった。特徴的な目元とベースギター、何より一度聞けば忘れる筈もない緑川光の声から歴然だった筈だというのに…。巧みな変装術にすっかり騙された挙句無駄に疑惑を掛けられるような態度をとってしまった一生の不覚を心中で嘆数にはいられなかった。
内内で項垂れているとそんな俺をサークルを懐かしんでいると勘違いした緑川唯、基諸伏景光はギターをケースから取り出した。
「良かったら一曲弾いてみてくれ。」
「え、ええと?」
「構わないよ、これも何かのご縁だし是非人の演奏を聴いてみたいんだ。」
手渡されたベースと彼とを交互に見遣るが、当の本人は白い歯をみせて演奏を待ち侘びている。引く気がないというよりかはいっそ眩しいまでの善意を認めると、俺は諦めて正面に掛けてチューニングしてみる。太くて抜けの良い音色に懐かしさが込み上げた。元の世界でコナンの映画を観に行ったのをきっかけに習い始めた。
零の執行人の主題歌をたった一度歌いたいが為に寝る間も惜しんで読んだ楽譜を脳裏に思い浮かべる。ほんの一つ咳払いをすると、俺は曲名を紡いだ。
映画を観た時の興奮は今でも忘れない。幸せは誰かの犠牲の上に成り立っているとはよくいったものだ。国家と国民を守るために自分を犠牲にして一人の公安捜査官が若い探偵と手を取り合い社会の闇と闘う活劇。警察学校時代の親友を尽く喪い幼馴染にまで置いて逝かれて、それでも進み続けなければならないと顔を上げる漢の背中に同性ながらに惚れた。
世の中綺麗事で済ませられないことは沢山ある。血腥い世界へと飛び込み犯罪を犯し時に人を殺めることで望ましくない世界での信頼を勝ち取っていかなければならない。そうして自分自身すら偽り続けるうちに背負っていた正義が、善悪の定義が霞の如くぼやけていってしまう。人間としての矜恃が失われてゆく悍ましい感覚は今の俺なら共感できる。
それでも彼等は、どれだけ魂が薄汚れようとも守りたいものの為に巨悪に立ち向かうのだ。顔も知らない誰かの為に孤軍奮闘する捜査官達にかけてあげたかった言葉を、シンガーソングライターは正しく言語化してくれた。貴方達の闘志を見守っている人は次元を超えているのだと、正義の在り方は無限なのだと。
深層で疲れきった心を時間をかけて癒そうとしている青年にも届くように、俺は二人を想って正義の無限大の可能性を奏でた——。
胸をときめかせる大メロを過ぎて弦振動が絶頂を迎えると、音が止んだ。爆発的な演奏が終わり、息が詰まる静寂が一気に舞い戻ってきた。束の間の沈黙があって、熱の籠った拍手が店内に響いた。
言葉なき賞賛が素直に嬉しくて自然と口許が綻んだ。俺は照れ笑いを滲ませて面を上げて、眼前の聴衆に瞠目した。
「緑川さん…その、涙が」
「え?」
躊躇いながら持ち上げられた指先は、彼の頬を伝う純真な感動に触れた。透明な水滴がぽたぽたと衣服の上に落ちては染みを作ってゆく。実は聞くに耐えない下手糞だったとか。
「すみません。あまり良くなかったですよね。」
「そんなことない!」
伏し目がちに零した落胆は間髪入れずに否定された。彼は目元をぐいと拭うと俺を正視する。その真っ直ぐな眸に俺は愕いた。緑川唯じゃない、嘘偽りのない諸伏景光本人が俺を見据えていた。唖然とする俺に彼は今日一番の晴れ晴れしい破顔をつくった。
「違うんだ。最近、悩み事があって…君の歌を聴いてとても救われた気持ちになったんだ。」
憑き物が落ちたといった風の朗らかな表情と真向かうと、つられて俺の口元も緩んだ。衷心からの言葉が自然と溢れ出した。
「僕で良いなら、何度だって歌いますよ。」
——それで貴方が前を向き続けられるなら。
いつか研二さん達と出会ったポアロの時と同じようにすっかり打ち解けた俺達はありふれた話に花を咲かせた。
緑川さん改め景光さんは三人でバンドを組んでいて、普段はルポライターとして働いていると明かしてくれた。所謂フリーターだがそこそこ稼げているそうだ。俺の勝手な憶測を述べさせてもらうと、黒の組織に所属が露呈した為に裏方に回ったんじゃないだろうか。それにしたって変装しているとはいえ外出は時期尚早な気も否めないが。
彼此一時間強、ベルが来店を知らせたことでより盛り上がっていた会話は強制的に打ち切られた。常連客が入口を背負っていた。いらっしゃいませと迎えれば景光さんはお金を置いて席を立つ。
「じゃあ焔君、今日はありがとう。」
「こちらこそありがとうございました。またのご来店をお待ちしております。」
ドアベルが鳴り止むのを待つ。再び頭を上げた時には、景光さんの姿は遠ざかっていた。不思議な心地だった。決して傷の舐め合いではないけれど、景光さんと話しているだけでここ数日悶々と蟠りとなっていた言いしれない負の感情が僅かばかり和らいだ気がした。
だが現実はどこまでも俺を無情の世界へと引き戻そうとしていた。
「すみません、注文お願いします。」
「はい、ただいま参ります!」
料理を出してカウンター席に掛けた男性客と語らっているうちにテレビ番組がニュース報道へと変わった。事件や事故、政治過程へと次々と移り変わり、最後に緊急報道が映像とともに流れ始めると机を拭く手が止まった。
『先程、東京都大渡間町××港で巨大な爆発がありました。…えーたった今、当番組のスタッフから現場の映像が届きました。中継です。』
「酷い爆発だな。事故か?」
客が独り言を呟いた。目線を上げれば液晶画面の一面に凄惨な光景が映し出されている。カメラマンは現場の真実から大衆の目を背けさせるように、爆風で倒壊した港近くの繁華街にしきりにスポットライトを当てている。
「
事故だって?とんでもない。六日かけて具に見て回った悲愴な現場が鮮明に瞼の裏に蘇ってきた。髪先で炎がちりちりと揺らめく。囁くように云った俺の言葉を常連客はすまなそうに聴き返した。