——一弾指の間に砲声が響き渡った。
心底に積もり積もった焦眉の翳りが暴発し、焔を突き動かす。男の所有物だった拳銃を引っ掴み、弾けるように絨毯を蹴ると数段飛ばしに跳躍し、無心に階段を飛び降りる。
高らかに靴底を鳴らして階下に下り両腕を構える。双方の銃口が牙を剥いた…
「ッ、ジェイソン?」
視野に飛び込んできた人物に焔は力を込めかけた人差し指の第一関節を緩めた。
「ホムラじゃないか、何してるんだこんな所で。」
「何してるって、ほら、朝の依頼だよ。」
ボーンは胸元に掲げた腕を下ろし、床に臥す男を跨いだ。
「そういうジェイソンこそ何で此処に?ニッキーの見送りじゃないの?」
「ああ、空港まで行ったは良いものの滑走路が事故で封鎖されてしまったんだ。仕方なしに引き返してきた。俺は金を引き出したかったからニッキーをエリセイに預けて来たんだが、まさか銀行強盗に遭遇するとはな。」
「はは、ようこそ
「笑えないな。」
「俺も笑ってないよ。」
滞在期間と場所が如何であれ東都に足を踏み入れれば濃淡あれど必ず見舞われる災難、それこそが授業料を払わずとも受けられる東都の洗礼。焔と隼人に続き死神世界の超常的な魔物性をジェイソンも見事身を以て味わったのである。
周囲に目を行き届かせつつも二人は階段脇の壁に身を寄せ合う。「それで、」と一言焔が口にすれば、CIAに大量の資金を注ぎ込まれ育成された元凄腕暗殺者は表情筋を難しく引き締めた。途端に冴えだす空気に共鳴するように兵士の面持ちになると、焔は自身が把握した現況を報告する。
三階で一人、二階で一人を撃退し残すところ三人が地上階に居ること。上階で発生した変事に一団は勘付いており階段を昇ってこないのは恐らく自身らを待ち侘びているからだろうこと。何をおいても敵の武装と交戦時の感触から賊徒の制圧は一筋縄ではいかないであろうと。後半はボーンも憶測を一致させていた。
ブリーフィングから作戦会議へと滑らかに推移して銀行を襲う災難を終結させる為の方針を集約、確定した。
先ず、強盗が当方の敵状を把握してないことを好機としてボーンがM1911を手に階段の入り口で待機する敵Aに対抗。無論生死は問わない。無事目標を破ったら次なる敵Bは目睫の間に設置された受付に隠れながらボーンを威嚇するだろう。階段での突撃が功を奏しても、暗視スコープを装着した相手に二度の奇襲が都合良く運ぶとは考えにくい。そこで先鋒として華麗なる反攻者だったボーンは自身に差し向けられたアサルトライフルに直ちに降参する。武装を解除し恰幅の良さと精悍な顔立ちを見せつけ階上の出来事がボーン一人の仕業であると打ち明けるのだ。当然Bと、出入口を封じるCは顔を見合わせゴーグル越しの目に物を言わすだろう。
ここからがかなめだ。
BとCが身振り手振りを交わす為に生んだ僅かな小隙を捉えてボーンの後方、物陰に潜んでいた焔が二発で敵を仕留める。その後通報を受けた警察が到着し——尚、制圧後の流れは唯の希望的観測——一件落着。捜査一課の松田なり佐藤なりが居れば後始末を押し付けて二人は帰宅する。
詰まるところ囮作戦だ。そして当然代替案は数通りある。
策略は練り、決行するのみ。焔とボーンは強盗よりも一足先に目配せを送り合うと無言のうちに行動に移した。
第一段階は機敏さが勝利の鍵となる。
…迅速な足捌きで踊り場に躍進したボーンは、焔が告げた確度の高いAの現在地に目視確認を経ずに弾丸を撃ち込んだ。
「ガァアア!」
「きぃやぁあっ」
野太い絶叫と重なるようにして隅に寄せられた一般客から絶叫があがる。瞬く間に拡がる動揺を耳が拾うよりも早くボーンは次の一手に移る。
三段…否、五段を跨いであっという間にフロントフロアに着地して攻撃の意思を装う。呉々も銀行従事者を平然と刺殺できる男達が即時射撃で自身を仕留めることがないように、まかり間違っても一般人に被弾せぬように。
太腿を撃たれ激痛に悶えるAを一階間際まで降りてきた焔が気絶させる。自らの無実、不関与と知人刑事の滞りない捜査の為に少なくとも二人以上は生かしておく必要があった。
「動くな!銃を捨てろ!でないと人質を撃つぞ!」
想定内の捨て台詞。反撃者の実力を察知したBが当意即妙の対抗に間近い女の髪を掴み引き上げる。次なる返辞はこうだった。
「分かった、銃を捨てる。俺は…」
——俺は丸腰だ。代わりに人質にでもなるから他を解放してくれ。
だがしかし囮役の言葉は最後まで続かなかった。首に屈強な腕を回され無機質な殺気を押し付けられ、恐怖に歯をカチカチと稚拙に噛み合わせる女を見留めた瞬間、凄まじい脳震盪がボーンを襲った。
その光の束を集めたようなプラチナブロンド、その毅然な性合いを表面化させた筋の通った眉目、その含めば容易く萎むチューリップの如き柔らかな唇。終焉まで堅忍不抜の慈愛で精神的支柱としての役割を果たしたボーンの生涯における最初で最後にして最大の未練。
「マリー」
マリー・クルーツ。ボーンの最愛であり、彼の最悪の悪夢となった想い人。
フラッシュバックが彼の魂を斬りつけた。
彼の眼前に居るのはマリーに酷似した他人だ。頭では理会していても精神は嘗てなく掻き乱されていた。突如としてボーンの纏う雰囲気の変容に気付いた焔も思考を漂白させた。
だが形勢は余談を許さず、後方の狭路で俄かに谺した破裂音に焔は即座に首を回す。ボーンが絞め落とした男が意識を覚醒させ窓から脱出したのだ。勿怪ながらあるまじき失態は焔の思考力を正常に取り戻させた。
「何してる、早く銃を捨てろ!さもなくば女を殺すぞ!」
「おい早くしろ!」
二人の強盗に武器を向けられる絶体絶命の状況下で、唖然として完全に我を忘れるボーンの横に滑り出る。
「ちょっと、やめ…」
二人目の登場に意表を突かれた人質がBの腕を叩く。零れ幸いとでも形容すべきか、Bの拘束が混迷に僅かに緩んだのを焔は見逃さなかった。
現出の挙動の流れでサイドグリップすると焔は引鉄を動かした。
銃声。それから悲鳴が溢れる。
丁度人質と男の背丈が重なっていた為に上半身の急所を避けて、弾丸はBの脇腹を貫通した。遂に矢も盾もたまらず逃げ惑いだす客達。前触れなく穿通性外傷に虐まれた男は思わず女に回した腕を放した。
「ジェイソン!」
「っああ。こっちへ…!」
焔の叱咤に漸く正気に返ったボーンは解放された女を引き寄せた。
「っふ、ぅ…!クッソ、この野郎」
「ちっ」
表通りでクラクションが高鳴る。戦車にでも衝突したのか、酷くバンパーを歪ませた群青色のセダンが銀行の前で停車していた。運転席には暫く前に見た強盗の一味が乗っている。
「早く!」
勘走った怒声に突き動かされて、再三蹲るBを振り返ったCは一気に駆け出した。即座に焔が追跡しようと重心を傾ける。けれども通りすがりに異変を感じ取ると去り行くセダンを見送ることなく体を反転させた。
彼程憎悪を言霊にしていたBが突如として口数を減らしたのだ。胸を過ぎった不穏な感覚に素早く見下ろすと、案の定Bは何処からか取り出した錠剤を口に含もうとしていたところだった。…服毒だ!
「させるか!」
「ゴボッ」
躊躇のない裏拳が打ち込まれる。上下前歯を粉砕された男は錠剤を虚しく吐き出し卒倒した。斯くして、二転三転を乗り越え銀行強盗事件は幕を閉じたのだった。…まだこの頃の二人は悠長に思い込んでいた。
………。
雨脚は強まるばかりだった。豪雨が篠突き通行人の傘は覆って仰天しその存在意義を失い、荒天を疾走する稲光が隠顕しては街を濛濛たる霧に沈めていた。今に稲子の大群でも降ろしたげな颶風は世の終わりを催さんばかりに猛り狂っている。されどヒトも負けてはいなかった。
水礫の滝の幕から朧げに白黒の横ぞっぽうを滑走させて回転灯が赤い警光を明滅させている。この場に居ない何者かを諌めるように執拗に光源を発光させて…
初めに勤務中の行員が試みた通報は遅れて実を結び、程なくして警察が到着した。銀行からの緊急通報により指令室が出動命令を下した警察車輌が七台派遣された。現行犯はとうに遁走していたものの緊迫した現場で一部始終を目撃した関係者の供述により立役者たる焔とボーンは誤解を回避した。絶妙の間で目醒めた強盗一名は日本語では喩えようのない怨嗟を吐き散らしながら縄目の恥を受けたのだった。
「では貴方は事件当時離席していたんですね?」
「ですから何度も申し上げているでしょう。妻が子供が熱を出したというので慌てて一度家に帰ったんです。」
暴風に薄毛を波打たせて、豊穣に水を染み込ませたハンカチで肌を拭う濡れ鼠も同然のイギリス人の支店長が警官と道路脇で耐風を競っていた。
「そして金品の類は一切盗まれていないと」
「はい、はい…大方武力を誇示したいだけのイかれた連中でしょう。こんなことでフジナカを亡くしてしまうとは…大痛手です。」
「貴方が出掛けることを伝えたのは亡くなった藤中智樹さんのみだった、間違いありませんか?」
「まさか私を疑ってるんですか?従犯ならあの場にいた全員が目撃したじゃないですか!」
「とんでもない!唯事実を確認しているだけです。」
大袈裟な身振り手振りで轟音に負けじと大声を張り上げる二人の押し問答は暫く継続しそうだった。
「じゃあ此処にサインお願いしまっす。」
「はい...よろしくお願いします。」
「りょーかいっす。」
焔は彼等を素通りして屋内に戻ると、自身が呼び出した自転車便を送り出してから銀行を顧みる。風除室の片隅で女が一人蹲っているのを見かけた。
湿気を受けて白人特有の毛質が縮れ毛が出ている。緊急用毛布を羽織る肩を小刻みに震わせ無粋な地面の一点を見詰める彼女は東都においては珍しくない人質経験者だ。この茹るような雨季に身震いする身体は翔然とした様相を増しており、銀行内での災難がどれ程の精神的打撃を与えたのか容易に推し当てられた。
人の気配に気付いた女が徐に顔を上げる。見れば見るほどに彼女の面相はボーンの死んだ恋人に瓜二つだった。
「あの、」
いつしか穴が空くほどに凝視する焔を女は二つの黒褐色を当惑に揺らして呼び掛ける。彼は気が付いて朗らかな笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、知り合いに似てたものだから。さっきは大変でしたね、名前を聞いても?」
唇を引き結んでは緩め、少し躊躇った後に彼女は名乗った。マリアンヌ・スミス。
「マリーと呼んで下さい。」
「マリー、」
いたく切ない、恰も必然なる七夕の有明を魂から偲ぶ音色が焔の斜め後ろから発せられた。
二人は声主を見遣る。死人が蘇ったとでもいいたげな曇り顔がマリアンヌに別の誰かを重ねていた。
これこそが運命の悪戯か、ボーンを見とめるや否や跳び上がって彼の胸元に飛び込んだマリアンヌを焔は呆気にとられて見ていた。命の恩人に抱擁され堰を切ったように安堵を溢れ出させるマリアンヌと、失った筈の何かを求め回した腕に力を込めるボーン。劇的な天候の最中に映される二人の情景は映画の一場面のようで。
温もりを確かめ合う二人の、荒々しい景色に反した平安な情景を恋人同士の抱擁と勘違いした周囲の者達は微笑ましげに見守っていた。唯一人、男女を取り巻く悲劇の過去を承知するアルビノの青年を除いて。