アテネに到着した。空港では警備が強化され、空気が殺伐としていた。どうやらここ数日政府の緊縮策に抗議するデモがギリシャ各地で勃発しているらしい。既に警官と衝突しているところもあるようで、首都部での衝突も近いうちに予測されていた。今は表だった暴動こそ起こってはいないようだが今晩にでも生起しそうな緊張感が町中に張り巡らされていた。
到着して早々、俺は研究所に身を運んだ。研究所はシンタグマ広場と同じくアテネ中心部のコツィア広場に位置している。爆発事故以来人の出入りは極端に減り、割れた窓ガラスやドアが放置されたまま危険立ち入り禁止区域となっていた。不良の溜まり場にでもなっていたのか、所々にタギングが散見された。
表口から堂々と足を踏み入れると、爆発の衝撃で破片したまま塵の積もった廊下が奥へ奥へと広がっている。部屋は全部で十四部屋。その一つ一つを見て回る。そして確信に至った。
「…此処じゃないな。」
研究室の破壊具合と資料から鑑みるに、若し父が此処で爆死したならば粉々に肉片が散らばり検死など至難の技だ。事実、イシードルに裏取をしてもらったところ現場で職務に就いていた鑑識は死体のDNA鑑定が精一杯で死体を埋葬できなかった職員もいたそうだ。ならば当然、俺の父親が銃殺などと判定できるはずがない。
ここは表向きは製薬会社の研究所だが、内実FSBのアテネ支局だったらしい。そしてこの建物には地下室がある。FSBの局員しか知らない秘密の司令部が。首都部に在住する作戦員にはこの地下室から司令が下されていたという。地下室には僅か四部屋しかなく、資料保管室のみが健在らしい。
資料保管室に入って中を漁ってみる。
「コホッ…」
地下には風が通らないからか、全てが埃を被っていて俺が書類を捲るたびに埃が舞い上がった。機密情報は綺麗さっぱり処理されてるだろうが、俺が求めているのは機密情報などではない。
書類をペラペラと捲り改めていると、案外あっさりと目的の物は見つかった。当時の責任者の現住所。イシードルに調査して貰えれば一瞬で済んだのだが、折角ギリシャに飛んだのだからと自ら調査することにしたのだ。研究所にも実際に訪れたかったというのもある。
「…亡くなってる?」
残念ながら、当時の責任者は引退してシンタグマ広場付近のアパートに住んでいたそうだが四年前に亡くなっていることが判明した。資料を瞥見していると身に覚えのある名前が目に留まった。
マルコム・スミス。爆発事故での唯一の生存者であり、俺を組織に入る前から監視していたCIA元局員。爆発事件の生存者と記されており、責任者が既に亡くなっている以上真相を明らめられる手がかりはこの人物だけだ。
俺はイシードルに一報を入れてから研究所を出た。外に出ると、既に辺りは暗くなっていた。シンタグマ広場へ向かおう。研二さん達には一言も伝えずにギリシャへ来たが、お土産の一つや二つでも買って帰ろう。
.............。
「と、思ったんだがなあ。」
町外れの閑静な研究所からシンタグマ広場への道すがら、度々何台ものパトカーがサイレンを鳴らし広場へ疾駆しているのを目撃する。今朝方の空港での様相が脳裏を過った。デモ活動が過激化している今日、いつ暴動が勃発してもおかしくはなかった。そこで、前の世界でも同時期に同様のデモがあったことを思い出す。歴史のタイムラインは大まかには同じなのだろうか。
興味本位で広場に足を運べば、やはり暴動が勃発し警察隊とデモ隊が大規模な衝突を起こしていた。火炎瓶や催涙ガスによる激しい乱闘が彼方此方で行われ広場は混沌としている。右往左往する人々、混乱極まる広場を売店のタジキを頬張りながら呑気に眺めていると、視界の隅にある光景が映った。
数人の男達、デモ隊の波に紛れてはいるが所々の挙動が只のデモ参加者ではないことをありありと示している。
注視していると、彼等は度々耳元に手を触れ、胸元のジャケットを口元に近づけてぶつくさと独り言を呟いている。注目すべきは独特な手脚と視線の動かし方の癖。それはCIAの捜査官が養成学校で骨身に沁みて伝授されるものであった。
途端に頭から足の指先に至るまで緊張が迸る。まさか俺を追ってギリシャに?だがCIAは不祥事の対処で手一杯なはず…。いつでも駆けられるよう人混みに紛れて連中の行動を伺っていると、俺の心配が杞憂だったことが判った。
突然、男達がインカムに手を当てたと思いきや俺とは別方向に走り出したのだ。彼等の視線の先を辿ると、そこには見覚えのありすぎる人物が。
「ッジェイソン・ボーン!?」
ジェイソン・ボーン、前の世界で有名なスパイ映画の主人公。記憶を無くした男が実はCIAが育てた殺し屋で、CIAに追われながらも記憶を取り戻していくというスリル満点のアクション映画だ。因みに原作はロバート・ラドラムの小説『暗殺者』。
俺のいる世界がコナン軸でジェイソン・ボーンとクロスオーバーしているであろうことは薄々勘付いていた。だが、よもやこんな所でお目にかかれるとは。...待てよ、約一ヶ月前にEkSプロジェクトが全世界に暴露されたと時を同じくしてトレッドストーンも公開された。つまりあの時のタイムラインはアルティメイタムだったわけで、となると彼が現在ギリシャにいるということは…
「まさか『ジェイソン・ボーン』が始まった?」
映画シリーズ最後の集大成、ジェイソンが全ての記憶を取り戻しCIAと決着をつける物語。最後に観たのは何年も前だからストーリーをつぶさに覚えてはいないが。
そうこうしているうちにボーンは白バイを奪い、走り寄ってきた女を乗せて全速力で走り出した。その女にも見覚えがあった。
「ニッキーか!」
ニッキー・パーソンズは一作目ではCIA側だったものの、二作目以降はボーンの協力者となり影から力を貸す元CIA職員。徐々に映画の印象的な内容が瞼の裏に流れ始める。そうだ、ニッキーは今作品でCIAの作戦員に殺される....!
その瞬間、俺は行動に出た。
目の前を通りかかった白バイを奪いボーン達を追跡する。この辺りの路地裏は迷路のように入り組んでいて人探しには不便だ。見聞色擬きを全力で駆使して人々のバイクが風を切る音、警察の無線を聞き分け遮二無二二人を捜索する。幸いにもヘリがヘッドライトでボーン達の居場所を照らしてくれているので迷わずに進められる。
スピードを加速させ、警察の追跡を躱しながら走り続ける。数分もすれば、数十m前方の炎上した車、その煙の向こうにボーンとニッキーの姿を捉えた。
正しく映画のワンシーン。更に遠方の屋上を視ると、作戦員がライフルを向けているのが確認できた。
最高速で進むがこの距離からでは間に合わない。減速させずに近くのデモ参加者の掲げていた鉄棒を奪う。スナイパーが引き金にかける手に力を込めた瞬間、鉄棒を熱し、溶けた先端部分をスイングした。離すと同時に熱の引いた先端部分は鉄球へと変化し、勢いよくボーン達の乗るバイクの前輪を貫いた。
ガシャン、激しい音を立ててボーン達はスリップする。不幸中の幸いか、スナイパーの放った弾丸はニッキーの胸ではなく腹を貫いた。ボーンは直様起き上がりニッキーの元へ駆けつけようとするが、ヘリコプターのライトが邪魔をしてニッキーの伏せる路上に身を移すことができないでいる。
「邪魔だな。」
今さっきと同じ方法で鉄球を飛ばすと、それはプロペラに直撃しヘリは墜落した。この瞬間にも、ニッキーは腹を押さえながらボーンに行くように訴えている。そんな時、再び俺の眼がスナイパーの不穏な動きを捉えた。
地面を這いながらライフルが地面に這いつくばるニッキーを狙っている。俺は駆け出した。
そして引き金が引かれた刹那、時を同じくして彼女の元に辿り着くと鉄棒を大きく振りかぶった。
思い切り打ち返された銃弾は弾道に沿って逆戻りし、スコープを貫きスナイパーの右目を抉った。片目を抑えて屋上の奥へと姿を消したスナイパーを見送ることなく、早急に付近の車に歩み寄る。窓ガラスを割って車を稼働させると、倒れ伏すニッキーの傷が拡大しないように慎重に横抱きする。そして唐突な事態に呆然としているボーンに声掛けた。
「急げ!奴等はすぐに追ってくる、一先ずここから逃げるぞ!」
俺の言葉に我に返ったボーンは直ぐ様立ち上がり車に乗り込んだ。
ーーCIAの奴等が体制を立て直し再び追ってくる前に、俺達はアテネ市内にある闇医者の所に駆け込んだ。本当はFSBの研究所の地下室に逃げ込みたかったのだがニッキーが重症だったので直ぐに手当てする必要があったのだ。
運転しながらイシードルに闇医者を探してもらい、連絡がつき次第直ぐに手術に取りかかってもらった。ニッキーは車で路地を疾走中に意識を失ってしまったが、応急処置は後部座席でボーンが済ませているので大事にはならないだろう。医者が手術を施している間、俺とボーンはリビングルームで待機していた。
ニッキーを任せた闇医者はギリシャの裏社会では定評がある名医らしく、表立って病院へ駆け込めないすねに傷をもつ人々を治療して大儲けしているという。彼の仕事場であるマンションは言わずもがなセキュリティの頑丈な高級住宅で一瞥しただけでも最先端の医療器具が充実しているようだった。
床は黒い大理石、対してタイルの壁や家具は白やベージュで統一された品の良い内装となっている。患者への配慮か、全ての部屋のシャッターは閉ざされていた。金額に相応しい治療が受けられるようだ。
俺はリビングに置かれているコーヒーメーカーよりも、客用に置かれている冷蔵庫からギリシャの酒ウゾを取り出し二つのリキュールグラスに注ぐ。ウゾは葡萄の搾かすを原料としたアルコール度数約四十度のリキュールだ。片方をボーンに手渡し、勝手に乾杯をして一口でぐいと飲み干す。
焼けるような感触が喉を通り過ぎるのを堪能しボーンを見下ろして、空になったグラスに追加を注いでやった。
「さっきは突然で挨拶ができなかったな。俺はピョートル・ノリリスクだ。」
改めて名乗れば、ボーンは少し見張って名前を反復した。きっとニュースの報道でEkSプロジェクトを知っているのだろう。
「お前があの…」
「お互いにな」
ボーンはああと頷くと、緊張に張り詰めていた面持ちを幾分か和らげた。
「俺はジェイソン。ジェイソン・ボーンだ。知ってるだろうがな。」
「勿論。会えて嬉しいよ、ジェイソン。」
そして俺達は互いににここに来るまでの経緯を語り合った。
約二ヶ月前に己を生み出したCIAのトレッドストーン、それに連なる最高機密プロジェクトに関わる汚職の数々を華麗な逃走劇とともに世界に暴露したジェイソン。巻き込まれた彼の恋人は殺されてからは、世界を転々として復讐の炎に燃える日々だった。それがひと段落付くと、今度は当てもなく彷徨う日々。そんな中で、今日突然ニッキーが現れた。彼女はジェイソンにアイアンハンドという新たな計画をCIAが実行しようとしていること、トレッドストーン計画にジェイソンの父親が携わっていたこと、ジェイソンがプロジェクトに参加する前から監視されていたことを告げたという。そこでCIAの奴等から一先ず逃げて改めて話を聞こうとした矢先に、作戦員の襲撃…それから俺が現れた。
「…お前も似たような理由か。」
「ゴキブリみたいにしつこい奴らだな。」
「全くだ。」
映画の内容に関してはニッキーの印象的な箇所以外殆ど忘れていたが、こうしてジェイソン自身から話を聞くと驚くほどに俺達の境遇は酷似している。
「それで、お前はこれからどうするんだ?」
俺の問いにジェイソンは顎に手を当て考える素振りを見せる。その膝頭に添えられた右手に握るのはニッキーが渡した何処かのロッカーの鍵。
「俺としてはできるだけ早くニッキーの荷物を引き取りに行きたい、彼女が言っていたことも気になる。」
「だろうな。」
だが彼女が回復しないことには詳細を聞くことはできない。あとは医者の手腕次第だが、それに関しては心配しちゃいない。今後の方針を纏めようとして、丁度時を同じくして手術室のドアが開いて医者が顔を覗かせた。即座に立上がった俺達を交互に見遣ると、彼は不機嫌そうに言い放つ。
「手術は成功した。...全く、今月は夜間営業しないと言ったじゃろう。」
「ありがとう、金なら倍払う。」
「金の問題ではないわ!」
夜中に叩き起こされたのが相当癪に障ったらしい、ぶつくさと文句を垂れる医者に俺たちは顔を見合わせると苦笑いを浮かべた。
「いつ動かせられる?」
「最低三日はここに居させろ。此処に来たからにはワシの指示なく動かすのは絶対に許さんぞ!」
思ったよりも頑固な老人である。ともあれ専門家たる彼の言い分は正しく、確かに腹に鉛玉を食らった女性を手術直後に動かすのは得策ではない。だがジェイソンとしては早急事の真相を突き止めたいことだろう。そこで俺は思案する。件に際して、追跡されているのはジェイソンとニッキーであって俺ではない。俺だって研究所で目にしたマルコム・スミスという元CIAの男に用はあるが別に火急の用でもないのだ。ならば...
「ジェイソン。」
「何だ、」
「俺が責任持ってニッキーを送り届ける。」
「……。」
「任せろって、こういうのは慣れてるんだ。…それとも俺は信用に値しない?」
彼女が三日後に自分の足で帰れるほどに回復するまで傍で見守り、CIAの魔の手から逃してやるなど容易い。するとジェイソンは困惑を眼差しに滲ませた。「どうしてここまでしてくれる?」そう問うジェイソンに俺は考える。ジェイソンといると、何だか俺自身を見ている気がする、或いは矢張り境遇が近しいからか。正直俺にも正確な答えは判らなかった。何でだろうな…やっぱ俺とお前が似てるから?」自身でも首を傾げながら返せば、彼はそうか、と一言溢した。
「任せた。」
「待て、お前も怪我をしているな?纏めて治療してやるから去るのは明日にしろ。」
軽く握手を交わして背中を見せようとしたジェイソンにすかさず医者が声掛ける。世話焼きな爺さんだという評判は耳にしたことがあったが此程とは...。有無を言わせぬ音色で、眉間の皺を更に深めるお医者者にジェイソンは諦観の面持ちになると戻ってきた。
...........。
明朝、ジェイソンは予定通りギリシャを去った。俺はイシードルに事の次第を報告した。
「作戦員のこと、言ってやれば良かったかな。」
作戦員とは昨夜ニッキーを撃ち殺そうとした男のことである。名前は覚えていないが、トレッドストーンの次に始動されたブラックブライアーというプロジェクトの作戦員。何を隠そう、彼こそが原作でジェイソンの父親を殺した諜報員なのだ。詳細は省くが、ジェイソンの父親はCIA関係者で最後は息子の為に組織を裏切ろうとして殺殺された。昨日今後の予定を談義している間に言うつもりだったのだが、うっかり忘れてしまった。
「……ま、いいか。」
別に俺がいなくとも彼は何れ自力で真相に辿り着く。部外者が中途半端に口出しするのは野暮というものだ。
気を取り直して、俺はイシードルにニッキーの新しい身分をいくつか準備してもらって、三日後のジェット機の手配と、CIAの動向に探りを入れてもらった。
ニッキーが所持するパスポートはCIAの息がかかってるので空港で使えばすぐに居所が割れてしまう。けれどそれ以外のパスポートを持たないので今後航空機を利用する術がない。そこで、イシードルが作ったクリーンな身分証をいくつか使ってもらうことにした。その為には一度彼女に俺達のセーフハウスまで来てもらう必要がある。
『俺そろそろ身分証偽造職人になれそうなんだけど。』
「ははっ。」
『笑い事じゃねえよ。すぐに帰ってくるって言ったのに。』
電話越しに不満を犇と訴えてくるイシードルから何処か寂しげな雰囲気が伝わると失礼だとは思いつつも口角が上がってしまう。
「悪いって、俺もすぐに帰れると思ってたんだ。ニッキー送り届けてCIA職員問いただしたら帰るから。」
『もうこの際約束はいいから絶対無事で帰ってこい、いいな?』
「勿論。…明後日、ニッキーを送り届けるから日本に着いた後は頼んだ。」
『任せろ』