警察庁警備局の云階に存在する十三番取調室は通常の取調室とは異なり二回り広い面積を有している。中央には六人が向かい合える大きさの机が備えられ、その他の設備は四隅に設置されたカメラと卓上のスタンドライトと録音機しかない。被疑者が席に掛けた際にどの角度からも微々たる姿態の変化が観測できるように一面の壁全体がマジックミラー仕様となっている。異例な取調専用の部屋の為に滅多に人の出入りはないが、管理は行き届いており埃一つない。その部屋には青年と男がいた。
半年前を最後に清掃員を除いて締め切られていた空間は、今日だけは隣室共に人の気で埋まっていた。映画やドラマを再現したような内観に更に脚色を加えているのは成人したての青年と熟年の男だった。ピョートル・ノリリスク改め篠宮焔は警察庁に勾留されるという異常事態に恬然として居竦むこともなく、二人だけの机に広々と突っ伏し脱力していた。さもありなん、つい三時間前に少年漫画じみた非現実的な決闘を果たしたばかりの身で如何して威儀を正して警視と対面できようか。
放射能を自在に操る能力者との激闘の末に基準値を超えた放射性物質を浴びた焔は、任意同行の後に警察病院へと直行する予定が、嫌疑者の逃亡を危惧した上の判断によって本庁の敷地内に連行された。特別医務室に赴き、治奇妙にも一切の放射能が検出されず面食らった監察医に恐々と治療を受け、取調室に軟禁されたのが一日明けた今朝のこと。特殊体質とはいえ今し方の外傷が癒えるほど超人ではなく、焔は疲労困憊に夢半ばに突っ伏していた。
根気強く耳朶に届けられる質問を半端に受け流し、居然として第三者的態度を貫く青年に音を上げたのは捜査官の方だった。聴取を断念した捜査官と交代して現れた黒田に漸く焔は片眉を快さげにしならせたものの、回答の意欲は一向に見せず。しかしそんな被疑者を公安十八番の恐喝的尋問もせずに、黒田は彼を無言のうちに観察し続けた。
遮蔽レンズで義眼を隠し、不均一に釣り上がった眉と火傷痕が輪をかけて厳格さを醸し出している。過去の事故による心的外傷で発症した年齢にそぐわぬ白銀髪がいっそ怪異的な異彩を放っており、初対面の人間がこの男が犯罪人名簿に記録された前科者でないと断ずる方が難しかろうと思われた。
さて、からっきり無反応の焔に事情聴取はにっちもさっちもゆかぬ状態であった。これ以上埒の明かぬ問答を試みても無意味だと、一頻り観察を終えた黒田は露骨に長嘆息を吐き出した。吐息の一つだけで、熟達の警視正ですらたじろいでしまいそうな重みがあった。何も困憊しているのは捨て身で果し合いを生き延びた焔だけではないのである。プルトニウムが匿名配達されるという緊急事態を受けて連日宵っ張りで捜査にあたる現場監督の気苦労は察するに余りあろう。
黒田はマジックミラーの向こうで待機する捜査官らに一方的な目配せを送ると腰を上げた。身を翻し、現状の整理に隣室へ移らんとした。
「もう行っちゃうんですか、黒田管理官。」
教えた覚えのない自身の名を呼び止める声に黒田は魂消て顧みた。つい数秒前締まりなく面を伏せていた青年がいつの間にか背後に佇立している。机と連結する手錠は外されていた。思わず見張る黒田を差し置いて焔は何事もなさそうに座り直した。
「
一切の素振りも見せずに手錠を外したばかりでなく、隔たりの先で取調室を見守る警官らの人数を正確に把握してみせた焔に黒田が薄気味悪さを禁じ得ないのは尤もである。剰え自らを不利な状況へと陥らせた張本人は変わらずの自若とした笑窪をつくって黒田の着席を待っていた。俄然警戒を強めて黒田は対面に腰掛けた。
「一体何時手錠を外した。」
「手先が器用なんで。」
「何故九人だと?」
「魔法使いだから。」
のらりくらりと詭弁を弄する青年に果たして取調べに対する続行の意思があるのか、黒田は端緒から問い糺したくなり…だがしかし、直後に彼の緩慢な面持ちが一変したことにより苦情は斥かれた。
引き締まった薄唇、南国の海辺で読書でもしていそうな鷹揚な情調は鳴りを潜め、今にも自爆を目論むテロリストもかくやの剣呑さを纏い始める。如何してか己を正視する二つの黒の奥底に更に秘められた、謂うなれば煉獄の如き炎火を聯想して黒田は身構えた。場数を踏んできた出世頭の勘が烈しく警鐘を鳴らしていた。
この好青年の仮面を剥がした被疑者が数え切れぬほどの命を奪ってきたことを。その上で、喩えば自身の部下の慧眼すらも欺き何らかの不適切な意図の為に本庁に潜り混んできたのではないかと。百戦錬磨の威風が常態の黒田をして得体の知れぬ危機感を抱かせたのである。一人の警視の懊悩を看破してか、焔は一層含み笑いを深めると独り語り口調で語り出した。
「今からおよそ百年前、最盛期のソビエト連邦に一人の優秀な科学者がいた。彼の名前はアファーナシ・セメノビッチ・ロゴウィッツ。孤独な変物は妻子を求めず、政府に提供された研究所に篭って研究に没頭することだけが悦びだった。」
——或る日のことである。
実験監督たる彼は早速一際心身が健康的な兵士達を掻き集め、見るも聞くも悍ましい人体実験を繰り返した。そのうち彼はウイルスには寄生した宿主の細胞と結合し松果体——古代より占い師や超能力者の超能力の秘訣とされてきた、超常現象を誘発すると謂れる眉唾物の可能性の宝庫——を著しく活性化させる力があることを突き止めたのだ。
ロゴウィッツは着想を得た。このウイルスと細胞を生涯をかけて追求すれば何れ特殊能力を操る兵士を産み出すことができるかもしれない。…超能力者の大量生産という空想的な上奏に、しかし彼の科学者としての国家への貢献度と数々の目覚ましき成果を承知する政府は半年に及ぶ評議の末に莫大な資金、人材援助を約束した。斯くして国家の支援という絶対的な後ろ盾を得たロゴウィッツは派遣された数多の優秀な科学者らと共に超常兵士の育成計画を練り始めたのである。
「しかし彼等の研究は早々に行き詰まった。特殊な異形細胞を培養する為の技術も精巧な機械も当時には世界中の何処を探しても存在しなかった。研究は冷戦時代の朝鮮戦争まで続けられたが、結局企画の続行は不可能と見做され永久凍結となった。」
数十年にも及ぶ科学者達の血と汗と涙の結晶は闇に葬り去られたはずだった。
ロゴウィッツの死後、彼の無念を継ぐ科学者達が解体された研究機関の記録を密かに持ち出し実験の継続を目論んだ。KGBの追尾部隊はたちどころに彼等を反逆者として粛清した。されど人類の発展を羨望した彼等は計画中断が下された時点で己らの研究成果を組分けし、世界各国の政府機関へと売り込んでいたのだった。
爾来、貴重な資料を獲得した各国政府はおのがじし欠損した記録の欠片を求めて水面下で折衝を繰り返した。廃棄されることなく各地で温められ、時は流れた。
「…そして現在、満を期して何十カ国もの政府が非公式に携わる曲直是非の曖昧な一大プロジェクトが世に放たれたのでした。お終い。」
乾いた手拍子と共に物語が締め括られると、気詰まりな沈黙が落ちる。さも一仕事を終えたかの晴々しい目色で焔はお茶を一口に含んだ。たった今二十歳になったばかりの青年の口から紡がれた物語の荒唐無稽さに黒田は衝撃から抜け出せずにいた。
「どう?面白いでしょ。」
「…俄には信じ難いな。」
さぞ愉快げに、試すような眼差しを送られると黒田は咳払いで調子を取り戻した。何分、彼は物事の機微に通じた玄人である。警視としての威厳を忽ち面相に取り戻すと青年の語りを考慮の余地もない御伽話だと一蹴して、されど意に反して低くも絞り出すような声調子に焔は男の胸中を見透かしたように鼻を鳴らした。
「少なくともこの御伽話を語ることが命懸けってことは理解してほしいな。俺も貴方の立場ならきっと信じないだろうけど。」
「御伽話にしては生臭いな。」
「その生臭い物語を、子供の頃からさんざん子守唄聞かされてきたんだ。」
汚い大人達に。そう云って伏せられた目元は気鬱な翳りを帯びていた。彼の一挙手一投足から伝わる精神の未発達具合…謂わば幼年期の人格形成を完遂させられぬまま肉体と知恵のみが生育したような未熟さと、相反して瞥見で初対面の相手の胸懐を看破し、のみならず躊躇いなく殺傷を成し遂げられる本質の懸隔に黒田は底知れぬ闇を感じずにはいられなかった。よもや空想が実話なのではあるまいかと、斯様な烏滸の逡巡をしてしまう程には彼はこの狂的にナイーブな青年の真意を図りかねていた。
されど黒田兵衛、捜査本部を統率する者として喫緊の責務を果たさねばならぬ。義務感が彼を子供の戯言から成人済みの青年への儼たる尋問の継続を急き立てた。
「一連の事件に君が関与しているのは間違いないな?もう杜撰なはぐらかしは止したまえ。」
「そうくるか。手厳しいな。」
「質問に答えなさい。」
「そうですよ、訊かなくとも分かるでしょう。因みに工場の死体は全員アイツの仕業なんで、俺じゃないからそこは誤解しないで下さい。」
「というと?」
ようやっと本格的な質疑に進んだ矢先、マジックミラーを叩く音が二人の会話を中断させた。隣室から黒田へ呼び出しが掛かったのだ。部下の意向を無視して聴取を続けんとした黒田に焔は「行ってください、俺は逃げも隠れもしませんから。」と退出を促した。
黒田は腕時計を確認する。いつの間にか一時間が経過していた。已む無く一度席を外すことにした。
「ではそうしよう。」
「どうぞどうぞ。お茶もう一杯お願いできます?」
踵を廻らした己の背に掛けられた図々しい希望には応えずに取調室を退出しようとして、再度呼び止められる。
「フランク・ディートリヒ」
ドアノブに触れた手を下げると黒田は半身を翻らせる。焔は今回は椅子に掛けたまま、変わらずの掴みどころのない面相で彼を見据えている。
「貴方方が探してるテロリストの名前です。尤も、何も出てこないだろうけど。捜査、応援してます。これでもね。」
それ以上話はないとばかりに再び突っ伏した焔に、黒田は詰問を諦めその場を後にした。
………。
隣接する部屋は取調室を観察する為に嘘発見器等の特殊な設備を備えた十畳程の間取りとなっている。中では複数の捜査官らが揃いも揃って硬い面差しで数台のデスクトップパソコンを凝視していた。IT技術者二人と此度のコンビナートの一件で焔を被疑者として連行した七人の警官らである。黒田の入室に赤井を除いた一同は起立して背筋を伸ばした。
通例では黒田のような警視以上の地位の者が直接尋問する案件は皆無と云って良い。だが殊本件に関しては直属の部下たっての稀有な頼みがあり、内密に黒田が取調べを行うことになったのだ。だというのに、無理を聞いたのにも関わらず聴取が軌道に乗ってきた段階で中断を申し出された展開に、ややも不満を抱いてないと云ってしまえば嘘になる。
些か険のある声色で要件を問えば、尋問中にマジックミラーを叩いた降谷が場所を開けてパソコンを指し示した。脳波や身体の微々たる変容から被疑者の心理状態を観測するグラフや、警察庁のデータベース等取調べに際して有用な機能が複数のウィンドウに展開されて一台に纏っている。
「アファーナシ・セメノビッチ・ロゴウィッツ、ソ連時代の脳科学者として確かに存在してます。」
「一方でフランク・ディートリヒという人物は警察庁のデータからは検出されませんでした。」
「しかし嘘は吐いていません。データベースを欧州にも拡大して調べてみます。」
黒田は腕を組み、思考を巡らせる。彼の仕種の随所に疲労が不器用に潜められているのを見抜けたのは、潜入任務以前から黒田の下で働いてきた降谷のみであった。
ときに黒田は焔が虚言を吐いているなどとは全くもって考えていなかった。機械を通さずとも青年の不愛敬な物言いには真卒な何らかの意図が秘められているのは承知していたものの、だからといって突拍子もない話を鵜呑みにするような生半可な人柄ではノンキャリア出の彼が警視に成り上がることは不可能だっただろう。
とまれ、此度のテロを惹起した真犯人が焔ではないことは黒田は重々察知していた。
「矢っ張り何かの間違いなんじゃ」
掠れ声で弱々しく囁いたのは萩原だった。家族として、兄貴分としての愛念が際立っている彼は未だに一連の事件と焔とを血腥い糸で繋ぐまいと必死な葛藤を患っていた。そんな彼をさも駄々を捏ねる子供を諌めるように松田が反論した。
「あの光景を見てまだそんなことが言えるのかよ。」
梨善町コンビナート消滅事件。まだ前日の出来事だが鼓膜を破裂させんばかりの轟音から始まった、東都の港を空襲を受けた大都市もかくやの壊滅的被害が齎された一件は梨善町は無論のこと東都、延いては全国千里に響き渡った。コンビナート付近はマスコミが規制線を越え、ヘリコプターを駆使する大騒ぎが続いている。早急に梨善町を閉鎖し捜査班と事後処理班を送ったものの事態の収集までに時間を要すると思われた。
現場は放射能と溶岩で埋め尽くされ、まるで中東の荒廃地帯の様相。防護服無しでは立ち入りは叶わない。守衛所で引き返した七人にとっては現時点においても白昼夢めいた心地に陥るほど衝撃的であったのは間違いない。
「止めろよ松田。…管理官、焔は困ってる人がいるなら優しく手を差し伸べられる善い子なんです。俺には彼を疑うことなんてできません…」
「私の見解を述べておこう。彼は人を殺している。それも取り返しがつかない程にな。」
果たして命の基準が我々よりも抵いことは性格の良し悪しに勘案できるものか、という萩原の主張の無防備な欠陥を突く行為は躊躇われた。少なくとも殺人の瞬間、焔にとって命とは紙屑よりも軽いであろうという難儀な考察を——それも全くの考え違いではない——必死に彼の訴える萩原に正面切って告げるのは酷であった。
何れにせよ現段階では正確に見極めることはできないのだから篠宮焔の人間関係から人格まで、その遍くが疑わしいのは否定しようがない。萩原を除いて皆は猜疑心に満ちた眼差しで曖昧模糊な電子情報とマジックミラー越しの焔とを交互に熟視した。これ以上議論を続けても時間の無駄と気苦労を重ねるだけであった。黒田は一つ咳払いをした。
「件の被害によりもはや我々捜査本部だけでは事態の収拾が手に負えなくなった。一度上に指示を仰ぐ。君達七人は報告に参加するように。残りは休息して良い。」
眼鏡の下で鋭い眼光がちらりと取調室を見遣る。隣室の内装も空気の悪さも認知していながら、数多くの捜査官を煩わしている当該人は居眠りに飽き、悠然とした様子で手錠を弄っていた。
............。
半刻後、焔が静かに待機する取調室に一人の男が入ってきた。胸ポケットにかけられた名札は男に代わって己を三上と自己紹介している。彼が警察庁の、それも連続爆発事件に伴い設置された捜査本部に従事する捜査官であることを理解すると焔は小首を傾げた。
「てっきり管理官が来ると思ってたんだけど」
言葉のわりに混迷は微塵も滲ませず呟いた焔に三上は応えず、挨拶代わりに自身の携帯を手渡した。入室前に開かれた画面には通話中の文字が記されている。一言も発さず、目線のみで応答を促す三上の不審な挙動に焔は訝しみつつもそれを受け取った。
「はい。」
『ピョートル・ノリリスクか。』
渋く抑揚のない英語が鼓膜を通った。焔は即座にこの胡散臭い携帯を寄越した目前の捜査官の真の身分を汲み取った。
「悪かったな、焔だ。」
転瞬、耳元で不快な音楽が流れ出した。
黒板を引っ掻くようなノイズの中にクラシック調の旋律が微かに混じって耳に流れ込んでくる。瞬間的に体が金縛りにあったかのように動かなくなる。五感が急速に麻痺に陥ってゆく。
雑音と旋律との不協和音が聴覚を介して一次聴覚野に行き届くと、焔の意識は暗闇へと引き摺り込まれた。