俺が消えた日   作:れいめい よる

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左右赤恥 後

 

 

「航さん、陣平さん、佐藤さん。」 

 

三人がスクラップされた自動車を囲んでいるところに、薄っぺらい書類を片手に普段着の焔が登場した。

何してんの。三日前の居酒屋で食卓を蹴飛ばさん勢いで何処かへと消えたまま連絡を途絶していたことをすっかり失念して。 

爾来伊達達がどれ程連絡を試みても音沙汰のなかった当人が、さも今朝ぶりの再会とばかりの素知らぬ素振りで偽の警察手帳を示して規制線を潜り抜けてくると二人が詰め寄った。 

 

「おい焔、何回も電話したんだぞ!」

「アパートを見に行ってもいないもんだから一大事でもあったんじゃないかって萩も心配してたんだぞ。何処で何してやがった?」 

 

余憤と取り越し苦労に眉間を曇らせて捲し立てる松田と伊達に焔は困ったように両手を挙げる。 

 

「あー、ちょっと色々あったんだ。心配どうもありがとう。」

「ちょっと色々ってお前なぁ」

「何かあったの?」 

 

躙り寄る二人に焔は下手くそな作り笑顔になるだけで詳細は話さない。なんとも既視感のあるあしらい様に伊達と松田の頭から畳み掛けようとしていた言葉の数々が雲散してしまった。こうなっては梃子でも答えないであろうことは職業柄千差万別の人間と対面してきた二人の刑事はよく理会していた。

三人のやり取りを傍で小首を傾げて聞いていた佐藤が疑問のままに尋ねてみるも、焔はこの場にいない萩原も含め誰も彼もが求める回答を述べることなく目線を現場の注目の的へと移した。 

 

「あれか。」

 

独り言を呟き、両眼を窄める。煎餅もかくやの極薄の厚みに潰されたグレーのミニカに幅を狭めた瞼ばかりか瞳孔までもを鷹の如く縦長にした。次いで松田が持つ偽札を見る。伊達が通報から現着までを、松田が偽札発見に至る経緯を詳述すると焔は金庫についてを問うてみる。 

 

「金庫は誰のだったの。」

「ああ、それが利用者と名義人が違っててな。普段金庫を使ってた男はジェームズって名前だった。」 

 

心臓が一際高鳴った。 

 

「…名義人は?」 

 

心臓が鼓動するたびに血液が振動しているようだった。胸騒ぎを鎮めることもせずに続けて尋ねた焔に松田が手帳を取り出す。 

ミドルネームのDを捉えた瞬間、焔の緊張は頂点に達した。もはや偶然の一致などではない、一人の奇妙な依頼人と二件の不可解な事件が思いも寄らぬ日陰で手を繋ぎ合っていることを認めざるを得なかった。親切な佐藤が鑑識車の荷室に載せられた三個のダレスバッグを指差す。 

 

——鞄だけはやたらと高級そうな革モノで、それも重量感ましましなのを三個も持ってるもんだから、ははーんこれはワケありだなって。 

 

今し方のレンタカーでの店員の発言を想起すると、焔は彼等に一言断ってから店内へと向かった。  

 

 

待合所では数分に及ぶ自己との心理戦から解放された高木がすっかり滅入った様子で椅子に掛けていた。背中を丸めて頸を項垂れる姿勢からは疲弊が見て取れる。草臥れて急に年を取ったような哀れな新米刑事に軽く挨拶を交わした焔は受付に立つ。

いぁっしゃっせー、何ともやる気のない挨拶がカウンターの向こうから掛かってきた。通報したアルバイト社員は事情聴取を終えてレジ業務に戻っていた。 

 

「すみません、ジェームズさん…ジョージ・D・マーリンさんの代理なんですが。」

「はい?」 

 

意想外の反応だ。恰も帰路を間違えてガソリンスタンドと家を誤解している老人に接するような、身の覚えのなさをあけすけに醸し出して若い男は素っ頓狂な声を溢す。自身の誤認識ではないと直感的に確信している焔は外のミニカを指差した。 

 

「ほら、彼処の車に乗ってた人。」

「ああ、」 

 

店員はやっと得心がいったように何やらカウンターの下をごそごそと漁り出した。 

 

「思ったよりも落ち着いてるんですね。」

「そりゃあまあ、もう一周回ってって感じで。」

「なるほど。因みに他の従業員の方は?」 

「それがてんで駄目なんすよ。客も少ないってのにテンチョーが余分にバイトばっか雇うからカツカツ。一年位前にここでバイトしてたんすけど、外国人の屯場みたいになって煩くて敵わなくてそれでやめたんす。」

「じゃあ此処で働くのは二回目?」

「はい。代わりにやること少なくてラクなんすよねぇ。喫茶店で働こうもんなら皿洗いはさせられるしクレーム対応はさせられるしで、人間が働く場所じゃないでしょあそこは。」

 

どうぞ、そう云って差し出されたのは一枚のメモ用紙。二〇〇八〇九二五と八桁の数字が記されている。 

 

「因みにあの車に乗ってた人の写真とかってありますか。」

「証明写真のコピーなら。」 

 

ファイルから一枚の書類が取り出される。パスポートの写しだ。 

 

…最初に単色の強い琥珀めいた金色の双眸に惹かれた。リポフスチンと呼ばれる細胞色素の沈殿が原因となる極めて稀な金瞳だ。鷲鼻の先に雀斑が集中しているのも特徴的だ。全粒粉を百パーセント使用したブラウンブレッドのような茶髪が襟元まで半端に伸びているが、オールバックのお陰かだらしない印象は感じられない。着目すべきはピアッシングを再三繰り返した末に断念放置したような変形具合の両耳だった。そこはかとなく平均的な大きさよりも小さく下方に位置しているように捉えられる。まだ十代の艶が肌のキメに皮溝皮丘に放散されている若々しさがあるにもかかわらず、土気色の肌色がどことなく不健康な心証を与えていた。欧米人だ。 

 

焔は妙な感覚に陥った。デジャブと形容すべきか、聞いたことも見たことない筈の若者の顔写真に焔は既視感を覚えた。記憶を呼び起こそうとしてみるものの、これと思しき切れ端も掴めず瓦石に等しい呻きが口から溢れるだけ。到頭海馬の活性化を諦めて焔は前に進んだ。 

 

「他に何か言伝はありますか。」

「ありませんけど。」 

 

迷惑を全面に押し出して店員は否定した。 

 

…パトカーのサイレンが鳴り響いた。店員が煩わしげに窓の外を見遣る。次から次へと警告灯を閃かせる警察車輌が更に客離れを起こさせていると言わんばかりの膨れっ面だ。 

クラウンの覆面パトカーから見覚えのある金髪がちらついた。褐色肌の男は難なく規制線を越えると手を挙げる松田と伊達の元へと歩み寄る。何やら二、三言を交わすと佐藤が人差し指をこちらへと差し向けた。 

目がかち合った。 

 

「うわあっ!」 

 

奇天烈な声が自販機の稼働音が姦しい店内に響く。こちらへと一直線に向かってくる男を他所に焔は声の方角に目線を逸らす。調子を持ち直して手持ち無沙汰に待合室を物色しだした高木が遊び場に転がるウルトラマンの人形に躓き転けていた。大方子連れの利用者が箱から持ち出したまま放置したのだろう。殆悄気る高木が起き上がるのを手伝ってやろうと焔は近付く。 

 

「大丈夫?高木さん。」

「はは、さっきから情けない姿を見せてばかりだね。ありがとう。」

「ぐちゃぐちゃ死体なんて見たらそりゃ気持ち悪くもなるさ。」

「うっ、今それ言わないでくれ…」

「ああごめん。」 

 

手助けを借りて立ち上がった高木の足元で一枚のジョイントマットがずれた。安価な桜材をボンドで後付けしたような床板が下から覗いていた。人が何度も触れて錆びた金具付きの床下収納が、小さな遊び場に全部で十六個。 

 

「あれ、これなんだろう。」 

 

中央の人が入れそうな幅のトルクダンパー式開口ハッチを除いては簡素なステンレス製取手の一つを高木が半回転させてみる。そうして開かれた収納庫の中から露わになった代物に高木はたちどころに驚倒した。 

 

「た、大変だ!」 

 

大層な仰天っぷりで、滑り台を遡るかの覚束なさで彼は一目散に外へと飛び出した。慌ただしい背中を見送ることなく焔は大量の百ドル札のうち一枚を眼前に掲げてみる。 

紙幣中央の3Dリボンはどれだけ傾けたところで動きはしない。常備する紫外線ライトで光を当ててみる。本来ならば黄色く変色するはずの図柄には一切の変化がなかった。詮ずるまでもなく偽札だ。 

 

曇天から動き始めた曖昧模糊なる多事の数々が焔の胸裏に明確な危険信号を発している。いまや黄梅を育む透き通るような空は不穏な赤みを帯びて地上へと低く垂れ込めていた。依頼人ジェームズの遺言となったメールと不吉な二つの事件が爆弾さながらの因果の導線を表出させると、焔はニッキーの言葉を思い起こした。 

 

『この土の中には銀行が建つ土壌にはない成分が含まれてたわ。金属粉なんだけど、シードルの見立てでは彼処から一キロ先の工場で、場所は此処よ。』

『東潮留か。』

『スクラップ屋なんてよく考えたわね。確かにこの近辺は工場も多く騒音は当たり前だから人知れず地下を掘削してても怪しまれない。』 

 

「テンチョーは電話掛けても出てくれないし、俺も無断欠席すれば良かったなぁ」 

 

ぼそぼそと無聊を託つ店員の声が焔の耳によく届いた。 

…チリン。爽涼な筈の風鈴の音が重々しく空気を揺れ動かせた。

堅苦しい足音が迫ってくる。自身の間際で停止した人影を見上げて、焔は辟易とした気持になった。 

 

「飛行機墜落事故で忙しかったんじゃないの、安室さん。」 

 

外に弾け出た高木が明けっ広げにしたままの収納庫を隙間なく埋める百ドル札を見下ろして、降谷は端倪すべからざる形相を描いた。 

 

「被疑者が拘置所から脱走した。その意味は分かるだろう。」 

 

質問ではない、糾明する口調に焔はお札を手に屈んだまま漸く顔をあげた。お茶を濁したところで男が温厚に引き下がらないのは重々承知していた。互いに事態の深刻さを理解していた。 

 

二日前の早朝、焔は彼の監視役の風見と諸伏を介してフレイザーへの面会を願い出た。銀行強盗から立て続けに起きたセーフハウス襲撃が如何にも心に痼りを残して気が急いたのだ。知人友人にでも会いに行くかの物言いで断固として明確な理由を告げぬ焔に、報せを受けた黒田は譲歩案として風見の随伴を条件に三日後の面会許可を与えた。

しかし予期せぬ襲撃の直後であるばかりかイシードルの負傷も重なり切羽詰まっていた焔は結局警察関係者の誰にも明かすことなく弁護士を偽り接見してしまったのだ。身から出た錆というべきか、そして今日、フレイザーは東拘から遁走を果たした。初訪問から一日未満に訪れた別な弁護士に捜査の焦点が絞られるのは宜なることであった。 

 

「予め連絡しただろ。」

「ああ、管理官は風見かヒロと一緒に接見することを許可されたんだ。お陰で指名手配犯に逆戻りするところだったんだぞ。」

「元諜報員なんかに梃子摺ってるようなら、よっぽど公安は人手不足なんだろうな。」

「なに?」 

 

傲慢な言い分に降谷は色をなした。醸し出した炭火のような熱が二人を包み始めていた。 

 

焔はかつてなく苛立っていた。レンタカーからスクラップ屋、二軒に引き続いた店員の塩対応など瑣末な事柄は原因ではない。

数日前の昼間からずっと胸の何処かに突き刺さっている無数の破片が忌々しくて仕方ないのだ。その一つ一つを引き抜きパズルのように繋ぎ合わせようとして、あと少し…決定的な欠片が足りない。そんな焦ったさに苛まれていた。

輪郭すら朧げな欠片は、されども鋭利な先端を持ち合わせて東都の何処かに漂っている。セーフハウス、銀行、自動車賃貸店、廃品回収業者…いつ何時も彼自身や彼が大切に思う者達へとその刃を突き刺してしまえる状況がどうしようもなく腹立たしく、何よりも雲を掴むように暗澹とした全貌を掴まんとしては成す術をなくす己の不甲斐さが度し難かった。

所詮彼は彷徨多感な二十代である。しかしながらそんな彼の懊悩を由々しき事件に忙殺される警察庁所属の警部が推し図れるはずもなかった。 

 

「人畜無害だとでも主張するつもりか?言っておくが君は」

「何?化け物とでもいいたいわけ。良いけど、どうせ自分で分かってる。」 

 

投げ遣りな自嘲にさしもの降谷も返答に窮した。警察学校からの同窓である松田や萩原とも、幼馴染の諸伏とも異なる青年期真っ只中の年下への接遇法など知る由もなかった。如何にも詮無い若者を嗜めるような歎声で「僕は自分の立場が分かってるのかと聞こうとしたんだ。」とさして空気の改善の見込めぬ追撃を零す。 

 

嫌な沈黙が二人の肩にのし掛かってきた。受付で密かに耳をそばだてていた店員はあまりの居心地の悪さにキャッシュレジスターを必要もなく拭き始める。辞表を出そうか、将又大学卒業までの後数ヶ月粘ろうかと一生懸命に脳漿を絞っていた。 

 

「ピョートル・ノリリスク。特別監視対象の君が」

「そこまでだ。」 

 

折よく伊達達が遣ってきた。ここぞとばかりに帰宅しようとする店員を松田がすかさず引き留める。事情聴取は終わってなどいなかった。男は「いや、俺バイトなんすけど」と肩を落としつつ場の雰囲気を読み取った高木と佐藤に連れられ出て行った。 

 

店内は水を打ったように静まり返っていた。剣呑を滲ませて反目し合う降谷と焔、白熱化一歩手前の空気を圧制的な音色で遮った伊達、彼等の一歩後ろで酷く神妙な顔つきで成り行きを傍観する松田。俄然、瘴気は増す一方だった。 

 

「話は聞こえていた。降…安室、焔は成人したばかりだ。」

「成人?彼はそこら辺の学生や僕達が守るべき一般人とは違」

「それ以上言うなら拳の一発覚悟しろよ。」

「………。」 

 

いつかの警察学校時代、松田と悪さを働き連帯責任を負わされた伊達の阿修羅の如き形相が過って降谷の熱の昇った頭は幾分か落ち着きを取り戻した。 

一呼吸置く。

寸暇を惜しむほどに繁雑な今日この頃、潜入捜査以外に次々と舞い込んでくる急務に心急かされるあまり鬱積したストレスを都合の良い相手に消化しようとしてしまったことを自覚した。憤懣のぶつけ先を誤っていることを一聞で悟った伊達の指摘に彼は焔に頭を下げる。 

 

「すまない、言い方が悪かった。」

「…え?」

「英国大使館から抗議が寄せられたんだ、我々が君を使って休暇中の諜報員を不当に拘束して情報を得ようとしていると。」 

 

早い。焔は束の間の口舌も忘れてフレイザーのべらぼうな態度を思い出した。あの居丈高で矢鱈余裕な言い振りの根拠がイギリスの遺棄ではなく救済の選択にあったのだと理解すれば歯を軋ませたくなった。

 

「上役の一部が君を売って機嫌取りをしようとしていると管理官から君の保護を頼まれたのに君は何処にもいない。おまけにロナルド・フレイザーは堂々失踪。二人目の弁護士(、、、、、、、)を捜査現場から如何にか秘匿して東都中を探し回って漸く君を見つけたというのにこんな調子だから…つい心にもないことを。」 

 

具に事情を打ち明けられると焔は忸怩たる思いに苛まれた。降谷は彼を按じたが故に叱責の方向性を少しばかり間違えただけで、義理を欠いた思い上がりは己だったのだ。決まりの悪さに頭を掻きむしる。 

 

「いや、謝るのは俺の方だった。悪い…いや、ごめん。完全に八つ当たりだった。嫌いになったよね。」 

 

透けるほどの白髪に朱夏を彩った眸、降谷と差異のない高身長に大人びた風貌だが、このようにしてふとした拍子に見せるあどけない年相応の若さは青年が望まずして艶やかな早熟を迫られたことを痛感させるものがあった。すると忽ち、風船の空気がふっと抜けるように、張り詰めていた雰囲気が緩和された。 

 

「…君はヒロの恩人だ。嫌いになんてならないさ。」 

 

困ったように眉尻を下げる降谷が手を伸ばすと、焔は手に持つ紙幣を放り出して彼の手を掴んで立ち上がった。 

 

「隼人がやられて気が立ってたんだ。ちょっとした事情で匿ってる人達がいて、色々と油断できない状況だったから」

「待て、隼人が何だって?」

「あ。」 

 

すかさず凄む松田に青年は己の失言を悟った。だが時既に遅し。サングラスの向こうで鋭い眼差しで射竦める松田に倣って伊達までもが焔に迫ってくる。吐け、と言わんばかりのはったとした威圧感だ。この場にいない誰かに助けを求めようと視線を彷徨わせて…降谷とぶつかる。直に交差する双の目が彼を発言へと強く仕向けている。焔は潔く観念した。 

 

「三日前の晩、急に出て行ったでしょ?あの時の電話は隼人からだったんだ。襲撃されてるから戻ってこいって。」

「けどお前ん家は」

「あのアパートはフェイク。隼人は普段からセーフハウスの方に住んでる。」 

 

焔は一拍置いて事のあらましを語り出した。 

…全てを白状すると謂えば語弊があり、ジェイソンやニッキー、マリアンヌに関しては徹して虚実を取り混ぜて話の関心を襲撃者へと向けさせて打ち明けた。 

 

「そんな感じで奴らの狙いが俺なのか、匿ってる人なのか、或いは別の誰か…何かなのかを知りたくて居ても立ってもいられなくなって拘置所に確かめに行ったんだ。」 

 

最初に降谷が呆れとも安堵ともつかぬ息差しをした。 

 

「そんな大事なことはもっと先に言ってくれ。それで、隼人君は無事だったのかい?」

「そうでもない、大動脈を二箇所撃たれて後少し遅かったら死んでた。意識が戻ったのは昨日なんだ。」

「何だと?」 

 

地を這うような音色だ。さりとて十人以上の死傷者が出た事実は罷り間違っても漏らさぬよう焔は細心の注意を払って言葉を紡いだ。殺害者が隼人であれジェイソンであれ、生死に纏わる話題が彼の口から零れることで三人の真摯な眸に失望が湛えられるのだけは堪忍ならなかった。

それと同時に、何処迄も闇に葬るべき後ろめたい秘密に骨の髄まで雁字搦めにされている現実が焔の分身たるピョートルのものであることが、その寛容すべきやましさを片隅で恥じつつ呼吸をするように虚言を吐き散らす己自身の意地の悪さが焔にはやるせなかった。お前は信頼を裏切った、いつかそんな言葉が掛けられるのではないかと独り辛い空想を巡らしてたじろいでいる焔に、彼の心境を察するべくもない松田が肩を叩いた。 

 

「隼人は何処に居んだ。」

「え?」

「見舞いだよ、見舞い。」 

 

紅が屡叩く。数秒あって焔は慌てて両手を交差させた。 

 

「いやいやいや!アイツもう元気だし気にしないで良いよ。陣平さん達が心配してくれてたことはちゃんと言っとくから。」

「…焔。」

「お世話になってる医者がブラックジャックです。」 

 

伊達の詭弁を許さぬ口調に即効自白した非行青年に三人の警官は腹の底から溜息を吐き出したのだった。 

 

…………。 

 

それから程なくして彼等は東都に忍び寄る黒い影を払うべく、別個の事象を巧妙な透明色に擬態させた糸で繋ぎ合っている凶兆を一つ一つ取り上げた。 

 

先ず、銀行強盗では当初実害がないと口述した店長が数時間後になって発言を撤回し五億相当の無記名債券の盗難を主張した。捜査過程で五百分の一の紙切れと大量の偽札が発見された。銀行強盗はMI6屈指の防諜部隊、されどフレイザーとの面会時の感触から第三者の犯人が浮かび上がった。その人物こそがジョージ・D・マーリン、依頼人ジェームズであり自動車スクラップ機に掛けられ只の血腥い液体となった被害者である。

証明写真に映る顔立ちと書面上の名前との印象に隔たりを禁じ得ない、どちらかと謂えば男よりも青年らしい若々しさを放っており怯懦な顔つきからは到底犯罪に加担するような輩には見えない。是非とも取り調べをしたい降谷達であったが生憎当該者の所在は遥か彼方の天空であった。焔の見立てではスクラップ屋の店長の生存も絶望的と思われた。 

 

多角的に乱麻を断ってみよう。ゆくりなくアルバイト店員が血の滴るミニカを発見、通報したことにより殺害者の謀りは挫折、芋蔓式にスクラップ屋から銀行までの地下通路と概算で五億分の百ドル紙幣も白日の元に晒されることとなった。この時点でIABC杯戸支店の店長の供述も胡乱な様相を帯びてきた。 

 

何においても図りかねるのは銀行強盗らの挙動。十年前に史上最悪の国家機密漏洩を犯したdチーム、金額の規模は違えど東の島国で酷似した事件を惹起した訳とは…。ジェームズは十中八九MI6所属の諜報員と見做して間違いない。したらば彼等の間で何かしらの諍いが発生し予定外の排斥に至ったとの考察に得心がいく。だが果たして現役の英国諜報員が——それも少なく見積もっても十二人以上の辣腕家達が——金絡みの揉め事で此程雑駁な事件を引き起こすだろうか。否、殊にセーフハウスの襲撃に素人を混える稚拙さとスクラップ屋での後始末の杜撰さはMI6の教育機関ですら一発脱落を言い渡すであろう。焔の考察するところ、ジェームズの裏切りないしは内輪揉めが発端だと思われた。 

 

それにしてもイギリス側の機敏な反応も悶々と胸に引っ掛かる。抗議の声を挙げた女は上位外交官。五年前に任命されるまでは多数の国々で本国の労働党を熱心に支持した挙句、党から厳重注意を受けた経験のある人物だ。これが焔の憶測を断定へと導く決め手となった。 

 

「十年前のD通告事件、あれには裏側があるんだ。並一通りじゃない、ね。」

「まさか…」

「そ、火消しに走った数多くの工作員の一人が俺だった。」 

 

D通告、別名を左右赤恥と謂う。そも、事件の発端は国会の二大政党たる保守党と労働党の勢力争いなのだ。

十年を遡った総選挙間際、当時優勢を保っていた首相率いる保守党の選挙活動を労働党の熱烈な厄介議員が妨害しようとしたことから悲劇は始まった。政治家であり宗教家でもあったその男議員は深謀遠慮を巡らした末によりにもよってMI6に働きかけた。彼は悪辣極まりない独自の手蔓を用いてdチームリーダーに直接接触を図り、ある筋から入手した情報…保守党が選挙資金の為に偽造紙幣を調達しているという悪計を暴露しようとしたのだ。他にも様々なスキャンダルを虚実に拘らずに掻き集め敵対党を一網打尽にしようと目論んでいた。 

 

ところが議員の画策は中途で蹉跌をきたした。どういうわけか彼が作戦の遍くを委任したdチームが暴挙に出たのだ。 

 

「そこからは航さんと陣平さんにも話した通りだよ。情報拡散は留まるところを知らず俺が世間の関心を逸らすためにロンドン中で物理的に火事を起こすことになった。ほら、一時期の報道がロンドンの大火事でひっきりなしだったでしょ?確か十歳だったかなあ。」

「お前、十歳って…」

「過酷な訓練期を乗り越えたばかりだった。晴れて世界の平和に尽くせるって使命感に燃えてた。」 

 

己の正義が邪心を抱く人間に踏み躙られるとは思わずに。純粋にdチームの自発的な発狂、、、、、、を信じて疑わなかった。 

思い出すだけで慚愧の念に耐えない黒歴史が瞼の裏に蘇って、強い憎悪と愁嘆を顰蹙に変える焔に夢想も及ばぬ闇に直面した三人は掛ける言葉を見つけられずにいた。

逸早く気を取り直した伊達が下手な慰藉などよりも話頭を転じることを決断して、それよりも先に焔が仕切り直した。 

 

「っとまあこんな感じなんだ。左右赤恥の意味、理解できたでしょ?」 

 

史上最大の漏洩事件は即ち、最悪の茶番劇でもあった。他でもない国家体制そのものによって国家の存続が脅かされた。イギリス政府は国家に忠誠を尽くす防諜員の犠牲をもって身内の恥を壮大に晒したのだ。 

 

「その外交官は当時は問題の議員の金魚の糞だったんだ。きっと俺がバラすのを恐れて勝手に行動を起こしたんだと思う。だから無視して良い…って言いたいところだけど行政官としてはそうもいかないんだよな。」

——こんな事態を招いたのは俺の落ち度だから解決まで付き合うよ。 

 

頬を掻いて肩身狭く視線を彷徨わせる焔に三人は顔を見合わせる。早期段階で警察庁の介入により捜本の看板を片付けることとなった松田に関与の余地はない。通報を受けて順当に捜査手順を踏んだもののMI6という国外勢力が暗躍しているのであれば、一介の刑事である伊達も時期にお役御免となるだろう。では残すところ肝心の警察庁に勤める降谷だが…

 

「大体の事情は整理できた。僕としてはその特殊部隊あがりの犯罪者達を成敗してやる為にも君の協力が欲しいところだが、こればっかりは独断で決められない。」

「そりゃあそうだよな。」 

 

やんわりと保留を告げた降谷に焔は何度も点頭で賛同を示した。取り敢えずは本部に帰還して黒田に上申し最終判断の下達を得る方針で定まった。紆余曲折を得たものの如何にか斯うにか複雑化した物事の調和を果たせた心地に松田達は愁眉を開いたのだった。 

 

「あー頭使って腹減った。まだ昼飯食ってねェわ。」

「俺もだ、何なら此処片付けて今からでも食べに行くか。安室、焔、お前らも来いよ。」

「仕事が山積みだからまた今度にする。」

「俺もさっき食べてきたばっかだから。」

「何だつれねェな。」 

 

圧し縮まるような息苦しさはとっくに払拭され、閑適な空気が凄惨な殺人事件の現場を和ませつつあった。久方ぶりに顔合わせた降谷達がおのがじしの方角へと去るまで肩を並べ合う様を焔は微笑ましげに見守っていた。

…その口角の深みには、彼等が事件の深層に踏み入らなかったことに対する心弛も紛れ込んでいた。

 

 

 

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