特別特級ドブカス転生無双   作:ToZooNo

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パンダもタダやないで

しん、と静まり返った部屋に、消毒液のツンとした匂いが微かに漂っていた。

それは死という絶対的な終焉を迎えた場所にはあまりにも場違いな、人工的な清潔さの香りだった。病院の一角にある霊安室。

冷たい空気が肌を刺し、壁に反響する自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。夜蛾正道は、部屋の入り口に立ち尽くしていた。重い鉛を引きずるように、一歩が踏み出せない。

磨かれたリノリウムの床が、まるで底なし沼のように彼の足を捉えて離さなかった。

部屋の中央には、白い布が掛けられた小さな寝台が三つ、等間隔に並んでいた。その傍らには、見るも無惨に引き裂かれたぬいぐるみの残骸――パンダ、ゴリラ、トリケラトプス――が散らばっている。そして、その間に座り込み、小さく肩を震わせている妻の姿があった。虚ろな目が、壁の一点を捉えて離さない。夜蛾の気配に気づくと、ゆっくりとその顔が持ち上がり、焦点の合わない瞳に、憎しみとも絶望ともつかない昏い色がゆらりと宿った。

 

「……どこに、いたのよ」

 

掠れ、ほとんど息のような声だった。しかし、その響きにはガラスの破片のような鋭さが含まれており、夜蛾の全身を易々と貫いた。

 

「……仕事、だった」 言い訳にもならない、事実。

だが、その言葉がどれほど無力か、彼は痛いほど理解していた。

 

「仕事? 仕事ですって!?」

 

妻の声が、堰を切ったように甲高く響き渡る。ヒステリックなその響きは、霊安室の静寂を切り裂き、夜蛾の鼓膜を打った。

 

「あなたがっ、あなたがもっと早く駆けつけていれば…!」

 

「間に合ったかもしれないじゃない! あの子たちは! 最後まで、きっと、パパ、パパって、あなたの助けを待っていたのよ! なのにあなたは…! 呪術師だかなんだか知らないけど、そんなもののために、自分の子供たちを……見殺しにしたのよっ!」

 

言葉のナイフが、容赦なく夜蛾の胸に突き刺さる。

ぐうの音も出ない。事実だったからだ。

特級を一人喪った状態での呪霊被害への対応、政府や総監部との終わりの見えない折衝、不安定さを増した五条悟への配慮、不気味な存在感を増す禪院家の動向、そして、呪術高専学長としての責務、教師としての指導、一人の呪術師としての任務――。

彼は己を蝋燭のように燃やし、心身ともに限界をとっくに超えていた。

皮肉なことに、子供たちにお守りとして持たせた呪骸たちもまた、作り手である夜蛾自身の消耗と共にその力を弱らせていたのだ。

あの、彼らが愛したぬいぐるみたちが、もっと強ければ。いや、自分が、もっと余裕を持てていれば。後悔は、どれだけ重ねても足りなかった。

今はもう、何もかもが遅すぎた。

 

「すまない…」 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、空気に溶けて消えた。

即死ではなかった。それが、さらに夜蛾を苛む。持たせた呪骸は、わずかな時間稼ぎにはなったはずだ。何か一つ、ほんの少しでも状況が違えば、結果は変わっていたかもしれない。どうすれば良かったのか、それを呪術師である自分は、残酷なまでに理解しているのだ。

 

「謝って済むことじゃないわ! 子供たちを返して! 私の…私たちの、あの子たちを返してよ!」

 

妻は泣き崩れ、冷たい床に突っ伏した。その背中が、痛々しいほど小さく震えている。嗚咽が、部屋の空気を重く、重く沈ませていく。

夜蛾は、その場に縫い付けられたように動けなかった。どんな慰めの言葉も、今の彼女には届かない。そして、どんな言葉も、この胸に深く刻まれた罪悪感を拭い去ることはできない。

だが――まだ、試せることは残っていた。禁断の、道が。

 

「……この子たちと、私だけにしてくれ。先に、帰っていてくれ」

 

「……何、言ってるの?」 信じられないものを見る目で、妻は顔を上げた。涙で濡れた瞳が、夜蛾を射抜く。

 

「出ていけって、言ってるの? この子たちを、ここに置いて?」

 

「すまん、だが、これは…」

 

最後まで言い終えることはできなかった。

乾いた音と共に、張り手が夜蛾の頬を打った。眼鏡が吹き飛び、床に落ちて虚しく転がる。妻の瞳には、もはや悲しみではなく、子供の仇を見るような、燃えるような憎しみが宿っていた。

この、最後の別れの時間を、共に過ごすことさえ拒む。それが父親として、夫として、どれほど妻に残酷な仕打ちであるか、分からないはずがない。

 

それでも。

夜蛾の決意は揺るがなかった。その目は、最も信頼した家族()()()()女性を、ただじっと見つめ返していた。

これから自分が試そうとしていること、これから犯そうとしている罪に、彼女を巻き込むわけにはいかなかった。

 

例えそれが致命的に傷ついた彼女を、更に傷つける所業だとしても。

妻がよろめきながら部屋を出ていくと、残されたのは、夜蛾と、白い布の下に眠る小さな亡骸たち、そして耐え難いほどの静寂だけだった。

一人になった部屋で、夜蛾はゆっくりと子供たちの傍らに歩み寄った。震える手で、白い布をそっとめくってゆく。そこには、安らかとは言い難い、苦痛の痕跡が色濃く残る幼い顔があった。まだ、ほんのりと温もりが残っているような錯覚に陥る。

「……っぅ…」

嗚咽が、堰を切ったように漏れ出した。

学長として、呪術師として、常に厳格であろうとしてきた仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。そこにいたのは、ただ、子を喪った無力な父親だった。妻の言葉が、鋭い棘のように心を何度も突き刺す。「あなたが間に合っていれば」。

そうだ、自分が間に合わなかったのだ。守れなかったのだ。

 

だとしても、だからこそ、どんな禁忌を犯してでも、もう一度――。

非術師の世界を守るためではない。大義のためでもない。

ただ、己の、父親としての浅ましい欲のために。

呪術を、己の欲のために禍々しい呪詛として使う者たち、忌べき呪詛師たち。

 

中でも、魂を弄ぶ、非常に質の悪いやり口を使う者がいたことを、呪術師として経験を積んだ夜蛾は知っていた。その知識自体が、もはや一つの呪い、呪詛だった。

夜蛾は、子供たちの傍らに散らばっていたぬいぐるみの残骸を拾い集め、黙々と補修を始めた。破れた箇所を縫い合わせ、ちぎれた腕を繋ぎとめる。

連絡は既に終わっていた。

幸い、来訪者が現れるまで、わずかながら時間はあった。針を動かす指は震えていたが、その目には異様な光が宿っていた。

 

 

 

 

「ここであってたかしら」

 

最初にやって来たのは、年の頃なら夜蛾の教え子たちと変わらないか少し上くらいのような、巫女服を纏った若い女だった。

 

声には妙な老成した響きがあった。夜蛾の脳裏に、呼び出したとある老婆とその術式の記憶がよぎる。

そして、胸糞の悪い推測が浮かび上がるのを止められなかった。

親として、人として、許しがたい冒涜。夜蛾は、ぎり、と己の手を強く握りしめた。

 

「ああ、コレは正真正銘()()()()姿()よ」

 

その視線に含まれた嫌悪を読み取ったのか、彼女は先んじてそう釘を刺した。

 

「最近の鳴りを潜めていたのは知っていたが……代替わり、という事か?」

 

「あんな奴の後を継ぐ気はないわ。これはホント。私は後ろ暗い仕事はやってない。今回だって、東京呪術高専の学長からの、切羽詰まった話じゃなけりゃ来てない」

 

「……そうか。信用しよう。今は、するしかない」 夜蛾は低く答えた。

 

「…お悔やみを。その子たちを降ろすの?」

 

女は視線を白い布の被せられた小さな遺体たちに向けた。対する夜蛾の顔は能面のように青白く、表情が抜け落ちている。

 

「ああ、頼む」

 

「でも、依り代はどうするの? 」

 

「呪骸に、この子たちの魂の情報を再構成して、核として埋め込みたい」

 

夜蛾は自分の術式と伝え聞く彼女の術式、降霊呪法との合わせ技を提案した。

しかし、それを聞いた彼女の表情は固い。

 

「……人形、呪骸に魂を降ろすのは、やったことがないんだけど。 無理かもしれないし、できたとしても…」

 

「なら、()()()使ったら? ボクなら治せるで」

 

声は、すぐ傍からした。いつの間にか、霊安室のほの暗いベッドの脇に、一人の青年が音もなく現れてそこにいた。飄々とした、しかし底知れない気配を纏った青年。

 

「……場所が霊安室(ばしょ)だ。せめてノックぐらいはして貰いたい。だが、急な呼び出しに応じてくれて、ありがたい。感謝する」 夜蛾は表情を変えず、最大限に抑制的に言った。

 

「ま、ええよ。高専の学長に貸し作っとくんは悪ないし」

 

青年は場にまるで似つかわしくない軽い口調で応じた。

 

「それで、元の体に元の人格を降ろしても降霊術を維持し続けられんから、燃費が良くてアンタの呪力で維持できる呪骸に魂を移したい、そういうことやろ?」

青年は事もなげに言う。

 

 

「なら、先に遺体を『繕って』呪骸にしてから、その呪骸に降霊させたらええ。ただの人形に降ろすより、よっぽど繋がりやすいやろ。そんで、その呪骸の核ごと、燃費のいい『人形』の方に移し替えればええ」

 

「っ…!」 夜蛾は何かに耐えるように拳を握りしめた。

 

女も「ちょっと、お子さんのご遺体よ? それを…」と絶句した。

だが、現状試しうる手で有る事には変わりない。

 

「いや、いい。試せることは、全てやろう」 夜蛾は、覚悟を決めた目で頷いた。

 

「ほな、さっそく始めよか。痛む前に、早いうちがええやろ」

 

そう言うと、青年は横たえられた夜蛾の子供たち一人ひとりに、順番に手を当てた。反転術式。それも、他者へのアウトプット。公式に確認されている使い手は、目の前の彼と、もう一人だけ。

青年が手を添えると、まるで映像を逆再生するかのように、子供たちの体に残っていた外傷がみるみるうちに消え去っていく。

生命活動を完全に停止した相手への反転術式。呪術界の常識では、ありえない、成功するはずもない禁術。

だが、それを可能にする使い手が、今、ここにいる。人間を人間だと思っていない、と畏怖されるその男が、その手で魅せるのは曲芸じみた奇跡か、奇跡じみた曲芸か。

 

鬼心仏手。

 

人の心を持たぬ鬼が、仏の慈悲のような御業を行う。

その歪さが、教え子の敵だとしても、今の夜蛾には救いに見えてしまった。

還元(ゲイン)。青年はそう呟いてどこからか取り出したAEDを並べ、無機質な電子音を響かせた。

 

「止まった心臓動かすんは、こっちのが手っ取り早い。どうする? 一旦、動かす? それとも、このまま呪骸に?」

夜蛾は答えなかった。

 

ただ、傷一つなくなった、しかし魂の宿らない我が子たちの亡骸を、一人ずつその腕に抱きしめた。そして、震える手で、己の呪力を注ぎ込み始めた。

それは、もはや禁忌とされた領域。

呪骸とは、その名の由来の通り、本来「骸」をもって作られる方が、より強力な依り代となる。

その上、これは血を分けた我が子たちの、肉体。

夜蛾の深い悲しみ、後悔、そして愛情を伴った呪力――負の感情の力――は、まるで乾いた砂に水が染み込むように、驚くほど滑らかに子供たちの亡骸に馴染んでいった。

それは、生命を冒涜する儀式でありながら、同時に、父親としての最後の、抱擁でもあった。

次に、降霊術師の女が、呪骸と化した子供たちの体の一部――髪の毛、爪、血液――を口に含み、目を閉じて集中する。

そして、教えられたそれぞれの名前を呼んだ。

 

「……やってみて分かったけど、やっぱり、私じゃこの呪骸の核には、魂の情報の全ては降ろしきれそうにない。欠けた、不完全なものになるわ」

 

しばらくして、女は苦渋の表情で告げた。

「……致し方、ない。それでも、やってくれ」

 

夜蛾は、血を吐くような思いで頷いた。完璧な蘇生など望むべくもない。それでも、欠片でもいい、彼らの存在をこの世に繋ぎ止めたい。その一心だった。

 

こうして、補修された三つのぬいぐるみ――パンダ、ゴリラ、トリケラトプス――に、それぞれの魂の核が移植された。それは、かつての彼らとは似て非なる、哀しい模倣品。

 

 

「それで? 体のほうは、どうするん」

 

青年が、魂の抜け殻となった元の体――今はただの人形のようになった子供たちの亡骸――を指して尋ねた。

夜蛾は、かつてこの青年が「治した」天内理子が、その肉体が人格を喪失した状態で生き続けていることを知っていた。

あの状態が、果たして親が子に与えてやれる幸せと呼べるのか。

叶うなら、もちろん、彼らの魂を元の体に戻してやりたかった。温かい、生きた肉体で、もう一度笑いかけてほしかった。

 

「魂の情報を呪骸としての核に降ろし、その核を抜き取った…。その器だけを生かすのは、対価の支払いを踏み倒すことになりかねない…」

 

夜蛾は、力なく呟いた。

魂という最も重要な対価を抜き取っておきながら、その抜け殻である肉体だけを生かし続ける。それはある意味、他者との縛りの放棄に似ている。

呪術師としての世界観が、枷となって彼を縛っていた。

 

「協力に感謝する。報酬は…」

 

夜蛾は、魂の抜け殻となった我が子たちの亡骸――今はただ精巧な人形のようになったそれらから目を離さずに、掠れた声で切り出した。支払わねばならない。この冒涜的な儀式に対する、正当な、いや、不当と言うべきか、とにかく対価を。

 

「私の分は、そこのカスに払ってくれればいい。ちょっと借りがあるから」

 

巫女服の女は、忌々しげに吐き捨て、顎で隣の青年を指した。

夜蛾の、そして女自身の視線が、飄々とした態度のまま、まるでガラクタでも眺めるかのように子供たちの亡骸を見ている青年に集まる。

 

「うーん、これ使わんなら持って帰ってもええ?」

 

その瞬間、霊安室の冷気がさらに温度を下げたように感じられた。

 




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