車が高層ビルの車寄せに停められていた。東都の邸宅街や首都機能の集中する千代田などの特別区でしか
ブラインドがひたりと下げられた薄暗がりに、歳のかけ離れた少年と男が後部座席に並び座っていた。ルームライトの仄かな光に照らされて少年の持つ家族写真が光沢によく反射している。親に物申すべきか否かと躊躇う子供のように双眸を左右に揺らす少年を、初老の男はずっと眺めていた。
『今まで訓練してきた成果をここで発揮すれば良いだけだ。何も心配はいらない。』
『…けど、彼は何を?』
『ピョートル』
本革のシートに深々と預けた背中を起こした男に、子供は益々叱責を受けるかの如く身を竦めた。低く重みのある声がピョートルに薄氷を踏んでしまったかのような心地にさせた。
『君が待ちに待った初任務だろう?他の誰でもなく君自身が、世に貢献したいと願ったのだ。…どうか私を失望させないでくれ。』
親が諭すような柔らかな声遣で、されど有無を云わさぬ物言いにピョートルは黙り込んだ。写真を握り込み、当惑と憂いを双眼に閃かせては思い詰める幼い少年を男は真っ直ぐに見守っていた。
やがてピョートルの瞼が固く閉ざされた。懺悔を求めるように弾力のある眉間に皺を寄せ、数秒も経たぬうちに写真はぼうっと音を立て塵となった。そうして再び見開いた彼の瞳には少年の名残は消え失せていた。
感情を覗かせぬ無機質な眼差しを肯定と受け取った男は悪徳な薄笑いを頬に浮かべると、ピョートルの背を押した。恰も人間に擬態した悪魔の如き手付きだった。
『成功を祈ってる。』
*
『君は自分がどんな過ちを犯そうとしているのか理解していない!』
『いいえ、よく分かってます。僕は裏切り者を始末しにきた。』
『よく聞いてくれ、君は奴等に都合の良いように利用されている。私は…』
一発の銃声がくぐもった。恨事を代弁する衣擦れの音は闇夜によく響いた。
顳顬から生暖かい鮮血を流し床に崩れ落ちた男を少年は一瞥する。一瞬にして光を喪った黒の双眸は主張を通せぬまま逝った男の無念を表していた。ピョートルは自身が握る拳銃のサイレンサーを取り外すと、本体を男の手に冥土の土産とばかりに持たせた。
今し方の発砲音で人が駆け付けるだろう。第三者に己の存在を勘付かれる前に立ち去るべく、ピョートルは早々に踵を返す。不意に、書斎の隣から別な気配を感じた。彼は自殺に見せかけるべく死体に持たせた銃を拾い上げると忍足で歩を進める。
…微睡から目覚めて、兎の人形を両手に抱えて少女が佇んでいた。
『おとうさん?』
暗闇でカーテンの隙間から差し込む僅かな街明かりのみを頼りにじっと目を凝らし、少女は面前の人物を見極めようとしている。ピョートルは彼女の背後へと目線を移して、寝室のベッドで娘の不在に気付いた母親が上体を起こしたのを捉えた。此処にいるべきでない、本来ならば階下の晩餐会に参加しているべき母子は体調不良の為に早引けしたのだ。男が独り書斎に籠る時間を狙った筈が、とんだ誤算だとピョートルは舌打ちを溢したくなった。
『おにーさんだれ?』
『——ッ!こっちに来なさい!』
寝室に現れたのが己の夫でないことを即座に理解した母親は、跳ね起きて娘の元へと駆け寄ろうとする。ピョートルは脳漿を急速に絞る。男のみ、妻と良人、或いは家族全員…。国家の命運を左右する決断を迫られたかの如き苦慮の嵐が衷心で渦巻き、やがて彼は結論を下した。
鋭い音がもう一発、寝室に響き渡った。
*
意識が覚醒すると直ぐ、自身を取り囲む存在に気付いた。複数の人の気配だ。ゆっくりと瞼を開ければ案の定、黒服を身に纏った物騒な集団が銃口をこちらに向けていた。
椅子に長時間拘束されていたのか腰骨が少し痛い。背中を起こそうとして何かが引っ掛かった。後ろ手に縛られた手錠だった。僅かに動かすだけでもじゃらりと厄介な音が鳴るのが煩わしくて燃やそうとして、一人の男が訛りのない英語で嘲笑った。
「無駄だ、抑制剤を打った。」
「…へぇ」
俺は部屋全体を改めて見る。俺を合わせて九人という大所帯でも余裕があるくらいの広々とした間取りの大部屋にいるようだった。ガラス製のシャンデリアや上質な高品質な家具が備え付けられており、仕切りのない奥行きは清楚感のある白を貴重とした内装のベッドルームと繋がっていた。
「スイートルームで同窓会、にしても不穏だな。」
嫌味混じりに云えば男は嘲るように鼻で笑った。云えてるな、タダの滞在ほど怖いモンはねェ。
「こうして面と向かって話すのは初めてだな。俺達はCIA特別捜査班、一年半前摩天楼でお前をアメリカに引き摺って帰った。」
「ああ、その節はどうも。」
「礼なんざ良いってことよ。んで彼等はFSBの特別捜査班だ。」
次に男が顎で指したのは右隣に並ぶ四人の男達。云われてみれば体格や目鼻立ちだけでなく仔細な所作の隅々が同郷ですとありありと告げていた。
「フラン坊のお迎えも?」
「その通りだ。問題児だらけで上はお冠さ。」
「礼には及ばないね。」
理不尽に殴られた。口内に鉄の味が広がって恨めしげに睨め上げれば、リーダー格の男は痛そうに振りかぶった拳を摩った。辞表は出した筈なんだけど。馬鹿野郎、ウチに退役制度なんざねェよ。…まるでブラック企業の手口である。俺は窓の外に目線を逸らす。既に日が暮れていて斜陽に替わって米花の街並みを街頭が存在感を増していた。太陽にだって安息はあるのに、人間はどこまでも無情だと思った。
ふと、ここに来てからどれ程の時間が過ぎたのか気になった。
「一日? それとも数時間?」
「丁度一日と一時間二十八秒だ。」
「ご丁寧にどうも。」
律儀にも腕時計を確認してくれた男には軍人上がりの風貌が滲み出ていた。彼は不意に携帯を取り出しどこかへと電話を掛ける。間を置かず丁重な受け答えが耳朶に届くと、相手方が高官であることは察せられた。暫くして男は通話をスピーカーにして歩み寄ってくる。
「ピョートルに話があるなら俺を通してくれ。」
釘を刺せば若く張りのある声が返ってきた。
『ホムラだったかな。私はCIA作戦本部長官のダラスだ。』
「…ダラス長官が何の御用で?」
ロベルト・ダラス、EkSプロジェクトのニューヨーク支局司令官。二十九歳で長官に就任という利達を果たした明澄な頭脳の持ち主。ピョートルの現役時代、欧州での任務で度々間接的に干渉してきた人物だ。記憶の限りでは初対面時はまだ副官だった。
『No.1と派手に殺り合ったようだね、
「苦情なら受け付けない。そもそも喧嘩を売ってきたのはアイツだ。」
邪慳に返せばダラスは気を害するでもなく失笑を零した。
『まあいい。それよりもディートリヒは無事かな。』
「さあな。」
『困るな、素行に問題はあるが彼は欠かせない人材なんだ。』
余程戦力を失うのが惜しいのが、棘のある言い草から伝わってきた。あの金と権力だけで世界を物にしたと勘違いしてる高慢な連中が参ってる様を想像するだけで気味が良かった。
つと先程の夢が蘇った。まだ完結してなかった記憶の旅だ。暗殺対象が住する高層ビルの看板や、近辺の文字盤に記された言語は日本語だった。つまりピョートルの初任務は日本だったことになる。他にも何かを視た気がするが目醒めとともに失われてしまった。若しかするとピョートルが日本への旅券をイシードルに頼んでいた理由何らかの関係があるのかもしれない。
「俺にも質問がある。」
『何でも聞きたまえ。』
「過去の日本での任務の暗殺対象が誰だったのかを教えて欲しい。」
数秒、沈黙が生じた。
『…ピョートル、君の任地に未だ嘗て日本はない。君の初任務はシリアの左派政治家の暗殺だ。』
予想だにしていない言葉に息が詰まった。丁度さっき蘇ったばかりだというのに記憶違いなわけがない。
「そんな筈がない、俺の初めての任務は東都だった。」
長官は返事をしない。けれども彼は『電話を代わってくれ』と異様に押し籠った声でそれ以上の会話を拒絶した。スピーカーを切り替えた男がベッドルームに移動して深く話し込み始める。今も猶差し向けられる銃口には目もくれずに俺はこの奇妙な矛盾を解消すべく思考に耽った。
ピョートルに日本での暗殺任務を与えたのはFSB本部の情報長官ゴーゴリだ。ダラスの言う通り、確かにシリアでの暗殺任務に携わった記憶はあるがあれは俺が正式に諜報員として運用されてから一年後の出来事だった。情報システム管理に不備があったとか?いや、任務に関する情報は情報管理局が徹底して管理していて、こんな初歩的なミスを犯すはずがない。なら夢の記憶が紛い物だった?それも否だ。あの場で嗅いだ硝煙の匂いも、触れた死体に残る生温かさも鮮明に思い出せる。
思案に沈んでいるうちに男は話を終えて戻ってきた。何故か俺を憐れがましく瞥見して、次いで彼の左側に待機する四人に何事かを耳打ちした。
…矢庭に男は懐から拳銃を取り出した。直後、CIA捜査官達は一斉に発砲し始めた。俺にではなくBDN捜査官達に向かって。一方的な虐殺だった。
銃声に反応して部屋に突入した複数の男達をCIAの連中は容赦無く迎撃した。
咽せ返るような鉄臭さが室内に忽ち立ち籠めていく。閃光が間断なく迸り絶叫は銃撃に掻き消される。烈しく燃焼する火薬の音は次第に弱まっていった。
完全に発砲が止んだ頃には死体から飛び散った血飛沫が壁や天井や床一面を赤く彩り内装を塗り替えていた。強烈な血腥さが鼻と口から入り込んでくる。手が不自由な所為で口元を覆うこともできず、俺はたった今起きた事態を呆然と眺めていた。
すると二人が何処かからアタッシュケースも持ってくる。態とらしく目の前で開いて、得体の知れない注射器を見せびらかしてくると俺は顔色を変えた。男がいやらしく嗤った。
『君の大好きな博士からの贈り物だ。』
ダラスだ。奴は部下に切電を装わせて、実際は電話を繋げたまま碌でもない目論みを企てていたのだ。禍々しい赤色の液体がシリンジの中で揺れた瞬間、猛烈な動悸がこの場からの逃亡を訴えかけた。
『このままCIA本部に招待しようと思ったのだが予定を変更しよう。』
「クソ、離せ!」
括り付けられた手錠どうにかしようと踠く前に、屈強な腕が首根っこを鷲掴みにしてくる。プロレスの王者ですら逃れられないような強烈なホールドだ。手も足も満足に動かせない所為で金属の擦れる音だけが響き続ける。
懸命な抵抗も虚しく遂に頸に注射針が突き刺さった。
刹那のうちに、五臓六腑が掻き回されるような激痛が熱とともに奔流する。全身が跳ね上がる。
痛い、熱い痛い…!首を押さえる大きな手に力が籠ると、強烈な疼痛は倍増した。まともに呼吸もできなかった。段々と視界がぼやけてゆく。
間も無く、頭が真っ白になった。
*
『聞こえているか、ホムラ。』
糸の切れた人形のように全身を弛緩させ項垂れた焔をダラスは呼んだ。彼の必死の抵抗を難なく妨げていた男が髪を引っ張りあげる。ぅ、と呻き声を漏らした青年の目は焦点があっておらず、注射の効果を裏付けていた。ダラスの指示を受けて男達が施した注射液は以前カナン博士が洗脳措置に用いた採用薬の改良版であった。
謀略の奏功を実感したダラスはほくそ笑んだ。カナン博士の助言を実行するべく、部下に命じてレシーバを耳元に密着させると
『私はロベルト・ダラス。君の直属の上司だ。FSBに君が訓練兵として所属していた時から私は君と親密な関係にあった。訓練兵として秀でた才能を発揮する君を導いてきた。覚えているか?』
「…は、い」
焔が薬物の影響で辿々しくも己の問いかけに応えると、ダラスは益々笑窪を深めた。
『良い子だ。ではCIA日本支部に向かい私からの指示を待て。善いな?』
今度は返事がなかった。効き目が強すぎたか、ダラスは再度教唆を試みる。
『ホムラ、聞こえ』
「残念、今は僕だ」
『ッ、ピョートル!』
バキン!手錠が引き千切られた。
己を抑えていた男の懐から拳銃を素早く抜き取ると、焔…否ピョートルは瞬きの間に男達を撃ち殺した。
不気味な静寂の訪った空間で、持ち主を亡くした携帯が床に放り落とされる。
『ピョートル、私は』
焦燥を多分に孕んだ弁明は放たれた銃弾によって絶たれた。血溜まりに破片が飛び散った。他に生存者がいないのを確かめるとピョートルは目を瞑る。再び目を開けた時には人格は交替していた。
*
節々の痛みに身悶えつつ、CIAの奴らが殺したBDN捜査官の携帯を抜き取った。
「あー、危なかった。助かったピョートル」
——焔、体の調子はどう?
「ちょっと苦しいけどモーマンタイ」
注射の効能が発揮される寸前にピョートルが俺の意識を引っ込めた為に表層には人格が不在だった。彼等が洗脳を試みた相手は意識の空白に過ぎなかった。ピョートルの咄嗟の機転のお陰で脳にも深刻な後遺症が残らずに済んだのだ。
「ありがとな、態々出て来てくれて」
——君が無事で良かった
万力締めに掛けられたみたいに頭が痛い。骨も身も傷口を塩を塗っているように酷く沁みている。痛みが引いてくれる気配はないが此処に留まるわけにはいかなかった。
やや不測の事態は挟まったが、なにはともあれ作戦成功だ。
何を隠そう、俺が安易と政府の連中に捕縛されたのには理由があった。その名も『警察庁で組織の検問に引っ掛かって拐かされちゃおう作戦』である。余談だが作戦名を告げた際にピョートルに絶望的なネーミングセンスだと心底残念な面持ちで揶揄されたのはつい数日前の話だ。
兎にも角にも、コンビナートでの一悶着から公安、CIAへと身柄が移るまでは——連中がイカれ博士の特製注射器を持ち出したのは除外して——全て想定内だったというわけだ。警察庁でディートリヒの名前を出せば警察が裏を取るのは歴然としていた。公安のデータベースにアイツの名前が引っ掛かるわけもなく彼等は必然的にICPOに問い合わせる。
EkSプロジェクトに関する情報は謂わば国際的最高機密に分類されており、防諜機関の主戦力たる諜報員を先進国の閲覧権限のない行政機関が探ったとなれば一大事。即座に公安内に潜んでいるであろう内通者に働きかけ俺へと繋がるのは時間の問題だった。と、ここまでが俺の描いたシナリオである。
目的は勿論、組織とけじめをつけるため。奴等の懐に飛び込んで決定的な疵瑕を強奪せしめて、悪行の全貌を明るみに出させてEkSプロジェクトを解体させる。喩えその為に自分も糾弾されようが構わない。それが博士のために俺ができる唯一の償いであり、負の連鎖を断ち切る唯一の術だ。
CIAだけでなくBDNまでもが出張ってきたということはディートリヒがピョートルと同様に国境を越えて為政者や軍上層部と繋がっていたことの証左だ。一箇所掘るだけでも芋づる式に腐敗が暴かれるだろう。特にBDNには徹底的に制裁を下すつもりだ。
「ピョートル。初めての任務のこと、覚えてるか?」
——夢を視て思い出したよ。確かに僕の初任務は日本だった。…そういえば、どうして僕は日本に来ようと思ったんだろう。
矢張りピョートルと俺の記憶は間違っちゃいない。となると異常なのはダラス長官の反応だ。まるで何か後ろめたいことをひた隠しにしているような感じがした。過去の出来事を敢えて捏造した理由を知る必要がある。
折角のスイートルームは客室掃除じゃ元通りは困難なくらいに汚れていた。俺はクローゼットを漁って誰かのキャップ帽を頂戴した。CIAの一人が使っていたグロック19Mの弾倉を補充して服の内に仕舞うと、死体を飛び越えて部屋を出る。面倒な後片付けは公安に打ん投げてしまおう。
「さて、先ずは例の高層ビルに向かおうか。」
早くも廊下は先の烈しい銃撃で野次馬がちらほらと集まり始めていた。俺は帽子を目深に下げて、更にパーカーのフードを被る。カメラ越しでも肉眼でも一目では素顔を見抜けないだろう。
半開きの部屋を覗いて誰かが悲鳴を上げた。次第に騒めきだす人混みに紛れて、俺はホテルを後にした。
*
SAKURAシティタワーは米花町の一等地に聳える高級マンションである。雲と背比べをしているかの迫力のある高層には政界人や芸能人、大企業のCEO等謂わずと知れた金満家が結集している、ある意味手っ取り早い身代金の金藏だ。都心パノラマを眼下に臨める八角形の高楼の居室は1LDKでも二億は下らないのにも関わらず、竣工の
そんな米花町の新築高級共同住宅建築ランキングがあれば殿堂入り間違いなしのマンションの高層三十八階の一室に俺は居た。
使われなくなった教会のステンドグラスを再利用した絢爛なクリスタルシャンデリア、北欧風に特殊加工が施された御影石の床、白黒のスタイリッシュな本革ソファに渋いオーク製の書斎机。存在感を魅せる家具の一つ一つが現代と古典を融合させた内観と調和しており、如何にも高給取りの洗練された4LDKの間取りだった。就中ベージュを基調とした壁に飾られる、幕末から明治の激動の時代を生きた歴史的な浮世絵師楊洲周延の錦絵「上野公園開花ノ図」は、格別な異彩を放っていた。
「…あの夜と全く同じだ。」
八畳程の面積の書斎に入れば、清掃業者でも拭き取れきれなかった血痕が一夜の悲劇を物語っている。
とまれ、事故物件となった部屋は住民達の間では暗黙の理として爾来誰も入居しなかったのだ。
日本でも安価で手に入りやすい銃を用意して自殺を偽装するまでは総てが順調だった。彼の娘の浅見美奈子が銃声に目を覚まして寝室から顔を覗かせるまでは。彼女は当時四歳、寝室で就寝の準備をしていた母親の浅見瑞稀は三十二歳だった。
娘一人ならば顔を見られても誤魔化しが効いた。だが侵入者を目撃してしまった母親を見逃すわけにはいかなかった。残された選択肢は一家無理心中しかなかった。けれども人情に厚いピョートルが年端もいかない子供を殺めるだなんて残虐が犯せる筈もなく…魂が張り裂けるほどの苦悶の挙句、鬱病を患った夫——実際に清二は若き政治家として繁忙を極める日々に困憊し精神病院に通っていた——の凶行というシナリオを選んだ。
二人の娘は今頃何処で何をしているのだろう。親が自分を独り残して男女の心中を果たしたと思い違ったまま成長することの苦痛が如何程のものか、家族に恵まれて育った俺には想像も及ばなかった。男女心中の末に捨てられた子だと学校で虐められてはいないか、或いは両親が恋しくて後を追ってはいまいか。深層のピョートルの悔恨と共鳴してやるせない心地に陥っていると、イシードルから電話がかかってきた。
「どうした。」
『ディートリヒ出荷完了。』
「
『どういたしまして。ところでお前の頼み事についてだけど、朗報と悲報がある。』
組織の全貌を明かして世界に拡散する。凄まじい人権蹂躙を暴露すれば関係機関どころか加担していた為政者や各界隈の有力者は揃って世界中から槍玉にあげられるだろう。最悪各国の行政が一時的に機能を停滞する事態に陥る危険性だってある。だがそんなこと俺には知ったこっちゃない。
組織を解体に追い込む為の王手詰めとして利用する予定なのは、アメリカ有数の高級日刊新聞紙ニューヨークタイムズである。実のところ、俺は佐藤さんとニュートンの警護とともに世界的に評価の高い新聞会社に所属する或る記者の身分調査を頼んでいた。出世欲を抱えていて、月並みな倫理観も確りとあり、それでいて脂が乗っていた若さの優秀な記者。そんな優良な人材に俺が持ち得る総てを賭すつもりだ。
「…朗報からで」
『EkSプロジェクト、延いてはお前について調べてる記者がいる。どうやら元プロジェクト関係者を片っ端から当たって取材をしてるらしく既に結構な機密を抱えてるみたいだ。しかも今は日本にいる。』
「何それ面白そう。」
『労働環境超絶ブラック国際組織(尚、合法)から離脱した諜報員Nの暴露、EkSプロジェクトの全貌とは!?』なんて見出しが世界中にばら撒かれたら俺は腹を抱えて笑い転げるだろう。
「そいつの名前は?」
『ダニエル・メイソン。急いだ方が善い。』
「なんで?」
『流石に検索包囲網の存在は知らなくて、上司との電話でNGワード言っちまったんだって。CIAが血眼になって探してる。これが悲報な。』
「うん、拙いな。悲報ってゆーか悲劇に突入してるだろ。」
少なくとも日本にいるのならば不幸中の幸いだ。CIAがメイソンを始末する前に俺が見つけ出し、禁断の新聞発行までの警護を条件に取引する。まさに晴朗なれども波高しである。俺は早速イシードルにメイソンの詳細を尋ねた。
*
遡及すること一日前。FBI合同捜査事件が開設された大会議室は荒れに荒れていた。さもありなん、数時間前まで拘留していた一連の事件の重要参考人である篠宮焔が拉致されたのだ。現場の監視カメラには公安捜査官である三上和彦が映っていた。捜本会議にて司会を勤めた公安捜査官が。
焔が拉致されるまでの時間は僅か二分未満。許可もなく取調室に入室した三上に手渡された携帯を耳に寄せた途端に、如何いうからくりか被疑者は気絶した。その僅か数秒後、取調室に堂々侵入してきた黒づくめの者達により焔はその場で拘束、拉致されたのだった。男達への接遇態度から三上が公安に潜り込んだNOCだったことが判明した。
重要参考人の拉致に公安内のNOC発覚、度重なって訪れる前代未聞の急場に公安もFBIすらも現状の真成を把握できずにいた。忽然と本庁から姿を消した三上と焔を総動員で捜索すること丸一日、捜索班の一人があろうことか本庁の構える霞が関から三画も離れていないシティホテル近辺の街頭カメラに映じた怪しげなバンを発見した。
捜査官の一報を受け監視映像を確認した黒田は、周辺の聞き込みを終えて帰還した捜査官らが報告した銃撃音の通報とを照らし合わせて重要参考人が件のホテルに連れ込まれたと見当づけた。斯くして、彼は自ら捜索班を引率して通報現場へと赴いたのだった。
………。
「なに、これ…」
覇気どころか生気すら失った萩原の掠れ声が死の気配が充満するオーディオルームに溶けていった。
部屋は夥しい暗赤で染め尽くされていた。一日前の警察庁の取調室への黒服の侵入者達はその折よりも四人を増やして一様に身体の何処かに風穴を開けて転がっていた。
鼻腔を刺激する強烈な鉄錆の臭いに警官らは思わず口元を覆った。陰惨な殺戮現場で一足先に気を取り直し、スイートルームを一通り見分した降谷が報告を上げた。
「管理官、浴槽で三上の死体を確認しました。後頭部に一発です。」
「そうか。」
「ホテルの従業員に話を聞いてきました。「黒づくめの男達が大金を渡してスイートルームに案内させた、男達は金髪の青年を引き摺るようにして運んでいた」…恐らくそれが篠宮焔かと。」
同階の宿泊客と野次馬から事情聴取を行なっていた松田が深刻な面持ちで降谷に附言した。死体の山の積み重なった現場に拉致された当該人がいない、それも勾引かしを図った三上と男達の亡骸を残して。その事実は焔と親しい者達の胸に重く伸し掛かった。鑑識は捜査を進めており、指紋が一致するのも時間の問題と思われた。
「そんなっ!」
悲痛な落胆が溢れ落として首を擡げた萩原を一瞥して、黒田は暫時の思考の後に苦渋の裁定をした。
「篠宮焔のその後の行方を追う。」
「待ってください!篠宮焔についてですが、管理官のお耳に入れておくべき新報があるんです。」
電話口で真摯に話し込んでいた諸伏が出し抜けに制止の声を上げた。面差しには僅かな気色が浮かんでいる。彼は流れるように降谷と赤井を見遣った。
「数週間前に俺が黒の組織を離脱した際、ライフルで介入した何者かが現場に残した血痕と彼のDNAが一致しました。」
FBI捜査官赤井秀一がほぉ、と感嘆の声を漏らした。無理もあるまい、よもや狙撃の名手たる赤井と比肩できる謎の実力者の正体が斯様な形で明らめられるなど、一体誰が予想できただろうか。別て、匿名から篠宮焔という名前を得た狙撃手の横槍の真意がどうであれ、結果的に幼馴染の命を救われた降谷の心境は複雑なものであった。彼は事件の重要参考人として焔を特に危険視していたのだからそれもそのはずである。
「彼がヒロの、命の恩人…?」
絞り出すように降谷が呟いた。一方で当の幼馴染は焔こそが己の心身を救った実際の救世主であった事実に歓喜
を禁じ得ないでいた。しかし黒田の鋭利な眼光に貫かれて、浮き足だった胸中を咳払いで誤魔化すと報告を続ける。
「加えて降谷捜査官の調査によると、数ヶ月前に黒の組織の傘下会社で機密情報が盗まれたようで当時の警備員ら数名が赤い悪魔を見たと証言しています。」
「待て、赤い悪魔だと?」
諸伏の説明に松田が詳細に詰め寄ろうとして、不意に一人の捜査官が額に汗を滲ませて駆け込んできた。
「何事だ。」
「それが…」
息を切らして慌ただしく持ち込まれたパソコンを一同は覗き込み、画面に映じる意想外な人物に場が凍り付いた。
『黒田警視。』
「橋下警視総監。」
威圧感のある声音が己を呼称すると、 黒田は久しく感じてこなかった胸騒ぎに神経を尖らせた。深い皺が刻み込まれた峻厳な顔立ちの警視総監は厳格且つ保守的と定評のある厄介な人物だった。
『FBIとの合同捜査だが、重要参考人は見つかったか。』
「いえ、現在も全力を尽くして捜索中です。」
情報の伝達速度が予想以上に速い、警視総監の質問に黒田は内心冷や汗を背に滲ませた。
『遅い。しかしまあ、無理もあるまい。』
『FBIとの合同捜査に加えて、既に東都の二箇所で大規模な爆発が起こっている。メディアも相変わらず蠅のようだ...これ以上恥をかくわけにはいかない、判るかね。』
「仰る通りです。」
『委員会が解決を急かしてくるのが頭痛の種だ。もはや必要なだけ戦力を投入して構わん。一刻も早くアレを生け捕りにしろ。』
「勿論です。」
戦力、アレ、生け捕り。警視総監から発せられる不穏な単語に数人が固唾を呑んで黒田の反応を見守った。しかしながら黒田は一切合切の疑問を押し込むと肯定の意を示した。警視総監は満足そうに頷くと、通信を切った。
「管理官…」
不信感に満ちた降谷の呼び掛けに黒田は一瞥もくれずに身を翻した。
「警視総監の指示通り篠宮焔の捜索班を立ち上げる。」
「黒田管理官!」
すかさず非難の声を上げる諸伏と萩原を黒田は漸く見返った。彼等の誰一人見たことのない険のある目付きで制すると、二言釘を刺した。
「警視総監にもう一度事情を伺う。あくまで、指示通りに動くように。」