俺が消えた日   作:れいめい よる

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堕ちた場所で溶ける

 

 

その家は抜きん出て異質だった。ヴィクトリア女王の王位を継いだエドワード七世の時代によく保存されてきたエドワード様式の大邸宅だ。中世回帰の風潮が顕著に取り入れられた英国最盛期の絢爛な前時代に逆らって、混乱の少ない簡易な装飾と素朴なデザインが特徴的とされており、曲線と直線を巧みに融合させた白一色や柿色の他の洋風豪邸が軒を連ねる只中に、その一軒家だけが英国式の伝統的なこれまた洒脱な装いで佇んでいた。

優しい色合いの赤煉瓦が全体を構築しており、欄間の付いた玄関ポーチと唯一深みのある赤紫の煉瓦を用いたファサードが調和のとれた外観を生み出している。欧米の慣習に倣って表札の代替に番地が白インクで描かれた木製の門札が杭で打たれていた。 

 

米花町の高級住宅街に数ある豪邸の中でも突出して一癖のある家に態々空き巣に入ろうとする果敢な泥棒はいないだろう。けれどもこの犯罪多発都市においては泥棒だけが不法侵入を試みるわけじゃない。やたらと好奇心旺盛な近所の悪戯っ子、探偵や警察気取りの学生、刑務所からの逃亡犯…或いは元諜報員も、時と場合によっては誰もが事もなげに不法侵入してしまう街、それが米花町である。 

 

警察署で一度別れてから徒歩十分の距離にある支店長宅にやって来た俺は、一向に来ないトメさんに手持ち無沙汰に家の外周を回っていた。あくまで漫然と。不穏に半開きになった正面玄関から血の臭いが漂ってくるまでは決して踏み入るつもりはなかった。 

 

インナーガレージの建築構造に反して内装は開放的だった。バラスターを採用した玄関ホールは白が際立ち、廻り縁にデンティルモールディングと扉の漆黒の裏面がロンドンのタウンハウスにいるかの錯覚を起こさせる、絶妙に引き締まった入口となっている。ゴシック調の鉄製シャンデリアが程良く優雅な雰囲気を醸し出しており、扉横のリネンカーテンから透ける陽光が見事な仕上がりになっていた。デザイン性と実用性を兼ね備えた夢のような空間設計はインテリアデザイナーと幾度となく協議を重ねた家主の拘りが随所から伺えた。不動産売却をすれば西洋信仰者が挙って競り合うに違いない。勿論、事故物件でなければの話だが。 

 

状況をメールでトメさんに送って返事を待たずに正面玄関から中に入れば早速支店長がお迎えしてくれた。笑顔ではなく(あしのうら)をこちらに向けてうつ伏せに斃れた状態で。瞬きを忘れた眼は散大したまま白壁の一点を見詰めていた。首に一直線に走る血筋がなくとも大半の人間はそれが死体だと判るだろう。殺人慣れしたプロの犯行だった。 

 

彼の数メートル先、玄関ホールから廊下を突き抜けた居間の入口に然程変わらぬ死に様で奥さんが身を投げ出していた。こんな時に限って拳銃を忘れた自分に内心で舌打ちして、タクティカルナイフを握って血の轍に導かれるように奥へと進む。見聞色擬きを使えば居間に潜む二人の人影が明確に視えた。扉を開けてすぐ左で拳銃を構えてるのが一人、正面で手ぶらで佇んでいるのが一人。その腰元に何やら小さな気配もある。子供だろうか。

しかし奇妙なことに家主ではない新たな侵入者の存在に気付いているにもかかわらず、二人の人影は息を潜めてはいない。訝しみつつも忍足は止めなかった。 

足先で扉を突けばギギと蝶番を軋ませてゆっくりと動いた。開けた先に一番に目に飛び込んできたのは年端もいかない子供を抱えるフレイザーだった。 

 

すぐ側で通るはずもない電車が急停止する音がした。…違う、車輪とレールの摩擦だと思っていたのは俺の歯軋りだった。中に入るや否や左に突き付けたナイフに答えるように、顳顬に冷たい感触が押し付けられた。それでもナイフを捨てない俺にフレイザーは嗤った。

坊主。トメさんとは大違いの癪に触る呼称だ。 

 

「フレイザーッ!」

「ンな生意気な(ツラ)すンなよ。虐めたくなるだろうが」

「汚いぞ」

「そうとも、大人は汚いんだよ」

——ナイフを捨てろ。 

 

今度こそ明確に、威圧的に脅しを掛けられた。俺は左を見遣る。ソイツは今朝仮住まいを襲撃して遁走せしめた男だった。強烈な狐眼がフレイザーの言う通りにしろと警告してくる。もう一度フレイザーを見遣ると、奴の握る果物ナイフが子供の首筋に食い込む様を捉えた。俺は叫んだ。

 

「やめろ!分かった!」 

 

ナイフをその場に捨てて足で遠くに払うとフレイザーは醜怪な喜色を浮かべた。 

 

「よーしよし、よくやった。」 

 

まだおしゃぶりも取れていない小さな女の子の頬を撫でてながら、俺を同一視するように褒めそやす様は怖気しか湧かない。それでも両手を挙げて反撃の瞬間を窺ってれば、突として頸に衝撃が走った。

視界が暗転した。 

 

………。 

 

瞼を開ければ現実はどこにもなかった。茫茫たる暗闇、足元だけが照明もないのに仄かに光っている。不思議と先程の緊張感はなくなっていた。不安も危険も混乱も、況してや期待といった正の感情もない。無限の虚空だけが広がっていた。この空間を俺は良く知っていた。 

 

ぽつん。雨上がりに歯先から滴る水の如き音が静寂(しじま)を突き破った。本当に水滴が滴ったわけじゃない。此処には風も水も大地も何もないのだから、在るのは深層だけだ。 

俺は翻る。そしてもう一人の俺と正対した。 

 

「あれは仕方ないよ。」 

 

困ったように眉尻を下げたピョートルは、俺が弁明するよりも先に失態を許してくれた。それに甘んじて肩を竦めてみせれば彼はその場に座り込んだ。促されるままに隣に屈むと、間を置かずに伝え忘れていたことがあると告げられる。 

 

「ジェームズ、彼は昔僕が居た訓練所の後輩だった。」

「は?」 

 

素っ頓狂な驚きが漏れ出た。思わず彼を凝視する。思いも寄らぬ発言をした本人はどこか闇の彼方、深層世界にはないものを遠く眼差していた。望郷とも形容できる目遣いで。

日曜のミサで流れるオルガンめいた音色でピョートルは語り始める。 

 

「彼はEkS候補生だったんだ。僕より二歳下で確かあの頃はまだ七歳だった気がする。」

「ピョートルは九歳か。」 

 

彼は点頭することで答えた。 

 

「ほら、さっきトメさんが言ってたでしょ、十三番トリソミーだって。その所為か不安定でいつも泣いてるか、声を奪われた人魚姫みたいに何も口にしないかの二択だった。それでも僕の前では比較的喋ってくれた方だったと思う。」 

 

けれども人魚姫は声の代償に人間の足を、ジェームズはEkSを手に入れた。彼は超越的な数学者だった。現代における世界最速のスーパーコンピューターはアメリカオークリッジ国立研究所(ORNL)が開発したFrontier(フロンティア)とされているが、潜在能力を活性化させたジェームズはそれに匹敵する数学的頭脳を有していたという。毎秒百十京回の演算を可能とする技術の集大成とも謂わしめられるフロンティアと演算能力で対決し、物の見事に全勝し技術者に血涙を流させたそうだ。 

 

「あまりに不憫で、一度こっそり逃してあげたんだ。」 

 

EkS開花訓練において挫折する訓練兵は少なくない。血も涙もない科学者の実験台として白鼠にも等しい扱いを受け、一息吐く間もなく冷徹な教官の指導で死に際に追いやられる。ストレスを溜めた訓練兵同士のリンチも珍しくなかった。

 

シベリア最深部、眼が眩むほどの白銀の平地に聳える孤城はまさに地獄の玄関口だった。地球の大きさと比べれば何千、何億分の一も狭小な敷地には憎悪、嫉妬、憤怒、頽廃で腐朽しきっていた。埃や浮遊ガスを吸収した地上に舞い降りてしまった雪が立ち所に無垢を失うように、一度(ひとたび)鉄門を潜り抜けた少年少女は二度と純粋を抱えて外に出ることはできない。雪は舞い降りる場所を選べない。 

 

体力も精力も尽き果てる前に己を救いたいと思うのは人間の本能じゃないだろうか。

ピョートルがEkS訓練生として過ごした九年間に幾度となく兵士らの間で逃亡計画が企てられた。ピョートル自身は一度として参画したことはなかったが、ジェームズを逃す際に初めて計画に加担した。けれども作戦は失敗、彼を含めて逃亡計画を施行した数名が既に防諜員として活動していた同門に捕縛され徹底的な仕置きを受けた。あくまでジェームズを逃す為に助勢したピョートルは兎も角、彼以外の逃亡犯がその後どうなったかはきっと此処よりも血腥くて昏い闇の中だ。 

 

「けどあの一年後にD通告事件が起こったことを考えるに…」

「お前と同じくこってり頭ん中弄られてMI6に天下りさせられたってわけか。」

「元々諜報員として活動できるか怪しいほどコミュニケーション能力に乏しかったからね。」 

 

囁くように彼は云った。概念的なこの場所では言動に表さずとも彼の哀感が自分のことのように伝わってきた。

此処はまるで墓場だ。俺達の過去も現在も未来も、荒れ果てた砂地に水が染み込むように克服できなかった道理と無理とが一緒くたになって静かに息衝く安置所だ。 

 

「もう少し早く言って欲しかったな。」

「十年以上も前だから流石にぱっと見じゃ分からないよ。」

「それもそうか。」 

 

不意にピョートルが立上った。動きに合わせて水面が揺れるかのように取り止めのない闇が波紋を広げた。 

 

「もうすぐ起きるだろうけど呉々も気をつけて。フレイザーは過去にイギリスのEkS訓練機関で教官を勤めてたこともあるやり手なんだ。」

「まじで?なんで俺そんな大事なこと知らないわけ?」

「さあ、記憶の譲渡に問題があったのかもしれない。また今度じっくりお互いの記憶を照らし合わせてみよう。」 

 

差し出された腕を掴もうとして何かに引っ張られるように地面に縫い付けられる。現実に戻る時の兆候だ。俺との別れを察知したピョートルが矢継ぎ早に何かを告げてくる。けれども音が耳朶に届くよりも早くに意識が引っ張り上げられた。 

 

………。 

 

強烈な不快感が滝のように襲ってきたことで俺は覚醒した。起きがけに視野に映り込んだ空っぽのバケツに我ながら滝とは上手い言い回しだと自画自賛した。水が苦手と判っていながらドライアイス入りの冷水で盛大な嫌がらせをしてくれたのはもう一人の名前も知らない男だった。浜辺の砂みたいな燻んだ金髪と頭部のプリンをみっともなく眉辺りまで伸ばした如何にもリバプールから出てきた風采の壮年の男だ。 

 

「起きたか、糞餓鬼」 

 

前言撤回。発音もリバプール北西部の中心都市の住人そのままだった。1LDKの一室のダイニングチェアに俺は縛り付けられていた。不心得にも麻ロープで施された手枷縛りに胸中で嘲笑って燃やしてやろうとして、いつもは感じられる感覚がぱったり消え失せていることに気付く。

嫌味に上手い口笛が聞こえた。眼を移せば逆座りしたフレイザーが背凭れに前半身を預けて空になった注射器をぶら下げていた。 

 

「カナン博士か、本当に碌なことしないな。」

「お前がダラダラとマンションで寛いでる間に取り寄せたのさ。」

「余計なことを」

「無駄話は終わりだ。」 

 

憎まれ口の応酬を妨げて片方が俺が棄てたナイフを握った。色素の薄い片眉をスッパリと両断しているのはハリーポッターの稲妻のような傷跡だ。さも融通が効かない奴だとでもいいたげにフレイザーがやれやれと溢した。 

 

「リストは何処だ?」

「悪いが何の話か」 

 

刹那、俺はイギリス人に横顔を晒していた。寸秒遅れて左頬に鋭い温もりが伝いだす。ナイフで殴られたと理解するのにそう時間は掛からなかった。 

急速に熱を帯び始めた頬に冷たい感触が触れた。 

 

「お綺麗な顔が傷つくのは嫌だろう?」

「気ィつけろよ、ソイツはちっとばかし気性が荒いんだ。俺達の間じゃ拷問好きのドーベルマンって呼ばれてたんだぜ。」

「ドーベルマン?てっきりリバプール出身のハリーポッターかと思ってた」 

——この野郎っ! 

 

右腿にナイフが突き刺さった。思わず叫んだ俺を見下ろしてソイツは満足げに口角を引き攣らせた。スリザリンのポッターだった。 

悶えた弾みに落とした携帯をソイツは腹いせにコンバットブーツの踵で粉砕した。その失態には気付かずに。 

 

「くっククク」

「フレイザー、お前もぶっとばされてェのか。」

「いやー悪ィ悪ィ、クッ…ハリーポッターとはな、お前センスあるなァ」 

 

それにしても待遇の違いに物申したいところだ。心証を漏らしただけでナイフで斬り掛かり挙句突き刺してきた男は、同様の発言をしたフレイザーをもはや救いようのない馬鹿を見る目で侮蔑するだけに留まった。…いや、激昂か軽蔑なら前者の方がずっと好い。 

先程の子供が離れたベビーベッドで寝かされているのを盗み見ると俺は密かに紐を解き始めた。最悪な折で、男は刺さったナイフを態と抜かずに捻り始めた。 

 

「ぐァ…!」

「知ってるか?今となっちゃ俺が唯一のエコーだ。」

「ク…っそ、触んな!ウ゛ぁアッ」

「仲間を殺したお前に容赦はしねェ。これ以上痛い思いをしたくねェってんなら洗いざらい話すことだな」 

 

視界が焼けた。明滅する度に真っ白な瞼裏にこの家に入ってから見た支店長の奥さんの死体が過ぎる。裏金に手を染めた旦那の妻であるという理由だけで無惨に殺された哀れな横顔が。何の罪もないと訴えたまま訳もわからぬまま視力を失った双眸が。未練すら抱く隙もなく殺された。

 

「罪のないッ、人間を殺しといて、よくも…言えるなっ!」

「聖人ぶるな。お前だって散々そうしてきただろ」

Я не такой, как вы(お前らとは違う)!」

「いーや、同じだ。俺たちゃあ同じ穴の狢なんだよ。」 

 

また目に映る凡てが赤く迸った。頬や足の鈍痛ではない、もっと裡側から渦巻いて溢れ出す激情だった。男の言葉を否定する術がない、その事実がナイフなんかよりも鋭利な棘となって俺の心を深々と突き刺した。自分から非難を飛ばしておきながら、同程度の正論で突き返されると不整脈もかくやの動悸が目紛しく起こって、平衡感覚すら奪われそうになった俺は何度か浅い呼吸を繰り返す。幾許か耳に五月蝿い心拍が治ってから、敢えて話題を逸らした。

 

 

 

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