遂に迎えた十二月二日、首脳会合の開始時刻は今から一時間後の午後二時。訪日した二十カ国の首脳を乗せた専用車が各セッションに挑む為に会場へと赴いている光景がメディアに引っ切りなしに取り上げられていた。パレード目当てに見物客が雲霞の如く押し寄せる地域一帯には対抗せんとばかりに警備隊が集中している。シェアリング博士を連れ出すには最適の時間帯だった。
ある意味人生の重大な転換点にいるともいえる俺の服装は鼠色で統一されたシンプルなシャツに伸縮性のあるズボン。どちらも肌に密着するタイプを選んだのは場所を移動する際に早着替えが可能だから。万が一にも東都の顔馴染みに篠宮焔を見られるわけにはいかないのでカラコンを取り外して黒髪も白髪に戻した今の俺は素のピョートル・ノリリスクだ。持参する荷物は必要最低限の腰ポシェットと足首ホルスターに一挺のM92のみ。
住み慣れたアパートではなく武器その他諸々を保管しているマンションで早朝から支度をしていればイシードルが部屋に入ってきた。「はいこれ。」と渡されたのは小さな端末とIDカード。何の事はないふうに、連絡手段とホテルと会場の社員証だと告げてくる。それから片耳用のイヤホンも差し出して。
「このイヤホンは緊急時に使うといい。そこのボタンを押せば俺が直ぐに応答する。返事がなかったら駆けつけるから。お前は一人の方が動きやすいだろうからな。」
「
「なーに、俺とお前の仲じゃん。んで作戦は?」
今回の水面下での工作において最重要の目的は俺の命綱を握るウイルスを間接的に扱える博士の保護、そして裏会合への潜入。博士に関してはイシードルの助力を得て数日かけて軟禁場所を突き止めた。
今日の舞台は杯戸町、米花町に勝るとも劣らぬ犯罪率の町。杯戸シティホテルの四十階四〇六号室のスイートルームにシェアリング博士は軟禁されている。今から一時間以内にシェアリング博士を組織の人間から拐わし、黒の組織の傘下の製薬会社にてウイルスを注射してもらうのが目下の作戦だ。次に秘密の会合が開かれる時間帯は夜八時頃。シェアリング博士をイシードルの元まで送り届けたら会場に向かい係員に扮して夜まで過ごす。その後、シェアリング博士にはほとぼりが冷めるまでセーフハウスに隠遁してもらい、連中の活動が沈静化した頃合に偽造身分証を持たせて国外に逃す。存外無造作に思えるが一糸の綻びで全体が崩れ落ちる一種冒険的な作戦だ。
はかりごとの大まかな流れを伝えて博士の保護をお願いすればイシードルは快く頷いてくれた。
「全て終われば迎えに行くから連絡しろよ。今回は公安が出張るだろうな。」
「ああ。」
用心に用心を重ねて、不測の事態を想定して危機回避策も入念に練っているうちに出発の時は迫ってきた。ディアブロ滝の不安定な踊り場に差し掛かったような緊張感が下腹から込み上げて気を詰めると、そんな俺の背中をイシードルが添えるように押してくれる。とん、と一身に寄せられた信頼が勇気と意欲を沸き立てて、どんな困難でも突き破って進めそうな堅固な決心を胸に一時の別れを告げたーー。
*
杯戸シティホテル。現実ならば報道機関がこぞって特集を組むほどの一大事件が原作軸においては四度に渡って誘発されるホテルである…としか紹介しようがないのは些か冷ややかな笑い草だ。アポトキシン4869を服用して姿形だけ少女返りしたシェリーこと灰原哀が一時的に大人の姿に戻って運悪くジンに追い詰められる物語などが有名どころだろう。屋上に会場、倉庫で銃撃戦からの大火災という悪くいえば事故物件、良く言えば死神の聖地ともいえる象徴的建築物だ。これから此処で撃針に雷管を打たせまくる俺も実質コナンと何ら変わらない、聖地利用者第一号といったところである。勿論、なるべく穏便に済ませるつもりではある。
イシードルに用意して貰ったICカードで裏口から侵入して、更衣室でバトラーの衣装を拝借する。白のテーブルクロスが敷かれた台車にワインボトルとフルーツを飾り、ルームサービスを装って従業員用エレベーターに乗り込んだ。
四〇六号室に到着すればボディガードらしき男が二人、部屋の前で動く壁となって周囲を警戒しているのが見留められた。左胸の膨らみと廊下に設置された監視カメラの位置を把握すると、顔が識別されないよう帽子を深く被って台車を押し進める。
部屋の前まで辿り着き停止した俺に、怪訝の色を面持ちに彩らせる男達に営業魂を燃え上がらせた従業員らしい笑顔をつくった。
「本日からシェアリング様のバトラーとしてお世話をさせていただくダニエル・Lと申します!早速ですが、ウェルカムドリンクと総支配人からの言伝を預かっております!」
客が冷める勢いで溌剌と告げれば無愛想な二人も流石に面食らった様子で互いに目じらせする。満面の自称バトラーを頭の上から下まで観察して、如何にも人畜無害な男の軒昂だけを読み取ると、一人が徐にカードキーに手を伸ばした。
——瞬間、台車が瞬きの後に廊下の突き当たりに疾走した。壁に衝突した車輪が外れる音に紛れて骨の砕ける音がした。
間をおかずに二発、銃身に取り付けられたサイレンサーが発砲音を減じる。否、くぐもった銃声というよりかは発生源の定まらない不協和音を奏でたといった方が正しいだろう。…実の所、サイレンサーというのはアニメや映画で描写されるような効果はない。そもそも完全な滅音という機能などなく、あくまで相手に己の場所を悟られないようにする為の手段であって決して発砲を勘付かれずにする為のものではないからだ。それでも周囲の部屋に響かない程度には抑えることはできる。
前触れもなく心臓を貫いた熱に手負の獣の如き唸りを漏らして崩れ落ちた男達を清掃用具置場に押し込む。腰に付けられた鍵を奪ってキーリーダーに差し込むと、間断なく弾みをつけて扉を開いた。
全力で開放された扉のドアクローザーが限界を超えて弾け飛ぶのと、筒音が重なるのは同時だった。廊下での異変を察知して入口で銃を構えていた男をコンマ数秒の差で射殺すると、次いで扉を縦に腕を回して扉の後ろに隠れている人影に向かって射撃する。眉間を撃たれた男は呆気なく臥した。
「きゃああア!」
甲高い悲鳴が上がった。視線を滑らせれば、出し抜けの襲撃に震え上がった一人の女性が頭を抱えてベッドサイドに屈み込んでいる。彼女の悲鳴を耳にしてもう一人がバスルームからフローリングを踏み鳴らして駆けつけてくる。奴の視界がこちらを捉えた瞬間には俺は引き金に指を掛けていた。
パンッ!と再び火薬が咆哮した。銃口から放たれた弾丸は高速で回転しながら相手の心臓目掛けて一直線に飛躍。最後の男は斃れた。尚も腕を下げずに完全制圧を確認すると、漸く銃を腰に差してベッドサイドに歩み寄る。蹲って震い戦く女性はすっかり怯えていた。
「お願い、殺さないで…」
イギリス出身だと一聞で判る特徴的な英語の訛りが俺の耳朶に小さく届く。血の気を失って必死に懇願する彼女をよくよく観察してみる。
後頭部で一つに束ねられた柴染の混じった憲法色の綺麗な髪。白人特有の色素の薄いきめ細やかな肌と陰影のはっきりした目鼻立ち、それらが互いを高め合い理知的な品性の良さを強調している。強引に連れてこられて乱暴をされたのだろう、服の隙間から青白い痣が見え隠れしていた。曲がりなりにも地球上の秩序の安寧を存在意義として発足した組織の末端が、人もなげに庇護を受けるべき存在をぞんざいに扱う横道の振る舞いに不快感を眉根に露わにすれば、彼女は俺を怒らせたと思い違い一層生気の欠けた顔をした。
我に返った俺は憤慨で握りしめた拳を緩和させる。一先ず落ち着かせるべく両手を挙げて三歩ほど距離を置いた。
「落ち着いて、俺は敵じゃない。貴女を助けに来たんだ。」
その場で屈んで子供に接するように目線を合わせて、穏やかな口調で話しかける。まるで警戒する小動物の動作でほんの少し面を覗かせた彼女の瞳は浮上した困惑と失せきらない恐怖とで潤っている。
「シェアリング、マルタ・シェアリング博士?」
改めて問い掛けてみる。震えを収めて俺を注意深く仔細に眺めるた彼女は俺が唯の無頼漢でないことを理解して、蹲るのをやめてこちらに向き直った。
「ええ、」
「無事で良かった。俺はピョートル。貴女の身の安全は必ず保証する。まずは奴らが異変に気付く前にここを出よう。」
「待って、一体何が」
「時間がないんだ、説明は歩きながらするから今は俺を信じて従って。」
それから俺は制服を、シェアリング博士は今の衣服を着替えるとホテルを出て足早に駐車場に向かった。
*
猛スピードで走行する一台のブロンクスが激しい排気音を響かせる。疾風の如く走り抜けるインドリクに、偶さか遭遇した通行人は各々何事かと慄き道脇に逸れた。公害に等しいバイクの騒音にパトカーのサイレンが迫る気配が一向にしないのは予め監視網を外れた裏道を見極めた成果の表れだった。
目的地の製薬会社まで最速で半刻、ホテルでの混乱から幾分か静まった博士を説得するには十分な時間がある。ビュンビュンと風を切る音に負けないように、前を見据えつつ背中に向かって大声を張った。
「ここに連れてこられた理由を聞いても?」
「分からないわ…突然同僚が大量殺人を犯したと思ったら、訳も分からなず警察署から引っ張り出されて…家族に電話する暇もなかったッ。もう何が何だか分からないの!』
頼りなく震えていた声音が徐々に荒ぶりを滲ませだすと宥めるべきだと断じて路肩に停める。サドルに掛けたまま横顔だけを見回せば、ヘルメットのウィンドシールド越しに涙を堪える博士が既に溢れてしまった、入り乱れた感情を取り戻すかのように自身を抱き締めていた。バイクを停めた拍子に遂に恐怖と混乱と憤りにすっかりと滅入ってしまった彼女が遁げ出そうとする腕を掴み取る。
「あの人たちは誰ッ?ねえ、説明してよ、一体何が起こってるのよ!」
半狂乱な怒声は、魂の底からの救難信号だった。普通に生きてきて、普通に働いて、その他大勢と変わらない平穏を望んできた...だというのに彼女が求めた平穏はするりと、恰も儚い砂の城の如く崩れ落ちてしまった。当たり前として享受してきた日常が嘘のような不条理に崩壊させられたのだ。それも彼女自身が築き上げてきた研究職という軌跡の一欠片によって。その耐え難い苦楚が、恐れが他人事ではないと緊緊と俺の胸を締め付けてきた。
俺の置かれた立場を具に告白しようものならきっと博士を巻き込んでしまうだろう。けれども下手な嘘を吐いてまで彼女から束の間得た仮初の信頼を棒に振ってしまうくらいなら...
「あいつらは政府の人間だ。非人道的なことでも法の下で平気でやってのける合法的な悪魔の集団、一度目を付けられれば世界中のありとあらゆる技術、人脈、豊富な人員、全てを駆使して地獄の果てまで追いかけてくる、そういう奴等だ。」
今は全部を打ち明けられなくても無関係ではない限りは何れ知る時が訪れる。
「貴女が生き残る為には俺の協力が必要だ。それと同時に俺も貴女の協力なしでは生き延びられない。…マルタ・シェアリング。貴方は生きたいか。」
教え諭すように現実を突きつけて、真剣な声色で語りかけるように尋ねると沈黙が落ちた。都会の喧騒で、向き合う俺達を包む空間だけが騒めきから隔たれていた。俺の言葉に幾分か冷静さを取り戻した博士はやがてこくりと頷いて再びバイクに跨った。
...........。
「今日からは俺が用意した安全な場所で暫く身を潜めてもらうけど、その前に手伝ってもらいたいことがある。」
曲がり角を曲がるたびにインドリクの尻を器用に振らせて東都の街並みを駆け抜ける。二人乗りの経験がない博士が振り落とされないように気を配りつつ爆走する道すがら、俺は博士にEkSについての説明を施した。
「赤と青の錠剤を知ってる?博士の研究所にも数人のエージェントが薬の補充と身体検査に来たはずなんだけど。」
「知ってるわ。今はNOAH-150を筋肉に直接注入することで変異した染色体と全細胞の間隔を半永久的に維持できるようになった…半年前から錠剤は廃止されてるけど、まさか貴方まだ飲んでるの?」
「いや、この間残りを失くしちゃって注射をしないといけなくなったんだ。細胞の崩壊が始まっててもう十五回も吐血を繰り返してる。一日中頭痛と筋肉痛も酷い。」
事情を話すと博士は納得したと言わんばかりの面持ちででウイルスについてを教えてくれる。
「完全に適応するまでの一週間は細胞の変化に従って吐血や頭痛といった症状が観察されてるわ。それから重要なのが、筋肉注射をしてから三十分足らずで体が動かなくなって少なくとも二十四時間昏睡状態に陥るわ。』
「待て。今なんて言った?」
「だから、ウイルスを注射したら丸一日は安静にしないといけないの。」
会合に潜入するチャンスは今夜しかない。ウイルスの注射の失敗、それが意味するところは計画の頓挫。
「駄目だ、今夜八時に絶対に外せない用事がある。ウイルスを外に持って出る方法はないの。」
「無理よ。真空タンクで保管されたウイルスはそこから注射器で取り出した瞬間に空気に触れるから十分以内に使用する必要があるの。」
「
退っ引きならない事態に焦燥を吠え立てれば博士は怯んだ目付きで中空を彷徨わせる。考え迷った風に腰に回した腕に力を込めると、「…一つだけ方法があるけどとても危険よ。」とか細く言葉を紡いだ。俺が構わないと先を促すと、想像も及ばなぬ荒技を打ち明けた。
「ウイルスを注射して最短で五時間後にアドレナリンで強制的に意識を覚醒させるの。ただでさえ作り変わってる細胞を....特に心臓の働きを強めて末梢の血管を縮める事になるから、心肺停止になる危険性が高いの。そうなってしまえば下手に手を施せなくなる。病院のお世話にはなりたくないんでしょ?」
「間に合わないよりはましだ。俺に何かあれば相棒が貴方を助けてくれる。だから先ずは俺を手伝って。」
逡巡なく点頭した俺に須臾の間俯き思案していた博士だったが、やがて悩む素振りをやめて堅い根性を両の眼に据えた。静かに答えた彼女の面差しはもう臆病な被害者などではなく、毅然とした科学者の矜持を閃かせていた。
*
製薬会社は極ありふれた外観を保ってビジネス街の一角に佇んでいた。裏口ではなく入口手前でバイクを駐車してエントランスに入ろうとした俺達に二人の門番が立ち塞がる。人目の多い場所で非行に振る舞うわけにもいかず、適当な託言を探していると博士が目配せを送ってくる。交わされたウインクは調子を合わせるように暗に告げていて、大人しく頷けば彼女は一歩前に出た。
「すみません、ジョゼフ係長はいませんか。マルタ・シェアリングが来たと伝えてください。」
唐突な訪問者の台詞に不審がっていた男達は、更に二、三言彼女が付け加えれば通信機を出して内部と連絡を取り始めた。
三分後、案内されたエントランスに一人の男が現れた。肥大した腹を大きく突き出した肥満型の西洋人で始終汗塗れの暑苦しい額をハンカチで拭いながら、博士の姿を見るや否や満面の笑みになる。シェアリング博士、と掛けられた声調は癖のないアメリカ英語だった。
「久しいですな、お元気でしたか?」
旧知の仲である博士が挨拶を交わすと、彼女は俺を同僚のフィリップス博士だと紹介する。差し出された手を握れば、脂ぎった手がギュッと握り締めてきた。その太々しい体つきには順当な厚かましさだ。
「しかし私の記憶違いでしたかな。今日は何処からも来訪の通達は来ていなかったもので。」
「私達も突然予定が変更されて急遽来日したの。...ねえ、突然で申し訳ないんだけど今日から研究を始めたくて。」
途端、ジョセフの歯切れが悪くなった。明日から他の用事にかかりっきりだと搔き口説いてみるも手応えがない。雄弁だった博士の瞳が揺れ始めると、助け舟が必要かと割って入る。
「必要なら上には僕から連絡しときます。ね、お願いします。」
上という単語に過剰に眉を反応させたジョセフは直様難色を示すのを止めて、快く案内を申し出た。
...この建物はあくまで製薬会社の数ある研究施設のうちの一棟に過ぎず、地上は四階建て、地下二階建ての規模の小さい造りとなっている。ジョセフに連れられ従業員用エレベーターを使って地下二階に降りると、彼は用事を思い出して足早に踵を翻した。
彼の配慮か、見張りや回警備員は一人も居らず地下室は閉鎖病棟の雰囲気を漂わせて閑散としている。蛍光灯の安っぽい照明が歪に点滅する様は今にも足首に冷え水を掛けられそうな言い知れない雑駁感を抱かせた。
念押しに周囲の部屋を確認してから実験室の鍵を閉めると、早速博士は準備に取り掛かった。
先程、イシードルに連絡を入れるとアドレナリンの投与に酷く反対されたが最終的には全面的な支援を約束してくれた。これで保険は掛けられた、若しもの事態に陥ってもシェアリング博士は政府機関の悪意が及ぶことのない海外で心身ともに安全無事に余生を過ごせるだろう。見ず知らずだった俺の命を預かる覚悟を、気概を示してくれた彼女の幸せを望んでいるし、何よりもイシードルを信じてる。電話では注射直後に養生できるホテルを用意しておくと言ってくれたので直にメールが届くだろう。
ジャケットを脱ぎ袖を捲って待機していると、機敏に支度していた博士が紫色の見るからに怪しげな液体が収められた注射器をトレイに乗せて持って来る。
「それが?」
「ええ、これを今から貴方に注射するわ。…本当に良いのね?」
緊張に強張った面持ちで博士は今一度問うてくる。言葉なんて要らないと、彼女の澄んだ茶色をしっかりと正視すると愈々腹を括ったという風に博士は深呼吸をした。楽な姿勢で座るように促され実験台の上に深く座る。
六十平米以下の間口の実験室に
肩峰から三横指下あたりにアルコール綿のひんやりと冷たい感触を伝えてくる。予告もなく、極太の針が上腕部を突き刺した。微かな疼きの後に薬液がじわりと血液に浸透していくのを感じた。
注射器の空筒に収まる薬液が余すところなく体内に注入されたのを見届けると、博士は肩の緊張を解いた。俺の首の頸動脈に指を当てたり、瞳孔に光を当てたりしてはペンを走らせて、「眩暈は感じる?吐き気とは頭痛は?」と顔を覗いてくる。一度頭を切り替えれば、迚も斯くても研究者気質の女性らしくない機械的な挙動に俺はかぶりを振ることで応える。特に違和感はなかった。
「どこか痛いところは?」
「ない。」
問答を終えると博士は検脈を終えて、一先ず溜飲を下げように息を吐いて道具を片付け始めた。今から三十分以内には一切の妨害が及ばない心丈夫な空間で安静にしなければならない。俺は台から降りて肩をぐるりと回すと片付ける彼女を手伝い始めた。
と、メールの着信音が室内に響き渡る。画面を開けばホテルの一室を確保した旨の連絡が相棒から届いてた。住所を確認していると、耳元に嵌めてからすっかり存在を忘れちた緊急用通信機が通信を伝えた。
『ピョートル、聞こえるか。』
「聞こえる。何があった。」
『研究所の通信を傍受してたらシェアリング博士の画像が数分前に送られてた。それと杯戸シティホテルが騒がしい、組織の実働隊が動く前に早くそこを出ろ!たった今け…』
惜しくもそこで通信は途切れた。
——強くドアを叩く音が密閉された地下室に響めく。
躊躇いもせず扉を開けようとした博士を引き留める。手振りで俺の背後で無言でいるように指示して、彼女が点頭するのを確認してからノアノブを捻る。隙間から覗いた廊下には警備員らしき男が四人立っていた。
「どうしましたか?」
研究者らしいぶっきらぼうを貼り付けて要件を訊けば、目前の男が俺の背後で隠れる博士を一瞥する。
「そちらのシェアリング博士に用事があります。貴方も着いて来てください。」
「穏やかじゃないですね。そちらの許可を得てここで作業しているというのに。」
「穏やかに場を収める為にもご協力ください。」
「…そう云われては拒否しようがないですね。分かりました、博士、行きましょう。」
…廊下に出れば前後に二人ずつと、男達に挟まれてエレベーターに同乗する。定員十三人の中型は然程狭くはない。唯乗っているだけなら、という条件付きだが。
最後の一人が乗り込んで地上階へのボタンを押すと、老朽化まっしぐらなエレベーターはギギと亀のような緩慢な動作で扉を閉ざした。
「警備員さん。」
無機質な機械音だけが狭く木霊する空間を己の抑揚のない声音が貫く。前方で後手に両手を組む男が冷淡な目付きでこちらを瞥見した。
「なんでしょう。」
「警備服の右肩にはモールという紐が付いてまして、これは単なる紐ではないんです。」
男からは反応がない。気の所為などではないだろう、博士の左隣に控える一人が密かに肩を揺らしたのを俺は見逃さなかった。動作の遅いエスカレーターがあと数十秒で辿り着く前に巻き舌で続きを紡ぐ。
「付け方は意外と簡単で、左手を脇下から回してモールを入れたらボタン掛けをして留めるだけ。向きにも礼儀があり、正面から見て編み目が人の字に見えるようにつけるのが通常です。…警備職に就く貴方方なら当然ご存知でしょう。」
誰一人答えない。しかしそれこそが答えだった。
博士が俺の言葉に男達の服装をそっと盗み見る。モールは右肩に付いているが編み目はVを象っていた。残りの三人は博士の位置から見分けはつかないだろう、が少なくとも俺の前にいる男が左肩にモールを付けているのには心付いたはずだ。...警備員を装った男達の身分の不透明さに。
途中、エレベーターのドアが痛たましい音を立ててのっそりと開く。中に六人が乗車しているのを捉えると、大きなワゴンを引いていた従業員は諦めてエレベーターを譲った。再びドアがゆっくりと閉まっていく。刹那、 俺は鋭く囁いた。
「屈め。」
単調な命令に、咄嗟に博士が膝を折り曲げる。それを見届ける間も無く俺は行動に移した。
最初に銃を抜とろうとした男の人中目掛けて突きを放った。流れを殺さずに重心を右足に預けて、斜め後方から拳を振り被ってきた奴の下腹を蹴り飛ばす。
「ぐぁ!」
防御の甘かった男は壁に吹っ飛び後頭部を強打して卒倒した。カチャ、スライドが引かれる音に反射的に頭を下げる。すると丁度顔のあった箇所を通過して一発の銃弾が眼前の男の眉間を貫いた。
背後で尚も引き金を引こうとする男の鳩尾に捻り拳を叩き込む。めり込んだ衝撃に「ガっ…!」と嘔吐いたソイツが武器を落とすのを捉えつつ、勢いをつけて足を振り上げると頭頂部に下ろした。
強烈な衝撃を理解する間もなく男は膝から崩れ落ちた。この間二十秒未満。
急いで開閉ボタンを押せばまだ稼働していないエレベーターは地下一階に留まったまま扉を開いて停止した。
「博士、もう大丈夫。」
杯戸シティホテルの時と同様に頭を抱え込み荒事の終わりを待っていた博士が顔を上げる。度重なる異常事態に適応しつつある彼女は卒倒する男達を見てももう驚かなかった。俺は立ち上がった博士の手を力強く引いて駆け出した。
..........。
「はぁっ、はぁっ…!」
階段を一気に駆け上がった頃には博士は息を切らして肩で荒々しく呼吸を繰り返していた。乱れた息を整えさせようと立ち止まれば、ガソリンが底をついた自動車みたいに彼女はがくりと膝をついた。
裏口の扉を開錠するべくカードキーを求めると、彼女は慌ててポケットから取り出しす。…ICカードは反応しない。恐らく先程の男達が出向いた時点で建物内のプログラムが博士の認証を停止していたのだ。エレベーターを降りた直後から館内警報が騒々しく喚き立てている。こうなっては強引にこじ開けるしか道は残されていなかった。
扉はステンレス網製のスイング式、壊すにはもってこいの素材だ。
俺は博士に数歩下がるように促してから扉の真正面に立つ。
じわ、と黒煙を昇らせてストライクを這う粘り気の高いマグマを発現させる。ステンレス製のドアノブに歪に映る自分は双眸が深紅に光っていた。
は、彼女の息が短く漏れるのを聞き取った。電気錠が許容値を超えた高熱に溶けていく。数秒間熱を当て続ければ十分だった。
マグマを収めて踵に軽く力を込めれば扉は呆気なく前に倒れた。火器探知機とセキュリティアラームが一層姦しく騒ぎ立てる。
俺は振り返って今し方の光景に硬直する博士を置いてバイクを裏口に回すと、彼女の腕を引っ掴んで建物を後にした。