世界のエンターテイメントの都、罪の街。ネバダ州南部にあるアメリカ屈指の観光名所。ラテン語で肥沃な土地を意味するラスベガスは、今日も今日とて大勢の観光客の活気に溢れている。真昼間からの遊園地や観光スポット、カジノの豪遊も是非とも一度は経験してみたいが、生憎俺には果たすべき義務があった。
今回の舞台はアリアホテル。ラスベガスを代表する大型高級カジノホテルでEXOCON2016が開催される。ここでアーロン・カルーアがデューイの指示で作戦員に撃たれるシーンは強烈に記憶に残っているが、問題は原作部外者の俺が干渉すべき程度だった。正直、ジェイソン一人でも目的は達成できるだろうが、また何時新たな異次元級の刺客が出てくるやもしれない以上放置を決め込むわけにもいかないし、俺自身デューイに尋ねたいことがあった。
それにしてもヘザー・リー、CIA側の人間が俺たち側に立場を転換する展開は思わぬ収穫だった。こうして物語が着々と進んでゆくにつれて映画の内容が自然と思い起こされていった。彼女は確か、デューイを失脚させるためにジェイソンに与した今作での唯一の捜査官だったのだ。
ホテルに立入って早々、フロントデスク付近で待機していたヘザーにボーンが密かに追跡装置を渡しデューイのスーツのポケットに入れるよう指示を下した。俺は二人を会場のスタッフに扮して見守りながら、ついでに彼女の襟元に盗聴器を仕掛けたのでイベントが始まれば会場の状態は逐一に判るようになっている。既に種は撒いている。騒動が起これば追跡装置を起動してデューイを追い詰めるのみ、デューイは知らず自らの首を締めているのだ。
今のところは映画通りに事が運んでいた。アーロン達が開催するイベント会場、その一階下でデューイのジェイソンが居場所を確認するのを少し離れた位置から俺は周囲を警戒する。今のところ際立った不都合も起きてない。
盗聴器越しに、登壇したアーロンの演説が聞こえてきた。彼は此処でCIAにアプリ利用者の情報を流していたことを告白しようとする。そして...
独断で司会を中断して、CIAとディープドリーム社に纏わる闇の本題に入らんとするアーロン。階下から成行を見守っていると、ジェイソンと俺の携帯にヘザーからの連絡が届いた。『様子がおかしいわ』俺達は視線を交わして意思疎通を図るや否や会場へ直行した。その間もインカムからは不穏な演説が流れてきた。
『成功には犠牲が伴います。』
『ディープドリームの体内にも癌が発生しました。』
『その秘密を皆さんに告白します。』
雲行きの怪しくなってきた会場で無知蒙昧な聴衆はざわざわとさざめきだす。
会場の入り口に到着しすると、俺達は入り口に控える職員を無視して会場に突入した。後方の数人が俺たちを見返るのを除いてまだ異変は起こっていない。ジェイソンが後方に、俺は前方に進んで隈なく注意を巡らす。
「会社を立ち上げた時、僕は資金を得るため…悪魔に魂を売りました。」
さんざめきは響めきへと変容した。
客席には怪しい人物は見当たらない。ならば...後方を振り返って、矢庭に駆け出したジェイソンの視線の先を辿る。後方の壁に取り付けられたシャッター、小隙から壇上を覗く銃口が二つ。同時に俺は前方へと弾丸のように走り出した。
直後、ジェイソンがステージライトを動かした。視界に差し込んだ一閃に目が眩んだ作戦員が発砲の瞬間、銃弾を外した。
会場中が突如たる狙撃に混乱に喚く。一発はカルーアの腕を貫いた。もう一発は...
ジェイソンの目眩しの影響を受けなかった別な銃口から凶弾が放たれる前に、滑り込みで壇上に辿り着いた俺はヘザーを押し倒した。
「ッ!」
パァン!乾いた音が空間に振動する。作戦員の銃弾はヘザーではなく俺の肩を貫いた。だが蹲っている暇はない。唖然とするヘザーを立ち上がらせると目一杯彼女の背中を押した。
「部屋に戻ってろ!」
「っ…」
有無を言わさぬ俺の怒号にヘザーは弾かれたように足を動かし始める。あっという間に遠ざかる背中を見送ることなく視線を滑らせると、ジェイソンは遁走しようとする狙撃手との交戦を試みていた。
「ジェイソン!」
「俺は作戦員を追う、お前はデューイを!......頼んだぞ。」
その先は口にせずとも互いに判っていた。
「…ああ。後で迎えにいく。」
そうしてジェイソンは逃げた作戦員を、俺はデューイを追って雲霞の如く右往左往する人混みに紛れ込んだーー。
幸いにも警備員やCIAは誰一人会場内で発砲したジェイソンに注意が集中していて俺の存在に勘付く者はいなかった。携帯でデューイの位置情報を確認しつつもエレベーターに乗り込む。あの程度の奴らならジェイソン一人でも撒けるだろう。
...デューイがいるらしき階へと到達して廊下へと踏み込んだ途端、俺は立ち止まった。立ち止まざるを得なかった。階からは異様なまでに人の気配がしていなかった。
よしんばジェイソンを追跡する連中がデューイの部屋の階に人手を割けないとしても、いくらなんでも警備の数名もいないのは手薄過ぎる。数名残っているのなら納得ができる。だが一切の物音と人気が消え失せた廊下は別次元の異質さを醸し出していた。
慎重に一歩を踏み出そうした時、それは起こった。
ダンっと激しい音が何処からか鳴り響いた。否、音を鳴らしたのは俺だった。視界が歪んだと思えば一刹那、俺は凄まじい勢いでエレベーターに逆戻りしていた。
「っ、」
化粧鋼板壁が突き破られる圧力で身体ごと叩きつけられて心臓が口から飛び出そうになる。そのまま崩れ落ちそうになる足を踏ん張って正面を見据えれば、ギリシャで仲良く拳を交えた青年が佇立していた。
「また会ったな。俺のことは知ってる...に決まってるな。」
彼は反応を示さない。
「なんだよ、喋れないのか?」
まるで人形かと見紛うほどに翠緑の瞳はこちらを凝視している。…応える気がないのならば仕方ない。
試しに腕を振り被る素振りをしてみると、彼は一瞬で数メートル飛び退き警戒を露わにした。まるで群れから一匹外れた矢先に天敵に遭遇した小動物のようだ。
手招きをすると、意図を察した青年は一層相好を険しくさせた。
間髪いれずに、拳が目前に現れた。咄嗟に両腕で防止する。今朝ヒビが治ったばかりの箇所がミシリと嫌な音を鳴らした。俺はすかさず引き下がり、防御の弱い喉を突いた。
ゴホッ、コホッと青年は怯む。それを小手返しで投げ飛ばした。背中から地面に叩きつけられた青年は強烈な呻きを漏らす。
続け様に超高速で至近距離から繰り出された蹴りが俺の顔面に、そして流れに乗って鳩尾に命中した。体制を整え直した相手の更なる足刀蹴りをもろに喰らって俺は吹き飛ばされる。
思わず盛大な舌打ちが溢れた。
壁に衝突した際に先ほどの銃撃でできた左肩の傷が広がった感触がした。
速い、速すぎる。瞬きしようものならばコンマゼロ秒の瞬間に急所を数カ所攻撃される。しかも陰湿なことに、青年は左肩とヒビの入った右腕ばかりを集中的に狙ってきていた。…能力を使わずして勝利を収めるのはもはや困難だった。
俺はその場に屈み込むと、困惑を浮かべる青年を他所に絨毯に手を当て間隔を開けて溶かし始める。点々と、小さな丸い安全地帯を作ってしまえば、当然灼熱に耐性のない相手は安全地帯を通らざるを得なくなる。
組織から情報は卸されていたが実際には想像もつかなかったのだろう。青年はマグマを操る俺を信じ難いものを見るような眼差しで、戦闘も忘れて凝視していた。
侵食するマグマに少しずつ後退していき...遂には意図的に作られた安全地帯を除いてマグマが廊下を溶かし尽くさんと覆えば、彼は俺の企みに気付いて眉根を顰めた。
「悪いな、こっちも廊下で時間を無駄にするわけにはいかないんだ。」
「.............」
僅か数秒の静寂の後、一騎打ちは再開された。
軽やかなジャンプでほんの僅かの足場を飛び越えて、一気に俺の元まで接近しようとする青年。対して俺は前回のように瞼を閉じて五感に全集中する。
青年があと一歩のところまで到達した距離で、耳横に迫った気配に腕を上げた。鈍い音を立てて拳が寸前で停止する。
掴んだ拳を両腕で引き下げ、軸を崩して背負い投げする。だが咄嗟に受け身を取った青年は再度接近を試みてきた。
...そこからはひたすら攻防戦を繰り広げた。俺は攻撃を見極め続け、青年は繰り出し続ける。コンマ数秒の感覚に慣れるにはそう時間を要さなかった。
僅かな足場を利用してしか身動きが取れない相手と、今にも床ごと階下に沈殿しそうな地面を踏み締め広範囲に渡って動き回る俺。
動き続けること約十秒、一進一退の駆け引きを制したのは俺だった。
「なっ、」
眼前で拳に炎を纏われて、初めて青年は言葉を発した。一瞬の動揺を誘って隙ができると、俺は足を踏ん張り右足を振り上げ、顎下にめり込ませた。
顎から突き上げられた青年は強烈な衝撃に意識を飛ばした。
熱した廊下に倒れそうになるその体を支えてやって、エレベータに押し込む。一階へのボタンを押して青年を乗せた機械の箱が扉を閉ざした。
張り詰めていた緊張感が解けて、俺は力無く屈み込んだ。
「っあー疲れた。」
全身の痛みが今になってじわじわと湧きあがってくる。けれどもまだ終わりじゃない。
自分を呵責して立ち上がると、左肩の傷を熱して傷口を塞いだ。
デューイがいるであろう部屋の前に辿り着いた。隔たりの向こうの気配が一人であることを確認すると俺は扉を蹴破った。
「来ると思ったよ、ピョートル。だがジェイソンはいないな。」
予想通りデューイは椅子に腰掛け如何にも平静を装って俺を待ち構えていた。
「……ベイルートでお前が彼の父親を殺したことは知っている。」
今頃作戦員を追いながらも通信機を通して俺達の会話を聞いているであろうジェイソンの為に、俺はデューイに吐き捨てるように云ってみる。だが黒幕は何を思ったのか心外そうに肩を竦めた。
「なら今すぐ俺を殺したらどうだ?」
「.........。」
敢えて答えずにいるとデューイは憫笑を湛えた。
「ジェイソンの父親は立案者として実によく国家に尽くしてくれた。だが実行直前になって尻込みしてしまったのだよ。だから代わりに息子のジェイソンが志願した。」
「父の死はテロだと思わされ、彼はお前達の嘘で覚悟を新たにした。俺もだ。」
「違う、君達自身の選択だった。ジェイソンはデイビット・ウェッブではなくジェイソン・ボーンだから。そして君はピョートル・ノリリスクだから。」
沸々と腹の底から込み上げそうになる激情を抑えて詰め寄る。立場も弁えず嘲弄するように口元を歪めるデューイに愈々胸倉を掴み上げた。そのまま窓際まで追い詰めてやればデューイは僅かに呻いた。
「百人以上。」
「………」
「百人以上を殺した。殺されて当然の奴らだ、お陰で世界の安寧が保たれた。」
「妄言も程々にしろっ、その内の何人がお前らの懐を温める為だけの犠牲者だった!?」
「国家機関という大きな歯車に組み入れられるというのはそういうことだ。君達だって最初から理解していたはずだ。」
変哲もない瑣事とばかりに平然と言ってのけたデューイに、俺は遂に忿怒を抑えきれなくなった。血も涙もない男の胸に銃を押しつける。雷管を叩く準備は出来ていた。
「俺達は別の生き方を探す...」
「見つかると思うか?満足は得られんよ、本当の自分を受け入れるまで。ジェイソンも君も所詮は人殺しなのだから。…戻ってこいピョートル。ジェイソンと共に組織へ戻るんだ。」
「…
もはやこの外道を生かしておくことはできない。俺は引き金にかけた指に力を込めようとして、出し抜けに不気味な冷笑を漏らしたデューイに顔をこれでもかと顰めた。
「何がおかしい」
「いや、すまない。あの日と同じだと思ってな。」
「あの日?」
「...ああ、確か君は記憶が抜けているんだったか。君が父親を殺したのを知った、あの日のことだよ。」
「ハ、」
「忘れているなら教えてやろう。君が通過試験で殺した人間、あれは君の父親だった。後にそれを知った君は各国長官が集まる会議中に飛び込んできて…」
途端に視界が真っ白になった。耳元に何かを訴えかけるジェイソンの声が随分と遠い。デューイが愉しげに醜い顔面を益々歪めている。
男が何を言っているのか聞こえない。殺した…誰を……誰が…?
咄嗟に、朧げだった記憶が滝のように脳内に雪崩込んできた。
*
ダァンッ!
重厚な扉が蹴破られる音が室内に響いた。
会議室にいた男達は一様に慄き侵入者を見定めんと視線を走らせた。片手に握り、出入口を塞ぐようにして居たのは彼等が数年前に始動させたプロジェクトの参加者の一人だった。
「ピョートル・ノリリスク、何事だ。此処が何処かを理解しているのか。」
まだ少年のピョートルは純白の髪を乱して、つっかえそうに息を荒らしている。肩を激しく上げ下げし、いつにも増して濃い猩々緋に染まった双眸からは焦慮が篭っていた。
ピョートルはぐるりと会議室を見渡すと一人の男を見つける。大股に歩き進むと、議長席に近いその男に詰め寄った。大いに全身を戦慄かせ己を睨め付けるピョートルに男は眉一つ動かさず問いかける。
「任務はどうした。」
「...ち……は」
何事かを呟くがくぐもっていて聞こえない。男は聞き返す。
「父は何処にいる!?」
溌剌とした怒号に漸く男は愕きの感情を顔面に浮き上がらせた。様子を窺っていた警備員が足音を殺して歩み寄る。だがしかし、見向きもしなかったピョートルの発砲によって警備員らの眉間は撃ち抜かれた。
どさりと斃れた男達から滴り落ちる赤が床一面を染めていくのを目の当たりにした議会の参加者の間に緊張が迸る。宜なるかな、彼等の認識上ではピョートルは殺人を最小限に控える手緩い諜報員だった。
「答えろ!」
「私が提案した。」
「君の父親は組織を裏切った。親の不始末は子供の責任と私が長官に提案したのだ」
「デューイ。」
横から割り行ってきた男に、少年は燃え盛りそうな凛々しい眼光を突き刺した。デューイがそれ以上明かさぬようにと長官が彼を咎める。
ピョートルの憤怒に応えるように室内の温度が急上昇する。全身にぼうっと炎を纏わせたピョートルは「燃やしてやるっ…!」とデューイの胸ぐらを掴みあげる。されど悠然とした面持ちでデューイは言葉を紡ぐ。
「君の父親は君を組織に誘っておきながら裏切ったのだ。君は正しいことをした。」
「なら何故あの時僕に言わなかった!」
訓練生らしからぬ温厚さで度々教官を困惑させた普段の彼からは想像も及ばぬ激昂ぶりで責立てるピョートルに男達は喫驚を隠せずにいた。ピョートルは引き金を弾きそうになる陰険な胸中を辛うじて理性で押し留めると、彼等に背を向ける。長官が呼び止めた。
「僕は抜けるっ...」
「聞き分けのない子供のように駄々を捏ねるな。君も分かっているだろう、今更離脱は不可能だ。」
「許可なんていりません。」
堪忍袋の尾を切らして詰め寄ったピョートルが、デューイと長官の首元目掛けて炎を纏った一太刀を浴びせようとして、しかし轟々と盛る炎は彼等に届く直前で雲散した。卒然と、糸が切れたようにピョートルが地に倒れ伏したのだ。
入口を塞ぐようにして銃火器を構える武装した男達と、彼等に守衛されるかの如く立ち塞がる一人の男が佇んでいた。ブラウンのシックなスーツを羽織った中年の男が。鷹揚な姿態でズボンに両腕を差し込んだまま男は一つ咳払いする。
「失礼、取り込み中でしたかな。」
「いや、丁度良かった。博士、彼が任務に復帰できるよう調整してくれ。」
長官ではなく、一部始終を固唾を呑んで見守っていた会議室の男の一人が興奮を抑えきれぬとばかりに汗を拭きとりながら云った。
皮肉にもピョートルが長官とデューイを除いた上層部の面前で超能力を披露したのは初めてのことだった。
古来より生命の力強さと神秘の象徴とされてきた力。炎の威力を自在に操る青年に魅せられた男達にとって、彼が謀反を起こしかけたなど取るに足らない問題だった。現代の科学技術では記憶や思考を意図的に操作することは現代において決して不可能ではないのだ。
*
…思い出した。
俺が父親を、殺した。
「そうだ、僕、はあの時……」
意識がピョートルに引っ張られる。感情の整理がつかず目の前が真っ暗になる。足場を失ったようにふらふらと後退して、錯乱する俺にデューイが嘲罵を滲ませているのにも気付かずに。
そんな時、乱暴に扉が吹き飛ばされて武器を携えた黒服が突入してきた。俺は夢から醒めるように我に返る。瞬時に周囲を見回して対応しようとする、だがデューイの部下がこちらに向かって発砲したのが早かった。
弾丸は僅かに軸を逸らして俺の脇腹に命中した。同時期に放たれた俺の弾丸加速回転しながら相手の胸を貫き、男は斃れた。腸を掠めた感触に蹲る。つと、額に冷たい何かが触れた。目線を上げずともそれが何かは判った。
デューイが押し付ける拳銃、床を見詰める俺の拳銃。
たった数秒が永遠のように感じる。恐らく引き金にかけたのだろう指先に力が込められるのが伝わった。
空間がスローモーションを再現し始める。
次の瞬間、パシュとくぐもった音が耳朶に触れた。思わず瞳を閉じる。痛みは襲ってこない。恐る恐る面を上げれば、額から血を流して窓に追突するデューイが。
銃声の発生源を見返れば、拳銃を構えてヘザーが立っていた。走ってきたのか荒く呼吸を乱して。親の仇でも見るようにデューイを睥睨していたヘザーは拳銃を下ろして、俺を眼差した。
「……。」
画面越しに殺傷を指顧することはあっても、自ずから手を下すのは初めてだったのだろう。濃いヘーゼルブラウンを潤ませ、横一文字に口元を引き締めるヘザーに俺は歩み寄る。まだ硬く握り込んだまま離そうとしない彼女の手を覆って手の中の重みを引き受けると、ヘザーは漸く視界を共有したのだ。
「もう帰るんだ、君のCIAに。」
「あなたも。」
踵を返して、背後に掛けられた静かな声調に横顔を晒した。ここに至るまでの様々な苦渋を噛み締めて、ヘザーは見据える。
「これで全てを終わりに…」
もう、振り返る必要はなかった。彼女に応えるように片手を上げて、今度こそ俺はその場から立ち去った。
............。
ビルの表では発砲騒動により会場から逃げ出した人々が大混乱を引き起こしており、事態を収拾しようとFBIがメガホンを取っていた。他にもSWATの装甲車や救急車が勢揃いで待機しているのが目に入った。
近くの救急車に侵入すると隊員が出払っているようで中はもぬけの殻となっていた。都合が良いので応急処置を施す。
肩も脇腹も、弾が貫通していたのが不幸中の幸いだった。
「っ…ぃ」
思わず溢れた苦悶は心と体のどちらに起因していたのか。先程からピョートルの気配が薄く感じる。父親の死の真相に打ちのめされているのだろう。けれど俺にはかけるべき気の利いた言葉が見つからなかった。
俺自身、前の世界での記憶が薄れてきて、今では家族すら名前以外思い出せない。
境遇に同情することはできても、痛みを分かち合うことはできない。だから俺にできるのは唯待つことだけだ。ピョートル自身が現実を受け入れて前に進めるようになるまで、下手な慰めなどせずに見守るしかない。
他でもない本人が望んだ記憶であるはずなのに…世界ってのはどこまでも不条理だと、遣る瀬無さに胸が潰れそうだ。ピョートルの父親がどんな心境の変化があって息子の為に命を投げ打ったのかは分からない。けれど仕事人間で冷徹だと思われた彼も、結局は息子を愛する一人の親だったのだ。あと少しでも、互いに歩み寄る勇気があれば。
そうこうしているうちに処置が済んだ。包帯を置いて運転席に座っても、騒乱を静めるのに必死な警官達は一人として救急車泥棒に気付く気配はなかった。作戦員を追ったジェイソンを保護しなければ。俺はFBIから密かに掻っぱらった無線機に語りかけた。
「追跡班、状況は如何だ?」
『一号ヘリより、容疑者車両リヴィエラ前で大破。武装容疑者、リヴィエラ南の集水溝へ。』
どうやらジェイソンは警察の追尾を躱せたようだ。俺の記憶が正しければ、彼はこれから作戦員と対峙して父親の仇討ちを果たす。
「リヴィエラホテルっていえば此処から十数分くらいか。」
全力で飛ばせば間に合うだろう。
救急車のサイレンを鳴らし始めると、エンジンを全開にして走り出した。
ーー最高速度まで上げて夜の混沌極まるラスベガスを疾駆すること数分。救急車輌が幸いして、特に警察の標的にならずにリヴィエラホテルまで到着した。
十中八九怪我を負っているジェイソンの為に手当てに必要な器具の入った救急箱を片手に車を降りる。ホテルの内部から前方にかけてがパックリと切断された桃のように大破された状態の黒のポルシェが転がっていた。…ジェイソンが脳震盪を起こしてなければいいんだが。
周囲を見渡すと高級車が舞踏会の馬車の如く彼方此方に停車している。ジェイソンと作戦員が発生させた大規模なカーチェイスの災害のおかげで何れも持ち主に見捨てられたよう。そうだ、あの白いベンツに乗り換えよう。
車上荒らしの手口でドアを開けて車を乗っ取る。
運転席で数分ほど待っていると、片足を引き摺り、至る所から傷ましくも血を流した満身創痍のジェイソンが現れた。クラクションを鳴らすと、ジェイソンは疲労困憊を全面に出して片手を上げた。
「お疲れ、ジェイソン。」
「酷い怪我だな。」
「こっちの台詞。」
ジェイソンは自傷気味に笑んだ。
「今回ばかりは年齢を感じたよ。」
「嘘つけ。」
「ははっ」
確かに苦戦したのは彼の満身創痍の身体が物語っているが、相手の諜報員としての質が同程度ならば当然のことだ。寧ろ今までのCIAとの長い道のりをよく一人で乗り越えてきたものだ。
後部座席に移って手際よく傷の手当てを行うジェイソンが、不意に真剣な眼差しをバックミラー越しに送ってきた。
「…大丈夫か。」
その言葉が何を意味するのかは理会している。きっと俺とデューイの話を聞いていたのだろう。ピョートルが父親を殺したという悲劇を。
「勘違いするなよ。俺だって親父を殺したも同然だ。」
「それは」
「違くないさ。」
自身の存在が結果的に父親の死を招いた。その事実は変わらない。だけど…
「それでも、身を危険に晒してまで俺を想ってくれてた父を失望させたくはない。いつまでもくよくよして情けない奴だって。」
父親が擲ったのは、俺達家族が大事だったから。
「組織を抜けた俺がこうして平凡な生活を送ろうと頑張ってるのを見て、父が喜ばないはずがないんだ。」
上手く言語化できないけれども、自分を許してあげて欲しくてジェイソンとピョートルに届くように囁いた。
「強いんだな」と云ったジェイソンに俺は被りを振った。
「俺はピョートルであって、ピョートルじゃないから。」
それを如何捉えたのかは判らない。バックミラー越しに見たジェイソンは目を見張り、ぎこちなく口角を緩めた。
それからラスベガスを去るまで、会話は途絶えた。