未曾有のセーフハウス襲撃事件から三日が経った。イシードルは一昨日の昼には目を覚まし溢れんばかりの陽気を真っ白な歯に煌めかせてくれた。とはいえ銃弾を三発も食らった身体は全快とは程遠く微かに身動いだだけで悶絶する調子に再訪した医者からは再三無理をさせないようにと言いつけられている。本人はリハビリに取り掛かりたいようだったが太腿と腹に負った深傷が想像以上にきつかったみたいで、試しに軽く打ってみるとあっさりと安静を受け入れた。
あれやこれやで闇医者の医院にて治療に専念することになったイシードルは一台のパソコンを抱き締めながら泣く泣く居候以来初めての留守をすることに。当初の相談通り彼が不在の間はニッキーが代理として全ての業務を務めてくれることになった。
昨日は朝一番に東拘へと赴きフレイザーと接見した。彼の話には所々疑念が残るもののセーフハウスの襲撃者がMI6の精鋭隊であることの裏取りはできたので上々の成果だ。
その後、一日を部屋の修復に費やし日付が変わってから漸く泥のように眠り、今朝になって病院に寄ってきた。
マリアンヌはジェイソンの報告通り好調の顔色で俺を出迎えてくれた。回復祝いに一輪の向日葵を贈れば梅雨明けの蒼天を喜色に溢れさせ…そんな彼女の傍でジェイソンが殺風景な眼差しを突き刺してくるものだから居た堪れずに即刻別れを告げてきた。医者の話では問題がなければ一週間で退院できるらしい。
梅雨上がりの東都は清々しい気に満ちていて、早くも風鈴の玉を転がすような音色が街の彼方此方で奏していた。初夏の到来を祝う玲瓏な合唱に共鳴してか、そこはかとなく道行く人々は気力横溢な足付きで各々のありふれた平日を過ごしているようだ。
行きしに通りがかったご近所さんが家の庭にたわわに実ったと云って梅を籠一杯にくれた。豊穣な水の恩恵を受けて輝くばかりの黄色に熟した梅だった。病院帰り、お返しの品に兵庫から期間限定で出店しに来た人気のバームクーヘンを買ったので渡すのが楽しみだ。梅をイシードルの元に半分ほど送ってやるのも良いかもしれない。
純ロシア料理の店でウラル山脈西部の州都ペルミ出身のお母さんが手掛ける伝統的な家庭料理を昼ご飯に堪能して、其処からバイクで五分程にあるレンタカーアニカへとやって来た。立て続けに起こった災難で放念していた依頼人ジェームズと二日越しの初顔合わせをする為だ。
簡潔に『アニカへ 三日後正午頃』と場所と時刻だけを指定する淡白なメールは今更のことである。初見依頼なので概要を教えて欲しいと何度も送ったものの一方的な指図ばかりで終ぞ返信が返ってくることはなかった。教えてもない予備の携帯電話宛てに連絡を寄越した不可思議もこの依頼人ならばと不明朗な納得をしてしまうものである。
一流のビジネスマンであればこそ礼節を弁えるものだというのに…向っ腹を立てつつもこの程度で機嫌を損なうからフレイザーのような輩に青臭い餓鬼扱いされるのだと、訳の分からぬ自省を巡らしながら店舗へと身を運んだのだが。
「申し訳ありませんがうちに待合室はありませーん。」
社章の入ったオープンカラーシャツの半袖と半分だけワックスを付けたような頭髪を扇風機に靡かせて受付の男は素っ気なく言い放った。季節の湿気がさも煩わしいとばかりに襟をパタパタと扇ぎながら目線をパソコンへと戻す店員に俺はデジャブを禁じ得ないでいた。
「…………。」
——確か三日前はドタキャンされたっけ
寧ろあの日は追い返されずに丁重に応接室に案内されただけでも次善の対応だったと思われる。
金融業はまだしも物品賃貸業に分類されるサービス業の営業所員が目線も合わせずキーボード一点を見下ろし、確認もせずに門前払いする冷遇っぷりは如何なものか。十点満点の接客態度の評価票があれば間違いなく一を付けて返っただろう。…一点は一応出勤に対する評価だ。
臍を曲げてその場に佇立んでいても男は一向にこちらを一瞥する様子もない。よく回る扇風機だけが十点満点の奮励を示していた。
耐えかねてカウンターに上半身を乗り出す。休日には自宅でカップヌードルを貪りながら人が変わったようにオンラインゲームに勤しんでいそうな店員は漸く動作を止めて俺を見た。
「ジェームズって人です。一回だけで良いので調べてくれませんか。」
「はあ。」
なんとも態とらしい溜息だ。止むを得ずの面相で一気に所作の速度を遅めて彼はマウスを動かした。
………。
「ありませ…」
落胆を与えかけた言葉が途中で止まった。店員はしきりにクリックを繰り返している。
不意に眉根を寄せて気疎さを滲ませるものだから問題でもあったのかと気になって覗き込もうとして、唐突に「代理ですか?」と尋ねられるとうっかり頷いてしまった。身を引いた俺に彼は後ろの棚からホチキスで留められた書類を持ってくる。内容はジェームズがレンタルした車の延滞と遅延損害金の請求だった。
驚いて男を見詰める。店員は恰も鴨を見つけたかのような接客員らしからぬ——ある意味では本来の受付に相応しい——満面の笑顔で請求書を突き付けてきた。そしてこう云った。
「一先ず延長料をお支払い下さい。」
*
「——ってことがあったんだ。」
『傍迷惑な依頼人だな。』
憤懣やるかたない胸中を消化しきれず店の真ん前で愚痴を言い募った俺に、ジェイソンは言葉だけ共感を示した。電話越しに笑いを堪えているのが犇と伝わってきた。
店員の気違いじみた目付きに財布を逃がさないと告げられて底しれぬ恐怖に思わずカードを取り出してしまったもののまんまと一杯食わされた気分だった。
「レンタカーアニカ…覚えたからな」
『ック』
「ちっとも面白くないんだけど」
悪い悪い。さして悪びれてない他人事の震え声が耳朶に触れた。
俺は倦んだ息を長く吐き出した。たった一時間の延長代だっただけ救われたとでも思えば良いのか。
書類と共に返されたジェームズの私物を眼前に掲げてみる。先払いの担保で預けたコインロッカーのキーケースだ。丁度病院の近辺にある台だからとジェイソンに電話を掛けた次第だった。
『どこだって?』
「米花町二丁目一三のコンビニ横。面倒臭いから抉じ開けてよ。」
『了解だ。』
また後で連絡するといってジェイソンは通話を切った。
直後、車のクラクションがけたたましく鳴り響いた。十歩先の車道外側線に停まる軽自動車の運転手が窓を開けずにこちらへと厄介な目遣いを送ってくる。己が佇む場所が丁度店舗へと入り口だったことを思い出して脇道に逸れると、野暮ったい白の車体は流暢にタイヤを滑らせて自家へと帰って行った。
三菱のミニカ、依頼人が三日前に賃借したものと同種の色違いだ。
何でも彼は店で一番安くて目立たない車種を希望したそうだ。一応「ぶっちぎり電動!自動車も新時代へと」を売り文句とする店なので金額の多寡を問わず取扱車種は電動自動車だ。
当日も彼を接客した店員曰く、「黒のリネンシャツとパンツの如何にも古ぼけたコーポから出てきたような見窄らしい格好で追い返そうと思ったですけどね。ほら、鞄だけはやたらと高級そうな革モノで、それも重量感ましましなのを三個も持ってるもんだから、ははーんこれはワケありだなって。んで面倒ごとは勘弁なんでって断ったら中身開いて見せてきたんですよ。大量の…ほら、ね?」供述しているうちに興が乗ったのか始めとは別人みたいに彼は饒舌に明かしてくれた。
悲しいかな、店員の脳内ではジェームズは親泣かせの不法滞在者の烙印を押されてしまっていた。
「本当に?」
返却の催促と同時に領収書と一緒に渡された契約書を読み上げる。
George.D.Merlin、依頼主の名前と本名が異なることは稀じゃない。それでも顔見知りの行員に優良顧客認定されるような人物が、いくら普段着との差が激しいとしても団地のコーポから出てきた貧乏人と見損なわれるだろうか。
梅雨は明けたばかりなのに、如何にもここのところ風雲急を告げられるような出来事が折り重なっている気がしてならない。これが只の杞憂で済むならば、ニュートン・ベイカーの時のような惨事に繋がらなければと思い煩ってしまうのは既に先触れなのだろうか。
緑を増して夏めいた草木が雨後の名残りを風に孕んで届けてくる。澄み渡る空の下で不穏な物案じをしていた所為か、千切った青葉の薫りに混じって良いしれないきな臭さが鼻をついた。何というか、つい先日に嗅いだばかりの鉄分の臭いが…。
「っ気の所為じゃない!」
常人では察知できない僅かばかりの血腥さを運んできた風の方角に顔を向ける。
店の駐車場、二つ隣に構える中型スクラップセンター。雑品や鉄屑と種々雑多な買取業者のオープンスタイルのコンクリート塀がぐるりと黄色の規制線に囲まれている。入り口には警察車両が一台停まっており、野次馬は疎だ。けれども敷地の只中に見覚えのある人影を見掛けてしまうと、俺の爪先は自然とそちらへと歩み始めていた。
*
遡及すること一時間前。
東都潮留地区は美麗な夜景や水平線の彼方に続く東都湾の碧海を望める地として有名だ。沿岸からは潮留の玄関口のとも称される超高層ビル潮留シティーセンターが聳え立ち、大型プロジェクトの建設が相次ぐ開発地域ならではの大都市の景観と高層階からの眺望を賞翫しに観光客をはじめとした雑多な人々が地域経済を活性化させている。
魅力は江戸情緒溢れる街並みに留まらず、湾岸沿いの埋立地の隅には利便性の高い準工業地域もあり俗に謂う工場萌えの写真愛好家達が繁く通う様も独自の風情として見受けられる。大型店舗は勿論、学校や医療機関、公共施設等並々の建築物が工場施設と共存する広大な土地は近年工場初心者にも優しい人気スポットとして好評を博している。
堤無津川を跨いで川沿いに立地する杯戸シティホテルと間際の地域には自動車整備工業やレンタカー事業等の自動車及び鉄金属廃棄解体業者が複数の中小企業が商業施設と交会して居並んでいる。南杯戸と東潮留とを繋ぐ鋼橋の影響で利便性が高く、各営業所には他の沿岸部区域と比して遺憾ない客足を保っていた。ところがある一画に限っては今日だけは通行人の好奇と冷やかしの眼差しが横切るばかりで一向に客は来ない。…否、来ないといえば語弊があり、どちらかと謂うと閑古鳥が哀しげに囀るよりも厄介な招かれざる来訪者に営業を妨げられていた。
発端は採用したてのアルバイト店員が昼前に掛けた一本の電話、問題の所在はレンタカーアニカの又隣に構える一軒のスクラップ屋。
「——うっ、うぇ」
「高木、きついなら戻っとけ。」
根腹から迫り上がってきた胃酸を高木は口を覆うことで咄嗟に堪えた。あと一秒遅ければ空きっ腹が吐気の所為で到頭飢えて力尽きるところだった。
現着して彼此一時間、嘔気に見舞われること既に二桁となった高木に見かねた伊達が労りを掛けた。斯く言う伊達も墨で引いたような太眉をこれでもかと顰めて珍しくも不愉快をありありと眉間に這わせている。鼻腔から侵入し頭頂部から爪先までを突き抜けるような強烈な死臭、周辺の物体を反映する深紅の水溜り…捜査一課に配属される身として幾多の殺人現場に出向いてきたさしもの熟練刑事も件の有様には己の胸の悪さに素知らぬふりをすることはできなかった。巡査から昇格したての死体慣れしていない新米刑事にとっては怖気に腰を抜かすほどの凄絶な光景だ。
「班長。」
「…来たか。松田、佐藤。」
女刑事の名に蒼白な顔面を晒して反応を示した高木に佐藤は白々とした目元をつくって、そして自身の視界に留まったソレに同様に手を口元に持っていった。彼女の視線の流れに倣うように松田も先を追って、矢張り薄い唇を苦々しさで窄めた。
時に幻滅する程に無惨な死体を拝む機会の多い東都の地で可もなく不可もない捜査に取り組む者達が揃いも揃って伏目になる訳とは…。
凄惨な光景の根源、それはスクラップ屋の鉄屑の山々に紛れる一台の車にあった。
「中の人は」
「原型を留めてないでしょうね。」
導入されているスクラッププレス機は硬押から横押の二段階で成形する仕様となっており最大シリンダー能力は四百トンである。鑑識官の余計な補足に己の立場でいらざる空想を巡らした高木が今度こそ営業所の待合室に向かって走り出した。哀れな背中を止める者は一人としていなかった。伊達が手帳の見開き一頁を読み上げる。
「一時間前の午前十一時二分、此処で働く従業員から人がスクラップ機に掛けられて死んでいると通報があった。鑑識の見立てではホトケは一人。」
一同は鍾乳管から滴り落ちる水滴の如く地面を濡そぼらせる自動車を見遣る。この鉄塊が規制線の中にあらず、況してや其の筋の者達に囲まれていなければ、何らかの理由で塗装の溶けた芥に過ぎずよもや人間だったモノが圧縮加工されてるとは思うまい。これが事故ならば近頃過激化している報道パパラッチによって死体は熱狂的なフラッシュを浴びることだろう。六月号の「東都夜行性特集」での見出しは「こんな死に方はゴメンだ!」といったところか。
とまれ、捜査一課の別班が一箇所に集うた所以は言わずもがな事故事件の協議ではなく…
「偽札だって?」
「ああ。大量のアメリカドルだ。」
上がったまま固定されてしまったかのような片眉で問うた松田に伊達は付近の警官から証拠品ビニール袋に収められた証拠を渡した。表面にはベンジャミン・フランクリン、裏面には独立記念館が印刷された百ドル紙幣だ。アメリカの紙幣は木綿七十五パーセント、麻二十五パーセントの比率で種々の長さの繊維が赤青二色で均一に交ぜられている。ついでながらニュージーランドやオーストラリアの紙幣に用いられている素材はポリマー紙幣、要するにプラスチックである。
さて、件の強盗事件のあったIABC杯戸支社の失われた無記名債券の捜査で白羽の矢が立ったのは捜査三係の松田達だった。目暮率いる捜査班は殊に殺人や強盗といった凶悪犯罪を取り締まる強行犯担当のなかでも他の追随を許さぬほどに切れ者の集いである。
銀行側の主張する金額が金額なだけに捜本が設置され百人体制での捜査が開始。米花、双宝、杯戸、品川から召集された頑固一徹の職人気質の刑事らが一堂に会しテレビドラマにも見劣りしない手並みで事件は迅速に収束すると思われた。…銀行の金庫から偽札が出てくるまでは。
焔の助言を受けてIABC日本本社に訪った松田が捜査手順を度外視して強引に金庫を調査したところある客の貸金庫から百万円相当の無記名債券一枚と偽造の百ドル一枚ばかりを発見したのだ。あまりに露骨な発覚に松田自身狐疑を禁じ得なかったものの、触法物品をみすみす捨て置くわけにもいかず後出しで捜索差押許可状を突き付けて本格的に踏み入った。
ところがその矢先、警察庁の一派が捜本に無神経にも土足で入り込み、他の海鳥が獲得した魚を横取りするトウゾクカモメが如く捜査権限の移譲を言い渡したのだ。かねてより公安偏重のエリート意識の根深さは刑事警察との確執を深めるばかりであったが、果然今回も有無を言わさぬ雰囲気で乗り込んできたキャリア組に捜本の刑事らが快い顔をするはずがなかった。
されど長官命令に違背するわけにもゆかず、形式的な引継ぎの手順を踏んでいるうちに管轄の変更を知らされていなかった伊達から松田へと連絡があったのだ。
とうに捜査不要となった彼が事件に拘っているのは偏に捜本の努力の賜物を靦然と分捕った選民思想の男達への腹いせであった。…己の脱法捜査を棚に上げての意固地に——それも一度や二度ではない——佐藤は半ば倦み疲れつつも目暮の指示を受けて子守感覚で随行した次第だった。