自宅か医院か一見では見分けのつかぬ看板だった。明朝体で精巧に「下沢医院」と施工された金属の目印はどちらかといえば看板というよりかは、自己顕示欲の強い家主が拘った表札といった様相だ。医院の二文字がなければ「相澤さん家はきっと
何れにせよこの愛想の悪い表札を瞥見して内科とも産婦人科とも耳鼻科とも判らぬ医院に立ち寄る患者は少ない。訪うとすれば精々が米花町二丁目の一等地に居を構える物好きな金持ちが娯楽に試した薬物でバッドトリップを起こして家族に運び込まれる難客くらいに相違あるまい。赤瓦屋根の三階建の古民家に引き篭もる吸血鬼の如き風評を近隣住民に言い囃される医者が実際には連日留守にすることもある程に多忙なのも、況してや内科でも産婦人科医でも小児科医でもないことも、客を寄せる気のない外観が意図的であるのも大多数の人間が知るところのない事情だ。闇医者であることは勿論、まさか外科的大手術を受けた患者が養生する為の入院施設であることは更に僅少な関係者のみが承知している暗黙の裡であった。
電話一本、電車一本で隣町の本医院に見舞いに来たジェイソンを隼人は病院らしからぬ溌剌で出迎えた。
彼の滞在部屋は三階の角部屋。風通しがよく窓の多い平均的な角部屋のような造りでない代わりに壁面の窓と比較して三倍の採光効果のあるFIX窓が天井に取り入れられている。主に小学校の問題児並みに血気盛んな粗忽者を半ば監禁治療する為の部屋だが、深夜に禁止されたプレイステーションに同室人を引き込んではゲームに没有し翌日の真昼間まで夢路を辿る腕白っぷりに世話に耐えかねた看護師が強引に厄介患者ランクを引き上げた故であった。
「俺、フレンチフライ大好きなんだよなー」
扉を開けて早々、二〇二九年から時を超えてやって来た人工知能が人類を滅亡させる指令も忘却して人間世界にすっかり慣れ親しんだかの内装が広がった。少なからずありとあらゆる電子機器が所狭しと置かれる室内は未だサイボーグとしての名残を所々に見せていたのは辛うじて幸いと謂えるだろう。だが又同時に不幸であったのは其処が若きサラ・コナーの自室ではなく闇医者の抱える病室であることと、寝台をゲーミングベッドへと改造してコントローラーを握っているのが存在意義を失くしたターミネーターではなく元ハッカーということだった。
誕生日プレゼントを待ち侘びる子供のような生き生きとした面差しがブルーライトに輝くとジェイソンは彼を放り出す為の窓が嵌め殺しであることを恨んだ。マリーの死、ヒューイの謀り、それらに次ぐ程度には真剣な忿怒であった。まさかフレンチフライの出前如きの為にナースコールもかくやの気軽さで呼びつけたのではあるまいか…。ジェイソンは看護師の苦労に同調した。
せめて己が日本に居るうちに根性を叩き直してやらねばと、袖を捲ったジェイソンを隼人は即座に引き留めた。
「悪いな、フレンチフライは買って来てないんだ。」
「違うから!ちょっと食べたいなぁって思っただけで何も買って来いなんて言ってないだろ!」
「遺言はそれで終わりか?」
「ぎゃああア!」
「五月蝿いですよ!」
怒号が院内を駆け巡った。大型二輪のマフラーから吹き出る排気音にも勝る鼻息の荒さで看護師が入り口で仁王立ちしている。あまりに野太い叱責がミニスカートを履いた彼女のものであると初見のジェイソンが理解するのには時間を要した。
「五月蝿いですよ!」
彼女は大事な事を一言一句違わず二度言う質の人種だった。二ストロークチャンバーから噴出される混合気の代替に嗄れ声の辛辣な注意がくどくどと紡がれると、機械類が没収され広々となった病室に残されたのは七回目の説教を経ても尚学生のように不貞腐れる隼人と、ブラックリストに加えられた不条理に唖然とするジェイソンのみであった。
…須臾の間、束の間の出来事が呑み込めずに佇立していたジェイソンが現実に戻ってくると、口元を引き攣らせて要件を問うた彼に隼人は大慌てで尻の下からパソコンを取り出した。飽くなき修学旅行生さながらである。ジェイソンはもはや毒づく気力も失っていた。
「呼んだのは飛行機についてだよ。」
「飛行機?」
「暇すぎてテレビ観てたらまだ飛行機特集してんの。んでこの俺が人肌脱いでやろうと思ってさ。」
「結論」
「陰謀だよ!」
もう、ノリ悪いんだから。開けたパソコンから放たれるブルーライトにまたもや顔面を仄暗い室内に浮かび上がらせる隼人は人間味のあるサイボーグというよりも煩悩だらけのボブおじさんといった印象を抱かせるものがある。寧ろT-800の役柄をジェイソンが担った方がよっぽど映画館は大繁盛しただろう。
「あれ、事故だなんてとんでもない。公安の嘘っぱちだね。正確にはテロリストの事故だよ。」
隼人は己が夜な夜な密かに医院を抜け出し現場検証を行なったことは裹んで見解を述べた。曰く、マスメディアの報道は一貫してドローン衝突とダウンバースト現象に絞られていたものの、その内実は上空九千メートルで生じた策略と抵抗の活劇を秘匿する為の本筋回避だという。というのも、彼の調べによると当航空機ボーイング767機は墜落直前に後方非常口が開けられた痕跡があったのだ。とりもなおさず、何者かが意図的に墜落を惹起させたということが明々白々なのである。
興味を唆られたジェイソンが更なる真相を追及すると隼人は第五予備のパソコンのキーボードを弄り始める。程なくしてジェイソンの携帯に文書が送られた。黄金を溶かしたような双の目が写真越しの彼を見返した。
ニルギリ主峰の如き犀利な筋の通った鷲鼻の先端に、赤鼻のトナカイを連想させる細やかな斑点が集中している。髪染めではない純粋な茶髪がどこか挙動不審めいた顔立ちを緩和させていた。
ジェイソンは瞠目した。何も一目見ただけで長期記憶に刻まれるような特徴的な瞳と雀斑に対してではない、既視感の強さに愕いたのだ。
反射的に面を上げたジェイソンに隼人は賛同するように首を縦に振った。
「その男、ピョートルの依頼人にそっくりでしょ。これが奇遇なことにジョージ・D・マーリンって、名前まで同じだったんだよな。」
態とらしい台詞は九分九厘正解を示していた。乗客名簿に記されていなかった複数の幽霊が大凡連日焔達に執拗に拘うMI6の作戦員らであることは論を待たずして二人の諒解となった。次いで隼人はリハビリがてらにニッキーから受け取った仕事の進捗を語る。
「IABC杯戸支社に関してだけど、彼処の支店長何かあるね。」
「というと?」
「あの男、強盗事件の三ヶ月前から無記名債券を別の銀行口座に移してた。日本本社にね。」
「三百三十八万ドルの行方の一部か。ジェームズが偽名で利用してた銀行だな。」
「そーゆーこと。」
着信音が鳴った。ジェイソンが指先で画面を操作して耳元に近づける。数秒後、彼は弾けるように病室を出ようとした。
「え、どこ行くの?」
呼び止めた隼人を振り返って彼は電話をスピーカーに繋げる。作戦直前の軍人めいた深刻な顔貌は、後の焔の発言によって一層強化された。
『イシードルか、また襲撃があったんだ。多分お前ん時と同じ、雇われ素人とMI6の別のお仲間だ。けどもう解決したし、じきに警察が来るからジェイソンはそこに居といてくれ。話がややこしくなる。』
首を傾け不満を表明したものの、受話器越しに『マリアンヌは無事だから』との鎮静剤が投げ掛けられるとジェイソンは渋々といった様子で首肯した。
『それよりもイシードル、HDDの解読はどうなってる?』
「え?HDD?なんで?」
綺麗な三拍子だった。入院中とはいえ彼の保育園の暴君の如き好調子を例の大型二輪の転生体たる看護師から苦情を受けていた焔が隼人の七つの大罪もかくやの病室での怠慢っぷりを想像するのは自然な流れであった。
『イシードル…』
看護師と接戦になりそうな地を這うような声振が彼を咎め立てると隼人は焦って否定した。
「ち、違うから!な、ジェイソン?俺ちゃんと仕事してたよね?」
「ああ、まあな。」
期待以下の歯切れの悪さだ。さもありなん、刻下隼人と焔が齎した複数の懸念要素の為に思案に耽るジェイソンは気もそぞろに二人の会話を聞き流していた。弥弥己の不名誉は己自身で晴らさねばと即断した隼人は、今し方ジェイソンに伝えた話を焔にも語り始めた。
*
「成程。」
相槌というよりも心許なさ混じりの大息だった。思えば近頃はずっとこんな覚束無い調子の嘆息を漏らしている気がする。多分俺が吐き出したいのは快適な寝息だ。事件のことも己の身の置き方も考えずに惰眠を貪っていたかった。
「そういや事件発生時あの男は離席してたな。」
しからば警官との事情聴取でイギリス人支店長の供述が言い訳めいていたのにも得心がいく。彼は従犯と溢したがそれは通常他人の犯罪の実行を幇助した犯人に対する用語とされる。今先緊急連絡を受けて戻ってきた人間ならば…喩えそうでなくとも事件の全容を知らなければ実行犯と云うべきだったろう。当初金品が盗まれてないと確認もせず断言したのは自身の関与を隠蔽する為の咄嗟の判断に違いない。殺された行員の藤中智樹さんにのみ外出を伝えていたというのは嘘っぱちだろう。
『俺が思うに…仮にジェームズがブラボーだかエコーだかに所属しているのならの話だが、ジョージ・D・マーリンの名義経由で賄賂を送っていたんじゃないか?所謂瞑目金ってわけだ。』
「だろうね」
段々と辻褄が合ってくると、この七日間碌に睡眠を取らずに思考の淵で低徊していた甲斐があったと安堵の息が漏れた。そして心付いた。溜息にも喜怒哀楽があるんだと。
とまれ、IABC銀行についても掘り下げたいところだが残念ながら俺には用事があった。その旨を伝えると隼人に、『まあ無事ならなんだって良いけどさ、好い加減自分の携帯取りに行けよー』と云われて俺は思わず自身の携帯をまじまじと見詰めた。普段使いの黒とは異なる白の背面色。そうだ、俺の携帯は何日も前にパブに置き去りにされたままだったんだ。
通信を切りつつも瞼の裏に浮かぶのはイタリア顔のアメリカ人店長。夜中に戦場を徘徊してうっかり塹壕に入り込んでしまったような身なりのわりに、眼光だけでパナマ国防軍を射殺せてしまいそうな目付きは七割痴呆が入ってる老耄には見えない。彼は携帯を取り置きしてくれてるだろうか。
そんな疑問が浮かんで矢庭に横かぶりを振った。何に対しての否定か、自分自身分かっていなかった。
*
トメさんは警視庁刑事部鑑識課の優秀な鑑識官だ。元々は同庁生物第三研究室、謂わば科捜研と呼ばれる附属機関に勤務していたのだが職場が肌に合わないという理由で数年前に鑑識に異動したらしい。学士過程の頃より好成績を収めていた彼は警察学校の採用試験も主席合格し、出世の上り坂を軽々登ってきた。刑事の頃には複数の難事件を検挙したという誇らしい経歴も有しており、最終的に上位鑑識技術者の地位に落ち着いてからは熟練の警察官として米花町のみならず東都全域での刑事捜査に尽力している。
出っ張った顎骨と手入れの行き届いてない乾燥気味の唇が紡ぐ男勝りな物言いがその道一筋の職人気質を匂わせている。寛裕な人柄と篤厚そうな眼鏡姿は色とは無縁の雰囲気を漂わせており、決して警察学校組のような伊達男の面相では愛が仕事と恋愛との二択を即答する潔さは早年時代には多くの女性の胸を塞いでいたに違いないといった心証を抱かせるものがある。
行きしなに買ってきたトメさんのソウルフード栄養バーを渡すと彼はやや長い顎をモールス信号でも打つようにしてありがとうと云った。
「さて、不良少年。今日は何を聞きに来たんだ?」
「はは、もう二十歳だけどな」
「なら晴れてケツが肌色になった坊主だな」
「冗談きついって」
俺の彼に対する認識が決して侮れない人物であるのは偏に彼の鋭い見識にあった。時期が違い警察学校組と同期だったなら下手すると降谷さんを差し置いて主席の座に就いていたんじゃないかと思えてならない。此処では割愛するが出会って早々俺を何らかの事情を抱えた問題児呼ばわりしたことは特筆すべきだ。それ以降も偶然遭遇した事件を解決すべく俺が然りげ無く歩み寄る度に、恰も警戒心の強い野生動物が傍に寄ってきたとばかりに所見を仄めかしてくれるのだから俺は只々一驚するしかできないでいた。俺が正体を打ち明かしても彼はきっと常と変わらぬ親心のある顔で受け入れてくれるんじゃないかと、そんな気さえする。どうしてだかこの人には素の自分で接せられた。
俺がスクラップと答えると彼は「#56743961」とラベル付けされた液体容器を掲げて俺とジェームズを再会させてくれた。今時のDNA鑑定の精密度合いは目を剥くものがあり、同型のDNA出現頻度は五百六十五京に一人、個人識別の精度は粗百パーセントだ。それにトメさんの洞察力を加えれば精度は二百パーセント、世界中から行方不明の父親が涕洟を流して養育費を持って来る光景が目に浮かぶ。
「ジョージ・D・マーリン、男、年齢は二十手前…恐らく七か八だ。十三番トリソミーは知ってるか?東大生。」
「勿論、常染色体異数性の染色体異常でしょ。」
過剰な十三番染色体が引き起こす先天性の病気だ。大体五千から一万二千人の割合で誕生して八十パーセントが心疾患を患っている。噛み砕いて謂えば前脳や顔面、眼に発育異常が見られたり重度の知的障害だったりする。
そこではたと、脳裏にジェームズの証明写真が過った。確か彼の耳も変形というには奇形がかっていたような。と、脈絡なくされた質問の意図が呑み込めてきた。
「若しかしてこの人も?けど十三番トリソミーの誕生後一年の生存率は十パーセント以下だって」
「最近は医療技術も進歩してんだよ。最高齢は三十二歳だ。だからといってこの若者が長生きできて幸運だったとは限らない。なんせ克服できない問題を幾つも抱えてんだからな。」
「まだあんの?」
「おうとも。耳介形態異常と左耳難聴、こりゃあ不安定なこった。」
「けど」
けど、続けようとした言葉は上手く声にならなかった。トメさんの所感とともに浮上した不可解な蟠りを何とか消化しようとして、上手くいかずに口の中で何度も咀嚼し続ける。そう、まるで麒麟みたいに。
「酷なことだよ。
トメさんの憐憫の籠った声音が耳の内で反響していた。
無言で踵を返した俺の背にいつにも増して鋭い声が掛けられた。首を回せば何人もの犯罪者を自白に追い詰めた熟年の元刑事が俺を正視している。瞳を介して心奥を覗き込むかの目遣いは決定的な証拠を発見したときと同じ色を宿していた。
行き先を聞かれる。如何してだか俺の直感ははぐらかしが効かないと警告していた。だから素直に告げた。
「銀行の支店長に聞きたいことがあるんだ。」
「なら俺も行こう。」
「えっ?」
「何がえっ、だ。餓鬼に警察の捜査が振り回されちゃ溜まんないだろうが。」
言いつつも彼は身支度を整える様子もない。何でも一件急務があるらしい。
「先に行くのは構わないが俺が来るまでは絶対、何があっても勝手に入るんじゃないぞ。」
「トメさん俺のことなんだと思ってんの。」
「聞きたいか?」
「いや、良い。遠慮しとく。」
どうせ穴の青い餓鬼とか、半人前の不良とか思いつくだけの誹謗を言い立てられるのだろう。面倒臭いことになったと片眉を顰めていれば額を小突かれる。窄めた唇に非難を乗せれば屁にも思わぬ面相を返された。彼は親が子供にするように人差し指を突き立てる。そして説教じみて諭してきた。
「良いか、焔。お前が本当に餓鬼を卒業したって認めてほしいんならちゃんと言いつけは守れ。これは大人の約束だ。」
何とも親父臭い発言に益々反発したくなるのは結局は彼の言う通り俺が未熟だからだろうか。
兎にも角にも、言質を取られた以上は約束を守ろうと一足先に米花町内の支店長宅に向かった。……早々に誓いを反故にすることになろうなどとは思いもせずに。