俺が消えた日   作:れいめい よる

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腹に納める

 

 

エアコン暖房で乾燥の効いた廊下は適温が維持されていて、寄り沿うように臨接する涼感に誘われて病室から出てきた面会者が数人手摺に凭れ掛かっていた。片側居室の廊下の突き当たりにはこの階で一つの耳鼻咽喉科が設置されており時折道に迷った患者や回診車を手押しする看護師が見られる。幅広い診療に対応している米花中央病院の、飲み物を求めに通りがかった待合サロンは外来の患者でごった返していた。 

 

「はい、航さん。」

「ああ、ありがとな。」 

 

コンビニから三階の病室に戻ると、病院からの通報を受けてやって来た航さんに珈琲缶を差し出した。残り三つは病室でマリアンヌを見守るジェイソンと医師を聴取している高木さんと自分の分だ。 

是迄に出会ったことのないミルクコーヒーを開蓋して飲んでみる。挽きたての豆の香りと温められた牛乳の柔らかな口当たりが舌に甘ったるい癒しを与えた。梅雨から始まり今日に至るまでの揉め事を巡って滅入ってしまった気分はすっかり爽やかに切り替えられた。ピョートルの影響で辛党だった俺もいつしか甘党に変異していたらしい。 

 

「ところで何で電話に出ないんだ。何回も掛けたんだぞ?」

「えっ」 

 

携帯を確認しようとしてズボンのポケットを弄る。そこにある筈の物がない。直近の記憶を遡ってみる。

銀行では携帯を弄っていた、停電になって仕舞ったのも覚えてる。銀行のお手洗いに立ち寄ってから三人でパブに行ってテーブルに出した。それ以降の詳細は思い出せない。確かマリアンヌの弟さんの顔写真を送って貰おうと取り出して、ボーンと席を外してしまい…それからあんな出来事があってすっかり存在を忘れてしまっていた。 

 

「あーごめん。携帯パブに忘れて来ちゃったんだ。今思い出した。」

「別に構わねぇよ。そのパブってのは彼女が刺された店か。」

「うん、もう警官向かわせてるんでしょ。」

「ああ。」 

 

刑事事件なので捜査一課が捜査に乗り出すのは最初から判っていた。見知らぬ捜査官が派遣されなかったのは不幸中の幸いだ。 

 

「お願いがあるんだけど、マリアンヌの件は適当に片付けて身を引いて欲しいんだ。」 

 

口にした途端、目の前の刑事の瞳孔が獲物を定めた黒豹のように縮められた。当然の反応だ。 

 

「お前、自分が何言ってるかわかってんのか?」

「重々。けどこれに関しては譲れない。」 

 

多少特殊な犯罪被害者から不特定の悪意に命を脅かされる煩雑な事情に急転落した彼女を警察機関に任せる気はなかった。とりわけマリー・クルーツ似の彼女が眠る病室に張り付くようにして居座るジェイソンを彼等と深く関わらせるわけにはいかない。若し身分照会なんてネットに接続されるものなら俺と彼の関係も、下手を打てばCIAとの因縁も白日の下に晒されかねない。逃亡犯の身である俺達にとってインターポールの介入は悪夢でしかないのだ。

精神を磨耗する不必要な立ち回りを回避する為ならば警視庁の上層部に働きかけることも厭わない。そんな意志を言語化せずに真直な目線で表明すると航さんは正しく受け取ってくれた。馬券を倦んで選択する観戦客みたいに口に含んだ爪楊枝を上に下にと動かすと、位置を反対に差し替えた。 

 

「ホシの目星はついてんだろうな。」

「問題ないよ。」 

 

吐き出された嘘は院内を循環する空気に溶け込んで消えた。 

 

マリアンヌが倒れてすぐ俺は商店街に出て人影を探した。アーチが吹き飛びそうなほどの暴風雨が街路の前後から吹き荒れるなか、四方八方をくまなく観測して細道に転がる塵箱も仔細に捜索した。けれどもマリアンヌの腹を刺したと思われる実行犯らしき人物は見当たらなかった。 

五分程で駆けつけた救急隊員を誘導してパブに戻るとジェイソンとマリアンヌを先に送り出し、店内に居た客全員に話を聞いたものの運悪く誰一人彼女が刺された瞬間を目撃している人は居なかった。生憎店主は監視カメラの設置どころか防犯の概念すらない。要するに初動の段階で手詰まりだった。だがそれを航さんに伝えて態々心許ない思いをさせる必要はない。

内実を赤裸々に打ち明ける代わりにもっともらしく口元を引き締めて見据える。僅かの間俺の真意を見極めるように見詰め返した航さんだったが… 

 

「お待たせしました!」 

 

忽然と横入りした声に目線を逸らした。医師の説明を聞取り終えた高木さんが戻って来たのだ。 

 

「ええっとですね、刺創は刃渡り十二センチ程度の片刃のステーキナイフ。突き刺された腹部は深さ十五センチあまりでしたが胸郭と腎臓域の間あたりで急所は逸れたそうです。…あ、焔君こんばんは。」

「だそうだ。しっかりしろよ、焔。」

「高木さんこんばんは。うん、必ず解決させるよ。」 

 

言いながら依然として鬱勃と湧いてこない活にパブの店主みたいに頭皮を掻きむしりたくなった。参ったな、俺の経歴を信じてのことだろうけどここまで見込まれたら半端に引き下がれなくなった。それでも愛想笑いを貼り付けて高木さんに買ったばかりの飲み物を贈ると、用が済んだとばかりに航さんが彼の肩に腕を回した。 

 

「んじゃ、帰るぞ。」

「え?けど被害者の女性は」

「ちょっとした事故だってよ。事情聴取は後回しにして晩飯食うぞ。」 

 

警察学校組の班長らしい音頭で言い含めると半ば強制的に高木さんは踵を翻した。どうやら研二さんと陣平さんと夕飯の約束をしていたところ出動要請が掛かったらしい。二人の背中を見送っていると不意に伊達さんが振り返り、「お前も来いよ。」といつかの不良じみた陣平さんみたいな目遣いで圧を掛けてくる。適当に手を振ろうものならば舞い戻って来そうな威圧感に俺は「ひと段落ついたら行くよ。」点頭して今度こそ二人の背中が見えなくなるまで見届けた。 

 

………。 

 

病室に入るとベッドの脇のアームチェアに掛け物思いに耽る背中があった。俺の存在に気付いているにも拘らず無反応なジェイソンの真後ろに歩み寄る。覇気を感じない後ろ姿に少しでも取り戻してあげようとどこぞの炭酸飲料のコマーシャル映像みたく頬に缶を押し付けると「あっつ」と望み通りの手応えが返ってきた。思わずしたり顔をつくった俺をジェイソンはあられもない不満をひん曲げた口元に表した。

 

「元気でただろ?」

「お前の体感温度と一緒にするな。こっちは常人だぞ。」

「常人ではないでしょ。」 

 

ジェイソンの能力はEkSプロジェクトと比較するならば最下位の文系能力者よりも遥かに優れているだろう。CIAに詰め込まれた膨大な知識量、それを有効に駆使できる活用力、思考力、判断力…総合的な性能を鑑みれば、上位EkS開花者が常時更新のポルシェ911最新型ならジェイソンは現行型のラインナップを自由選択できるディーラーみたいなもの。要するに臨機応変な対応力と踏んできた場数が逸脱しているのだ。 

 

ベッドに横たわるマリアンヌは昏々と眠っている。枕元の机には早くも彼女の私物が乱雑に丸められて置かれていた。混雑しているから看護師が急いでいたのかもしれない。 

手術を受け傷を塞ぎ強力な鎮痛剤を打たれて幾分か健全な顔色を取り戻して寝息を立てる様は、前の世界ですら熟睡できたためしがない俺としては羨ましく感じられた。 

 

「よく、寝てるな。」

「ああ。」 

 

世界のエンタメ首都ロサンゼルスから犯沢さんだらけの情勢不安の東都へと移住して一年未満、何もかもが真新しく新天地での生活は様々な苦労があっただろう。それでもたった一人の身内の為に辛酸を舐めながら耐え忍んできた…その結果が俄然行方知れずの弟と人質騒動からの殺傷事件とは報われないものだ。以前の俺が彼女の立場ならきっと、全てを投げ捨てて何処かへと旅立っていたかもしれない。

 

「一先ずストーカーの話が真実なのは粗粗確定だから俺たちで守らないと。」

「そうだな。」

「これは勘に過ぎないけど、弟が鍵を握ってるはずだ。俺が上手く誤魔化しといたから警察はこれ以上首を突っ込んではこないだろうけど、身内の洗い直しから始めるべきだと思う。」

「ああ、俺もそう思っていた。」 

 

意外にも素っ気ない返事だった。蓋を開けた缶に口も付けずに思考に耽るジェイソンは本本では何を考えているのだろうか。

決して忘れられない故人との取り返しのつかない懐旧の情?今日俺たちの身に降りかかった目紛しい三悶着?マリーとマリアンヌ、銀行強盗、殺人未遂、それとも…。 

ある思い付きに至った俺はジェイソンの携帯を借りて電話を掛けた。数コールもしないうちにイシードルは応答してくれた。 

 

『Аллёもしもし .』

「イシードル、俺。」

『詐欺はお断りしてまーす。』

「待って切んな!」 

 

移住歴三年だというのに細かな芸に精通するくらいにはイシードルは日本色に染まっていた。通話越しに流れる背景音が瀟洒なジャズで興味半分で尋ねてみるとニッキーと近場のバーへアラカルトを食べに行っているらしい。丁度食事を終えたばかりで今からセーフハウスの方に帰宅するところだったと。 

 

『ていうかお前この番号どうしたんだよ。』 

 

案の定彼はジェイソンの携帯から架電したことに疑問符を浮かべた。早速事情を話すと解せたとばかりに喉を小さく鳴らしたのが分った。そして彼宛に俺の番号から無言電話が掛かってきた事を教えてくれる。 

 

「多分拾ってくれた人だ。あのぶっきらぼうの店主かもしれない、今度取りに行くから放置しといて。」

「りょーかい。」 

 

携帯紛失云々はさておき、本題に転じた。俺は今日一日の出来事を具に説明した。強盗に関しては後程じっくり伝えるとして簡潔に、主にマリアンヌを襲った災難についてをパブでの詳細を中心に。 

店内に監視カメラはなく目撃者もいなかったけれど必ずどこかに漏穴はある筈だ。人間である限り証拠が皆無だなんてことは絶対的に有り得ない。それこそ犯人が透明人間でもない限りは。だから俺は犯罪現場に残された半透明な証を何としてでも掴み、その針穴に通るくらいか細い真実の糸を手繰り寄せなければならない。その為にはイシードルの助力が要る。 

 

「…商店街の全てのカメラを洗って欲しい。喫茶店も八百屋も店舗併用住宅も、手掛かりになりそうなものは一つ残さず。現場の指紋と後で持っていくステーキナイフも調べてくれ。」

『お安い御用。ピョートルも早く返って来いよ。ニッキーだって俺と二人で暇してるし。』

「ばっかだなぁ、誘えよ。」

『え?え?今なん』 

 

詰問される前に通話を切った。 

 

病室には病院特有の消毒液の臭いが強く立ち込めていた。清潔感のあるカーテンはとうに閉ざされ規定されたルクスに調整された照明が室内の明度を一定に保っている。確か基準は百ルクスだったか、なんて由無し事を胸中で呟きながら窓際に寄る。

 

僅かばかりカーテンの隙間を覗くと文目も分からない夜が拡がっていた。天気は日中と変わらず生憎で、もはや怪しげな夜空と同化してしまっている雲が墨汁を世界に流したかのよう。遮二無二轟き続けた雷だけが満足したのか氷の粒として眠っていた。鋭敏な聴覚は意識せずとも雨粒が地面を激しく叩き付けるのを建物を隔てて聞き取っている。殆不愉快な自然の騒めきと森閑とした屋内とでは大きく隔たりがあり、何だか調子外れになりかけた俺はしかるべき話題を探した。それはジェイソンにとっても同様だった。 

 

「D通告。」

「DSMA通知を知ってるか。」 

 

ある意味俺たちが思考を一致させたのは必然だったのかもしれない。というのも重なった言葉は元諜報員(俺たち)ならばもっと早期の段階で談義してもおかしくはない論題だった。 

 

D通告とDSMA通知は同義で日本語の正式名称は国防機密報道禁止令という。イギリスにおける報道規制を意味しており、歴史上でかの政令が発令された回数は数少ない。 

直近の事案ではおよそ十年前、愕くべきことにも闇に葬られたのは三百万ポンドあまりの損害を出した銀行強盗事件。日本円にして五億にものぼる強奪は大損害だが、英国政府を出版、報道規制に踏み入れるに値する国難ではない。実のところ、政府が捨て鉢になる威勢で隠蔽工作を図ったのは強盗が盗んだ国防に関する極秘事項だったのだ。 

 

「連中の実際の狙いは金なんかじゃなかった。」

「うん。彼等が奪ったのは保安部や秘密情報部の諜報員リストや防諜作戦、有力な国会議員の不祥事の証拠に女王のスキャンダル写真だった。」 

 

他にも国家の安寧を著しく脅かす最高機密が悉く正体不詳の一団に持ち去られ、政府が最も危惧していた事態が起きた。 

 

「初めに諜報員名簿がアメリカやロシアのダークウェブで流出したんだったな。」

「初手からクライマックスみたいなもんだよ。」 

 

だからこそ件の惨事は戒厳令にも等しい国家史上最悪の情報漏洩とまことしやかに振り返られている。まあ国が口篭ろうとも似たり寄ったりの防衛絡みの兇変は世界各国で発生している。なんせ現代は情報戦社会なのだから。戦場の定義が次第に変容しつつあることに心付いている一般人はおっつかっつに違いない。 

兎も角、数ある事件の中で俺達二人がD通告を話頭に挙げた理由、それは一つだった。 

 

「あの事件の裏では数え切れないほどの人間が陰謀に関与していた…そうだろ?」 

 

深海を写し出した水晶の如き眸が深い確証を漲らせている。片足を突っ込んでいたのは自分だけじゃない、そういった含意を犇と受け取って俺は深く深く頷いた。

 

 

 

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