初恋の相手と結婚する確率、一パーセント。
一卵性双生児が誕生する確率、〇・四パーセント。
他人に殺される確率、〇・〇三パーセント。
ホームランボールを掴み取る確率、〇・〇二六パーセント。
一年以内に交通事故に見舞われる確率、〇・〇〇七パーセント。
航空事故で死亡する確率、〇・〇〇〇九パーセント——。
ターンターン、ターンターン。
柔らかな高音が二連荘に鳴った。前上がりになった腿上の重みを腹が受け止めた。
直ぐ真横の廊下を人影が素早く渉った。キャビンクルーだ。ディオールの採れたて果実を絞った瑞々しい馥郁とした香りが瞬刻鼻を詰まらせた。ラップトップの画面が一段落を終えるのを閉じて面を上げる。コーポーレートカラーの赤、青、白を取り入れたストライプデザインのネクタイと襟を正しながらプラチナブロンドのキャビンクルが遠ざかっていった。
嚠喨な口笛が下品な感情を乗せて彼女の尻辺りに吹きつける。急足のキャビンクルーが男の不躾な眼差しに気付かなかったのは幸いだ。前席でシートベルトサインを無視して黒ずんだ肘を背もたれに預ける男は不調法に背中を丸めて僕に視線を寄越した。
「良いケツしてんなァ、あの姉ちゃん。そう思わねェか?」
「.............。」
窓を見遣る。眼下に俯瞰できる景色は荒れ模様一色だった。見境なく吹き荒れる暴風雨と轟轟と響くジェット音に挟まれては「ちっ、気持ち悪ィ奴だぜ。なんでお前なんかが俺サマの後ろに座ってんだ。」などと、如何にもギャンブル障害により捻じ曲げられた自尊心を抱いていそうな男の不平の並びは先程のキャビンクルーの足音よりも取るに足りないものだ。
禍々しい雷雲が有り明け方の空を塗り替え壊れた蛇口の如く沛然と降り注ぐ豪雨、今にも髑髏でも描きそうな黒黒とした曇天を絶え間なく裂く稲妻が斜めった空港の管制塔を小さな窓枠に映し出している。…否、斜めっているのは景色ではなく飛行機だった。
機内スピーカーがマイクノイズを漏らす。日本語のアナウンスの次に年配キャビンクルーの粘っこいアメリカ英語がぽつぽつと流れてきた。
「皆さま、この飛行機は強風のため着陸を中止し、いったん上空に上がります。機長より詳細が入りましたら、再度ご案内致します。」
ゴーアラウンドだ。既に高度は着陸体勢前に巻き戻りつつあった。梅雨時の悪天候に機体が横風に煽られていた。僕は不図、座席の後方を覗く。なんと統制の取れていないことか、二、三人の男女が後方へと歩き去る背中が見えた。
ハードディスクを抜き取りケースに入れると鞄から二つの鍵を抜き取り服の内側ポケットに入れファスナーが悲鳴を上げるまで閉める。予定変更だ。
ターンターン、ターンターン。
再度コックピットクルーからの通達が機内のキャビンクルーに向けて発せられた。対向通路で哺乳児が食欲を失い乱暴に泣き出した。
「うわぁあん!」
「あらあら、どうしちゃったのかしら一体。」
直後、エンジン音が消える。
喧騒極まる機内に掻き消されたのではない、文字通り飛行機の稼働音が潰えたのだ。
薄れた機体の騒音を荒れ狂う天候が肩代わりするかのように響動んでいる。第六感が研ぎ澄まされた赤ん坊の悲鳴がこれから起こるであろう悲劇に警報の如き喚きをあげていた。
浮力が失われた。ヒステリーを起こした女が力尽きて崩れ落ちるように水平だった機体が傾いてゆく。巨大な鉄の体躯は呆気なく重力と風に敗れる。
密室空間で絶叫を反響させる乗客と彼等を鎮めるべく抑揚のついた張り声を朗々と発するキャビンクルー。一部は額に汗を滲ませながら狭路を行き来していた。潤滑油を失った機械のように落下し続ける飛行機の中で僕は席を立つ。
「おい、何処に行くんだよ!」
「お客様、危険ですので立ち上がらないで下さい!」
「ちょっと、危険って何なの?何が起きてるのっ?」
背後から男とキャビンクルーが追ってくる。制止も周囲の発狂も聞き捨てて後ろへ、後ろへと突き進む。通り過がったギャレーの片隅に二人の女性キャビンクルーがフローリングに無造作に重なり合っていた。
「これは…」
「キャアっ、なんてこと!」
追い付いたキャビンクルーが地面に臥す同僚に顔色を土気色に変えると手近のインターホンを手に取った。
その時、足場が大きく傾斜した。彼方此方から湧き上がる絶叫が右耳から鼓膜を打ち破り身体中を揺さぶった。あまりのけたたましさに蹲りそうになるのを必死に堪えて歩を進める。
深呼吸を繰り返す。大丈夫、こういった事態の為に幾度となく心身の制御方法を叩き込まれてきたのだ。身に染み付いた習慣はそう易々と手放せはしない。
事を察知した二人が僕の後に続く。行先は機体後部の非常口。其処に集う五人の男女。
座席の持ち手を頼りに垂直になりつつある足場を着実に踏み締めてゆく。莫迦な奴らが「おいお前ら何の真似だ!」「席に戻らねェってんなら痛い目みせてやる!」憤りに陶酔に頬を染め怒鳴り散らす。
「煩い、」と溢れた細やかな要請は矢っ張り不快な喧囂になきものとされてしまった。そして懸念通り、絶妙な目配せを交わしてから男と女がこちらに向かってきた。
感情の消え失せた足取りが着実に僕達の歩幅を狭めていく。距離が縮まるにつれ僕の視界は相手の手許に握られる殺意に釘付けになる。
一歩、二歩。愈々迫った女の腕が右半身を支柱に掲げられようとした…
「キャアアア!」
「このっ!」
「ッ」
狭い空間にあるまじき発砲音が響いた。迎え撃とうとした僕を押し退けて男が前に出る。しゃしゃり出た酔いどれはしかし正確に女の銃口を逸らした。
筒音波が連続して機内に拡がる。同時に脱出スライドが展開され凄まじい風雨が侵入する。荒れ狂う空が汽笛めいた警鐘を鳴らし雷鳴が迸る。
遥か地上を一直線に目指す前頭部、視界を奪わんとする狂飆、混乱が頂点に達する機内で乱闘を繰り広げる複数の男女。既に二人がパラシュートを展開して嵐の只中へと飛び込んでしまった。客席に突き飛ばされた僕は如何にか座席に掴まり跳ね起きる。
高度は一万メートル未満。都市部でなくとも空港への甚大な被害は避けられない。けれどもこんな緊急事態に人的損害などに思考を分散するわけにはいかなかった。何より先に禁じ手を打ったのは奴らの方だ。
だから僕は、喧嘩越しともいえる勢で交戦する連中を通り抜け今にも脱出口から身を投げようとする男に体当たりを仕掛けた。
雷が閃く。
アクション映画さながらに僕と男は揉み合いになる。不自然な体勢で突きを交わし、膝で蹴り上げ…。
そして遂に相手のハーネスを捉えた時、体が宙に投げ出された。