この世には並外れた食事量を摂取できる人間が存在する。大して大柄でもないし肥満体質でもないのにまるで喉と口以外の臓器が全部食べ物を消化する為のブラックホールのようになっているのかと錯覚してしまうような人種が。医学的な解明によると何でも麒麟もかくやの胃袋で——流石に四つはないらしいが——百五十リットル並の胃袋を内臓として納めている人や、胃酸の分泌量が人並み以上の人、腹に入れた分だけ胃袋が拡大してくれる四次元ポケットを持ってる人等々。
随分昔にテレビ番組で大食いの解明を観た時、俺が抱いた感想は「へぇ、食費嵩むだろうなぁ」程度のものだった。というのも、実際に食欲旺盛な女子の極みというものを目の当たりにしたことがなかったのだ。けれど若しも前の世界ですらお目にかかれなかった、俗に謂う爆食女子を指差すならばきっとマリアンヌしかいないだろう。
「…ピョートル」
「シー、何も言わないでやって」
そっと耳打ちしてきたニッキーに俺は人差し指を口に当てた。それ以外に言うべき言葉が見つからなかった。俺の頼りなげな取り繕いにニッキーは今までで一番の困り顔をつくって睫毛を伏せた。どうやら彼女も現実逃避を択んだらしい。
…
「ご、ごめんなさい。病院食が美味しくなかったの。」
「良いよ良いよ、気にしないで。好きなだけ食べなよ。」
「飲み物持ってくるわ。何が良い?スプライトとかコーラもあるけど」
「紅茶でお願いできる?ストレートのレモンが良いわ。」
勿論。食欲旺盛な育ち盛りの妹でもできた気分なのか、心なしか弾んだ音色で頷くとニッキーは台所へと向かった。
病院食の体験は過去に一度だけ、それもこの世界でだった。云わずとも察せられよう、組織から逃げ延びて相棒のいるセーフハウスにピョートルが駆け込み寺の如く駆け込んだ時のことだ。景光さんを救ってから五日間の入院生活、人生で初めての病院食の献立は特筆すべき感想もない素朴なものだった。中華の日を一例に挙げるなら主菜が八宝菜、主食は白米、副菜にひじきと茄子の和物、デザートは苺。栄養素と消化の良さに拘った療養には最適な献立だ。
偏食家じゃない俺は苦もなく平らげたが、一度隣室の老人男性が病院が経費を抑えたいばかりに患者の食事をお粗末にしていると喚いていたな。対応した看護師も居合わせた他の患者も誰もが傍迷惑な面相をしていたので大方苦情の多い喧し屋に違いない。正直な感想としては確かに大味な感じもしたけど殊指摘するほどでもなく美味しくも不味くもないという模糊とした印象でしかなかった。
けれどマリアンヌはアメリカ出身。常日頃から砂糖やらソースやらで味もカロリーも濃い食事が当たり前の生活を送っていれば、歴史的にも国民的にも健康志向の高い日本食…それも病院食に物足りなさを感じるのも無理はない。
「このチップス、美味しいわね。やっぱり日本のファーストフードは洗練されてるわ」
「僕もそう思うよ…」
それにしてもアメリカが万年肥満大国として揶揄される所以が判った気がする。特にマリアンヌは此程の大食いでどうやって痩身を維持しているのだろうか、是非とも男女問わず世の贅肉を落としたい人達に教えてやってほしいところである。
「そういえばジェイソンは?」
「彼ならちょっと知り合いのところに寄ってる。もうじき帰ってくるんじゃないかな。」
知り合いというのは闇医者宅で療養中のイシードルのことだ。何でも三十分前に彼から電話で呼び出しが掛かったらしい。帰宅はもう少し時間が掛かりそうだけど、出会い頭から睦まじい雰囲気だった二人を一秒でも遠ざけてしまうのは映画ファンとしては如何にも心疾しさを感じるところがあったのだ。
マリアンヌはそう、と一言零した。そこはかとなくうら淋しさを滲んでませた音色だ。矢っ張り時間を前倒しに伝えといて良かったと思った。
此処に居ない意中の相手の代わりに何か朗話を紡ごうと頭の中を弄って、不図マリアンヌの微かに煌めいた顎に目が留まる。
慣れない箸捌きで肥大した
「マリアンヌ、若しかして体調悪い?汗が酷いよ。」
「え?」
俺の指摘で漸く自分の状態に気付いたマリアンヌが顎を撫でてみる。その手がべっとりと濡れると、彼女は慌てて「大丈夫よ、何でもないわ」と笑い掛けたが、束の間の自覚でノーシーボ効果が働いてしまったのか顔色の悪さが数段悪化した。
「大丈夫なわけがない…!」
よくよく考えてみれば脇腹を刃渡り十二センチで刺された退院患者が二週間も経たないうちに暴食していること自体が異様だった。二度の殺人未遂のストレスか、或いは別の要因か。こんな時に医学知識に乏しいのを嘆くばかりだ。携帯を取り出してイシードルの闇医者に連絡を取ろうとする俺をマリアンヌは慌てて止めた。
「本当に大丈夫なの!多分ちょっと部屋が暑かったのかも」
「けど」
「私、昔から異常な暑がりなの、ね?」
やんわりと腕を下ろされてしまえば携帯を仕舞うしかなかった。別けても他人と体感温度の違う俺にはこの孟夏に主張するマリアンヌの言い分を否定する術がなかった。現時点では様子見として冷房を数度下げると、彼女は小さく礼を告げた。丁度ニッキーが耐熱カップを三つ盆に乗せて戻ってきた。
「あのね、私ジェームズの私物を引き取りたいの。」
紅茶の湯気を浴びてマリアンヌがぽつりと呟く。丸枠に収められる透き通った茶色の水面は天井を映し出している。揺蕩う紅茶を見詰めて、それでいて彼女は別の誰かを投影しているようだった。
ジェームズの遺体は今も未だ警視庁生物第三研究室の作業部屋に安置され、保管容器の中で揺らめいているだろう。遺伝子鑑定をするには十二分な生体資料だ。事件発覚から一週間が経った。そろそろ検査結果が出ても良い頃合いだろう。
「あの子、持病もなくて昔っから元気に走り回ってたわ。幼稚園の頃、心配性な姉が遊具から落ちて死んじゃったらどうするのって聞いたらあの子なんて言ったと思う?なら姉さんが僕の宝物を持って世界一周してよ…って」
ふふ。彼女は笑いと一緒に何か言葉にはできない万感を紅茶で裡側に流し込んだ。
マリアンヌの両親は二人が若くして離婚したという。兄弟を男手一つで育て上げた父親はマリアンヌが成人すると時を同じくして肺癌で亡くなったそうだ。以来互いに心の拠り所となってきた唯一の身内までをも失い天涯孤独の身となった彼女の心中は察するに余り有る。
「鞄だけでも引き取れないかしら?」
「僕としては一刻も早く君に返してやりたいところなんだけど、警察も事件を捜査しないといけないから」
「…そう、よね。御免なさい変なこと言って。犯人を見つけてもらわないとね。」
繊細なモカブラウンの睫毛が陰りを帯びて伏せられた。こういうとき、兄弟もいない一人っ子として育った俺はその無量の悲しみにどう寄り添えば良いのか分からない。押し黙ってしまった俺の肩にニッキーが優しく触れた。言葉に詰まる俺に向ける親切はすぐに俯くマリアンヌへと注がれる。
——不意に殆ど感知できないほどの、突発的な殺意が背中を撫でた。素早く銃を抜いた俺は二人の頭を深く下げさせた。
刹那、殺意は扉に幾つもの穴を穿って飛来してきた。壮絶な破裂音が重複して室内に鳴り響く。
扉を壊して複数の男達が雪崩れ込んでくる。マリアンヌが恐怖に悲鳴を上げた。
「キャアア!」
「ニッキー!彼女を連れて階下の部屋へ!」
リビングテーブルの下に隠していた拳銃をもぎ取ると彼女へと投げ渡した。ニッキーはそれを受け取ると、俺達が事前に借りておいた階下の避難所に行くべくマリアンヌの腕を引く。
敵は男四人。不用心にも駆け出す二人を追おうと背中を見せた二人の心臓を俺は撃ち抜いた。目線を開けっ広げになった玄関へと走らせる。ニッキーとマリアンヌは無事に部屋を出たようだ。
「Hey, watch out! Bastard!」
「Are you freaking out? Huh?」
ジョンウィックの敵でも口にしないだろう三流以下の台詞を吐き捨てて二人の男達が煽り立ててくる。碌な訓練も受けていない素人だ。たかだか小火器を把持してる程度で無敵にでもなったつもりか。
全自動なのを嵩に懸けて雑魚が家主の許可もなく内装を弾丸で塗り替えていく。半端に襲い来る銃弾を回避してソファを引き倒す。
即席の盾の隙間からPSSを覗かせると二発放った。間を置かず衣擦れの音が聞こえた。
数秒待って立上る。
二人は最初に死んだ男達に重なるようにうつ伏せに倒れていた。まるで死体に引っ掛かって遅発で死んだ間抜けな敵みたいだ。俺は彼等に歩み寄る。側に放り出されていたのは89式だった。陸自の主力小銃として活躍する殺傷能力の高い突撃銃だ。一挺を拾い上げてみるが弾はもう残っていなかった。
「勿体ないことすんなよ。」
つい
すると突然、記憶が吹っ飛んだみたいに見慣れた火器の名前が思い出せなくなった。如何にか度忘れしたソレを輪郭をなぞるように思い出そうとして、窓硝子が割れる音が物思いを破った。新たな刺客と察するよりも敏捷に俺は手近の弾の余った89式を引っ掴んだ。
ターザンもかくやの第二弾が窓から突入してきた。
覆面の三人だ。先程の素人とは違い、彼等は見る見るうちに俺を取り囲むと蜂の巣にせんとする。
金属の質感が空気を震撼させた。一発、二発と秒速九百二十メートルの五・五六ミリ弾が首筋と胸のシャツを擦過した。89式だ…!
最初の突撃隊とは殺意も練度も比にならない。囲い込みから抜け出すか、今すぐに反撃しなければ何れ臓器が貫かれる。銃口ではなく三人の指先を注視して辛うじて避けつつ瞬時に断じた俺はその場に屈み込んだ。
一瞬、されど一瞬に狙撃対象を見失った敵は照準を宙に漂わせる。それで十分だった。
今だ…!
俺は躰の熱を瞬間的に結集させて気体化させると、放射状に放出した。
岩漿の如き高温が昼間の街中でゴーグルを外した男達の眼球を直撃する。
ぐぁああ!絶叫が上がった。
それでも意固地とばかりに取り落とさない突撃銃を蹴り上げる。高く舞い上がる89式の下で地面から離れたままの片足を遠心を活かして振り向きざまにひと回しする。二人目の首の骨が可哀想な音を立てた。
折よく手元に着地した銃を素早く構えると、最後の一人に向かって発砲した。
パァン!と住宅街に佇む普通のマンションで発生してはならない衝撃を反響させて、放たれた弾丸が男の眉間を直撃した。続け様に未だに転がり目を抑える男の口に銃口を咥え込ませる。
…男の断末魔か、銃声か、何方かは分からないくぐもった唸りを最後に室内に静寂が戻ってきた。
けれども静寂は束の間に過ぎなかった。
「ブラボーか?にしてもアイツが居ない…」
「——ピョートル!」
平穏の帰還がまやかしだと教えてくれたのは、遠くで上がったニッキーの叫びだった。生温い夏の外気とともに上昇した空気が振動を介して階下での危機を深刻に訴えてくる。陽動の二文字が脳裏に閃くと、俺は鞭に打たれたように駆け出した。
マンションの三階、中部屋前の共用廊下にソイツらは居た。
「ニッキー、マリアンヌ!」
上階の奴らを真似てターザン風に外壁から廊下へと飛び込むと、俺に気付いて残り二人が退却しようとする。刹那に逡巡するとソイツらを一先ず見逃して、マリアンヌの首にナイフを突き立てんとする男の後ろ膝に一発撃ち込んだ。返り血を浴びたマリアンヌが絶叫した。
即座に体を反転させて手摺壁に足を掛ける二人の内片方を仕留めようとして弾切れであるのに気付く。舌打ち混じりに突撃銃を投げつけた。
「ッァアぁア゛!」
未練がましく最後まで手摺にしがみついた手が離れると、男は野太いエコーを響かせて地面へと吸い込まれていった。急いで下を見下ろすももう一人は逃げ果せていた。
ふと、邪な気配を感じて視線を巡らせる。
…三マイル先のビルの上階、全面硝子張りの一室。滑り出し窓の向こうで日差しを受けてフィールドスコープの先端が煌めいた。汚く黄ばんだ歯がこちらを卑しめた。
「…おぼえてろよ」
敢えてゆっくりと紡いで長指を立ててやると、フレイザーは一層口端を憎たらしげに吊り上げた。
マリアンヌはパニックを起こしていた。
「キャアーッ!…ゥ、お゛ェ」
「ピョートル、ずっとこの調子なの。私が話しかけても駄目で…」
死体と銃痕で使い物にならなくなった部屋を放置して残る一室の避難所に須臾の時刻だけ閉じ籠っていた。困り果てた顔のニッキーに救急箱の一番底を開けるように伝えてからマリアンヌの正面で膝を突く。
「マリアンヌ」
「ひっ、ぅウウ…」
「マリアンヌ、僕を見て」
薬物依存症の人間のように定まらない焦点が、頬を覆い包んだ俺を見た。落ち着いた調子で息を合わせるように言い聞かせる。ゆっくりと空気を吸い込んで、肺に溜まった恐怖を吐き出させるように。四、五回目まではひっひっと釣り上げられた魚みたいに跳ね上がっていた肩も十回を迎えると落ち着いてきた。
過呼吸が完全に治った頃合いを見計らって毛布を頭から被せてやってニッキーが作ったホットミルクを渡すと、充血した眼が湯気の温もりに屡叩いた。
「彼等の目的なんだけど、マリアンヌだけじゃないみたい。」
これ見て、と彼女が握っていたのはHDDだった。作業部屋としても使ってるこの部屋でニッキーが保管していたジェームズの物だ。つと、マリアンヌが耳目を
「ちょっとがデータが破損しちゃったわ、けど心配しないで。コピーをイシードルに渡してるから。それに半日あればこれも直せる。」
「なら良かった。最優先で解読してほしい。」
ジェームズとマリアンヌ、ジェームズと英国秘密情報部。二人の姉弟を引き裂いた闇が身内の紛争に収まらないだろう憶測はもはや推量の域を超えてしまった。銀行強盗も偽札事件も暗殺未遂も奇襲も、不吉な事柄を繋ぎ合わせる蛛網を辿れば必ず辿り着く源はジェームズだった。彼が元凶か、或いは別の力が導因として潜んでいるのか。俺の直感は磁場の狂った方位磁針の両端のように両方を不安定に指し示していた。総ての解がHDDに秘められている、そんな予感がしてならない。…否、これは予感ではなく確信だった。
ニッキーは心得ているといった風に点頭すると、次いで思い出したように「待ってて」と言付けて彼女の作業室へと小走りで向かう。直ぐに出てきて、印刷された三枚の紙を差し出した。内容は俺が最初にイシードルに頼んだパブでの調査結果だった。
「現場には手掛かりなんてものはなかったわ。精々店主の鼻毛と客の髪の毛くらい。一々調べるには物品が多すぎる。」
「そうか」
三枚目を捲って瞬きが一瞬止まった。「凶器:片刃ステーキナイフ、十二・七センチメートル 指紋なし」
………。
「その、言いたくないんだけど」
歯切れ悪くニッキーが言葉を濁した。外出先で人目を憚る時の声調だ。目線を資料から上げた俺をニッキーが特段に弱った眼差しで正視していた。厄介なホールドにぶち当たったボルダリング選手さながらに複雑な表情だ。彼女の意味ありげな目配せが言語化したい含意を俺はよく判っていた。
——今の襲撃、どうやって奴らは知ったのかなって
俺は答えずに連中の目当ての一つだった女性を盗み見る。睡眠薬が効いたマリアンヌは子供みたいにぐっすり眠っていた。