十一月某日、ロシアモスクワ。
政治と宗教の要を果たしてきたロシアの象徴的建築物、クレムリン。その歴史は遡及すること約八五〇年前、ロシア各地に存在するクレムリンの一角として始まりモスクワの城壁を意味するようになってからは大統領府を擁するロシアの中枢として、現在に至るまで国家の権力を象徴としての威容を損なうことなく赤の広場の正面に威風堂々と君臨し続けている。
およそ二十六ヘクタールの面積を有する壮大な宮殿の地下深くには連邦保安庁が戦前、大戦に備えて掘削した密室が存在する。上層部のなかでも極めて少ない内輪に通ずる者のみが認知する秘密の部屋が。
決して陽光を浴びることのない無窓居室には瀟洒なデザインのコーカサス地方の古代織柄絨毯が壁に掛けられ、ウラル山脈から採掘された国産石材をあしらった豪壮なシャンデリアが大宮殿に相応しい重厚感を醸し出している。四隅の据えられているのは歴史の趣を感じさせる伝統技法で作製された置物や棚などの家具、塗色された石灰岩の床の中央にはロココ調のシューズロングソファが風格を纏っている。
しかし室内に設られた如何なる豪華絢爛な調度品よりも主柱の如き雄を漂わせる男が一人、ソファに居丈高に掛けていた。
年老いた白髪はそれ自体が優れた風体となっており、顎髭は綺麗に整えられ、上品に老いしなびた皺だらけの相貌が暖炉とシャンデリアが創り上げた暖かな夕闇の中に際立っている。イタリアの最高級ブランド、キートンを身に纏い北欧やスラヴ民族特有の高脚を組まいウイスキーグラスを片手にする様は見事なものである。
男が先刻から一点集中する視線の先には一台のデスクトップパソコンが、ソファの様式に合わせた樫木机にあった。液晶の向こうでは壮年の連絡員が重圧に身を硬くしつつ、カラカラに乾いてしまった唇を時折潤しては開閉させていた。ひとしきり彼の無様な姿態をウイスキーの肴代わりに観察していた男だったが、早々に忍耐の限度に達して咳払いの後に憮然とした面持ちで口を開いた。
「早く言いたまえ。」
「それが、」
連絡員は意を決して言葉を紡いだ。
「逃亡したエージェントは
刹那、空気が震えた。
画面越しに凄まじい怒気を感じ取った連絡員は自身の肌が粟立つ過程を痛感した。たらりと冷や汗の一滴が背を伝う度に、一年、二年と寿命が零れ落ちてしまいそうだった。
グラスがテーブルに戻される微音が双方の鼓膜に伝播した。次いでからん、と丸氷が空気を読まずに静涼な音色を反響させた。バリトンが地を這うが如く粛々と声帯を震わす。
「発信機は」
「エリア19に破棄されているのを現場に赴いた実働隊が確認しました。」
「処置を施したんじゃなかったのか。」
「何らかの原因により無効化された可能性も否めず...」
言い終えるよりも先に硝子が弾けた。ヒッと喉から漏れた不甲斐ない悲鳴を内蔵されたマイクが拾う。
粉砕された破片に目もくれずに男は蟀谷を抑えていた。連絡員が齎した凶報は男を含め国家機密へのアクセス権限を保持する内内の関係者にとっては悪夢に他ならなかった。いっそ十八世紀の黒死病が現代に適応して蔓延り始めていると報告される方が救いがあると断言できるくらいに...。
気まずげな秒針が無情な時の流れを告げている。生物が滅した熱帯に訪れたかのように煮詰まった重苦しさが充満していた。画面越しの連絡員の心臓の躍動すら聞こえてきそうな物静かな地下室で男は思考を巡らす。そうして暫し思惟した後に、一刻を争うかの口調でスコッチの風味の残る唇を震わせた。
「カナン博士に繋げ、直接話を聞く。各機関にも通達を。それから彼を今すぐ此処に呼び出せ。」
*
夜が更け朝が訪れた。カーテンの隙間を通り抜けて寝室に差し込む陽光に起こされると、脈を取ってから見慣れた錠剤を喉に通して大きく背伸びをする。カーテンを開けばこじんまりとした住宅街が音もなく昇った太陽の下広がっていた。
「今日も良い一日。」
帰国してから早一週間と二日、近隣地域の下見を済ませた俺は米花町内のマンションに居住していた。非公式の政府認定組織からピョートルの人生を賭けた逃亡中の身ということで、事前に防犯対策が厳重な高層ビルの一室をセーフハウスとして、オートロック付きのアパート物件を一棟外国籍の別人の名義を使って所有している。セーフハウスはあくまで有事用で普段は質素なアパートの一室で寝泊まりしている。
それにしても両物件に身を移すや否や近隣住民が恰も十年来のお隣さんに接するように付き合ってくれるものだから、情報屋エリセイの職能といえば眼を見張るものがある。道理で世界中の良からぬ奴らが大金を叩いてでもエリセイに懇願するわけだ。
でもって今日は十一月六日、萩原研二が殉職する爆弾設置事件が起きる一日前だ。今年とは断言できないが万一に備えてこの一週間、凡ゆる手回しをしてきた。備えあれば憂いなしの精神的保険でもある。そして下拵えの段階で己の能力の限界も探った。
先ず、意識すれば単純な可燃現象の他にも身体を意図的に発熱させられて、部屋が溶けて消防隊出動なんて勘弁なので実際に試してはないがマントル付近のマグマの温度、推定三千~五千度まで放熱することができると踏んでいる。つまるところ超高温なフレアを放熱してしまえばいかなる物理攻撃のその熱気で瞬間的に消滅してしまうのだ。その際着用している服や装備が影響を受けることはない。またEkSを発動すれば瞳孔がルビーの輝きの如く深紅に発光するのも特徴だ。
改善の余地がある弱点は水や氷を浴びることに激しい厭わしさを覚えることだ。日本行きのジェット機の旅でもシャワー上がりは清々しかったものの頭上から水が降ってきた途端に素っ頓狂な声が出そうになったくらいだ...もはや水恐怖症の域である。
それから人より五感が優れていることも判明した。俺は勝手に海賊世界の言葉を引用して見聞色の覇気と呼んでいるけれど大方EkS開花者に共通する副産物的なものじゃないだろうか。
早々に服を着替えた俺は総仕上げの為に鳥矢町のバイクセンターに赴いた。安価から高額なものまで幅広い車種を取り扱うディーラー店だ。元の世界では成人の誕生日に父さんが買ってくれたジクサーか普通車しか乗らなかったので、国家予算から合法的に頂戴した大金を所持している今束の間の成り変わり人生を謳歌しない手はない。何においても、こんなにも映える面貌なのに外車に乗らないのは宝のもち腐れだ。仮に俺がこの体の持ち主のようなイケメンの友人だったなら何度だって勧めただろう。
入店した俺を視界に捉えるや否や欲望に爛々とさせた眼で紹介したのは三大メーカーのカワサキ、ホンダ、ヤマハではなく何故かハーレーダビッドソンのCVOストリートグライド。アメリカ屈指のオートバイメーカーが最上級グレードとして送り出している千シー・シー超えの大型車だ。流石にこんな怖面な車体に跨って街を暴走するわけにはいかないと全力でかぶりを振れば、次に勧められたのはブロンクス。最高出力一一五馬力のストリートファイターモデル。確か元の世界では一度延期されたモデルだがバイトで日々を食い繋ぐような大学生には到底手の届かない贅沢品だ。何としてでもハーレーを売り付けたい店員の執念が感じられた。
「ただいま商品をご購入いただいたお客様にフルフェイスヘルメットを贈呈させていただくキャンペーンをしております。」という彼女の甘言に流されて快く購入に踏み切った俺も俺だ。贈られたのはSHOEIの最高品質と称されるヘルメット、デザインもさることながら機能面、安全面にも優れたレトロなフルフェイスヘルメット、グラムスター。走行中にも簡単に取り外し可能な造りとなっていて多くの愛好家に愛用されている。
業績を上げた胸の高鳴りを爽快な挨拶に乗せた店員に見送られて店を出ると、納入したばかりのブロンクスーースラヴ神話に登場する凡ゆる動物の王インドリクと命名したーーに跨って警察署に走らせる。当日に予測される道筋上の監視カメラの配置、背景として流れゆく人々の特徴、仕草、人数。侵入可能な建物の裏出入口や窓の数に至るまで、景色の遍くを卓越した動体視力が走行中にも委しく情報処理しているのが実感できる。この調子であれば救済も難なく成し遂げられるのではとさえ思ってしまうほどに、ピョートルの肉体に植え付けられた訓練された才幹は素晴らしかった。
爆弾魔が惹起する連続爆弾設置事件を除いての最大の懸念は伊達航のトラック追突事故。時間帯が早朝ということ以外は原作ですら明らかになっていない。日中彼に張り付いているわけにもいかず、妥協案として人の協力を得ようにも荒唐無稽すぎる。何らかの手立てを講じなければならないのだが... 。
そうこうしてあれやこれやと思案しながら爆音で街道を駆けているうちにあっという間に米花警察署に着いた。平凡な大学生が無線通信機をくすねるとはお巡りさんも露ほども思わないだろう。作戦という程綿密じゃないが、容姿以外は凡庸な大学生の訪問に油断している隙に倉庫に忍び込んである物を盗むという算段だ。雪時雨の空き巣にてとっくに二十五人を地獄へと追いやった身で己の犯罪思考に対して云々と自嘲するわけではないが、結果的に救われる命と正当化せずにはいられない。
ヘルメットを外して大きく深呼吸をすると俺は一歩を踏み出した。
お昼時だからか中はがらんと空いていた。待合椅子に座らず受付に直進すれば二人の制服警官がこちらに気付いて顔を上げた。
「運転免許証記載事項変更届を出したいのですが。」
「少しお待ちください。」
顔を見合わせると一人が立ち上がり背中を向けた。もう片方は興味を失って受付台に目線を落とす。居座られては不都合なのですかさず呼び掛ける。我ながら米花町でしか通用しない言い訳だと滲みそうになる苦笑を抑えて。
「あの、ここに来る時に裏で誰かが言い争ってたんですが…あまりにも激しかったので少し気になってしまって。」
「ええっ、それは大変だ!報告ありがとうございます。」
犯罪率が高い街が故の機転で微妙な言い回しで事件を仄めかすともう一人は感謝を述べて慌ただしく交番を出て行った。
冷房の効いた警察署には扇風機の控えめな羽音が響いている。書類を取りに行った警官が戻ってくる気配はまだない。行動するなら今だった。
三六〇度確認して誰もいないのを改めると、俺は監視カメラの死角に入って鍵のかかっていない部屋に侵入する。ダンボールに黒マッキーで通信機と杜撰に書かれた箱から無線機を一個抜き取るとポケットに仕舞い込んで素早く受付に戻る。二人の姿はない。
付属のパソコンからデータを抜き取って小型チップを取り付ける。これで警察の情報網をリアルタイムで掌握したも同然だ。末長く宜しくと内心で手を合わせたところで、タイミング良く警官が書類を手に戻ってきた。
「お待たせしました。」
「すみません、印鑑を持って来るのを忘れてしまったのでまた今度来ます。あ、書類は家で記載します。お手数おかけしました。」
そう矢継ぎ早に云うと、相手が返事をする前に身を翻した。警官は追っては来なかった。
*
キーボードを叩く軽い音が静寂を貫く。
交番での工作が滞りなく済んだ翌朝、俺は普段住まいのアパートではなくセーフハウスにいた。
警察署で抜き取ったデータと端末を経由して警視庁にハッキングを仕掛けた。イシードルのような専門職人には劣るもののそれなりの技術は会得していた。不要不急の警察庁への侵入は控えたがスパイ防止法が適用されてない国の情報対策なんて高が知れてる。
周波数を合わせた無線通信機で情報を音楽代わりに聞き流すこと彼此半日。時計は正午を回っていた。好晴の空に浮かぶ日輪は白孔雀が羽を広げるが如く薄らと光芒を玉散らせている。頂上に君臨するその清らかな明朗さに浄化された大気が人々を散策へと促していた。
彼此早朝五時から探っているが目ぼしい成果は得られてない。
息抜きに氷の溶けかけたロックグラスを口に傾ける。ロンリコ151のまろやかなアルコールの匂いが忽ち胃袋に温もりを伝えた。揺らめく水面に合わせて揺蕩う己を眺める。作り物とは思えない二つの黒褐色がゆらりゆらりと見返してきた。裸眼と錯覚するほど装着感がなく、EkSさえ使わなければ薄らと幽けげに光る赤に勘付く者などいないだろう。...死神や筋肉ゴリラを除いては。
「…やっぱり今年じゃなかったのかもしれない。」
東都中が来るサミットの直前準備に意欲的に繁忙を極める中、要人の所在地や警護などの貴重な情報を危機管理能力のない腑抜けたマスメディアから得られたので決して無駄骨ではないが。それでも重大なイベントを逃したような心地がして落胆せずにはいられない。真昼間からお酒をブルーライトのお供に嗜みながらもさっと寛いでいると、不図ヘッドホンからザザ、ザと機械的なノイズが差し込んだ。
『…こちらA、爆弾を…』
爆弾、特定の単語に脳内探知機が即座に反応を示して通信機のボリュームを上げた。邪魔な雑音を取り除く。
『…爆弾設置予告がーー警察署にーー。米花町ーー丁目ーー番地とーー丁目ーー番地の二箇所に警官を派遣。至急警備部機動隊爆発処理班に出動を要請する。』
『了解した。』
通信は途切れた。
思いがけず微笑んだ幸運の女神に天に向かって微笑み返す。異世界トリップという変事に反して星の巡り合わせは良かった。早速スチェッキンの冷淡な重みを確かめると俺は足早に駐車場へと向かったーー。
*
原作では爆処のエースたる萩原研二は遠隔操作に気づかずのうのうと爆発に巻き込まれたとあるが果たして真実はどうだろうか。件の知能犯は入念な事前準備を得て犯行に及んだ。コードが管の内側に巧みに隠されていた可能性もなきしにもあらず、熟練の爆発物対応専門部隊員ですら見抜けない巧妙な高性能爆弾を偽装していた可能性だってある。下手に出過ぎて解体に手間取り事を悪化させるくらいなら逃避一択しかない。
現場で能う限り解除を一段階進めたら遠隔操作で起爆される前に近辺の河原橋の下に持ち込んで起爆スイッチを押す間も与えずに高熱で瞬間的に溶かす、脳内シミュレーションではそう既定していた。最悪途中で爆発しても飛び散った破片で擦り傷を負うだけなので大した心配も無用だ。
新品の大型二輪の脚に鞭を打ち、監視カメラと人目を避けながら裏道を全力疾走する。マフラーが新鮮な排気音を吐き出して奮い立っていた。
萩原研二が担当した爆発物は住宅街の一角に佇むマンションに設置されていた。通信機で拾い上げた二箇所の住所と俺が直々に確認した米花町の地図とを照合すると目的地は前者となる。幸いにもセーフハウスから例のマンションまでは十分も要さない。最高出力一一五馬力のインドリクなら三分足らずで辿り着く。警察が現着して住民の避難に取り組む頃には事は済んでいるだろう。
最短ルートでかっ飛ばして前倒しで到着すると、インドリクの快活な体躯をぐるりと反転させて裏口に停車させる。
非常階段を駆け上がり各階を見て回る。大事をとって一戸一戸の扉を叩きながら。
「警察です。このマンションで不審物の通報があったので点検の為に避難誘導しています。ご協力宜しくお願いします。」
「まあ!不審物って何なの?」
「現在確認中の為この場で詳細をお明かしすることはできません。ご了承下さい。」
最近の警察は冷たいわね。怖いわぁ。反応は十人十色なものの態々警官の制服を身に纏い身分証まで提示して偽った俺を訝しる住民は一人も居なかった。そうでなくとも不平不満を漏らしつつも指示に従ってくれたのは偏に誰もがこの街を犯罪率と警察の検挙率を侮っていないからに違いない。
一階、二階...四階まで登ったところで廊下の縁に奇妙な紙袋を発見した。見通しは的中していた。慎重に中を覘けば無機質な隅に紛れていたはずの無機質な装置はデジタル時計の進行を続行させる。赤、青、白、黄...教科書の応用問題みたいに複雑なトラップが仕掛けられている遠隔操作式爆弾は存在意義を発揮する瞬間を今か今かと待ち侘びていた。俺は背中のリュックサックとともにその場に下ろして解体処理用の道具を握る。これは単なる救済目的に留まらない、マンションの外、駐車場に集い調査の行末を物案じる大勢の命を守り抜く為でもあると自身に言い聞かせて。
意識の死角で何とも言い難い切迫感がアナログ時計の進行とともに、じわりじわりと静穏だった俺の心構えを緊張に引き摺り落とそうとする。募りゆく憂色の兆しに深々と息を吐き出せば強張りかけた心身は緩まった。呼吸を整えて放念を心掛ける。心積りを新たにすると、爆弾解除のノウハウを思い起こしなが解除に取り組み始めた。
ーーパチ、パチとコードを切る味気ない音だけが静まり返った廊下に響めいている。幸いにも松田陣平の時のように水銀スイッチが仕組まれているような原作改変はなく作業は慎重かつ迅速に進んだ。予想通り遠隔操作のコードは管の中に隠されていると思われた。誤算だったのは盗聴器が密かに取り付けられていたことだが、精度の低い粗品なので犯人らは警察とは無関係の第三者が解体作業を行なっているなどとは微塵も疑っていないだろう。今頃高を括ってポテチでも貪りながら警察無線を傍受しているんじゃないだろうか。
泰然を貫き、切断すべき最後のコードを切る。
......何も起こらない。一筋の風の流れが時の変遷を教えてくれると、俺は漸く安堵の息を漏らした。たとえ技術に自信があったとしても、人類の九割も経験することのない一発勝負に際しては一抹の不安も残るものだ。最初にして最大の難関の時限爆弾の解除に成功したという事実は焔自身の自尊心を満たしてくれた。
「良かったっ」
一息付く間も無く何処からか脅威を察知したパトカーのサイレンが大気を震わせながら迫っていた。
盗聴器を溶かし、爆弾を脱いだ出動服で丁寧に包んでから紙袋に収める。振動には細心の注意を払ってリックのファスナーを閉めると急ぎ足でマンションを後にした。
...........。
場所は移り米花町内の河川敷。世の学生勤労者らの昼食休憩が終わった時間帯なだけに人通りの少ない川岸の高架下に駆け足で向かえば老人や散歩中の飼い主とすれ違う。日本のヨハネスブルクの一画で生じている、況してや通りすがりの大学生が背負っている物騒な代物など露知らず、植物や川の澄清なせせらぎに身も心も浸して平和な一日を享受しているようだった。米花町という危険な地域に暮らしていながら、いつ自分が犯罪に巻き込まれるやもしれないなどという懸念は夢にも抱いていない様子だ。実際に不幸の火の粉が飛んでくるまでは対岸の火事でしかないのは案外万国共通なのかもしれない。
高架橋の真下に着くとリュックを下ろして紙袋を慎重に地面に置いた。包まれた爆弾を出動服ごと瞬間溶解させて証拠隠滅、我ながら完璧な作戦だ。
十歩程離れて火拳ならぬマグマ拳を左手に生み出す。名付けて炎花。温度はおよそ千から千百度、危険物が火気に反応するよりも速く機敏に仕掛けられるかが腕の見せどころだ。
準備万端。ここが勝敗の分かれ目とばかりに新鮮な空気を取り入れると、渾身の一撃を放った。
「よし、炎花...ッ!」
一直線に放たれる筈の炎花はほんの僅かに照準をずらして命中した。直前になって察知した気配で手元を震わせてしまったのだ。
バァンッ!威力の損なわれた爆音が河川敷に轟く。
ワッと破裂した空気の衝撃が即席の噴水を湧き上がらせ、水を突き通った爆風がざわりざわりと周辺の木々に動揺を走らせる。羽を休め微睡んでいた烏たちは突発的なウェイクアップコールに一目散に飛び立った。
水中抵抗でも抑えきれなかった爆発の威力が手強い風圧となって波を広げる。付近の生命力漲る雑草は熱気により水分を奪われ草臥れた。
ブクブクと気泡を生み出して川水面が沸騰する。目を凝らせば半端に溶けた容器の破片が沈澱していた。先の人気を感じた方角に視線を滑らせると、サラリーマンらしき男が隕石落下の瞬間を目の当たりにしたと言わんばかりの百面相をつくって佇立していた。茄子のように青褪めて、顎が外れたかのように愕然と口を開けて。
こちらを呆然と凝視する何とも貧弱で妙竹林な男の眼差しに俺は思わず瞑目した。大過なく厄介な爆弾を処理した結果、方向性の違う失態を晒してしまったことにその場で頭を抱えて髪を掻きむしってしまいたいくらいだった。
ヘルメットのシールドを上げて目鼻を晒した黒の組織よりも怪しげな黒ずくめの男。カラーコンタクトを通過して深紅に発光する双眸に、両手からは能力発動の付属効果ともいうべき火花がパチパチと燻っている。待ったなしの警察沙汰じゃないか。俺がサラリーマンと同じ立場ならきっとダースベイダーとの遭遇に卒倒するだろう。
こんな嘆かわしいしくじり方で素顔を露呈させるわけにはいかない...どうする、どうする俺。罪のない市民を口封じする?論外。いっそのこと恫喝を加えて秘密を守らせる?この際悪くはないけど道義上好ましくない。
思案に余った末に一先ず声掛けよう、そう思い至って彼と向き合う。相手を刺激しないようにと留意するあまり自身がヘルメットを被っていることも忘れて口元を緩めると数歩歩んだ。
「あの」
「うわあああ!」
「だよな、こうなると思った。」
果たせるかな、俺が接近した途端硬直状態から解放されたサラリーマンはタンバリン人形みたいに跳ね上がると腰を抜かして遁げ出してしまった。失禁でもするんじゃないかと後を追いたくなるくらいには酷く狼狽していた。良否は兎も角、あの調子ではまともに証言できないだろうと閃くと、図らずも彼を担当するだろう警察官に胸中で合掌しておいた。今の爆発音で通報を受けた誰かが駆けつけるのは時間の問題だろう。
爆発物だったものを川底から拾い上げると殆どが火成岩のように固まっていた。破片の全てをリュックに仕舞って、近道の護岸を登り道路に出る。仮に政府連中に居処を嗅ぎつけられたとしても国外逃亡手段があるので案ずるには及ばない。萩原研二の次はスコッチこと諸伏景光。この世界が原作に忠実に進展するならばあと三年はある。原作前の悲劇に関しては鷹揚に構えてその間自身の問題を片付けられる良い機会だ。
インドリクの元まで戻ると、見聞色擬きを使い近辺を探る。二キロ東方で数台のパトカーと爆発物処理車が地域住民に尻を突かれたような足取りで例のマンションに到着したのが視えた。端無くも念入りな下準備は功を奏したのだった。
萩原研二の命の危機が消え去ったことにーーそれも他でもない自分が成し遂げたーー達成感を慥かに胸に抱いて俺はセーフハウスに帰還するべくキックスタートを切った...はずだった。
ーー数分後、まっしぐらに高層ビルの駐車場に凱旋する予定だったインドリクは如何いうわけか街の路地という路地を爆走していた。耳元で絶えず伝達し合う無線情報を精査しながら大通りを、正確には逃亡中のもう一人の共犯者の元へ目指していた。
今回の機動隊員殉職事件は犯人の一人がトラックに跳ねられ死亡したことで悪の循環を生んでしまう、その発端である。勘違いも甚だしい共犯者の逆恨みによって四年後に萩原研二の仇討ちにと捜査一課に異動した松田順平の世にも虚しい悲劇が引き起こされるのだ。そこで俺は思い付いた。今日、実行犯が両者とも非業の死を遂げてしまえば原作はどんな未来を見せてくれるのか?俺自身で導き出した答えはこうだ。今、犯人達がくたばってくれれば四年後の観覧車殉職事件は自然消滅するだろう。何より二人の国家公務員の命が救済されるだけでなく大衆の安寧を脅かす不要な脅威を除外することもできる。一石二鳥の最善手段だ。
俺の発意を後押しするかの如く一計に更なる曙光が差した。今回の爆弾魔のようなタイプは大抵が愉快犯なので必ず現場付近で混乱に乗じて高みの見物をしているものだ。だがいくら俺が奴等の窃な観測、盗聴を警戒していたとはいえ、マンションの住人を避難させたうえに爆弾を解除している際にも遠隔操作が起動される予兆はなかった。それが意味するところは一つ...二人は行動を共にしており、少なくとも例のマンションの周辺にはいなかったのだ。高性能爆弾を作成できる知能があるわりにお粗末な思考回路をしているものだ。
爆弾が設置された二箇所の間に大きな交差点は二つ。彼方側に当たりをつけて疾走していれば、幸甚にも現状切望している情報をイヤホンが拾ってくれた。
『…こちらC。ーー丁目の大通りで追跡中の犯人がトラックと衝突し意識不明の重体。救急車の到着を待機中。』
『繰り返す。こちらB。ーー丁目の大通りで追跡中の被疑者が…』
「大当たり。」
最大ギアを選択すると、滑らかな加速をして大通りへと一層先を急いだ。
...........。
早急の課題の交差点には既に沢山の人だかりができていた。
トラックに轢かれた男が右腕右脚をあらぬ方向に折り曲げ、頭部からは夥しく出血させて力なく地面に横たわっている。葬儀屋か検視官でもなければ見るに絶えない醜怪な有様に心臓が避けるような悲鳴が所々で上がっており、俺よりも一足先に駆けつけた警官たちが大規模な封鎖に奔走していた。
バイクから降りると人混みに紛れながら怪しい人影を捜索する。EkSの副作用の第六感的センサーも駆使して探知を試みていると、ついとフードを被った怪しげな男がこちらの方面に向かって忍足で接近してくるのが分かった。野次馬の間から様相を伺ってみる。
焦点を失い右往左往する瞳、額からは肌寒い季節にしては異様なほどの汗が噴き出している。くそ、クソ、この野郎...これでもかと歪められた口元から溢れる悪態と怒気と焦燥が荒れ模様の色と重なって感覚に訴えられると、俺はコイツだと確信した。
人間の片隅にもおけない屑を掃除して賞賛こそされど糾弾される謂れはないんだ。
さして認識されてもいないのに、ライオンの群れに狼狽える草食動物の如き狼狽っぷりを晒して逃げ惑う男を迎え撃つべく俺は待ち構える。ズボンの後ろに隠し挿れた銃を握ろうとして、はたと動きを止めた。よくよく考えれば、こんな人混みで発砲すれば大惨事になるのは明々白々だった。男を殺したところで爆発物取締罰則どころか殺人罪でお縄につくのは俺の方じゃないか。至極当然の問題にぶち当たって、明晰な頭脳を猪口才な打開策に巡らせる。...そうだ、財布を抜き取って悪質な当たり屋に轢かれた不運な男をでっち上げれば良いんだ。
善は急げとばかりに踵を返してバイクに跨る。丁度群衆から抜け出た男の後を気配を殺してつけ狙う。大胆すぎるのか、将又臆病なソシオパスなのか、爆弾魔は他人の目を恐れるあまり見物人と警察からある程度の距離を置いたと断じた途端に胸を撫で下ろしていた。寧ろ人生の立ち往生に自ら歩んでいるとも知らずに。
...絶好のタイミングが訪れた。傍観者としての愉悦を失った男は肩を丸めて小路へと入り込んだ。周囲に通行人や監視カメラはない。
俺はアクセルを開けて加速させる。エンジンの回転数が十分に上がったところでシフトアップし、目標目掛けて疾駆した。
猛禽類のような雄叫びをあげて前進する。ソイツが気付いた時にはもう遅い。振り回されたインドリクの重量感のある足は綺麗な半曲線を描いて男の背中に体当たりを喰らわせた。
「ガッ、」
強烈な衝撃を一心に受けた爆弾魔は絶叫すらせずに高らかに宙に舞い上がって、回転しながら電信柱に衝突した。建物の十二階以上から飛び降りた時以上の刹那的な衝撃力が男の一心に伸し掛かる。奇跡でも起きない限り即死だ。
俺はバイクを降りると、男の傍に寄って溶かし損ねた爆弾の破片をその掌に握らせる。財布を抜き取るのも忘れずに。
同時刻にトラックとバイクによって轢死した二人の男。内一人は哀れな轢き逃げ事故の被害者かと思いきや、捜査の過程で二人目の実行犯の存在が浮き彫りになる。シナリオとしては完璧だと薄寂しい路地裏で憐憫を抱く余地のない男を見下ろして自画自賛した。抜き取った財布は燃え滓にして近くのスモーキングスタンドに廃棄してから、今度こそ家路に就いたのだった。
..........。
セーフハウスに帰ってくると、外では気付かなかった自身の煙臭さに嫌々ながらもシャワーに直行した。物を燃やすわけだから臭くなるのは当然なので香水を常用しようと、中世のフランス人みたいなことを思いながら浴びる熱湯はいつもより不快感が軽かった。
一仕事を終えた風呂上がりに外出する気は起きなくて、浴室を出るとバスローブを羽織ったままソファーに身を投げ出す。午後三時、おやつ代わりに朝の飲みかけのロンリコを流し込めば溶けた氷と混ざり合った中途半端なアルコール擬きに嘔吐きそうになった。
テレビをつけてニュース番組を観てみると、早くもネタを嗅ぎ付けた記者によって爆弾設置事件の中継が放映されていた。
『えー、犯人と思われる男は嘘の爆破予告で十億円を騙し取ろうとしたとして警視庁は...』
『最近は独りよがりの快楽の為に分別のつかない輩が...』
取材現場から切り替わったスタジオでは急遽大学から招待された教授だの専門家だのが、責任のない言葉で公式的に発表すらされていない男の死を悼みもせずにキャスターと自己満足の議論を繰り広げていた。件の事情に精通している身としては茶飯事なマスメディアの弊害を画面を隔てて傍観することは程度良い暇潰し以外の何ものでもなかった。
それよりも誰の目にも触れることなく、無論監視カメラに映じることもなく重大な試練を乗り越えたという達成感、些細じゃない充足感に満ち足りた心地だった。温くて不味いラムを飲まずとも心は潤された。
次なる目標はG20サミットの裏舞台。タイムリミットはとうに一ヶ月を切っていた。きっと是迄とは比べ物にならないほどの困難が待ち受けているだろう。それでも如何してだか、今だけはどんなに急な登り坂も追い風に乗って突き進めるような気がしていた。
「明日から準備に取り掛からないと。」
実際は悠長に構えている場合ではないのだが。
意気込みを兼ねて瓶を注ぎ足す。とくとくと透明な硝子に注がれるカリビアン・ラムの鮮やかな琥珀色は己の熱意を代弁しているかのようだった。旨味を取り戻したロンリコを呑んでいるうちに心持ちは益々身軽に爽快になっていった。
不意に、河原での出来事が脳裏を過ぎる。
「あのサラリーマン、大丈夫だったかな。」
間違いなく俺をアメリカSF映画のアンチヒーローと勘違いしたであろう一般人には矢張り同情を禁じ得ない。如何であれ米花町にいる限り絶対的に安全な余生を送ることは叶わないが、せめて今日見逃したその命が誰かに無惨に奪われることがないよう願うのは傲慢だろうか。
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米花町爆破予告事件から一週間が経った。十一月七日に定めれられていた一人の警察官の爆死は回避され、実行犯は不慮の死を遂げた。一人の存否に係ったことで思わず知らず蜘蛛の巣状に広がる畢生の輪に少なからず新たな息吹を吹き込んでいたとは想像も及んでいなかった。
次元超えてコナン世界にやって来たことも、ピョートル延いては彼の体を借りる俺が拘う試練も忘却して、一週間前の気勢が削がれるほどに目眩く日常は何気ない効率的な忙しさに溢れている。首脳会合という大規模な催しを前に特定少数の影の指導者達は黙然と身を隠しており、世のマスメディアは社会病質者の馬鹿げた爆弾騒動よりも来日予定の各国要人に纏わるピンぼけな報道に熱中している。二人の捻くれ者の末路に対する世間の反応は無頓着だった。事後処理ついでに垣間覗いた警視庁の捜査状況は滞っているようでマンションの住民を避難させた不審な警察官以外は篠宮焔もピョートルも線上にすら挙がっていなかった。
成功を遂げた初任務に欣快気分が尾を引いている俺は今日も今日とて早朝ランニングに精を出していたーー。
ランニングコースは双宝町と米花町の堺に流れる堤無津川沿いにある緑地公園。鳥矢町から分緑町、緑台と四つの自治体土地から流れる川の最後の合流地点であり、杯戸河口域から北太平洋へと繋がっている。芝生広場には大型遊具も設置されており、老若男女が地域の繋がりと緑の安らぎを求めて脚を運ぶ関東の緑地公園百選にも選ばれた経験もある都営公園だ。街と街とを物理的に分けつつも自然環境の復元と生態系の維持を通して結果的に地域全体の結束を高める、それが都庁が誇る堤無津川緑地公園であり俺にとっての絶好のランニングコースである。
休日や祝日を除いては子供連れの家族や学生が多彩なアクティビティを楽しみにレジャーシートと弁当箱を抱えて訪れるものの、平日には活気は薄れ近所の老夫婦の散策路や犬の散道として利用されている。勿論、公園を走路とする運動好きは何も俺だけじゃない。
「…四百九十九…五百ッ」
朝一番に清々しい空気を吸いに家を出て、川沿いを往復すること小一時間。種目は移り、腕立て伏せ五百回、兎跳び一キロメートル、片手懸垂五十回...その他腹筋背筋等の軽荷重運動をブルースリーや木村政彦の練習量を参考にして鍛錬に励む。朝駆けの駄賃とばかりに易々とやってのける身体に慄いていると、通り掛かりのランナーは俺以上に肝を潰したような土気色でこうべを巡らしながら遠ざかっていった。
河辺の風と暖かな太陽を浴びて滲む汗は程よく逞しい筋骨を一際見目よく際立たせている。ノルマに達して一呼吸つくとその場にどさりと腰を下ろした。一般的には過度な日課もピョートルにかかれば造作もない。何せどれ程心拍が乱れようとも一呼吸おけば安定してくれる特異体質なのだから、家から駅まで全力疾走するだけで草臥れ果てる本来の俺の体と交換してほしいくらいだ。
瀬音豊かな堤無津川をお世辞にも見栄えが良いとはいえない川魚が鰭を翻して泳いでいる。滑らかな動きで右へ左へと川岸の水泳を満喫する様はいつか小学生の頃に読んだ魚の冒険譚を見ているようだ。止まり木で憩う鳥達はそんな魚の遊泳を眺めながら、先日の雨で大気中に充満するペトリコールに清爽な囀りを奏でている。微風に息衝く芝生の上で爽快な自然を堪能するには最適な冬日和だ。
冴え切った冬の薄日を仰いで寛いでいると、そんな俺の鍛錬を長らくベンチで眺めていた老人が情の深い眼差しを注いできた。
「若者や、朝から勤しむのう。」
ひらひらとした光線を浴びて枯草色のニット帽を眉下深くまで被り杖を突く風格はまるで雪山で遭遇する仙人だ。ほけほけと莞爾として綻び孫に対するような柔らかな目遣いを見ていると、自然と元の世界の祖父を思い出して表情筋が緩んだ。すると老人は一層喜ばしげに弓形になった目尻と顳顬とに皺で架け橋を掛けた。
「ありがとうございます。大学のサークルをテニス部にしようと思っていて。」
「ほっほっほ、ワシも若い頃はお前さんのように体操だの試合だのと朝っぱらから晩まで猿のように遊び回っておったわ。懐かしいのう。」
「はは」
今は失われた有り余る時間と漲るばかりの情熱と気力と...衰えた顔つきが眩しげに瞬く。その眸に燦然と映るのは薄曇の空に浮かぶお天道様か、陽光の下で大地を駆け抜けた過ぎ去りし青年時代か。若かりし頃への旧懐の情に浸る老人はつらつら彼の思い出を語り始めるかと思いきや、満足げに頷くと杖をの力を借りて腰を上げた。
名を問われるとどうしたものかと躊躇って、結局焔とだけ名乗った。焔...焔...其れ迄は両親がくれたありふれた名が不思議とピョートルと俺を繋ぐ奇しき縁のように思えた。
「またの、焔君。これからも励めよ。」
「はい、また僕を見かけたらいつでも話しかけてください。お気をつけて。」
ロシアから日本に渡って判ったことが幾つかある。日本のヨハネスブルクというわりには東都という場所は案外悪くはない。確かに凶悪犯罪は起こるし、三歩歩けば犯沢さんと遭遇する。けれどもこの複雑な土地で生きる人々は思い遣りがあり、篤実で平和主義の温厚な人柄に溢れていた。景気も都市景観も犯罪都市と呼ぶには似付かわしくないくらいに秩序立っていて、実際のヨハネスブルグ中央部界隈の伝説と比べれば天と地の差だ。その所以は単に原作開始前だからか、或いは主人公が死神パワーを発揮するには幼すぎるからか、彼に遭遇しない限りは平和を享受できるのか。理由は曖昧だが罷り間違っても彼に会ってまで真相を突き止めたくはないものだ。
「それにしても萩原研二ってちゃんと五体満足で生きてんのかな。」
警視庁の発表は傍迷惑な爆発予告以上の進展を齎してはくれなかった。詳報といっても会見で存在感を放っていたのは見込み捜査への懸念を言い募る阿保な記者の茶番。一介の爆発処理班の隊員に関する瑣末な情報など口の端にも上らなかった。いや、現場に急行した捜査官の記録に記されているので生存は確信しているんだが、どうにも実感が湧かないというか。
今になって言い知れぬ焦ったさに思考を囚われて向こう見ずに歩いていた所為か、歩道の向こうから近づいて来た二人組に俺は気付けなかった。
俄に、大きな歩幅で前方に乗り出してきた誰かと肩がぶつかってしまった。
「......だったとか、そういう」
「そんなことないでしょ。良く...っと、すみません!」
「いえ、こちらこそ。」
相手が取り落とした黒革の手帳を謝りざまに拾い上げる。...否、掴み上げた中身を見て金縛りにあったかのように強張った。
聞き覚えのある声、見覚えのある顔写真。一人は屈託のない笑顔を浮かべ、もう一人はそんな彼に飽き飽きとした面様をしている。薄っぺらい紙の世界に描かれていただけの男達、彼等の正体を俺は夢に視るほど知っている。
「萩原、お前しっかり周り見ろよ。」
「それを言うなら陣平ちゃんだって、その鋭い目つきどうにかしなっていつも言ってんじゃん。」
「そう言うお前はこの間も防護服を着てなかったってな。」
「げっ、」
萩原研二と松田陣平。二人は確かに俺の眼前に肩を並べて存在していた。俺が奔走した成果が、あの試行錯誤の連続が二人の姿を現実に象って現れたのだ...!
初めての握手会で推しと対面したオタクみたいに、昂った感情が涙腺を緩ませる。今にも目頭を滲ませてしまいそうなそれを如何にか堪えて、俺は警察手帳を彼に返した。ありがとう、その一言だけで喉が震えて動揺を悟られないように素っ気ない返事をして彼等の横を通り過ぎた。
どうかこれからも彼等が安らかな日々を過ごせますようにと、人知れず願いを込めて。
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アパートに戻ると興奮の熱を冷ます為にシャワーを浴びた。よくアイドルのオタ活をしていた学友が異様に鼻息を荒げて迫ってくるのを敬遠してたが今になって彼の気持ちがよく分かった。悦楽に酔いしれて急上昇した体温の所為で火災探知機を鳴らして慌てふためいていたなんて、口が裂けても言えない...。
汗を流し終えた頃には昼食どきになっていた。小腹が空いて冷蔵庫を開けるとものの見事にすっからかん。前々から食材を買い足して自炊なんて柄じゃなかったので財布とパソコンだけ持って近場のカフェへと直行した。
近頃足繁く通っている喫茶ヴェール。御歳八十歳の寡婦が個人経営する素朴な味と安価な値段設定が評判の店。奥さんの羊のように和順な人柄が常連客を惹きつけてやまず、俺もお隣さんーーどういう絡繰か俺が幼稚園の頃からの顔見知りだと信じているーーの勧めで足を運んで以来毎日お世話になっている。
昔から食に拘りがなく、プラス五十円で角砂糖をたっぷり溶かしたホイップ入りの珈琲が飲める二百三十円のカレーセットを頼んでいる。素材はともかく料理に込められた奥さんの愛情は正真正銘である。一口サイズに切られた鶏肉の歯応えと芯まで火の通りきってない人参のシンプルな甘口カレーと焼き菓子みたいに甘ったるい珈琲の食べ合わせは格別だ。少し前までは友人が目の前でクッキーを食べるだけで生理的に吐き気を催していた激辛派の俺が甘党に転じたのは間違いなくピョートルの嗜好の影響を引き継いでいるのだろう。以前の俺ならばトイレに駆け込んでいただろう料理に舌鼓を打っていると、突として非通知から電話がかかってきた。
「はい、篠宮です。」
頬張りすぎたカレーでリスみたいに頬を膨らませて応答する。数拍おいて聞き馴染みのあるロシア語が聞こえてきた。
『ピョートルか?』
「イシードル?ああ、俺だけど。」
『今すぐパソコン開いて俺のメール見ろ!』
要件を訊く前に切羽詰まった語勢が畳み掛ける。せかせかと促されるがままに手元のパソコンを開く。怒涛のメッセージと一通のメールが届いていた。
電話越しに伝わる尋常でない切羽詰まった気配に神経を尖らせる。不測の事態が過ぎってカーソルが添付されたファイルを押下すると、開かれた中身に頭を殴られたような衝撃が全身に迸った。
『奴ら、想定していたよりも対応が早いな。ヴァリョク空港経由でお前が日本に行ったのが露呈するのも時間の問題だ。いや、もう行き先まで割り当てられたかもしれねェ。』
電話越しにイシードルが呟く。立て続けに何かを捲し立てているものの纏まりがつかなくなった頭では彼が何を言っているのか理解する余裕すらなかった。
『此処も直に嗅ぎつけられる。待ってろ、俺もそっちに飛ぶから。』
一方的に通話が切れた。
店内は変わらず奥さんが皿を洗う作業音と、疎な客達がソーサーとカップをカツンと合わせて気を休める平穏な雰囲気に充ちていた。程度よく安定的な店内で唯一対抗的な空気を纏わせるのは俺だけだった。場の空気を読む代わりに、予想外の先手を打ってきた悪徳な連中を思い浮かべては唇を噛み締める。掠れた狼狽が漏れ出ただけだった。
ありふれた昼下がり、開けっぱなしのパソコンの画面には凡庸などではない激動の兆しがでかでかと映っていた。偽りのない素顔の俺の顔写真と、『最重要国際指名手配』の文字が。