スクラップ屋で降谷さん達と今後についてを協議した翌日の午後、俺は米花中央病院へと赴いた。昨日の昼初見する予定だったジェームズが遺したコインロッカーの中身が一枚のハードディスクだと判明したのだ。確認してもらったところ八桁のパスワードはスクラップ屋で手にした数字のメモと合致した。けれどもそれは第一段階に過ぎず、開くや否や何重もの確認画面が表示された。ニッキーの予測では最初を間違えればデータが吹っ飛び初期化してしまう設定なんじゃないかとのこと。下手に挑戦して壊すよりもとディスクを引き取ってニッキーに任せることにしたのだ。
「マリアンヌ、調子どう?」
「見ての通りよ。看護師さんも優しいしジェイソンも居てくれる。退院したらお礼にお食事でもご馳走させて。」
「それは嬉しいな。けど僕は何もしてないからジェイソンと行って来なよ。」
「そう?」
感じよく断ればジェイソンから物言いたげな視線が深々と突き刺さってきた。商店街の隅々、パブから古本屋までを片っ端から駆けずり回った奴が何を言ってるんだ…言い分はそんなとこだろう。確かにあの時は犯人を探しに米花町内を東奔西走したものの、何一つ成果は得られなかったしイシードルに丸投げしてジェイソン達の後を追った。差し詰彼が療養することになったので調査はニッキーへと引き継がれた。…そういえば良い加減携帯を取りに行かないとな。
それはさておき、食事の誘いを辞退した俺にマリアンヌが朝露で輝く草の雫の如く幸福を浮かべるものだから、ジェイソンもめっきり若返ったように後頭部を掻いて笑っていた。譬え二人の関係が空疎な夢だとしてもせめて今だけは、辛酸を舐めた過去もどう転ぶか分からない未来も忘れて瞬きの幸せに満たされて欲しい。そう願うのは決して罪ではないだろう。
「そうだジェイソン、あれなんだけど」
「ああ。」
笑壺の会も程々に、主語なしに掌を差し出せばジェイソンは即座に察してくれてハードディスクを渡してくれる。「それは?」とマリアンヌが不思議な眼差しを送ってきたので適当にはぐらかしてジェイソンを連れ立ち病室の外に出た。
…廊下は人気もそこそこに数人の看護師が何かに追われるような足取りで施設内を往来していた。病院勤務にゆとりは存在しない。
「それで、どうしたんだ。」
外から病室を確認できる顔の大きさ程度の窓枠に掛かったカーテンから中を覗いてから、ジェイソンは俺と向き合った。どうしたも何もと反問すれば、さも子供の嘘を怺えるような眼が直視してくる。
「さっきから心ここにあらずって感じを醸し出しておいて、何が「どうしたも何も…」だ。さあ吐け。」
「いや吐けって、」
まるで百パーセント黒の被疑者を嚇す取調官みたいだ。一度だけ取調べに立ち会ったことがあったが、陣平さんのあまりの剣幕に彼に勝るとも劣らぬ怖面の男が泣き出したのは不憫でも滑稽でもあった。
「例の強盗事件がちょっと面倒なことになってて」
ちらと伏目を上げる。壁に背中を預けて腕を組むジェイソンは完全に傾聴の姿勢に入っている。どうあっても聞き逃すつもりはないと覚ると、俺は仕方なしに口を開いた。
何をおいても俺とイシードルの関係、それから日本での境遇——あくまで警察庁の特別監視対象の身分であること——懇意にしている警察関係者については事前に説明しておいたので、ジェイソンへの説明は件のMI6絡みの騒動に限られた。
銀行強盗の正体が矢張りMI6の精鋭工作隊だったこと、俺が捕縛したbチーム所属のロナルド・フレイザーが拘置所から脱走したこと…彼を早々に打棄てなかったイギリス側の反応から彼等が何らかの極秘任務に就いている可能性が高いと俺は踏んでいる。
イシードルの入院生活と心身情態も一応。とはいいつつも彼はご近所さんがくれた黄梅やらニッキーが贈った洋菓子やらに舌鼓を打ってビデオゲームに没頭して漫然と寝過ごしているだけだった。まあ偶には時間を無為に費やすのも良いだろうと何も言っていない。
健康的な入院患者の話は兎も角、IABC杯戸支社から盗難された三百五十万ドルが一キロ離れたスクラップ屋で見つかったこと。札束が隠されていた収納庫の中心部のハッチの下には銀行へと通じる地下通路が掘られていたこと。何にも増して二軒隣のレンタカーアニカから導かれた先でジェームズの液体と初対面を果たしたこと。
昨夕、アルバイト店員からの留守電を返さず音信不通だったスクラップ屋の店長に話を聞きに伊達さんが自宅に向かうと案の定店長は
一貫して謎めいているのは若き依頼人の言動だった。三日以前からメールで接触を図っていたジェームズは度々俺に何かを伝えようとしていた。最初は銀行で、次にレンタカー店で、最後にスクラップ屋で。
——Shit!そういうことかよ、クソ野郎めが
二チームが合同で銀行から強奪する予定だった五億は——果たして彼等の目的は本当に五億だったのだろうか——蓋しジェームズによって先んじて奪取されたのかもしれない。それを証するように五億円のうち一億相当が態々鞄に入れられ見つけてくれとばかりの状態で待合室のテーブルに置かれていた。
これ迄のことを振り返って判ったことは依頼人ジェームズが俺に何かを伝えようとしていること、判らないのはそれが何か分からないということだった。けれども二転三転して俺達は紗幕の向こうで手招きするジェームズの輪郭を朧げながらも見定めることができた。
俺はジェイソンに貰ったハードディスクをまじまじと眺める。それ自体は何の変哲もない外付けHDDだ。
「ここに依頼人の伝言が、彼が回りくどい真似をしてまで伝えたかったことが遺されてる気がする。」
誰ともなしに呟けばジェイソンが頷いた。
「寧ろそれ以外には考えられないな。ニッキーに任せればパスワードを解読してくれるだろう。」
「うん、イシードルが太鼓判を押すくらいだから信頼してるよ。」
CIA時代からの付き合いだからか彼女の才能に期待を寄せるとジェイソンは自分事のように満足げに笑んだ。
報告も連絡も済んだので最後にマリアンヌに別れを告げて帰ろうとした時だった。
…筒音が爆ぜた。
激しい空気抵抗がライフル弾の線香花火みたいに瞼の裏でパッとちらつく。
狙撃だ!次の瞬間、俺とジェイソンは病室に雪崩れ込むようにして飛び込んでいた。
「マリー!」
「キャァ!キャーッ!」
ベッド脇の花瓶が無惨に砕け散っている。花瓶を砕いてひしゃげた弾丸が壁にめり込んでいた。床に転げ落ちパニックになるマリアンヌをジェイソンが庇うように抱き締める。
俺は窓に駆け寄り遠方を観察する。タマが空気を劈いた時間を感覚的に計算して距離を測る。三…四…四百メートル弱といったところか。徒歩五分圏内の六階以上の建築物を探して、北北東の建物の屋上で不審な人影を捉えた。
俺は振り返って叫んだ。
「ジェイソン、今すぐ彼女を避難させろ!俺はスナイパーを追う!」
「ピョートルッ!」
言い終えるよりも先に窓から飛び降りて。真下に停めていたインドリクに跨るとアクセルを全開にして走り出した——。
*
狙撃現場は病院から四百十五メートル北東の方角、徒歩五分弱の距離にあるコーポだった。オートロックはなく誰でも侵入できるセキュリティの甘さだ。あれから追撃はなく、屋上に残されていた空薬莢は5.56×45mmNATO弾と思われた。M16小銃だろうか。空薬莢と共に態とらしく添えられた一枚のメモには『大英帝国のRより xoxo』などと巫山戯けたメッセージが残されていて犯人は一目瞭然だった。
近頃マリアンヌを付け狙う変質者の隠微が一発のライフル弾によって穿たれると、事態は単なるストーカー疑惑に収まらなくなった。
ロナルド・フレイザー。あの男の目当てがマリアンヌであるのは俺とジェイソンが不在の隙に狙撃を試みたことから窺い知れる。明確な殺意か警告かは着弾時に壁を隔てていた俺には知る由もない。
念を押して周辺を探索して喫緊の脅威が過ぎ去ったことを理解すると俺は一旦ジェイソン達の元へと戻ることにした。
襲撃されたばかりのセーフハウスは昨晩引払い、仮住まいにマンションの二室を契約していた。杯戸町駅近く、イシードルの療養所とも付かず離れずの二十階建てだ。あくまでも新たなセーフハウスを見つけるまでの仮寓だがセキュリティは以前とのおっつかっつの厳重具合である。
ジェイソンに呼ばれて駆けつけたニッキーが病院の退院手続きをして二人でマリアンヌを其処に避難させた。一度ならず二度までも命を脅かされた彼女はすっかり参ってしまい、俺が帰宅してからも暫くは打ち震えていた。
ある日突然道端に捨てられた飼い猫さながらの傷ましさに、同性のニッキーが寄り添うのを俺達は見守るしかできないでいた。酷い心痛を負った彼女に詰問するのがどれ程無情か判っていたけれども、それでも俺には訊かなければならないことがあった。
「マリアンヌ、辛いと思うけどこの写真を見て欲しいんだ。」
「…ぇ?」
「ピョートル。」
「頼むニッキー。大事なことなんだ。」
懐から一枚の写真を取り出した俺をニッキーが嗜める。けれども俺はそれをマリアンヌの眼前に掲げた。
ジェームズの証明写真を。
…彼女の瞳孔が明確に拡大する。
黒褐色が揺らめいた。それが答えだった。
彼女はジェームズを知っている、事件の根幹に関わる重大な何かを知っている。確証を得た俺が掘り下げようとして…しかし彼女が矢庭に放った一言にジェイソン諸共硬直することになった。
「知ってるも何もこの子がジェームズ、私の愛しい弟よ。」
「…は?」
ひらり。手から舞い落ちた写真が彼女の足元に止まった。
胃の中で蝶が羽ばたいているような感覚だった。化石になったみたいに顔を強張らせて黙り込む俺達をマリアンヌは怪訝な面持ちで見上げる。俺とジェイソン、ジェイソンと俺を交互に見てやがて何かを察したようにアーモンドアイを丸くさせる。
「まさか、そんな…」
じわりと瞼に溜まり始めた涙がすぐに頬を伝い出した。前屈みに崩れ落ちる彼女をニッキーが支える。病院で真っ赤に腫れてしまった瞼を何度も何度も擦る彼女を俺は只々見下ろしていた。
最後の欠片が揃った。あとは繋ぎ合わせるだけだった。