なんで、
―合図だ
そう思いながら、男は自分で上った高い階段の上の足場から、コンクリートの地面へと、自ら飛び降りた。
――ぁあああああ!
自分の発している声すらも、まるで他人のものかのように、少し上から見下ろしているかのような、不思議な感覚。
ああ、たぶん、体の落下に
だから、意識が少し遅れて、落下する身体を見下ろしている。
それとも強い向かい風が、北風がマントをはぎ取ろうとするかのように、体から意識を引きはがそうとしているのだろうか。
そして、きれいに舗装された真新しいコンクリートの地面が、眼下に、ぐんぐんと迫ってくる。
――痛そうだなぁ
――せめて、もっと柔らかい地面がよかったなぁ。
走馬燈のように引き延ばされた時間のなかで、そんな事を考えている余裕だけは、なぜだかあるのだ。
どうせなら人生を振り返ってみたら、もっとこの時間を、ゆかいに楽しめるのだろうか。
ふと、隣をみると
同じように
奇妙な万華鏡にでも入れられたような気分になる。
鏡写しの様に、その目には恐怖と緊張と、そして自分に対する奇妙な親近感が見て取れる。
――あいつも怖いんだなぁ
奇妙極まりない状況で、そんな益体もない共感と仲間意識を抱きながら、男は迫りくる地面に対峙する。
そして、無慈悲な衝撃。
――つまさき
――ひざ
――ひじ
――かた
転がるように、
否、転がりながら、その衝撃を体で受け止める。
随分慣れたものだ。
何故なら、これはもはや、日課なのだから。
「よぉーーーし」
同時に野太い声で、コンクリートの固い地面の先で仁王立ちしていた迷彩服の男から、号令がかかった。
「潰されたくなければ、さっさとどけぇ! 次、行くぞー!」
叱咤の声に、着地した地面から、もはや染みついてしまった動作で、素早く場所をあける。
合図の旗が上がって、次がまた飛び降りて来るからだ。
ぐずぐずしていたら、蹴っ飛ばされてでも場所をどかされる事は、何度も体験済みだ。
そして男は、また鉄骨で組まれた無骨な足場の階段を駆け足で上って、飛び降りる列に並ぶ。
またこの固いコンクリートに向けて飛び降りるために。
この異様な自殺志願者のような列は、なんと横に5列もあって、旗が上がると5人が一斉に飛び降りる。
これを何度も繰り返すのが、今や男に、躯倶留隊の男たちに課された日課であった。
ご丁寧に自衛隊で空挺団に居たという経歴のインストラクターまでが雇われている。
先ほど下で仁王立ちで合図を出していた男だ。
いかめしい面構えと鍛えられた肉体の持ち主だが、術者に比べれば当然非力だ。
非術者が教官という立場に立つのも反発が強かったが、それは新当主の鶴の一声で簡単に押しつぶされた。
実際、プロのインストラクターの教え方は筋が通っていて、わかりやすかった。
それに飛び降り訓練だけでなく、体の鍛え方や、格闘技や剣道の技に関しても、聞けば面倒がらずに丁寧なアドバイスを貰う事ができた。
男の周りでは、おおぴらには言えないものの、炳の面々や新当主の理不尽なシゴキよりもいいんじゃないかと、と思っている人間は少なくない。
「つってもさ、アレに乗せて貰えるんって、結局炳とか灯の人やんか」
隣に並んだ、先ほど親近感の籠った視線で会話した相手が、ぼそりと脈絡が無いような有るような事を呟やいた。
「アホ。文句言うな。連帯責任でこっちまで
とっさに声を抑えて相手を合いの手でどついた。
この話題で、下っ端がおおぴらに何か言うのは、今でもなかなかにセンシティブなのだ。
「いや、いや、文句ちゃうて、どうせなら乗りたいやん、てハナシ」
焦って相手も声を抑えて、ポジティブな解釈の言い訳を言うが、実際その気持ちは正直わからなくもない。
――いや、わかる。
男はちらりと視線を例の代物へと向けた。
呪霊退治との戦いが本分と考える禪院家にとって、この訓練は大げさに言えば新当主が持ち込んだ異質な概念との邂逅、いや激突だったと言える。
新当主の示した方針自体は、ごく単純かつ分かりやすい、筋の通ったものだった。
術師の現場での事故死の確率を下げるための安全率の積み増しと、そのための移動の効率化、である。
曰く、
「とりあえず、3倍の人数で3倍の現場回ればええやろ」
とのことだ。
今まで単独で任務に当たる事も多かった炳の一級術師ですら、必ず3マンセル以上での訓練と行動の徹底。
それによる安全率の確保。
そして、それを補うための回転率の向上。
そして発生する、今まではあり得なかった、現場のハシゴ。
元々、炳の人員の割り振りは、下っ端の彼らから見ても、これまでデリケートな案件だった。
前当主も、自ら事細かく決めたりはしなかった。と思う。
かといって、筆頭が代わりにすべて差配するかと言うと、術師としては同格で、完全な部下ではない。
要は、年功序列と席次があいまいな親族の寄り合い所帯でしかないから、その時に居て手を上げたものが行く、なんとなくの暗黙の了解で持ち回りしているという形式だった。
そこにガッツリとシフト制を入れて、しかも現場にあたる人数を増やしたがためにシフト自体の負担を増やしたのだから、駆り出される炳の面子の反発も相当なものだった。
特に現場のハシゴには猛反対の嵐だった。
命がけの現場の緊張感の糸を、一度切ってからもう一度張りなおすのは難しい。
ましてや。時間通りに終わらせて次を回ろうなどと言う考えでは、間違いが起こらない方がおかしい。
そんな意見が炳の主要メンバーのうち比較的新当主のやる事に穏健な面子からも大きな懸念として挙がっていた。
それに明確に応えたのは、新当主ではなく、彼が連れてきた、インストラクターとして雇われた自衛隊経験者の談だ。
「歩兵は歩くのが仕事。銃を撃つのは、仕事全体のほんの一部でしかない。そして、どんなに強い兵士も、戦場にいなければ負ける。どんなに弱い兵士でも、いない兵には勝てる。行くべき場所に行き、いるべき場所にいる、兵士の基本中の基本だ」
はっきりと言い切る彼の言葉は、非術師のものではあったが、ときに荒っぽい使われ方をされる躯倶留隊の面々にとっては、腑に落ちるところがあった。
そしてダメ押しとして、黒船のように
BK117 C-2
川崎重工業とユーロコプター社が共同で開発・製造した民間用中型双発ヘリコプター。
消防や救急用の様々な派生型が存在していて、ドクターヘリとしての実績も多い。
飛び降り台のある訓練場の隣に、これまた新たに作られた真新しいヘリポートに、一機の白いBK117が待機している。
導入されたのは2機。もう1機は現在も稼働中で、任務に当たる部隊を運んでいるはずだ。
新当主が懇意にしている病院がドクターヘリを導入した際に、専属契約を結んだヘリコプター運用会社を裏で買収して機体を増やし、ここに配備したのだそうだ。
救急用のドクターヘリをベースに改造し、ロープを使ったラぺリング降下作戦を可能にしてある。
9名程の人間を運ぶ事ができ、元々がドクターヘリ仕様のものなので、応急手当が可能な備品もしっかりと備わっている。
これで炳の中核メンバーを複数の現場に輸送した時の効率は、確かに高かった。
路線や道路の接続が悪ければかなり時間がかかる場所にも直線で向かえるのだから。
確かに理屈の上では効率がいいのは当たり前の話だった。
しかし、実際にその理屈を運用できるようになるためには、訓練、訓練、また訓練であった。
扇などは道場で訓練する時間が減ると言って反発していたが、無駄な抵抗だった。あの光景は思い出したくもない。
むしろ、炳のメンバーを素早く各地に送り込む事が最も効果が高いので、高齢を理由に免除された長寿郎以外は特別に厳しく訓練された程だ。
その時に訓練のために作られたのがこの馬鹿げた飛び降り台で、炳と灯だけでなく躯倶留隊も含めた全員が訓練に参加するという事になった。
そして、結局、人は慣れる事が出来る。
恐怖にも、激務にも。
一旦今の負荷に慣れてしまえば、慣らされてしまえば、確かに以前の考えは甘えだったのだろう、とわかるようにもなった。
人間は怠ける生き物だ。それこそ命がかかっていても、怠ける。
いくら「安全率が上がる」と言われても3倍の現場を回るのはキツイ。面倒だ。
この程度の案件のためにこんなに移動に労力を使うのか。サボりたい。体力を節約したい。
どうしてもそう考えてしまう。
だが、一旦それに慣れてしまえばどうという事はなかったのだ。
こうして、飛び降り自殺じみた朝の日課にも皆が慣れていっていたし、むしろヘリに乗りたいと思う者も増えた。
――まあ、しばらくは順番が回ってこないか
男は、晴れ渡る空を見上げて、どこかの空で飛んでいるだろう機影をあてもなく探した。
「ご苦労様、訓練は順調のようだね」
穏やかで静かな物腰でそう労いの言葉をかけたのは、どこにでもいるような中年の風体の人物だ。
だが、そのさえないスーツの下には鍛え抜かれた牙が隠されている事を、報告している部下は知っていた。
「はっ、部隊運用効率は確かに向上しております。また、以前のレポートにもまとめましたが、2線級の部隊要員も恐るべき身体能力を備えております」
演習で何度も土をつけられた上官の力量、そして共に切磋琢磨してきた仲間たちの実力を正確に把握しているからこそ、
上官の手にしたレポートには、上位陣が持つ特殊な能力はもちろんだが、単純な身体能力に関しても、知り得た事柄が、人物のプロファイルにはじまり、人間関係等、可能な限りすべてを網羅して書き出してある。
「その割には、待遇や地位は高くない、か。
「可能性はあるかと思います。彼らはやや封建的な価値観で生きておりますが、一般社会を全く知らない訳ではありません。少数ですが、放逐されている事例などもあるようです」
「ふむ、アプローチは慎重を期すべきだが、オプションは検討していくべきだろうね」
「はっ」
取られ得るオプションは数多くあるだろうし、男もいくつも思いつく事が出来たが、それをここで議論する事はない。
必要があれば知らされるだろうが、必要のない事は知ることはない。
場合によっては、彼の教え子が、彼の齎した情報が結果で、人生を、あるいは命を左右される事もあるだろう。
そういう事もある。