東都拘置所。スカイツリーライン鳥矢町駅から徒歩七分の位置に佇まう八万平方メートルの延床面積を有する日本最大規模の刑事収容施設。中央管理棟から東西南北へと収容棟がX字型に伸長しており屋上には雑居房兼独居房収容者用の運動場が設置されている。犯罪者の巣窟東都で犯罪を犯した、ないしは関係した者達がその量刑に拘らず勾留される場所として、当区域とは完全に一線を画す魔境として周辺住民からは蛇蝎の如く忌避されている施設である。
死刑囚数十人、未決拘禁者約が四千人以上が寝食を共にする建築物は一般人が拘置所という仰々しい文字の羅列に想像を巡らせるような監獄の外観とはかけ離れており、鉄格子の代わりに強化硝子を嵌められた窓は内外観の圧迫感を軽減する仕様となっている。これは航空機に導入されているハウスインハウスと呼ばれる二重構造と同等の仕組みで外部からは勿論、収容者が窓外を覗いて他者と意思疎通を図ることを防止する為でもある。
…処遇施設における被収容者の逃走防止等の予防策はさておき、国内屈指の収容数を誇るだけあり常日頃より実に多くの面会者が訪う拘置所は今日も相応の出入りが見られた——。
東都拘置所、略して東拘の面会所出入口には複数人の来訪者と同様に面会手続きを行う一人の年若い男の姿があった。
紺で統一された無難なスーツにダレスバッグを提げて如何にも弁護士の装いで、面会受付時間の午前八時三十分丁度に足を運ぶ几帳面な具合は時間厳守の職業上何ら稀有な特質ではない。手続きを終えて金属探知機による身体検査を通過すると、彼は職員に連れられて面会室へと案内された。エレベーターホールから二階に登って西側B棟にある一室だ。内装はドラマや映画で観かけるような殺風景な白一色の、机とアクリル板で仕切られた隔離対面式。その無機質さ故にフィクションでありがちなロマンティックめいた印象は隅に掃き残された塵ほどもない。
弁護士の風貌の男が面会室で待機してから十分が経過した。一人の刑務官に付き添われて未決拘禁者が現れた。
対面に腰を下ろして早々、一言、二言掛けて原則として立会義務のある刑務官を退出させた男に弁護士は片眉を苦り切ったように吊り上げる。さもありなん、彼と対面する男は入管法別表第一の在留資格を有する外国人として昨昼に銀行強盗に及び、結果として三名の命を奪った強盗団の一味にも拘らず現行犯逮捕で東拘に送られた後に刑事裁判の未判決により未決拘禁者として拘留されることになったのだ。外交特権を行使できる立場ではないものの、弁護士の面前で平然と煙草を蒸せる厚かましい姿態からは、断面を切り取った霜降りトマトの如き醜さが事件に見え隠れしているのは容易に看取できた。
通声穴の隙間からラム酒の風味が漂ってくる。濃度の高い煙が立ち込めると、直ぐに空調の口へと吸い込まれていった。獲物を見つけた幼児性愛者のような薄ら穢い嗤いを浮かべて紫煙を穴へと吹き付ける。弁護士はまるで金仏の虚無で表情筋を支えていた。
されども彼の黒眼の奥に秘匿された虹彩の紅蓮が無情から酷薄へと降格してゆくのを目敏く認めると男は益々冷笑を歪めた。
とん、トンとアクリル板を押す。
…片側が外れた。
隙間が拡大し仕切りがなくなった。男は煙草の箱を弁護士へと投げ渡した。
それが先の刑務官の仕業であると同時に拘置所にあるまじき道徳的退廃の悪臭が濃厚なタールとともに臭うてくると、否、漂っても尚弁護士は眉一つ動かさなかった。それが男にとっての弁護士の最終回答となるとは思わずに。もはや双方の肝に遵法の二文字はなかった。
「ロナルド・フレイザーさんですね。私は刑事弁護士の」
「茶番はよせよ。殺気が痛ェんだよさっきから。」
それでも形式的な挨拶を交わさんとした己を遮ったフレイザーに弁護士は愈々付け心地の悪い仮面を外した。自身に投げつけられた煙草の箱を掴むと卓上に滑らせ男へと返す。
「いつ気付いた?」
「弁護士なら昨日の夕べに来たよ、ったく今時英語が通じない原始人なんていたのかよ。そういやジャパンはまだ大英帝国未踏の地だったな。」
「イギリス人の皮肉はその程度か?フィッシュアンドチップスの食い過ぎで脳味噌まで出来揚がってんな。」
「そうキレるなよ、貶してんのはソ連じゃねェんだぞ。」
——ピョートル・ノリリスク
フレイザーの挑戦的な視線を受けて焔は嗤い返した。
「大英帝国の次はソ連か。なにお前、一九◯◯年代からトリップして来たわけ?」
「おうとも、伝説の諜報員サマに会う機会があれば一度は聞いてみようと思ってたんだ。…雪国でシャブるアカいイチモツは美味かったか?」
言い終えるよりも先に強い物音が面会室に響めいた。気付けば焔は身を乗り出して男の胸倉を捻り上げていた。元来涙脆く人道に則った質の彼をよく知る者ならば、鬼をも視線で射殺さんばかりの豹変ぶりに身を竦めていたに相違ない。不審な成り行きが音響として外に漏れ聞こえたにも拘らず刑務官が入室する気配はなかった。
激情を露わにする彼の一転具合いに偶さか己の発言を裏付けされたフレイザーは、図星かよと吐き捨てる。その一言に我に返った焔は握り拳を解放した。
「…遥々日本にやって来て銀行強盗とは、イギリス人も落魄れたな。」
襟を正して腰を据える焔に、フレイザーは返された箱から新たな一本を取り出した。
「はっ、本国には平和が腐るほど転がってんだよ。刺激がねェって言うもんだから仕方なしに付き合ってやったのさ。」
「嘘だな。」
男が先程の悶着の拍子に壊れたライターを摘み上げた。咥える煙草を餌を吸い込む鯉のような唇使いで顔を迫らせるフレイザーのあまりの太々しさに、焔は苛立ちを募らせつつも律儀に人差し指を差し出した。
ボウッと点火する。オイルもガスも媒体にしない不純物のない炎が先端に灯るとフレイザーは器用に口笛を吹いた。焔は彼が満喫したのを捉えて、じっと回答を待ち侘びる。燻る煙の中から雀斑の目立つアングロサクソン人の双の緑葉色が浮かび上がった。「ま、坊主にゃ誤魔化しは効かねェわな。」と溢した。
「俺がブラボーで他はエコーだ。デルタの後任だよ。」
簡潔な一言だったが焔の憶測を確たるものとするには十二分であった。
英国秘密情報部が抱えるイギリス特殊部隊支援群、SFSG出身の作戦部は全部で五つ。実情イギリス国内における総ての行政機関を不法な手段で利用でき、政治経済その他大衆煽動等国家運営の機密に纏わる遍く工作を任務としている。諜報活動は行政官と外務省の上層が直々に振り分けたalpha、bravo、charlie、delta、echoと区別されている。
前述したようにdeltaは十年前にIABCイギリス本社から五億円と国家最高機密を強奪した件の一団だ。当時、行政府の循環血液に等しい役割を担っていた不可欠要素の一端が秩序を脅かした挙句に招いた応報は、スパイを暗躍させて自国の経済政策を著しく損なったと主張するアメリカへの賠償金だった。実際の被害額以上の多額を、猶猶の世論の大時化を回避せんが為に渋々承諾した首相をはじめとした政府高官の恨事は察するに余り有る。総選挙が間近に差し迫る過渡期に生起した不祥事に与党、保守党共に支持率を低迷させ、自由党が大いに躍進した。
過去最悪の叛逆を犯したとされるdチームの責任者はジェイソンによって縊死の償いを遂げ、作戦部は解体寸前へと追い込まれたが、残存四チームが情報収集における目覚ましい成果を挙げたことで何時しか汚名は色褪せていた。そして近年、長らく活動を中止していたdチームはリーダー不在の状態でbチームの指導監督の下再始動することになったのだ。存続といえば聞こえは良いが、実際は権利の譲渡に過ぎなかった。
「世は保守だの民主だのと騒ぎ立ててるがンなもんは愚民の世迷言だ。この世界には清廉潔白でただ一つの政治イデオロギーなんかありゃしない。綯い交ぜになった利己主義を資本、社会、共産、民主っていかにも民意に沿ったように口回してるだけだ。」
焔によって砕かれたすきっ歯からニコチン混じりのせせら笑いが流れ出た。男の語りぐさは概世というよりも滑稽の色が強かった。馬鹿馬鹿しくてやってられないといった様態である。
「…昨日、俺の家が襲撃された。」
「そりゃ御愁傷様。生憎お前に折られた指が痛くって独房で泣いてたところだよ。」
めそめそと空涙を流すフレイザーに再び右手に力を込めようとして、弛めた。もはや切り捨てられた男の供述がなくとも昨晩の襲撃者が強盗を仕掛けた二チームの一員であることは命名白々であった。
「銀行で盗んだ無記名債券は何処にやった?あの六分足らずで如何やって」
「あ?」
己の尋問に素の疑問符が突き返されると、焔は押し黙るしかなくなった。
珍妙な沈黙が面会室を包み込む。たった一文字の不見識な主張に双方が意想外の肩透かしを食らっていた。
フレイザーが「Shit!そういうことかよ、クソ野郎めが」などと痛罵を吐き散らす。その怨嗟の行方を問おうとして、彼が発言するよりも先にロナルドはまたもや煙草を投げ渡した。
「ピョートル・ノリリスク、諜報機関の頂点に君臨する若造。」
「元な、それと若造は余計だ。」
さり気ない訂正をフレイザーは無視して言葉を続ける。
「だがな坊主、だからって世界の全てを知ってると思っちゃならねェ。陰謀の海に底なんざねェ、いつだって俺達の居場所はお綺麗な淡水としょっぱい海水とが入り混じった汽水域さ。真実は海よりも深く限りなく広く危ない。」
言い切って、フレイザーは白けたように椅子にもたれ掛かった。
一本吸ってみろよ。黒いパッケージには死を象徴する髑髏が警告文とともに印刷されている。Black Deathの字配りが皮肉な禍々しさを醸し出していた。
返品を拒否せんばかりの手付きで指の包帯を巻き直すフレイザーに、焔は無言で箱を鞄に仕舞うと立上る。挨拶も掛けずに背を向けて、去り際に再度振り返った青年の横顔は依頼人を見捨てた弁護士さながらの仮面が貼り付けられていた。