夕暮れ時の公園。
錆びたブランコがキィ、と風に揺れる音がやけに大きく聞こえる。
砂場の縁に腰を下ろし、一人で膝を抱えていた少年の前に、ぬっと長身の影が落ちた。
見上げると、黒い上下に身を包んだ、色素の薄い髪の男が立っていた。
目元は真っ黒なサングラスで隠されている。
「伏黒、恵君だよね」
声は妙に軽かった。少年――伏黒恵は、警戒心を露わに男を睨みつけた。
「あんた誰?」
「んー?まあ、通りすがりのお兄さん、かな」
男はサングラスの位置を軽く直しながら、恵の顔をじっと覗き込んだ。そして、次の瞬間、まるで汚いものでも見たかのように顔を歪めた。
「っていうか、何その顔」
うげーっ、とでも言いたげな表情は、とても子供に向けるものではない。
恵は眉間に皺を寄せた。
「いや、ソックリだなーっと」
男は独りごちるように呟く。恵は何のことか分からず、首を傾げる。
「?」
「君のお父さんてさ、禪院ていう、
男はこともなげに言い放つ。禪院。聞き覚えのない名だ。
恵の父親は、そういう話をする人間ではなかった。そもそも、父親らしいことなど何一つしなかったが。
「なんや、先客かいな。五条君」
振り返ると、そこにいたのは、夕陽に照らされて輝く金色の髪をした男だった。
白い、上等そうな和装に身を包み、どこか古風な雰囲気を漂わせている。狐のように細められた目が、値踏みするように恵を見ている。
(今日は変なイタい格好の変なやつばっかりだ。かっこいいとでも思ってるんだろうか)
恵は内心で毒づいた。
「うわー奇遇ダネーってか?」
先にいた男――五条と呼ばれた男は、心底嫌そうな顔で応じる。
「そやね、まあ用件は同じやろ。この子の顔見たら、面影有るわ」
和装の男は、恵の顔を改めて見て、にやりと笑った。
「君のお父さん、僕の従兄弟やねん」
従兄弟。つまり、この金髪の男も「禪院」なのだろうか。
「そ、禪院ていう、そこのドブカス呪術師の家系。コイツ含めて、ぼくがドン引きするレベルのろくでなし。そんで家とびだして君を作ったんだけど…」
五条と名乗った男は、サングラスの奥で眼光を放ちながら言葉を続ける。
「君、見える側だし、持ってる側でしょ。自分の力にも気づいてるんじゃない?」
時折見える、他の人には見えないはずの異形のモノ。
そして、自分の影から現れる黒い犬。それが呪術だというのだろうか。
「その術式、禪院家は才能大好き。喉から手が出るほど欲しいやつ。つまり、恵君は禪院家にとって、高い値札が付いた最高のカードってわけ」
五条の説明を少年は頭の中で状況を咀嚼しながらも、それを表には現さなかった。
禪院は腰に佩いた日本刀の柄で、恵を指し示した。
「禪院家は術式至上主義。術式を自覚するのが大体4~6歳。売買のタイミングとしてはベターやね」
「ムカつくでしょ?」
「別に」
五条の確認に、被せるように伏黒恵はそれを否定した。
「だいたい話は分かった」
愛人に入院しがちな本妻や子供の世話をやらせようとするクズに付き合いきれないのはわかるが、なら
そっちのほうが恵にはよほどムカついていた。
「あいつが何しようと興味ない。何年もあってないから顔も覚えてない」
「君、本当に小1?」
五条が感心したように呟く。子供とは思えない諦観が、恵の言葉には滲んでいた。
しゃがんだ五条が、変な格好で頭を抱える。面白いと思ってるんだろうか。
「大人やねぇ」
「ま、じゃあ
五条はよいしょと立ち上がって和装の男を睨みつける。
「つまり、君の売買契約について、やね。口約束ではあるけど、僕の前の当主、つまり僕のおとんがな、君を買ったる、てな契約を結んどったんや。君の父親と」
禪院は淡々と、残酷な事実を告げる。
「ただ、売主の君のオトンは死んだし、買主の僕のオトンも隠居した。でも、商品である君はこうして生きとるわけやし、オファーはオファーやからね。」
今度は禪院がしゃがんで目線をあわせると、指を一本立てる。
「10億、どうする?」
「君のお母さんと、お姉ちゃん…
10億。途方もない金額だ。だが、恵の頭を占めたのは金のことではなかった。母親と、義理の姉である
自分を「売る」ことで、二人はどうなる?
「…母さんと
震える声で、恵は尋ねた。
「ない。100%ない。それは断言できる」
即答したのは、隣に立っていた五条だった。その声には微塵の迷いもなかった。
じりっと伏黒恵は二人から距離を取る。
「酷い言われようやねぇ。まあ、否定はせんけど」
禪院は肩をすくめる。
「お姉ちゃんの方なら、僕が個人的に
下卑た光が、その細い目に宿る。
「…っ!」
恵は禪院を睨みつけた。この男は、そういう人間なのだ。
「そいつはドブカスだし、そいつの実家はゴミ溜めだ」
五条は吐き捨てるように言った。
「そっちのアンタは?」
恵は五条に向き直る。この男は、禪院家を嫌っているようだが。
「五条家も
散々言われたお返しとばかりに、禪院も五条を貶す。
「ソイツのとこよりはマシ。ウチに来るなら、ウチの連中にとやかく言わせたりはしない」
五条は悪びれもせず、サングラスの奥で笑った気がした。
どちらも信用できない。どちらに行っても、ろくなことにはならないだろう。恵は唇を噛んだ。
「そもそも、禪院の相伝の、しかも十種を、当主の目の前で引き抜きとか、ケンカ売っとるんかって話やで」
「ソッチから買ってくれるんなら歓迎だけど」と五条は睨み返す。
「おお、怖い怖い。ま、売主はキミやからね。どうする?僕に決めてもええし、そっちのグラサン若白髪に決めてもええし、オークションにでもして釣りあげてもええよ」
恵は顔を上げた。
その目には、先ほどまでの迷いは消えていた。どうせどちらを選んでも地獄なら、せめて。
「なら、高い金出した方に、俺だけ行く」
そして、恵は自分の値段が決められていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。まるで、物のように。いや、実際に物として扱われているのだ。
「11」五条が言った。
「13」禪院が返す。
「17」
「18」
「20億」
「50億」
「…100」
五条が提示した「100億」という数字に、禪院は着物の袖をひらひらと振りながら、両手を上げた。
「降参や。よかったな、恵君。ずいぶん仰山に増えたやん」
100億。もはや現実味のない数字だ。だが、禪院の言葉は続く。
「ボク、君のお父さんとは一応、賭け仲間やったからな。忠告したるけど、100億も持っとるシングルマザーとその娘なんてな、鴨が葱どころか、土鍋とコンロと家まで背負って歩いてるようなもんやからな」
ぞっとするような言葉だった。その金が、母と
「僕がゲスい奴やったら、今この足でお姉ちゃんナンパしに行っとるところやで?」
カッとなった恵は、考えるより先に足が出ていた。
砂場の縁から飛び降り、思い切り禪院の脛を蹴りつける。
「死ねっ!!」
「うわーっ!痛っ! すぐ蹴るとこ親父そっくりやな!」
禪院は顔をしかめて後退る。
「発想がゲスすぎて笑う。つうか、アンタ金に困ってないでしょ」と五条が呆れて鼻で笑う。
「んー?ゲームの景品って、大して欲しくなくても、手に入れると達成感あるやん?」
禪院は肩をすくめて答えた。その言い草に、恵はさらに怒りを覚える。
「おまえっ、姉ちゃんに近づいたら、俺が殺すからな!」
恵は低い声で、禪院を睨み据えた。
「はは、威勢ええなぁ。まあ、心配せんでも大丈夫や。必要ないからな」
禪院は懐を探り、ひらりと一枚の古びた紙を取り出した。夕陽に透かして見せる。
「これ、君のオトンが書いた契約書」
そこには、震えるような、それでいて力強い筆跡で短い文章が書かれていた。
『伏黒甚爾は、伏黒恵の売却代金を以て、妻の治療費の支払いに充てるものとする』
そして、その文面の隣には、血で押したのだろうか、赤黒い拇印が大小二つ、並んでいた。一つは父のもの、もう一つは恐らく、幼い自分のもの。
「…っ!」恵は言葉を失った。
「と、いう訳でぇ。五条君の100億♡は、僕が頂戴します。旨い話にはウラがあるっちゅう事や。勉強になったやろ?」
禪院は得意げに笑う。それを少年は睨み返す。
「…あんたが、母さんを治してくれた…?」
「そ。高いけど、ウデはええで。なあ」
禪院は自分の手を見せながらこともなげに言う。
「ま、反転術式のアウトプット出来るやつ、この世にコイツともう一人ぐらいしかいねーのはホント」
話の流れに呆れながらも、五条も胡散臭い男の言葉に同意した。
「…じゃあ、
母親が助かったのなら、それで。
恵の中で、張り詰めていたものが少しだけ解けた気がした。
「あらま、怒るかと思たら、ええ子やねぇ」
禪院は満足げに頷く。
「ほなら、ボクから特別にアドバイスしたろか。ええか? 今、五条君と僕の間で、『100億で五条君が君を買う』ことに同意した。そんで、キミのオトンと君が、『僕に売却代金を支払う』、つまり僕が100億受け取ることで合意した。ここまではええか?」
恵は、胡散臭げに、一応は確かめるように、こくりと頷く。
「このままやと、君の取り分はゼロや。でもな、君から五条君への『請求』は、まだや」
禪院は悪戯っぽく笑う。
「やから、こう言うたるねん。『税込み110億円也』ってな」
消費税、つくんだ。オレ。伏黒少年は自分の事ながら少し笑った。
「オイ、こーいうオークションで普通、消費税とか付かねーだろ」
すかさず五条が突っ込む。漫才か?
「あのな、普通はそもそもオークションで人身売買、せーへんねん」
禪院は呆れたように当たり前の社会常識を言い返す。
「じゃなくて!消費税は、どう考えても、どうせ納めねーだろ!」
「そら、納めるわけあらへんけど」
禪院は、取引自体がそもそもアレやからと、しれっと言う。
「でもな、五条君。キミも僕も、彼に価格が税込みかどうかの確認はせんかった。やろ? つまり、交渉の余地はアリや。キミがこの話蹴るなら、オークションは無効。僕は治療費と相殺でこの子を連れて帰るだけ。この子の取り分が0なら、とりあえずゴネてみるんは、タダでできるゴネ得やろ?」
「…ハイハイ、わかったよ。払えばいいんでしょ、110億。いいよ」
五条はため息をつきながらも、あっさりとめちゃくちゃな言い分を認めた。
「あらま、あっさりやねぇ。ほら。金持ち相手のゴネ得はたまらんやろ?」
禪院は少し拍子抜けしたように、少年に向かって性根の疑わしい考え方へ賛同を求めた。
少年はそれには答えず後ずさる。
「
「
その姿は飄々としている、
禪院は伏黒恵の肩をぐいっと引き寄せて、耳元で言った。
「強くなってよ。コイツやボクを見返すくらい」
少年は、間近でその顔を見て、声を聞いてこう思った。
(やっぱコイツ女泣かせてそうだから
夕暮れの公園で、駄菓子でもやり取りするように、大人げない奴らの、奇妙な取引が成立した。
伏黒恵は、胡散臭い白髪の男に100億円という値札をつけられ、その100億円を意地汚い恩人にかっさらわれたかと思ったら、おこぼれで10億。
現実味のない金額に現実味のないやり取り。夕暮れ時の空はもう、濃い藍色に染まろうとしていた。
逢魔が時は終わりつつ、あるいは始まりつつあった。