都立呪術高専、学長室。
午後の柔らかな日差しが、年代物の木の机や書棚に落ち、埃を金色に照らし出す。空気は静かで、微かにインクと古い紙の匂いが漂っていた。壁には歴代学長の肖像画が掛けられ、厳かな雰囲気を醸し出している。
夜蛾正道は、作りかけの呪骸――熊のぬいぐるみだろうか――の手を休め、太い指先についた接着剤を無意識にこすりながら、来訪者を待っていた。その背筋は伸び、窓の外の緑を見つめる瞳には、深い思慮の色が浮かんでいる。
やがて、控えめなノックの音が静寂を破った。重厚な扉がゆっくりと開かれる。そこに立っていたのは、長い三つ編みの白い髪を揺らし、どこか値踏みするような鋭い眼差しをこちらに向ける一級術師、冥冥だった。
仕立ての良いスーツを着こなし、その佇まいは隙がない。
「参上しましたよ、夜蛾
抑揚のない、しかし滑らかな声が室内に響いた。
「うむ、忙しいところすまんな、冥冥。急な依頼に応じてくれて感謝する」
いまだ、学長と呼ばれ慣れていない夜蛾は立ち上がり、その巨躯に似合わぬ穏やかな声で応えた。
来客用の革張りのソファを無言で勧める。
「いえいえ。もちろん、それ相応の対価を期待してのことですから」
冥冥は口元にかすかな笑みを浮かべ、優雅な仕草でソファに深く腰を下ろした。組んだ脚が、彼女の抜け目のない性格を表しているかのようだ。
「早速だが、本題に入ろう。先日、君に評価を依頼した例の『試作品』…早速、実戦で使ってみてくれたそうだな」
夜蛾も向かいのソファに腰を下ろし、テーブルの上に置かれた呪骸のパーツに一度目を落としてから、真っ直ぐに冥冥を見据えた。
「ええ、いくつか機会がありましたので」
冥冥はそう言うと、スーツの内ポケットからこともなげに数枚のカードを取り出した。
一見、何の変哲もないプラスチックカードのようだが、材質は妙に硬質で、表面には陽光を反射して、微かな呪力の残滓が陽炎のように揺らめいている。
それはまるで、封じられた力が漏れ出ているかのようだった。
「単刀直入に聞こう。使い勝手はどうだった?」
夜蛾の声には、期待と不安が入り混じっている。
冥冥は指先でカードの縁を弄びながら、少し考えるように顎に手を当てた。
「まず、武器の持ち運びに関して。私のように、術式そのものの物理的なパンチ力が足りない術師にとって、武器でそれを補うのは、まあ、邪道とはいえ有効な手段の一つです。それを、何の手間もなく、この小さなカード一枚で持ち運べるというのは、疑いようもなく大きな利点ですね」
彼女はカードの一枚をテーブルに滑らせた。カタン、と硬質な音が響く。
「特に、目立たずに行動する必要がある任務や、不意を突きたい場面では極めて有効でしょう。隠密性が格段に上がります」
「ふむ。利点は理解できる。問題点は?」夜蛾は促した。
「欠点は、その『取り出しやすさ』と裏腹に、『仕舞えない』こと。一度カードから実体化させた武器は、再びカードに戻すことはできません。まあ彼の術式ですから。これは、普段使いのメインウェポンとしては致命的です。あくまで使い切りのサブウェポン、あるいは予備のバックアップウェポンとしての運用が適している、というのが私の見解です」
冥冥は肩をすくめた。
「それと、特筆すべき点として、カードから還元された直後の武器は、一時的に呪力を帯びています。簡易的な呪具として機能するのです」
「どの程度保つものなのだ?」
夜蛾は、冥冥の説明に質問を交えて話題を掘り下げる。
「そのまま放置しても、精々数分といったところでしょうか。ただ、相手への攻撃や防御に用いれば、呪力は急速に霧散します。数回、接触を伴う攻防を行えば、もう効果は期待できません。やはり、これも『使い捨て』、あるいは『一度きりの切り札』としての側面が強いですね」
彼自身が試していないはずがないと冥冥は踏んでいるが、そこには触れずに、淡々と分析結果を述べる。依頼された純粋な技術評価者としての仕事をするまでだ。
「そして、使い切り、という意味ではやはりこちらの方が本命でしょうね」
彼女は別のカードを手に取った。先程のカードよりも、表面の呪力の揺らめきが複雑に見える。
この場に六眼の持ち主がいれば、その違いははっきりと見抜く事ができただろう。
「
「ふむ。そちらの取り出し、あるいは…『投射』とでも言うべきか、その際の感覚はどうだった?」夜蛾の問いに、わずかな緊張が走る。
「そこは、正直申し上げて大きな課題点ですね」
冥冥はすっと目を細めた。その瞳の奥に、実戦を経た者の厳しい光が宿る。
「はっきり言って、指向性のある術式…例えば、何かを狙って放つタイプの術式の場合、このカードを使って正確に目標を捉えるのは至難の業です。まず、この軽いペラペラのカード自体を、戦闘中に特定の方向へ正確に向けるのが難しい。風の影響も受けやすいですし、咄嗟の動作では安定しません」
彼女はカードを指で弾いた。軽い音を立ててカードが宙を舞う。
「それに、還元される術式が、カードの向き通りにまっすぐ飛ぶという保証もない。術式の特性にもよるでしょうが、制御は困難です。なにより…」
冥冥は言葉を切ると、夜蛾の目を真っ直ぐに見据えた。
「命のやり取りの最中に、慌てて取り出したこのカードの裏表を間違えたら即、死に繋がる、というのは…洒落になりませんよ」
夜蛾は黙って頷いた。その表情はやや複雑だ。
「これもやはり、指向性も何もない、シンプルな効果を持つ術式の方が遥かに使いやすいでしょう。それこそ、手榴弾のように、広範囲に影響を及ぼすもの。例えば、五条くんの『赫』や『蒼』のような…まあ、あんなものを封入できるかは別問題ですが」
皮肉めいた笑みが冥冥の口元に浮かぶ。
「呪霊操術や私の黒鳥操術のように、ある程度の自律性が見込める術式を封入できれば、また話は違ったかもしれませんが…開示されている情報限りでは、それは不可能のようですね」
しばらくの沈黙が落ちる。窓の外では、鳥の声が聞こえた。
「とはいえ。…
やがて、冥冥が再び口を開いた。その声には、先程までの評価とは違う、どこか熱の篭った興奮があった。
彼女はカードをテーブルに置いた。
「当たり前のことですが、重量と体積を無視して武器や術式効果を持ち運び出来ることの経済的利益は計り知れません。」
「ああ、大規模テロで国家を脅す奴が作っているという、ごく致命的な欠点を除けばな」
夜蛾が苦々し気に直視したくない現実を口にする。
これが大量に流通した日には、それを持ってる呪術師がある日突然皆殺しに遭う可能性を捨てきれない。
起爆装置を信用できない他人が握っている爆弾は、武器とは言えない。
「ふふ、なんとも革命的ですね、色々な意味で」
冥冥の声が、僅かに低くなる。
これは、密輸にも、テロにも、実に向いている。
既存の秩序を壊したい、革命したいと考える人間にとっては、最高の道具だろう。
「…禪院家から繋がりのある術師たちの間に、コレが流れ始めている。まだ試作品、試供品というレベルだがな。高専にも要望があれば渡す、と言ってきたくらいだ。今回試して貰ったのはその一部だ」
溜息をもらしながら言う夜蛾の眉間に、深い皺が刻まれた。
「問題は、そこまでならまだしも…そこから先、どこに流れていくかの保証が一切ないということだ。実に嫌な手だ。御三家が、関係のある家や術師に『便宜を図る』という名目で流すだけなら、表立って咎め立てはしにくい。そして、一度出回ってしまえば、その流れを追うのは極めて困難だ。仮に厳しく取り締まろうとしても、反発を食らう範囲が広すぎる」
「加えて、総監部は先の一件で、指導力を大きく損なったばかり。今、彼らが強権を振るって事態を収拾しようとしても、上手くいくとは思えませんね。やりにくいでしょう」
冥冥は他人事のように、こともなげに言う。
実際、冥冥は呪術協会の利益よりは、自分の利益に則って動くタイプだ。だからこそ、この手の話の評価には適している。
「…術師たちは、この技術をどう受け入れると思う?」夜蛾は重い声で尋ねた。
受け入れるでしょうね、と冥冥は即答した。
「大半の術師にとって、敵対したら死ぬという意味では、相手が禪院だろうと五条だろうと同じこと。特級術師が悪意を持って敵に回った時の想定なんて、ほとんどの術師にとっては考えるだけ無駄だよ。彼らにとっては、目の前の任務、明日の生存の方が重要だ。このカードは、いざという時の『御守り代わり』として、十分に魅力的に映るはず」
やや言葉を崩した彼女は両手を広げ、お手上げ、というジェスチャーを見せた。
「お手上げ、か…」夜蛾は呟き、深く息を吐いた。「それで済むなら、済ませたいものだがな…」
その目には、未来への深い憂慮が宿っていた。
「ま、この技術への対策を講じられるとすれば、それこそ天元様くらいのものでしょう」冥冥は立ち上がりながら、ビジネスライクな口調に戻った。
「もし、本格的に動く時が来たら、一報くださいな。こちらも、仕入れた分は早めに手放しておきたいので」
彼女は軽く会釈すると、音もなく学長室を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
午後の光は、先程よりも少し傾き、室内に長い影を作り出していた。