「は?」
「…何度も言わせるな。傑が、今回の戦闘で命を落とした」
高専学長兼、五条たちの担任である夜蛾が重苦しい声で五条への説明を繰り返した。
「聞こえてますよ。だから「は?」つったんだ」
五条の声は震えている。
質の悪い冗談では済まされない。
星漿体の護衛失敗の時も、これほど動揺はしていなかった。
今の五条は、重すぎる現実に打ちのめされているただの年相応の青年だった。
「遺体は埠頭で回収された。残穢は悟、お前と夏油本人、そしてアイツのモノしか確認されていない。状況から考えれば、アイツの仕業だろう」
説明される状況にも納得がいかない。
確かに、夏油と五条が別れた後、交渉にかかった時間は長かったが。
「んな訳ねぇだろ。アイツにはずっと俺が張り付いてた!」
「悟」
夜蛾はその大きな手をこめかみに当てて、頭を抱えた。
吐露されたのは、新任校長として偽らざる本音だろう。
「俺も何が何だか分からんのだ…」
夜蛾は政府が交渉の必要性を認識して開始する過程で術師側の窓口としての役割と、頭越しに物事を進められる事に反発した総監部へ説明と折衝を行う役目との間で板挟みになって、忙殺されていた。
だから、というのは言い訳なのだろう。
補助監督から悲鳴のような連絡を受け取った時には、既に手遅れだった。
そして、政府は交渉中に絶対に五条にこれを知られてはならないと強く要請した。
そもそも連絡手段は潰されていたのだが。
「…っ」
「奴本人の術式か、あるいは仲間か、カラクリは分からん。だが、結局のところ、お前を引き付けながら離れた所で特級に対処する余力があった、という事だ。その時点で、こちらの対処能力を超えていた」
その時点で、存在していた特級は3人。
五条悟、夏油傑、九十九由紀。
このうち、九十九由紀はほとんど任務に従事せず、行方すら不明なことがあり、呪術協会が確実に動かせるのは二人。
それが一人削られて、一人は膠着させられる。
ランチェスターの第二法則を持ち出すまでもなく、夏油を討ち取った特級相当の何らかの戦力がフリーになってしまう。
「俺はまだやれた!」
もちろん、相手の隠した手札まで含めて五条悟が勝ち切れるのであれば、話は別だ。
反転術式を体得し術式の常時展開すら身に着けた五条は、それほどの鬼札だった。
それを全く有効に活用できなかったのは高専の、ひいては学長たる自分の責任だ、と夜蛾は悔やまずにはいられない。
連絡の途絶や分断からの各個撃破。
想定が甘すぎたと言わざるを得ない。
五条がその実力を十全に発揮できなかったのは、彼だけの責任ではあり得ない。
「ああ、わかってる。わかってるんだ」
五条の肩を掴もうとした夜蛾の手が寸前で無下限術式に阻まれて、とまる。
触れそうでいてけして届くことのない空隙。
それは彼らの心の間に空いた無限の隙間なのだろう。
だが、学長として、大人として責任のある言葉を紡がねばならない。
「悟。堪えてくれ。頼む。ここでお前がまたアイツに仕掛けたら今度こそ呪術界の秩序が崩壊する」
夜蛾はみっともない大人として教え子に頭を下げた。
大人たちの事情で戦って命を落とした親友の敵討ちすら、大人の事情で阻まねばならない。
「もう崩壊してんだろうが。好き放題やられた挙句に新たに特級?免責?ふざけんなよ」
知っていれば。
五条は悔しさに歯噛みした。
呑気にアイツと睨み合ったりせずに白黒つける事が出来たハズだ。
だが、通信を遮断されて状況を見誤った挙句に、結局その機会を失った。
「気持ちはもちろん分かる。痛いほどな。頭越しに事態を動かされた総監部も相当荒れている」
揺れていた五条の目が黒いサングラスの奥で微かに冷静な蒼い輝きを取り戻す。
「…あの面子が何より大事なクソジジイどもが、こんなのアッサリ呑んだワケ?」
「総監部は、まだ、全てを呑んではいない」
五条の疑問に対する夜蛾の回答は実に不穏な代物。
これを五条に告げるかどうかはひとつの賭けだ。
だが、降りれない以上はベットするしかない。
「協定は東京高専の仲介で
協定に当たって開示されたその名前と共に告げられたのは、事態が未だ混沌を孕んでいる事を示すもの。
総監部が、つまり呪術協会側そのものがソレを呑むかは未だ協議中。
だが、もし日本政府が結んだ協定を呪術協会が蹴とばして、政府にとって受け入れ難い事態に発展した場合、呪術協会自体が政府と対立する事になる。
特級一人の死と新たな特級の誕生で、高専と総監部、そして総監部内のパワーバランスも、大規模な地殻変動が起きて、あちこちに歪みが生じている。
これまで特級二人を擁する東京高専の立場と発言力は必然的に高まって来ていた。
しかし、その片方が討たれた事で東京高専の立場の裏付けが弱まっている、にも関わらず今回の件では東京高専が直接政府の窓口として働き、総監部は蚊帳の外に置かれてしまった。
総監部が面白い訳がない。
しかも、総監部内部の思惑もバラバラだ。
次期当主候補を呪詛師扱いされるという危機的状況だった禪院家は特級を擁する御三家という極めて強い立場になった。
禪院に近い者は口ではメンツを潰されたと言いつつ内心では満更でもなく、逆の立場の者は協定の受け入れに強烈に反発している。
しかし、経緯が経緯だ。
むしろ禪院家の立場は危うい。
そもそも次期当主候補である禪院直哉への今回の扱いを、現在の禪院家首脳部と禪院家筋の総監部メンバーは黙認し、結果的に事態の収拾を総監部が制御しきれないという事態を招いてしまった。
禪院家としてこんな無茶苦茶な筋書きを想定していたはずがないし、特級相当の次期当主候補筆頭をわざわざこんな危険に晒して方々から恨みを買いたい訳がない。
ぶすぶすと熾火の様に燻ぶった火種がキナ臭い匂いを放っている。
そして表の世界と呪術界との軋轢。
今まで、呪術界が総監部の監督のもとで動いて来たのは、裏と表を交わらせずに切り離すという仕組みで成り立っていた。
それを今回の事件はぶち壊した。
裏から表に直接干渉しての交渉、そして仕方なく交わされた協定。
表側の人間としては「管理を強めなくてはならない」という危機感を抱くに十分なインパクトだっただろうが、そもそもその基盤は貧弱だ。
だからこそ、仲介を行った高専の立ち回りが重要になる。
総監部からも御三家からもある程度独立しており、政府の資金で運用されている公的な性格の強い組織。
今、高専に五条悟が所属していればこそ。事態は決定的な破綻を免れている。
政府は高専に干渉を強め、高専は五条を通して揺れる呪術界に睨みを利かせる事ができる。
一般家庭出身で術師家系のしがらみを持っていなかった夏油傑を失った分、要の柱石としての五条悟の重要性は増している。
今、それを空中分解させるわけにはいかない。
夜蛾にできる事は、苦虫を噛み潰し続ける教え子に、それを切々と語って、頭を下げる事だけだった。
ここ数日蒸し暑かったのが嘘の様に、その日は澄んだ空気が肌寒く、うるさいほどだったセミの声も鳴りを潜めて、時折吹く風が木々の枝を揺らしていた。
斎場には、一人の若者を見送るために集まった人々が静かに佇んでいた。
皆、黒い喪服に身を包み、悲しみの色を隠しきれない面持ちで、沈黙の中に包まれている。
その中には制服の参列者の一団がそれなりに目立つ。それは故人の若さを物語るようで、哀しい光景だった。
正面に置かれた棺には、まだ10代という若さで命を落とした青年が安らかに眠っている。
彼の死はあまりにも突然で、参列者たちは未だにそれを受け入れられずにいた。
その筆頭であろう彼の母親は、棺の前で静かに泣いている。
手を合わせ、祈りの言葉を紡ぎながら、息子の顔を見つめ続けていた。
「どうして、こんなに早く……」と、彼女の声は震え、悲しみに満ちている。
父親はそっとその肩を支えているが、彼の背中にも力はない。
支えがなければ倒れてしまいそうなのは父親も同じだった。
僧侶の読経が静かに響き渡り、焼香の煙が淡く空へと昇る。
参列者たちは順番に前へ進み、一人一人が黙って焼香を手向けた。
香の香りが漂う中、皆が手を合わせ、目を閉じて祈る。
顔を伏せる人、涙を拭う人、それぞれが彼への思いを胸に秘めている。
友人たちが棺の前に並び、ある者は拳を強く握りしめて声を押し殺し、ある者は震える声で言葉を紡ぎ出す。
「先輩…どうしてアナタが…」
真面目そうな彼の声は次第にかすれ、言葉が途切れる。
その後ろに立つ目つきの悪い女子も、その目に涙を浮かべながら静かに頭を垂れた。
彼らにとって、この葬儀はまだ現実として受け入れがたいものだった。
やがて、係の者が棺を閉じる合図をすると、母親は最後に棺の前に進み出て、ゆっくりと手を伸ばした。
震える手で棺の縁に触れ、息子の顔をもう一度確かめるように見つめる。
「ありがとう……。安らかにね……」と、小さく呟き、涙を流しながら最後のお別れをした。
彼女の肩は小刻みに震え、周りの者たちはその姿に胸を締めつけられる思いで見守っていた。
棺が斎場の外へ運ばれ、参列者たちは一斉に頭を下げた。
青年の棺は静かに霊柩車へと乗せられた。
彼の両親は走り去っていくその後ろ姿を見送りながら、涙をぬぐうことなく、じっと立ち尽くしていた。
「さようなら」と、誰かが小さな声で呟いた。
焼香の香りがまだ漂う斎場には、もう青年の姿はない。それでも、彼の記憶はここに残り続ける。
そこへ、ゆらりと黒い着物、礼装である黒紋付を纏った若者が現れた。
このような場に遅参をするのはもちろん褒められたものではないが、なにせ急な葬儀であるからさほど珍しい事でもない。
だが、彼を目にした参列者の一部の空気が完全に凍り付くように冷たくなり、血の気の失せた真っ青な顔になる者もいた。
そしてその中から一人が前に進み出た。
いつもの黒い制服に、いつもの黒いサングラス。
だが、今日纏うそれは喪服だ。
あるいは、今日からずっと。
「何しに来た?」
サングラスの奥に光る蒼い目のように、ゾッとするほど冷え冷えとした声色だった。
「香典、持ってきただけや」
顔色一つ変えずにそれに答える青年は懐から分厚い封筒を取り出して見せた。
しかし、分厚いと言っても、故人の価値を思えば、それをよく知っている者にとっては、たかが知れた端金だ。
彼は受付の机に歩み寄ると、その上の香典が積まれて重なった箱の上に取り出した分厚い封筒を乗せる。
けして乱雑な手つきではなかったが、他の封筒を押しつぶすような厚みの封筒が上から置かれるのは経緯を知らずとも、うっすらと嫌な気持ちになるかもしれない。
まるで死者を悼む気持ちに値札を付けられたような。
受付をしていた影の薄そうな若者は五条とその香典を見比べてオドオドとしていた。
睨みつける五条に背を向けて、踵を返そうとした若者に対して、喪主の父親が声をかけた。
「事情は存じ上げませんが、せっかく来ていただいたのですから、焼香していってやって下さい」
喪主はそう言って黒い着物の若者に隣にいた母親と共に丁寧に頭を下げた。