時刻は落ち着き始めた夜更けの八時、陽の名残はとうに東都湾の彼方に沈み去っていた。病院を出て一足遅れて食事処に着いた時には皆は食卓を囲んでいた。米花町内の事業用賃貸物件の地下一階に構える大衆居酒屋だ。
安くて美味しいが評判の昔ながらの酒場で、顔馴染みの常連客も多い。テーブル席とカウンターの立ち飲み席があり、大分以前に航さんが職場の上司に連れて行って貰ったのが始まりだそう。店に入るや否や大声で手招きをしてくれる研二さんに手を挙げてテーブル席へと向かう。カウンターは既に埋まっている。山猪を大層美味しそうに呑むサラリーマンが一つ前の元号に茶の間に流れていそうな誰かの歌謡曲を口遊んでいると気心の知れた熟年のおしどり夫婦が唄いだす。快活な空気はあっという間に伝播し、即興合唱会には陣平さんまでもが加わっていた。
「誰の歌?」
「「藤山一郎だよ。「夢淡き東都」、知らねぇのか?」
「これでもロシア人なんで。」
「そういやそうだったな。言動が日本人っぽくてうっかり忘れてた。」
さもありなん。焔個人の生まれと育ちは日本なのだから陣平さんが振る舞いに親しみを感じるのは当然だ。謂うならば日本人が日本人を前に日本人っぽいですねと言っているようなものである。とはいえ、ピョートルと一つの肉体を分かち合う今の俺の挙動は遠い北国の祖国を懐古させるものがあるのも自覚している。
他の客が旨そうに頬張っていた表面をカリッカリに焼き上げたたこ焼きが食べたくなって奥さんに注文してから席に着く。そこで初めて研二さんの隣で無精髭の男が物凄い速さで焼飯を掻き込んでいるのに気づいた。
「急ぎ?景光さん。」
名を呼ばれた景光さんは野球選手の素振り級の勢いで顔をあげて俺を見た。明るい茶色のカラーコンタクトの入った双眸が物言いたげな非難を訴えてくるので「…じゃなかった、唯さん。」即座に言い直すと彼は満足げに首を縦に振って食事に戻った。どうやら談笑してる暇もない程に急いているらしい。
彼は上層部の根回しで俺の監視役として未解決事件を捜査する捜査一課継続強行犯係の身分を手に入れた。あくまで表向きに過ぎず幽霊部員の日常を送る景光さんが挨拶を略すくらいに大急ぎということは、本来の所属機である公安部が猫の手代わりに駆り出されたということ。即ち、警察庁警備局が実働隊をせっつくほどの由々しき事態が起こっている。心当たりはあった。
「若しかしてABAB-767機の事件?」
「ごふっ!」
わかり易く咳き込んでくれたお陰で図星だと確信できた。米粒が気管に入ったのか激しく胸元を叩く景光さんに水を差し出せば「ありがど、」なんて濁声が返ってくる。研二さんを挟んでいるとはいえこんなにも騒々しい席で熟眠できる高木さんの神経が羨ましい限りだ。
「こほっ…どうして分かったんだ?」
「テレビに安室さん出てた。」
またもや噎せた景光の背中を身を乗り出して叩いてやった。直ぐに中継画面が切り替わったと伝えると誤解を生む発言をするなと航さんに叱られた。
「で、どうなの?あれテロなんでしょ。」
「現段階では何とも言えないけど上はソッチ路線の捜査だって口煩いよ。」
「てことは一目瞭然な元凶が見当たらないんだね。」
「そうでもない。俺たちが探してるのはナニじゃなくダレだ。」
「…そういうこと。」
景光さんは忙しなく首を回すと深夜に弁当箱を開ける子供みたいに餃子を放り込んだ。そして耳を済まさなければ聞き取れないほどの小声で語りはじめる。
曰く、主に爆発テロ等の調査を担うNBCテロ対応専門部隊の見立てでは後方脱出口が何らかの原因で開き、ダウンバースト…雷雨に伴い積乱雲下部から吹き降りる破壊的な下降噴流に遭遇、ウィンドシアーという風速風向の急変に巻き込まれて墜落したという。昨年にも一度貨物機が類似した墜落事故を起こしたので直接的な要因としては最も有力視されている。ただ奇妙な点も幾つかある。
「着陸予定のB-767機がゴーアラウンドで上昇、離陸予定のSA-295C機がタイヤブレーキと逆噴射とスポイラーを全力ブレーキをしなかったら滑走路上で正面衝突するところだった。」
「んん?けど二機とも結局は…」
「ああ、残念ながらな。」
一風変わった言い回しをした景光さんに研二さんが首を傾げた。
たこ焼きが運ばれた。見返った頃には九十度に折り曲がった腰に腕を回して厨房へと戻っていくご主人に礼を告げて湯気立つ一個を大きく口に入れる。香ばしく焼き上げられた表面と特製出汁の効いた蕩けるような生地が相乗効果を成し風味豊かな味わいが味覚を満たした。上機嫌に二個目を放り込む俺に陣平さんが「見てるだけで火傷するわ」と冷めた眼差しを寄越してきた。
「問題は件のB滑走路で離陸許可を出した管制官が見当たらないことなんだ。それから三五〇〇フィートに上昇一八〇左旋回したあたりから操縦士との通信が途絶えたそうだ。乗客名簿と搭乗客の数も一致していない。」
「不足?」
「超過だ。正確な人数は把握中だ。」
聞けば聞くほどきな臭さが漂ってくる。住民の体感治安の悪化を阻止する為に常日頃凶悪犯罪と向き合う強行犯係の皆も捜査序盤の矛盾に異質を覚えているようだ。
それまでつまみを誰よりも多く進めることに熱中していた研二さんが腰をあげて関心を寄せる。けれどいきなり腕時計を見下ろした景光さんは椅子を蹴飛ばさんばかりに立ち上った。最後に水を流し込んで、
「やばっ、五分前だ!班長ご馳走様!」
「は?おいっ、ひ…唯!」
追われるように暖簾を潜って出て行った景光さんを航さんは呆然と立ち尽くしたまま送り出した。
「せめて傘はさしてけよ…」なんて呟きが耳朶に触れるものだから、矢っ張りこの人とイシードルって生き別れの兄弟みたいに嬶気質だと苦笑してしまった。
それから小鉢が次々と運ばれてきて家庭的な店の雰囲気に食欲を促進された俺達は黙々と箸を進めた。研二さん家の近所の野良犬の話や交番勤務の際の高木さんの受難——まだ彼は非番時には交番勤務を手伝っている——を航さんが代辯したりして世間話に興じて…。いつしか話頭は陣平さんら一係も補充要員として協力している銀行強盗事件へと移り変わっていった。
「梅雨は強盗シーズンか何かか?先々週は賢橋のコンビニで窃盗を現行犯逮捕、先週も大渡間で小学生のランドセルをいい年こいた爺さんが引ったくり…んで今週は銀行強盗。散々だ。」
「しかも今回のタタキって老夫婦、亡くなっちゃったんでしょ?なんか世も末って感じ。」
「…老夫婦が亡くなった?二人揃って?」
心寒そうに唇を尖らせて零す研二さんの言葉に引っ掛かりを覚えた。思わず訊き返した俺に陣平さんが受付前にいた老夫婦はペースメーカーを植え込んでいたことを教えてくれる。死因はショック死だと見込んでいるらしい。
「そういやお前がホシを締め上げたと聞いたぞ、お手柄だな。」
「大したことじゃないよ。」
「だが一つ聞きたい…お前、殺されたホシについて俺たちに言うことはないか。」
心臓を叩かれた心地だった。一瞬、箸先が微動したのを抑えられたか心配になった。実戦の時みたいに早鐘を打つ胸を静かな深呼吸で抑えていく。
サングラスの下で鋭い活眼がこちらを射抜いていた。俺は動揺をおくびにも出さずに否定する。
「ないよ。どうやって死んだの?」
「ナイフで一撃だ。検視官は投擲だって言ってる。」
「なら仲間割れじゃないかな。変な奴らだったし。」
机の上の皿を見詰めて景光さんの残した餃子を挟めば、そうかと生煮えな返事が返ってくる。
…焔。
目がかち合った。星を失くした夜空のように含蓄のある双眼が俺を貫く。
——信じてるぞ。
その言葉は見透かされた心奥に真っ直ぐに直撃した。途端、胸のどこかが悔恨の炎にじりじりと焦がされた。自分で吐いた嘘なのに、自分の心が踏み躙られるような感覚だった。
俺はとんだ思い違いをしていたんだ。航さんがマリアンヌを俺に任せてくれたのは合法的な手段で綺麗に収拾をつけると信じて疑っていないから。たったの三年足らずの関係でありながら航さんも陣平さんも皆、洗い流せないほどに釁られた過去を俺が乗り越えて好天の下で仕切り直せると、法や規範を超えた人倫を則ると、男伊達な刑事達は信じているのだ。心底信頼しているのだ。
対して俺は気概に富んだ彼等をあっけらかんと騙した挙句それでも嘘を貫こうとしている。ピョートルの身体を借りておきながら、俺が前の世界から完全に消えた日の更なる輝かしい未来を見せてやるという誓いを自分勝手な都合で反故にしようとしている…。
刹那的にまろびでそうになった本音は陣平さんが電話で席を立ったことで沈黙を貫くこととなった。その代わりに溢れたのは銀行で事件に遭った時からずっと内に潜めていた所存だった。
「あのさ、捕まった一人と話してみたいんだけど難しいかな。」
「なんでだ?」
つい言い淀むと炯々とした眼付きが多方面から突き刺さった。最初に反問した陣平さんは俺を柳眉を逆立てつつも通話に応答すると、締切の近づいている書類を提出しにいくような足取りで席を離れた。
質問者がいなくなったことで研二さんが同じ質問を繰り返す。こういう慧敏で嗅覚が鋭いところだけは苦手だった。
顔前で両手を組み合わせ傾聴する姿勢にはぐらかしが効かないことを暗に告げられると俺は観念した。
「強盗の手口にちょっと違和感があって。」
「ふーん、違和感ね。」
「ちゃんと話すからそんな顔しないでよ。…D通告って知ってる?」
三人は頭を左右に振って否定する。俺はD通告についての説明から始めた。当時の警察捜査やメディアの報道規制等の仔細は省いて、枢要なのは窃盗手口について…病室でのジェイソンとの会話を振り返りながら。
当時、報道規制発令後に迅速に事件を収束へと導いた者達がいる。何故知っているかって?それは当然、俺もその暗躍した工作員の一人だったからだ。
『あれは確か三月末だったか。イランでスパイ工作の真っ只中だった俺に急遽イギリスへの渡航要請が下された。』
俺とジェイソンは真相の認識合わせをした。
実際のところ、霧のような手口で銀行を襲撃し密かに国有財産を強奪して逃げ果せた強盗の正体は全員がMI6の諜報員だったのだ。それも
『CIAが後始末援助の嘴を入れた時には米英の一部の政界人はとっくに詳細を知悉していた。一歩誤れば機密漏洩が国民にまで認知されるのっぴきならない状況で俺はDチームのリーダーだった男を事故死に見せかけて殺した。CIAとの秘密取引で黒幕はまんまと責任転嫁した結果だったがな。』
『知ってる。俺はD通告を無視した好奇心旺盛な週刊誌が英国政府に蔓延する腐敗を暴露するのを阻止する為に何軒もの火事を起こした。』
特殊作戦執行部…SIS、延いてはMI6が率いる研究所や裏取引する反政府勢力のフロント会社等、安全保障とは名ばかりの工作活動の隠蔽に東奔西走した記憶は自分の経験のように鮮明に思い出せる。公衆に奉仕せんと率先して汚れ仕事を引き受ける防諜員と私利私欲の為に彼等に鞭を振るう雇い主。同じ枠組みで手を繋いでおきながら本質的には氷炭相容れぬ仲、奴らにとって俺達はどこまでいっても使い捨ての消耗品でしかなかった。
「——被害がないというのは妙だけど、強盗が犯行に及んだ時間は僅か六分。直前まで俺と話していた銀行員は背後から顳顬を一刺しで浅側頭動脈をやられていた。過酷な訓練で殺人術を徹底的に叩き込まれた軍人の手際だ。」
Dチームについては抽象的に政権絡みの暴力組織が惹起した事件だと誤魔化して伝えた。鍵となる箇所はD通告の真実ではなく今回の事件との類似性にあるから。何においても着目すべきは俺とジェイソンに追い詰められた奴等の行動。マリアンヌを人質にとった男はあろうことか服毒自殺を図った。
「だから前歯と指を折ったのか。」
「別に過剰防衛じゃないよ。」
いつの間にか電話を終えた陣平さんが何処かの服屋のショーウィンドウに飾られているスラリとしたマネキンみたいに突っ立っていた。
俺は深く頷く。男は身元が露呈しないように躊躇なく命を捨てる選択をした。魂消た忠誠心だ。けれどそれは諜報や破壊活動を日毎夜毎繰り返していたピョートルにも通ずるものだった。彼等はまるで…
「まるで俺みたいだ。名誉とか不名誉とかは関係ない。しくじったら国のお荷物にならないように潔く自分に始末をつける。採用審査を通った人間なら誰にとっても身嗜みを整えるくらいに簡単なことなんだ。」
だからこそ俺はあの男と話してみたかった。彼は何を想い特殊部隊員であることを投げ捨ててMI6に異動したのか。本当は命を捧げているのは護国という眩い概念ではなく嫌悪すべき裏金に塗れた悪代官じゃないのか。
「勾留、呉々も気をつけて。彼はきっと自殺未遂を繰り返す。」
いや、それ以前に日本の警察も間抜けじゃない。俺とジェイソンと同じように直近のD通告を引き起こした銀行事件を想起した理事が根廻しして遠からず男の身柄は警察庁へと移譲されるだろう。彼等がSISなら任務失敗を察知したイギリスが大人しく黙っているはずがない。
不図、頭に重みが乗った。
驚いて顔を上げると筆舌に尽くし難いくらい穏やかな面輪をした航さんが俺を見下ろしていた。研二さんも、陣平さんも。
もう靄がかってしまった実父の、いつか一緒に教会のミサに誘われたときに見交わした光芒が差し込みそうなほどに温容な表情…慈愛しか感じられない小っ恥ずかしいまでの眼差しが俺を見詰めてくると、どうしようもなく目頭が熱くなった。若しかすると心奥から溢れ出そうになる温かな衝動は俺じゃなく僕のものなのかもしれない。
込み上げてきたモノが愈々鼻までもを詰まらせそうになって、居た堪れなくなった俺は顔を逸らすことで堪えた。氷水の氷だけを噛み砕く。お陰で少しだけ熱は引いた。
「そういえば何の電話だったの。」
我ながら不器量なすり替えだったけど、意図的にか成り行きか陣平さんは乗ってくれた。未だに出来上がった顔で涎を垂らしながら寝ている高木さんを一瞥すると肩を竦めて。
「銀行から連絡があったみたいでな、あいつら今頃無記名債券が盗まれただなんて言いやがってる。今から行かなきゃなんねえ。」
ったく勘弁してくれよ。
鬱屈をこれでもかと眉根に刻んで彼は愚痴を吐き捨てた。
頭が感電した。降り掛かってきた閃きの稲妻にシナプスが急速に活性化していた。
被害総額を問うてみると五億だと返ってくる。あの短時間で奪われたのか、将又前もって盗んでいたのか。犯人は同一人物か、肯ならば二度目の襲撃理由は。先ずはこの間違いを探す方が難しい案件の共通点を一つ一つ紐解いていくべきだ。
「警察庁に引き継がれたら真っ先にこう伝えてほしい。IABC日本本社の金庫…紙幣を調べるようにって。…いや、俺が直接言った方が早いか。」
「待って待って、何の話?ちゃんと分かるように説明して。」
「それは」
どう説明すべきか、慎重に言葉を選ぼうとしたときだった。
一通の着信音がジーンズから流れてきた。次いで受話器から発せられる聞き慣れない呼出コール、それはジェイソンから一時的に借りていた予備の携帯だった。一言断ってから通話に出る。
俺が発声するよりも早く、イシードルが捲し立てた。
『今すぐ戻ってこい!』
続いて仕事や緊急時にしか交わさないロシア語が俺が聞き取れないほどの速射砲みたく言い連ねられる。全身が電撃を喰らったように緊迫感に掻き立てられた。異変を感じた研二さん達が横から尋ねてくるのを無視して携帯を握り込む。脚は今にも椅子を蹴飛ばしそうだ。
「…何があった。」
じわりじわりと広がる不安を如何にか抑えて問いかける。
『襲撃だっ!』
焦りを滲ませた声が状況を報告すると同時に背後で弾けた重々しい銃声に、俺は聞き届けるよりも先に駆け出していた。