俺が消えた日   作:れいめい よる

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Worst daydream

 

 

長年整備のされてないあのエレベーターには目立たないように監視カメラが設置されていた。製薬会社の連中は映像越しにこちらの実力を図ったらしく、到底力不足であることを悟ったためか俺達が脱出しても追手を寄越さなかった。そのお陰で体力を無駄に消費することなく俺達はイシードルが指定したホテルまで無事辿り着くことができた。

 

『ピョートル!無事だったか…。何度も通信を試みたんだが繋がらなくて焦った。』

 

部屋に着いて早々イシードルに連絡を入れればやや昂ったロシア語が飛んでくる。「地下にいた。」と答えれば『そうか。』と彼はいつもの穏やかな口調に戻った。

 

『ホテルと周辺の監視カメラは俺がリアルタイムで操作してるから心配すんな。言いたくはないけど若しもの時にもちゃんと備えてるから。」

「それで良い、ありがとう。」

 

通話を切ると、ベッドに身を投げ出した。コイルの一個一個が独立した体圧分散効果に優れたポケットコイルタイプが、放り出した手足を器用に胴上げしてくれてるような繭ごもりの心地だ。格段寝心地に優れているわけではないけれど、極寒の非常階段やコンクリート壁に身を預けて仮眠を摂っていた頃に比べれば天と地の差だった。

自然な寝姿勢を保っていると、段々と瞼が重くなってくる。ウイルスが隅々まで染み渡ったあとの身体が意識を夢の世界へと誘おうとしていた。海を揺蕩う木船に寝そべっているかのような感覚が、現実と意識の境界線が朧げにしてゆく。

シャワーを浴びた博士が濡れた髪をタオルで乾かしながら歩み寄ってきた。

 

「博士、眠くなってきた。」

「そう…予定通り五時間後、午後八時十分に覚醒させるわ。」

「頼んだ。」

 

いつか母さんが風邪で熱に浮かれた俺の頭を撫でてくれた時のような安らぎが額に触れた。自然と気が緩んで夢見心地に身を預けようとして、「ねぇ。」と絹糸のようなか細い声音が耳朶を掠める。重たい瞼を持ち上げて目線を動かせば博士が映った。何かを言い難そうに唇を揺らす彼女に、研究所での一幕が過ぎる。扉を溶かしたことについてだと思い当たって倦怠感のある上体を無理矢理に起こすと、掌にマッチ棒程度の火を灯してみせた。

 

「見ての通りだよ。あれは俺が所属してた組織の...ううんと、極一部の人間が獲得できる超能力。あの時はマグマを自在に操って金具を溶かして壊したんだ。科学者の博士には信じ難いだろうけど。」

 

そう云うと、何故か彼女は急に伏目がちになって肩を震わせ始めた。小刻みの振動に、お風呂上がりの無造作に束ねられたお団子から一筋の前髪が垂れる。何かを堪えるように目を固く瞑ると、ポロポロと涙を流し始める彼女に俺は眠気も半ばに面食らった。

 

「ど、どうしたの?」

 

出し抜けに泣き出した彼女に慌てふためいた手を伸ばす。まさか怪我でも負っていたのではと思って訊いてみれば、堰を切ったように欷泣しながら緩やかにかぶりを振って…

 

「貴方今いくつ?」

「十八だけど。」

 

到頭対応に窮して惑う俺に、彼女はずっと秘めていた胸襟を告白しだした。

実直に向き合ってきた現実を忽然と塗り替えた同僚の銃乱射事件。通い慣れた仕事場で、慣れ親しんだ同僚が自分以外を殺して生き残った悲劇。状況も把握できぬまま家族友人に別れを告げることすら叶わず日本に連れてこられたこと、眼前で幾度となく殺戮が繰り広げられた悪夢。それら凡てが最悪の明晰夢であるならばどれ程救われたことか。

 

「…私より何歳も年下の貴方がそんな筋合いもないっていうのに赤の他人の私なんかを救ってくれた。身体を張って守ってくれた…きっと私よりも散々な目に遭ってきたでしょうに、私ったら自分のことばかりで!」

 

不吉な幻覚に苛まれていると信じ込む方が身に降りかかる全ての災難が現実だと受け入れるよりもよっぽど気休めになっただろう。俺がピョートルを騙った別人の中身であることなど知らずに、彼女は只々俺の不運を嘆いてくれている。その純粋な慈愛がこそばゆくもあり、同時に良心を呵責に苛んだ。

 

「混乱するのは当然だよ。誰しもが不条理に訪れた不幸に抗えるわけじゃない。それでも突然現れた俺なんかを信じられたのは貴方が芯の強い女性だからだ。優しさに救われたのは俺の方だよ。」

 

奇妙なことに、こうして心情を吐露してみると彼女と正対しているのはピョートルではなく、本来の俺自身だと実感できた。

垂れ下がった一束の横髪を指で拾い上げて耳に掛けてあげると、次第に涙を引かせた彼女は花が開くように綻んだ。

 

「貴方って本当に…いいえ、こちらこそありがとう。後のことは任せて、貴方ならきっと大丈夫だわ。」

「うん、よろしく。」

 

子供をあやす母親のような慈愛に満ちた手付きで頭を撫でられて、安心して瞼を閉じる。今度こそ意識は沖に向かって引いていく波のように遠のいていった。

 

* 

 

同日午後七時三十分、G20サミット会場。

サミットに伴う大規模パレードの警備に配属された新米巡査、佐藤美和子は己が担当すべき持ち場から離れて独りサミット会場に訪れていた。 

 

「もうっ、一体どこに逃げたのかしら。」 

 

午後二時に寸秒の狂いなく陽気なラッパの高鳴りと共に開かれたパレードは群集で賑わい、街は快活な熱気に漲っていた。白昼に照りつける日差しの下に紙吹雪が舞い、クラッカーが弾け飛び、犇めき合う露点に子供のみならず大人達も群がり…あらゆる現世が浮世を忘れて熱狂に逆上せていた。物欲と自尊心を発散せんと地面を踏み鳴らす雑踏はある種の狂気的とも、相反して理性的とも謂える雰囲気とで鬩ぎ合っていた。愉楽に満ちた杯戸町、朗らかな懸声で溢れるこの街で問題など起こるわけがなく…否、死神の拠点たるこの東都で何も起こらぬ筈がなく、パレード終盤に差し掛かった頃に事件は起こった。

  

「ーーーー。」

「ーーーー!」

 

己の勤務する警察署付近で警備に勤しんでいた佐藤は、突として誰かが声を荒げるのを耳にした。

このお祭り騒ぎの中では終始誰かが叫喚しているのは至極当然のこと。白昼から酒に溺れ道路を塞ぎ補導された者など両の手を超えていた。平時であっても気に留めぬ程度の大声、だがどういうわけか胸中が騒ついた正義感溢れる警察官は声の発生源へと誘われたのだった。 

 

「.........!」 

 

警察署から徒歩五分、高層ビルの立ち並ぶオフィス街の路地に挟まれた小道。其処で目撃したのは我が目を疑うべき衝撃的な光景だった。

物陰に隠れて佐藤は様子を透き見する。視線の先では黒スーツにサングラスを掛けた如何にも無頼漢らしき者達が、値の張りそうな背広を身に纏った男に何やら必死の形相で訴えていた。彼女の立ち位置からは明瞭に聞き取れぬが、佐藤は下手に接近せず息を殺して場の成り行きを観察する。威武堂堂たるオーラを漂わせ居丈高に佇立する男に反して畏怖の念を横顔に垣間覗かせる男達、考えを凝らさずとも彼等の関係性は明々白々であった。

 

暫時、部下が報告をあげるのを煙草を蒸して静聴していた男が、俄に懐に手を差し込んだ。

…三発の銃声が鳴り響いた。

 

「ッ!」

 

男が抜き出したものが一挺の拳銃であると認識するよりも前に男が部下を撃ち殺したのだ。佐藤は漏れそうになった悲鳴を己の手で封じることによって咄嗟に堪える。気配を殺す。恰も道端に転がる石ころでも眺めるが如く感情を感じさせない冷徹な目で一人一人を見下ろして、全員が息絶えたのを視認した男は銃を仕舞った。

襟を整えてくるりと体を反転させ、狭路の唯一つの出入り口に向かって踏み出す。それに慌てたのは佐藤だった。

 

急ぎ小道の入口から距離を取り、周辺を巡回する警察官を装う。僅かな差で男も表通りに姿を見せた。警戒するでもなく、さも景色を観察するように周囲を見渡し、そして人混みに紛れて消えて行った。その背中を見届けた佐藤は即座に腰元の無線機を取り出して通信する。

 

「こちら佐藤。至急応援を。場所は杯戸町3丁目21番地、ーービルの裏通り。男が三人を銃殺し逃走、服装は青のスーツに黒縁のサングラス、金髪で年齢は三十代と思われます。直ちに追跡します!」

 

矢継ぎ早に告げ知らせると、上司の制止を聞かずに人混みを掻き分けたのだったーー。

 

 

不審者を追いかけて人の間を縫っていた佐藤は、図らずも加害者の目的地があろうにも国を挙げての一大イベントにおける要の建築物であることに喫驚した。

 

若しやテロか何かを仕掛ける腹積りではないのか、先程の小路で無抵抗に射殺された男達は何者だったのか、当日に限ってサミット会場の関係者しか持ち得ない入場カードを所持しているのは何故か。考えども答えなど出るはずのない疑問が次々と浮かんでは消えてゆく。

男の正体や企みについて考察の海に沈潜する佐藤だったが、男の姿が建物の中に消えたことで我に返って、自身も警察官という立場を用いて入構した。  

 

中に入るや否や男はエントランスを通り抜けエレベーターに乗り込む。サミットの為に設られた豪壮な内装を視覚で堪能する間もなく佐藤も彼に続いてエレベーターに乗ろうとして、けれども間際で電動ドアはピシャリと彼女を拒んだ。男の行方は分からなくなってしまった。  

そこからは苦難の連続だった。各国首脳や政界官僚、重鎮が利用するエレベーターをよしんば犯罪者の追跡とは謂え、パトロール警備役に過ぎぬ一警察官が利用するのは安全保安上の所以から叶うはずもなく、階段を用いて各階を調べて回るしかなかった。男が降車した階も、目的地も探り当てれぬまま膨大な部屋を一つ一つ見て周り、そうこうしているうちに時間は過ぎ去っていった。

最上階に辿り着いた頃には大きな掃き出し窓の外の、地平線の彼方に沈んだ夕陽の代わりに摩天楼を照らし出す月が奇麗に輝いていた。

 

「自分でいうのもなんだけど、よくこんな高層ビル駆け回ったわね。」 

 

階段とフロアの境に腰掛け佐藤は疲労の溜息を吐く。それもこれも全ては彼女の掲げる正義の為、もはや執念であった。一刻も早く犯人を確保し昇格を果たして、彼女が誇る父のような一人前の刑事になりたかった。そう、父のような。

殺人を犯した逃亡犯の追跡中にトラックに撥ねられて殉職した佐藤の父、正義。死後に二階級昇格し警視正になったが、命に過ぎたる宝なし。彼は尊い一人娘を置いて天へと旅立ってしまった。それでも、父親として子に向き合いながらも警察として正義を背負う篤実な背中にいつしか憧れていた。己も彼のように立派な刑事になりたいと夢を視るようになっていた。その想いは今も変わらない。 

 

「よし!」

 

行政の彼方を望むような揺るぎない決意を瞳に宿して、佐藤は疲弊した足に鞭を打ち立ち上がった。

 

..........。

 

佐藤は横に長い高層ビルの部屋から倉庫まで余すとこなく凡てを捜索して回った。生憎、ついぞ例の殺人犯を見つけ出すことは叶わず最後の部屋まで辿り着いてしまった。初勤務祝いに伊達が贈ったデジタル時計が示す時刻は午後八時十分、男が建物に滞在している可能性は希薄だった。

次の部屋に何も収穫が得られなければ潔く諦めて署に戻ろう。勝手に持ち場を離れた挙句音沙汰のなくなった己を上司が快く迎え入れるはずがない。大目玉を食らうことは免れないだろうが低頭平身して謝れば始末書で済むかもしれない。佐藤は腹を括ってドアノブに手を掛けた。

 

 

——スタッキングテーブルに円を描くように設置された椅子が最初に目に留まった。壁際には大きなスクリーンと専門機材が揃っているカンファレンスタイプのオフィス。最上階の他の部屋と大差ない手広い空間は無人だった。佐藤は落胆を隠せない。肩を落としたまま部屋を一通り検分していると、異変を発見した。

 

角にぴったりと寄せられたスクエアテーブル。その脚が妙な引きずり跡を床につくっている。訝しく思い凝らしてみれば室隅を中心に丁度四十五度、机が頻繁に動かされていることが見てとれた。

物音を立てずにそろりとテーブルを軌道に合わせて動かしてみる。何かが噛み合った。

ズズ、と鉄材の擦れる音を立てて壁が等身大に回転を始める。それは隠された通路だった。狭い隙間を覗けば、一本道の薄暗い廊下が微かな照明に照らされて奥へ奥へと続いていた。 

佐藤は己が此処に来た理由も忘れて、光に誘われる蛾のように秘密の通路へと一歩を踏み出した。

 

廊下の先には至って平凡なスチール製のドアとその寸前で直立待機する二人の警備員らしき男達が二人。彼等は己らの視界に偶さか留まった女の存在に気付いて一歩を踏み出す。距離が縮まるにつれて暗がりにぼんやりと馴染む警察官の活動制服が明らめられたのだろう。一目瞭然の部外者を視認するや否や男達は険のある顔つきで腰元に手を回した。

…彼等を気絶させたのはほぼ反射だった。慣れた手つきが拳銃を取り出す仕草だと見抜いた佐藤は伊達のお陰で磨き抜いた逮捕術を駆使して見事な手腕で二人を抑え込んだ。こうなっては後に引けまい。他に気配がないことを確認すると、佐藤は慎重に先に進み扉の角窓から中を覗いてみた。 

 

よもや自身の生死を分ける驚愕すべき光景を目の当たりにするなどとは露ほども思わずに。

 

*  

 

午後八時、いつにも増して密度の濃い闇黒が夜空の星々さえ覆い隠し杯戸の景観を押し包んでいた。  

G20サミットの会場として整備された高層ビルの最上階、首脳会談が開かれる会議室。その隣室には万人が周知せぬ秘密の部屋が存在した。

 

看板のない会議室、二十人未満が収容できる狭隘な空間には焦茶色のマホガニーから作られた大きなテーブルが中央に設えられている。テーブルを囲んで均一な間隔で並べられた複数の一人掛けアームチェアは本革製で毅然としたフォルムを保っている。アンティークの室内装飾に似合わせたシャンデリアの照明は繊細なガラスの美術品を反射して密談に相応しい星の如き微光を放っている。  重厚感を漂わせるその会議室は特定少数の者達の間では裏部屋と呼ばれており、滅多に使われることのない裏部屋は今晩に限っては異様な峻厳さを醸し出していた。

室内では威厳と権威とをその姿態に釣り合わせた者達がさも一刻の命運を卜するかの深刻な面様で各々を見交わしている。像でも射殺すような視線は絶対零度の如く冷ややかで、流れる空気は凍てつくシベリアの寒中の如く緊迫していた。

 

「No.2が逃亡とは何事か!管理は如何なっているのだ!」

 

破裂寸前の風船のような場に怒鳴り声が響めいた。

堪えきれぬ憤りを暴発させたのは初老の男だ。満面朱を注ぎ握り拳を机に打ち付ける彼はインド研修分析局(RAW)の長官であった。それのみならず、ロシア連邦保安局をはじめとする主要先進国、新興国の防諜機関の重鎮に加えて各組織お抱えの科学者、国軍の上役までもが一堂に会している。

RAW長官の発言を皮切りに厳しい静まりに耐え忍んでいた男達が次々と非難を宣い出した。

 

「精神的に異常のみられる欠陥品ではあるが任務遂行率は百パーセント、消すには惜しい人材だ。」

「だが処置を施したのにも関わらずこの有様...現場の科学者共は何をしていたのだ!」

 

科学者と名指しされた複数の男女は萎縮して肩を竦めた。

 

「処置は滞りなく行いましたし、その後の経過も一切の問題はありませんでした。」

「彼は我々にとってアキレス腱のようなもの。下手な手を打って世間に暴かれる前に癌を取り除くのが最善では?」

「それは彼を裏で手荒く使っていた貴方の云う言葉か?」

「...なんのことでしょう。」

「惚けるな、知らぬふりはさせぬぞ。この中で一体何人がナンバーズを御していたのやら。」

「言いがかりは止せ!」 

 

激化の一途を辿る非公式の会合は、突き刺すような殺意と忿怒とが唾を飲み込むのも億劫な険悪加減で空調に入り混じっていた。

空気を吸い込むだけで瘴気に汚染されてしまいそうな錯覚を起こさせる只中で、終始緘黙を貫いていた一人が明朗な手拍子をした。石を割るように音が打ち鳴らされると、囂然とした室内は水を打ったように静まり返った。突として変じた場の注目を浴びた男はめいめいを見渡す。慧敏めいた眼孔を研ぎ澄まされたナイフの如く冴え渡らせ、一つ咳き込む。

 

「其処の長官殿が仰る通り、彼は内面的な懸念が残るが珠玉の逸材だ。始末すれば彼と同等の能力を有する者は今後数百年は現れないだろう。ならば捕縛して再度処置を施すのが最善なのでは?」

 

問いかけというよりも再確認のような同意を迫る物言いに皆々は口を噤んだ。

 

「では捕縛後はNo.4を育成した我々が責任を持ちましょう。No.2の専属医カナン博士の所属は確かFSBでしたね。彼にも参加してもらいます。…如何ですか。」

「それで彼の運用が再開できるなら私は問題ない。各々方も異論はありませんな。」

「異論はない。次に移ろう。特務捜査班の進行状況の報告を。」

 

CIA所属の若年の男の提案を数人の隆盛盛りの丁年の男達が苦虫を噛み潰したような眼で見返したが反論はしなかった。代わりに軍服を着用した男が合意を表明すると他の者達も口々に賛同した。

一寸先に光も届かぬ闇夜は深まるばかりであった。

 

...........。

 

「それで、君は何の用だね。」

 

会議は滞りなく進み、次から次へと移り変わる議題はいつしか終盤に差し掛かっていた。

葉巻を蒸しながら、守備一貫して寡黙だった壮年の男が中盤から出入口付近に控えていた一人の男に目障りとばかりの眼差しを注ぐ。金髪の男はおのがじし権柄ずくな姿勢で己を注目する要人らを見渡すと深く一礼した。

 

「先刻、部下からの報告がありましたのでお耳に。…昼頃、杯戸シティホテルに滞在するシェアリング博士が()()()()()()()()直前に何者かに拉致され、半刻後にその何者かと例の製薬会社に侵入しました。直ちに人員を派遣したのですが手遅れでした。現場の破損具合と目撃情報から鑑みるにNo.2の可能性が高いかと。」

 

途端、只事ではないどよめきが起こった。火事場の如く浮き足立つ場内を鎮めるように男が続きを紡ぐ。

 

「某研究所の地下室のゴミ箱に注射器が破棄されていました。確認したところ中身はNOAH-150でした。」

 

聞くや否や、会議に同席していた科学者達の露骨に顔色を土気色に変えた。

 

「錠剤のストックが切れたようですね。アレを注射すればEkSを酷使することで負担のかかる肉体を半永久的に維持することができます。」

「しかし注射したとなれば二十四時間は動くことができないでしょう。捕獲するなら今のうちでは?」

 

ここぞとばかりに勝利の美酒でも献上されたかの如く好調子になる重鎮らによって、一度きりの裏部屋はまたもや雑然の一途を辿ったのだった。

 

 

——それから少時が経ち、次々と議題が移ろい後進国の課題へと転じた頃、白熱していた会議は蒼卒と中断されることとなった。

ガシャン!室外からガラスが割れるようなけたたましい物音が皆の耳に届いた。 

 

「誰だ。」

 

誰ともなしに男が問い糺す。返事はない。代わりにドタドタと慌ただしい小さな足音が廊下に響くと、侵入者の気配に一同は神経を張り詰めさせた。迫真ともいうべき厳粛さが際立ち、室内は益々の陰気を帯び始める。出入り口に最も近傍の椅子に凭れ掛かった男が目配せを送ると、意を汲み取った金髪の男は拳銃を片手に颯爽と身を翻して闇に消えていった。

 

*   

 

佐藤はかつてなく末恐ろしい稲妻の如き焦燥感に突き動かされていた。

——拙い、どうしようどうしようッ!

確固とした正義を掲げて、東都ではヒグマ以上の確率で出没しがちな殺人鬼を追跡していた筈がよもや斯様な事態になるとは思いもしなかったのである。 

 

サミット会場の最上階、その最奥に秘められた裏部屋なる会議室で彼女が目撃した光景は喫驚仰天すべきものだった。

此度の首脳会合に来日した国々の指導者らに各国の国防を担う軍関係者、その他名前が浮かばずともメディアで一度は見聞したことがある科学者や要人らがさして広くない会議室に集っている様ははっきりいって異様でしかなかった。唯ならぬ集会であるのは一目瞭然だった。何においても入口に控える人物…己が彼程探していた金髪の男が関係者として目と鼻の先にいるなどとは想像できまい。

 

今すぐその場を去れと警鐘が鳴らす頭に反して、フィクションの世界でしかお目にかかれないような光景を目の当たりにして二十なりたての若き警察官が好奇心を抑えるなど到底不可能だった。佐藤は彼等の会話を盗み聞きしようと身を乗り出して…その拍子に扉横のテーブルと接触してしまった。花瓶が傾く様が尻目に映って慌てて手を伸ばすも手遅れ…劈くような音を立てて、止まれという佐藤の淡い希いとともに陶器の瓶は無惨に砕け散った。

寿命が縮みそうな駑馬具合に己を難じりつつ後退さって、そして隔たりの向こうからこちらを探る声に思わず走り出したのだった——。 

 

 

よくよく顧みてみれば発端から奇怪で危険な香りが其処彼処に充ち満ちていた。サミット会場に入り込めるような殺人犯が直人なわけがなく、斯様に至極当然な事実にも気付かずに後先考えず正義感を振り撒いていた己の軽率さを恥じるばかりであった。

駆け足で秘密の通路から飛び出た佐藤は館内の終業時間を終えても尚、平常運転するエレベーターに駆け込もうとした。否、寸前で滑り込もうとした足を止めざるを得なくなった。

 

パンッ!空気を引き裂く砲声が響く。声にならない激痛が走った。

地面に手をついて崩れ落ちたのが己だと認識したのは寸秒遅れてからだった。

 

「ッつ…!」

 

突発的な鋭い熱に目線を下ろしてみれば左足の太腿から生温かい赤が広がり始めている。

撃たれた…私が?誰に?素早く眼を走らせる。長く不気味な廊下の暗がりから例の男が拳銃を片手に提げてじわじわと歩み寄ってくる。痛みに悶えている場合ではなかった。男が再度照準を合わせたのを確と視認すると、佐藤は四肢を奮い起こして数歩先の非常階段を一気に駆け降りた。

 

…六階ほど降りたところで、彼女は背後を振り返る。追手が追い付いた様子はない。薄暗い周囲を探って警備員が閉錠し忘れたのであろう一部屋を目に留めると彼女は暫し隠れることにした。  

 

部屋に入って直ぐ、殺風景なオフィスの最前列の演台の物陰に彼女は身を潜ませた。包帯代わりに服の裾を破き口を使って傷口を止血を試みる。締めた瞬間、痛みが脚全体に迸って泣きそうになった。ふぅと苦痛を逃すように深呼吸を繰り返し、開きっぱなしの窓から無遠慮に侵入してくる冬の凍てつく空気を吸い込む。肺一杯に広がって余計に息苦しくなった。  

未だ追手はあの男一人だが、何れ佐藤が気絶させた男達も血眼になって建物中を探し回るに違いない。いつしか鬼ごっこの立場は逆転していた。

状況は絶望的。それでも此のような場所で表沙汰にできない会議を覗いたからという理不尽な理由で無惨に命果てることだけは如何あっても受け入れられなかった。

 

佐藤は邪魔なパンプスを脱ぎ捨て立ち上がる。ニューナンブM60のグリップを握り締め、一世一代の覚悟の光をその瞳に宿して。絞り出した勇猛果敢な気質を逃走劇へのエネルギーへと転換して、再び一歩を踏み出した。

 

 

 

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