到着するや否やバイクを途中で放り捨てて、肺が張り裂けそうなくらいに走った。鈍間なエレベーターは論外、共用階段は吹き抜けじゃないからいつかの高層ビルみたいに飛び上がることなんてできない。キュッと靴底を摩擦で耳障りな音を鳴らさせて方向転換した。階段もエレベーターも煩わしいならパルクールで登るしかない。目撃者の懸念なんて頭からすっぽ抜けていた。
そうして目紛しく過ぎ去る景色を上へ上へと追い越し続けた先に、内廊下を塞ぐ障害物を見た。余所者の侵入を妨げる役割を担う扉がまるで警察の突撃部隊にガヤを入れられたみたいにひしゃげ倒れている。途端、詰めの一息とばかりに酸素を取り込んで、吐き出した息で花火でも消す勢いで地面を一層強く蹴り上げた。
「イシードルッ、ニッキー!」
飛び込む形で戻ってきたセーフハウスは俺が想定していた最悪に陥ってはいなかったものの、散々な有様だった。
玄関と直結するリビング、一週間前にイシードルがオークションで競り落とした油絵を飾る為に改造したコンクリート内壁は夥しい弾痕で表面が砕片してしまっている。其処以外の石材の内壁も至る所に銃弾を許した痕跡が残っている。家具やオブジェなんてより甚だしい惨状だ。比較的破損の少ない折り上げ天井でも一部の瓦礫が崩れ落ち、如何いう原理かナイフの柄が深々とぶら下がっている状態だ。
極め付けは空気と硫化カリウムが化学反応を起こしたイオウ化合物の臭い。この悪臭だけでも俺が居ない間に此処で引き起こされた殺傷沙汰の度合いがありありと推察できた。そして相棒こだわりの無垢材のヘリンボーン床には…
「ピョートル、帰ってきたか。」
「ジェイソン」
「お前の後にエリセイが俺にも連絡を寄越してくれたんだ。病院からの方が近かったようだな。」
——この部屋、前々から思ってたが生活動線の間取りが少し自由すぎる。日常には向いてるが俺達みたいなお尋ね者のセーフハウスには適してないな。
内装が破壊された所為で更に開放的になった室内をジェイソンはぐるりと見渡していた。彼が跨いでいるのは意思失くして床を占領する侵入者の一人だった。
ジェイソンがリビングの向こうに声を掛けると、セミオープンのリビングの壁面からちらりと一人が顔を覗かせた。
「ニッキー、無事だった?」
金髪をほんの少し乱れさせている程度で擦り傷一つないニッキーは首をかくんと縦に振った。
「シードルが直ぐに庇ってくれたの…それで」
藪から棒に言い淀んでしまうニッキーに胸騒ぎがして大股に中へと進む。高反発ウレタンが枕投げでもしたかのように無惨に飛び散るコーナーソファの背もたれにイシードルは身を預けていた。
俺を見留めると彼は血塗れになった左手をふらりと挙げて笑いかけてくる。浅く凹んだ笑窪は見たこともないほどに弱々しく、普段の活気はどこにもない。俺は一目散に駆け寄った。
「イシードルっ」
「はは、ごめんちょっとドジった。」
「私を庇って撃たれたの…」
何でも襲撃の中盤、ジェイソンが駆けつける直前にキッチンカウンターの影に隠れるニッキーを発見した男が襲いかかってきたらしい。ナイフによる攻撃を防いでいる小隙を狙って、その場において主戦力だったイシードルを叩き伏せようと集中砲火を喰らう羽目になったのだ。負傷した彼の応急処置に必死になったのだろう、怪我のないニッキーの白い両手は乾いた血で赤く染まっていた。
「CIAか?」
「絶対違う。プロと素人が混じってた。三対七くらい。」
死体はリビングに留まっており、誰も彼もが見事なまでに急所を狙い撃ちされている。腰上から上までの眉間の何れかを抵抗させる間もなく一発で仕留めている…教育を受けた諜報員の成せる技だ。
心臓に氷を這わせられたような心胆寒からしめる心地だった。ジェイソンが間に合っていなければ今頃俺は相棒の亡骸を拝んでいたかもしれない。不甲斐なさに臍を噬んでジェイソンに頭を下げれば意外な返答が返ってきた。
「いや、コイツらを絞めたのは俺じゃない。」
「え?」
「着いた時には殆どが殺られていた。俺が始末をつけたのは三人だけだ。」
俺は死体を数え上げる。自身らが壊したリビングの内装を無気力に映し出す眼は全部で二十。内六つ分はジェイソンの成果。要するに大した活劇を繰り広げたのは負傷者のイシードルなわけで…。襲撃者の数を訊いてみれば十三人と返ってきた。
「………。」
血の気を引かせて勝利のハンドサインを作るイシードルに俺は名状し難い感覚を覚えた。なんというか、温厚な羊だと思っていた人物がひょんな起爆剤をきっかけに獰猛な北極狼の本性を剥き出しにする様に遭遇してしまったような、そんな境地だ。胃の底に鬱積した一欠片の石が消化できずにその実態を明らめようとして、突として耳朶に届いた跫に思考を雲散させた。
ソファでイシードルを囲む俺達とは異なる、聞き馴染みのないそれに逸早く予定外の来客を察知した俺とジェイソンが警戒を神経に迸らせる。刻々と足音は近づいてくる。侵略にしては徐な足取りを訝しみつつも腰元に手を伸ばす。
…黒黒とした靴先が見えた。
「待ったぁ!」
「っ」
最速で臨戦態勢を取る俺達を制したイシードルに踏み込む寸前だった俺はよろめいた。出鼻を挫かれて非難混じりの目付きを後ろに送ろうとして、「すみませーん。」と気の抜けた挨拶が前方から掛けられる。
宅配便を届けに来た配達員みたいな、けれども土足で踏み入るという全くの無配慮で小太りのおじさんがリビングの入り口に立っている。彼の背後には清掃員の格好をした男達が三人、後からもう一人ダレスバッグを提げた中年の男が入ってきた。
「あのぉ、お電話を受けて参りましたー。岡本サービスですぅ。」
「医者です。」
口調だけが控えめ、片や無愛想という同じ中年外見でも笑えるくらいに対照的な挙動の二人だ。困惑を見合わせるジェイソンと俺にイシードルが「襲撃中に呼んでおいたんだ。」と説明してくれた。
既にこちらへと歩み進んでいた医者はソファに敷いたシートの上に寝そべるように指示されて、ニッキーに支えられながら仰向けになった。
岡本サービスこと産業廃棄物業者…死体回収及び
俺は作業員の一人が死体袋に入れてしまうのを止めて、他とは一風変わった襲撃者の靴裏の溝に入り込んでいる泥を一摘みビニール袋に入れる。どうにも違和感が胸にぶら下がってすっきりしないのだ。
曰く、イシードルとジェイソンが殺した十人は内一人を残しては武器に依存している雑魚だったという。ニッキーですら一見で悟れるほどの。対してジェイソンの到着から程なくして遁走した三人と逃さず仕留められた一人は論を待たず軍隊上がりの手慣れだったそうだ。
「ニッキーとジェイソンじゃないなら敵の目的は何なんだ?」
「さあな、何かを探してるみたいだった。何かか、誰かかは分からないけど…いっ!」
「動かない。」
身動いだイシードルをすかさず医者が窘めた。
イシードルの分析では初めに扉を吹っ飛ばして突撃を仕掛けた人物は当該の軍人、急襲を予期させないドアブリーチングに用いられたのは扉破砕用爆薬と呼ばれる指向性プラスチック爆薬とのこと。これについてはニッキーも大方見解を一致させていた。出入口を壊してから脇に逸れ、素人に無謀な突入をさせたのが熟達の四人だと。
半端な半グレにC-4と謂われる破壊力抜群の軍事爆薬を扱わせなかったにもかかわらず事前訓練なしの特攻を委任するような輩はエリート思想の強いCIAにはいない。奴らなら自らの実力を過大評価して大きな顔で初っ端から銃をぶっ放してくるだろう。レディーファーストならぬ素人ファーストをするような姑息な真似はFSBでもしない。なら一体どんな連中であればこのような大胆なのか卑怯なのか微妙な行為をしでかすのか。
この時点で俺の脳裏に固められていた推断の図式はある端子へと繋がっていた。
「イシードル、お願いが…」
ついいつもの流れでビニール袋を掲げて、呼び掛けた相手が固く瞼を閉ざしている姿に喉を鳴らす。思わず駆け寄ろうとして、彼の頭付近に立てられた点滴スタンドに胸を撫で下ろした。イシードルは麻酔で深く眠っているだけだった。
いつの間にかやって来た看護師らしき女性に手助けされながら、医者の男がちらとこちらを見遣った。土塊の入った袋を手に立ち竦む俺をさも不潔なものでも見るかのような眼差しで見て、一言「治療中です。」と言い放つと看護師に間仕切りを固定させた。
代わりにニッキーが眉尻を下げて寄ってくる。
「それ、調べたいなら私がするけど。」
「…良いの?」
「こんなにして貰って、二回も命まで救ってもらって何もしないなんて薄情な人間じゃないわ。この二週間シードルの仕事も手伝ってたし、運良く作業部屋の機器は壊されてないから大抵のことはできる。」
事実、二人が日本にいる間ニッキーを東都どころか関西にまで連れ回していたのはイシードルだった。現に二人は互いに渾名で呼び合うくらいに親しくなっている。余談だがその間ジェイソンは俺と東都の暗部で交流の輪を広げていた。断じて進んで悪事に手を染めていたわけではなく、不慮の災難で再び来日した際に協力者に恵んでもらう為の事前対策だ。 我が家の科捜研ことイシードルを頼りにできない今、元CIA技術班の彼女が協力してくれるのは願ってもないことだと頷けばニッキーは快く引き受けてくれた。
爾後、掃除屋の片付けは滞りなく進み一時間半後には血飛沫も硝煙も熾烈な戦闘の残滓もない新築内装が…とはいかず、剥がれた壁と天井だけは依然として爪痕を残した清掃後の事故物件が在った。部下に指図するだけでなく自身もニトリル手袋を被って黙々と作業を進めた山田さんは——岡本サービスという名前は友人の倒産会社を貰い受けた経緯があった——掻いてもない汗を拭いながら帰っていった。平身低頭なのか面従腹背なのか判別できない人だと、ジェイソンも首を捻らせていた。
一方、その二時間後には医者も一段落ついたようでパーテーションの向こうから仏頂面を覗かせてはくれなかったものの、手術用手袋に執刀の跡をへばり付かせた看護師が一山超えたとだけ告げた。上司に似て悲しいほどに機械的な言い回しだった。何でも膝窩動脈と腹部大動脈を掠めた弾丸が曲者だったらしく、イシードルが予め彼等を呼び出していなければ危ないところだったようだ。
「ところでさ、マリアンヌの元に戻らなくて良いの?」
瓦礫や窓硝子の破片どころか埃一つなくなった部屋の一室一室の検分を一緒にしてくれるジェイソンに訊いてみれば、彼は驚くことにマリアンヌが目を覚ましたと云う。
「俺も驚いたよ。丁度エリセイから連絡が来て看護師に席を外すと伝えに行ったたった二分以内に立ち上がって廊下を歩いてたんだからな。」
「タフだな。」
「全くだ。」
云いつつもそわそわと気もそぞろな様子でジェイソンは改めたばかりの戸棚をまた覗いている。明日俺も顔を見に行くからと促せば、いつ襲撃者が帰ってくるやもしれないとかぶりを振る。俺は仕方なしに強めの口調で彼の背中を押した。
「マリアンヌだって正体不明の何者かに狙われてるんだ。変な気遣いは良いから早く行けよ。」
「それはそうだが…」
「ほら、早く早く。」
ぐずる子供を急かすように手払いをすれば漸くすまないと一言零してジェイソンは出て行った。
セーフハウスはリビングに始まりベッドや押し入れの中までひっくり返され荒らされていたものの貴重品を奪われた痕跡はなかった。簡単な片付けを終えた頃には時計の短針は真夜中を指していて、随分と入念に点検をしたものだと一度リビングへと戻る。
ソファではとうに手術を終え帰宅の身支度を整えている医者と看護師がいた。俺が歩み寄ると下沢と今更ながら自己紹介してくれた男は明日も診に来るとだけ言い残して帰ってしまった。日本では五本の指に入るほど有名な闇医者らしく、ニッキーがひっそりと彼は代金不要の代わりに興味のある人間しか依頼を受けないと耳打ちしてくれた。
「そういえば夕食の席でシードルが言ってたの。」
ダイニングでデカフェの紅茶を入れて一息ついていると、ニッキーが何とはなしに呟いた。何でも俺が今日の昼間に自転車便で送った強盗の靴裏に付着していた土の解析が済んだのだという。本来ならば数日掛かる検査を事もなげに僅か数時間で成し遂げてしまうイシードルの腕前は勿論のこと、個人的な頼みを赤裸々に打ち明けるほど二人が打ち解けていたことに俺は一驚を喫した。
「それで、どうだった?」
もう作業に取り掛かってくれているニッキーはイシードルがオンラインで彼女に買った白衣を翻してシャーレに容れられた土を持ってきた。
「この土の中には銀行が建つ土壌にはない成分が含まれてたわ。金属粉なんだけど、シードルの見立てでは彼処から一キロ先の工場で…」
収納棚から地図を取り出してニッキーは線を引き始める。そうして教えられた調査結果は、今日一日の摩訶不思議で不穏な事象の断片を補うには十分すぎる情報だった。
…つと、メールの着信音が鳴った。