蒸し暑い夏の日のことだった。
東京から数時間、山梨県の県境に近い場所にある旧神和村。地図からは既に消え、現在は隣接する市に編入されたその集落で、奇妙な失踪事件が相次いでいた。
被害者は3名。いずれも村の出身者で、帰省中に忽然と姿を消したという。残された呪力の残滓は希薄であり、過疎化による土地の衰退が生んだ、ありふれた地縛霊の類いだろう――。
当初、高専の「窓」が下した評価は「2級案件」。
そのはずだった。
派遣されたのは、二級術師の七海健人と灰原雄。 まだ少年らしさの残る、しかし既に「呪術師」としての冷徹な現実を背負い始めた二人。
ガタガタと揺れるバスを乗り継いで、誰もいないバス停で降りる二人。
「……暑いですね」
季節を全く考えずに黒い学生服をしっかり着込んだ学生に、当たり前だろう、と突っ込むものはいない。
七海健人は学生服の襟を正し、汗で湿る髪を撫でつけながら、不快そうに目を細めた。
「湿度が異常です。それに、……人が全くいませんね」
「まあ夏だし、田舎だしね。。。」
「なんだか、空気が粘ついてるみたいだ」
灰原雄が、いつもの明るい調子を少しだけ抑えて言った。
彼は額の汗を拭いながらも、周囲の田舎景色に好奇心を隠さない。
村の入り口にある国道沿いのバス停。
そこから続く一本道は、舗装もぼろぼろ、人の気配はない。
だが、さびれた過疎地の現実と言われれば、殊更おかしな光景ではないかもしれない。
舗装が剥がれ、そこから雑草がアスファルトを突き破って茂っている。
周囲の家々はどれも戸が閉ざされ、廃村のようだ。
帳を降ろすまでもなく、人気などありはしない。
聞こえるのは自分たちの足音と、遠くで鳴く蝉の声だけ。
七海は警戒心を強め、灰原は不安を振り払うように「静かだね」と呟いた。
10分ほど歩くと、生い茂る木々の合間から、石造りの古びた鳥居が不意に姿を現した。鳥居の額には文字が刻まれていたが、風化して読みにくい。
その先、参道は深く暗い森へと続いていた。
「七海、あれ見て。神社の鳥居かな?」
灰原が指差した先、鬱蒼と茂る森の入り口に、半分朽ち果てた石造りの鳥居が見えた。その奥へと続く参道は、まるで巨大な生物の喉奥のように暗く、冷たい冷気が這い出してきている。
「窓の報告書によれば、失踪者は全員この『産土神社』の周辺で足取りが途絶えています。まずはここを叩くのが定石でしょう」
七海は腕時計を見た。午後2時15分。
はやめに終わらせて大月まで戻るバスに乗れれば、今日のうちに東京に帰れる。
「さっさと終わらせて帰りましょう」
「せっかく旅費が出るんだから泊っていけばいいのに。このへん名所が多いから、僕、楽しみなんだよね!」
灰原の無邪気な笑顔。それが、この異常な沈黙に唯一射し込む光のように見えた。
灰原の前向きな態度や考え方には救われてきた。だが、一方で、それは緊張感の足りなさの表れでも有るような気がして、一抹の不安を抱えていた。
特に先輩、あの特級術師、夏油先輩ですら命を落としてからは。
参道を進むにつれ、周囲の風景が変容し始めた。 道脇にある民家の庭先。そこには、洗濯物が干されたままになっていた。だが、そのシャツやタオルは、布の質感を失っている。
「……七海、これ」
灰原が足を止めた。彼が指先で触れた洗濯物は、カサカサという乾いた音を立てて崩れた。それは布ではなく、精巧に形作られた「土」だった。
「風化……? いえ、これは術式によるもの?」
七海の目が鋭くなる。
さらに進むと、縁側に丸まった猫の姿があった。
灰原が撫でようと近づいて、息を呑む。
猫の毛皮はひび割れ、目鼻立ちは崩れ、ただの粘土細工のようになっていた。
そして、その土くれからは、微かな、しかし悍ましいほど「深い」残穢が滲み出していた。
「灰原、補助監督に一報を。評価を修正します。これは2級などではない」
七海がそう口にした瞬間、地面が脈打った。
ドクン。
大地そのものが心臓を持っているかのような、巨大な鼓動。 足元の土が、生き物のようにうねり、彼らの退路を断つように盛り上がった。
「あはは……。七海、これ、一級案件ってやつ……」
灰原の顔から笑みが消え、その瞳に戦闘の炎が宿る。
二人の目の前、神社の本殿だったはずの場所が、巨大な泥の山と化していた。その泥の中から、人の腕を何百本も束ねたような「根」が這い出し、空を突く。
泥の山が割れ、そこから現れたのは、巨大な赤ん坊の顔を持つ、異形の呪霊だった。
その頭部には稲穂で作られた王冠のようなものが載り、体は村の民家や古い墓石を飲み込んだまま、歪な巨体を構成している。
長い年月、過疎化によって見捨てられ、忘れ去られた土地。
そこに残された「帰りたい」「離れたくない」という帰巣本能と、死んでもなお土に縛られる恐怖。
それが、土地の守護神であったはずの産土神の信仰と混ざり合い、この怪物を産み落としたのだ。
『ココハ……ワタシノ……ハラノナカ……』
呪霊が声を放つ。それは風の音のようであり、土砂崩れの音のようでもあった。
同時に、地面から無数の泥の手が伸び、七海と灰原の足首を掴もうとする。
七海は、呪霊の泥の腕が迫る中、肩にかけていた黒い鞄を素早く前面に引き出した。
術式を発動する間もなく、鉈の入ったそのビジネスバッグは、呪力をまとう泥の腕を受け止める。
バリィッ、と、革と布が引き裂かれる悍ましい音を立て、鞄は一瞬にして原型を留めないほどに潰れた。
しかし、その一瞬の防御が、七海に決定的な猶予をもたらした。
七海は脈動する泥に食い込んだ鞄の残骸から、その得物である鉈を抜き放つ。
「カバンが無いと交通機関を使うのも難儀なんですがねっ」
苛立ちを込めた呪力を纏い、鈍く光る鉈の刃。
潰れた鞄ごと泥の手を蹴り飛ばして、再び巨霊の「根」へと向かって踏み込んだ。
一瞬の攻防の中で学生が行える最大限、冷静かつ理詰めの反撃だった。
彼の得物である鉈が、呪霊の腕に「7対3」の比率を刻む。
一閃。
強引に「弱点」を作り出された呪霊の根が、切り裂かれ、弾け飛んだ。だが、斬り飛ばされた端から、周囲の土が吸い寄せられ、瞬時に再生していく。
同時に再び七海へと伸びる泥の手。
灰原が七海の襟首を掴んで入れ替わり、その泥の手を蹴り飛ばし引きちぎる。
「キリがないね! 七海、僕が注意を引く! その隙に本体の『核』を!」
泥に汚れた手が、迫る中、灰原が大きく跳躍した。
地面を蹴り上げた衝撃は、僅かな砂埃となって宙を舞い、彼の全身を包み込む溢れんばかりの呪力出力が、その肉体の限界性能を極限まで引き上げる。
並の術師であれば、呪力量に身体が耐えきれないだろう。
しかし、灰原の術式は『呪力放出』。あっても無くても変わらない単純極まりない術式。
灰原が得意とする戦い方は、その呪力出力と、天賦の運動神経を惜しみなく注ぎ込んだ、純粋な肉弾戦、すなわちフィジカルバトルだった。
得物を持たず、術式に頼ることも少ない。ただ、己の拳と脚、そして身体全てを武器とし、圧倒的な速力と破壊力をもって敵を叩き潰す。彼の攻撃の一発一発は、重戦車が突進するかの如き質量を持ち、受け止めようとする呪霊や呪詛師を、文字通り粉砕する威力を持っていた。
空中での一瞬の間に、灰原は敵の位置、体勢、そして次に繰り出すであろう攻撃の軌道を完璧に把握する。この直感的な空間把握能力と、それを即座に実行に移す身体能力の連動こそが、彼を近接戦闘のスペシャリストたらしめている所以だった。彼にとって戦闘とは、複雑な術式の応酬ではなく、己の持つ最高の力を、最高のタイミングで叩きつけるシンプルな行為なのだ。
「いけぇーっ!」
灰原の拳が呪霊の体にめり込む。
衝撃波が森を揺らした。だが、呪霊の体は泥のように形を変え、灰原の腕をそのまま飲み込もうと波打った。
人型の泥塊にも見える呪霊は、受けた衝撃で内部の構造が一瞬にして破壊され、粘度の高い液体のように四散するかに思われた。
だが、呪霊はただの泥ではなかった。
砕け散ることなく、まるで水面の波紋が戻るように、瞬時に元の形を取り戻し始めた。
それどころか、灰原の拳を飲み込もうと、波打つ粘体がその腕を伝って逆流し始める。
泥は生きたように蠢き、皮膚を侵食せんとするかのように、灰原の制服と素肌に絡みついた。
「チッ!」
灰原は舌打ちし、呪力の出力を最大に引き上げ、腕を引き抜こうとする。
しかし、泥の拘束力は想像以上に強く、まるで強靭なゴムが貼り付いたかのように、拳を捉えて離さない。灰原の攻撃は通じている。だが、致命傷には程遠い。
「灰原! 離れろ!」
七海の叫びは、悲痛と決意の混じった、獣のような唸りとなった。
渾身の力を込めた一撃が、灰原の体を蝕む異形の拘束――土と根に酷似した呪いの塊――を叩き斬る。
呪力と金属が軋む嫌な音と共に、灰原の体が自由になる。
「灰原! 立てるか!」
七海は叫ぶ。
しかし、安堵は一瞬にして恐怖に塗り替えられた。
彼らが立っている森全体が、まるで巨大な生き物のように、深く、おぞましい唸りを上げて鳴動したのだ。
足元の地面が、まるで粘度の高い泥のように波打ち、そして、彼らのすぐ眼下で、巨大な「口」を開けた。
それは、断層でも、単なる地割れでもない。生きているかのように、崩れた土砂が顎を形成し、虚無を覗かせた。
「……なんだ、これ」
七海の声が震える。目の前の光景は、常識も理屈も超えた、悍ましいものだった。
崩れた土の斜面、その崩壊の途上から、おびただしい数の「何か」が露わになった。それはかつて、この神和村に生きていた人間たち――村人たちの姿だった。しかし、彼らは死者というには異質で、生者というにはおぞましい。土と同化し、肉体と魂をこの土地に縫い付けられたように、半身が地面に埋まった状態で、彼らは一斉に目を見開いた。
その瞳には、かつての理性や感情の残滓はなく、あるのはただ、地の底から湧き上がるような、おぞましい呪いの光だけだった。彼らは、もはや独立した個ではない。神和村という呪いの集合体が作り出した、無数の「端末」であり、「呪霊」の一部だった。
何百、何千という呪いの残骸が、土から腕を伸ばし、七海と灰原めがけて襲いかかる。
「くそっ、キリがない!」
七海は鉈を振るい、迫り来る「元・村人」たちを薙ぎ払う。斬っても、斬っても、土から新たな手が、新たな顔が湧き出してくる。それは、ただ一人の呪霊を相手にする戦いとは、根本的に異なっていた。
これは
大地は唸り、木々は歪み、空気そのものが呪力で重く濁っている。彼らは、生きた村の怒りと呪いの中心に立たされていた。
彼らの敵は、目の前の化物だけではなく、足元の大地、そしてこの森の全てだった。
「…今日からの宿、キャンセルしなきゃいけないかもなぁ!」
窮地に立たされてなお、灰原はどこか茶化すように軽い口調で懸念を口にした。
灰原の持つ呪力総量は、並の術師よりは多いものの、彼自身の術式によって高められた呪力出力に比べると、その容量不足は歴然としていた。
一撃の破壊力は凄まじく、初動の爆発力と瞬発力においては1級術師にも劣らない。
その剛腕から放たれる一撃一撃は、並の呪霊や呪術師であれば文字通り吹き飛ばしてしまうほどの威力を秘めている。
だが、その代償として、彼の呪力は瞬く間に枯渇してしまう。
つまり、灰原の戦い方は典型的な短期決戦型だ。
長引く戦闘は、彼にとって死を意味する。
「……ふざけないでください、灰原っ」
七海は、太陽が照りつける真夏日にも関わらず、首元までキッチリとボタンを留めていた夏苦しい制服をボタンを引きちぎって乱暴に脱ぎ捨てた。
これまで自らに課していた堅苦しい縛りを自らの手で解き放った彼の内側で、静かに抑圧されていた呪力が、激しく沸騰し始める。
「さっさと終わらせて帰りましょう、と言ったはずです!!!」
低い、抑揚のない声が響く。それは忠告ではなく、決定事項を告げる宣告の響きを帯びていた。彼の琥珀色の瞳は、目の前の敵を射抜き、冷徹な光を放っていた。
コンビを組む灰原の欠点を補うために、七海は縛りで普段呪力を抑えて長期戦に備えている。
備えてきたのだ。
「了解っ!」
灰原はそんな相棒の覚悟を見てニッと笑い、自信に満ちた表情で拳を力強く構えた。
「…なんや、まだ前座かいな」
泥濘に沈みゆく二人の高専生の背後から、場にそぐわない、あまりに軽薄で怜悧な声が響き
ぬるり、と影から這い出るように現れたのは、金髪を遊ばせた若者――禪院家新当主。
その瞳には、窮地の二人への同情など微塵もなく、ただ獲物を値踏みするような冷たい光だけが宿っている。
「禪院……さんっ!?」
「禪院家が、なぜここに」
まさか
二人の驚きをよそに、呪霊、産土の全身を覆う汚泥――土地に折り重なって溜まり続けた無数の怨念が形作った「泥の手」が、眼前の闖入者へと伸びる。
泥の手が、闖入者の首元にわずかに接触した、その瞬間の出来事だった。
「汚い手ぇで、さわんなや」
凄まじいエネルギーの反動も、激しい爆発も、派手な光も音もなかった。
あったのは、世界の理がねじ曲げられるような、静かな、しかし異常な「収束」の現象だけだ。
巨体は、まるで存在そのものが否定されたかのように収束しきった後、そこに残されたのは、ただの一枚の小さな平面。
「ほいっと」
その一枚のカードを七海の方へ向かって投げた。
気軽なパスでもするように。
七海の真っ白な頭に―――
確か、1秒
―――交錯する思考。
縛りがある。
それを切り裂く、黒い――――
7対3だ。
―――閃光!
断ち切れ!!
「十劃呪法――」
黒い火花が散り、大気を引き裂く轟音が村を震わせ、 平面に閉じ込められていた土地神の質量が、黒閃の衝撃によって内側から爆発。
肉体の3割が、塵となって消し飛んだ。
「ははっ! さすが」
7割の側は投げられ、切り飛ばされた勢いそのままに七海、灰原の背後へと巨体が冗談のように転がっていく。
「殺す気ですかっ」
投げつけられた勢い。
―――それを切り飛ばせていなければ、巨体をぶつけられた七海や灰原は交通事故に遭ってダンプにでも轢かれたような有様になっていただろう。
「気ぃ抜くなや。
はっと振り向く七海と灰原。
3割の肉体を失い、致命傷を負いながらも、その呪霊の眼窩には「怒り」すら超越した、静かなる絶望が宿っていた。それは、何百年もこの土地に縛られ続けてきた怨念の深さ。
『……出サナイ……誰一人……土ノ外へハ……』
その泥の手が地面を指差し触れている。すなわち触地印。
世界が、内側から爆ぜるように反転した。
領域展開――『
呪術の極致。
極彩色の泥と、腐った稲穂の臭い。
空を覆うのは雲ではなく、巨大な胎内の肉壁。地面からは無数の墓石や卒塔婆が、まるで竹の子のように急速に生え出し、三人の逃げ場を物理的に、そして呪術的に奪い去る。
逆境でもめげない灰原の顔から、一切の表情が消え失せ。七海の計算高い脳が、呪力の本質に触れたばかりの鋭い感覚が、一瞬で状況を捉えて演算し、そして停止した。
領域内に入った瞬間、「土地の住人」として登録された事が術式の開示で理解させられる。
産土神は土地神信仰。
その土地で、その土地に暮らす人間相手には理不尽極まりない力を持つ。
閉じられようとしていた、じめじめとした壁が――
領域展開
――星空を纏った流星によって切り裂かれた。
白い和装の袖から伸びた手が、親指で作った二つの輪が重なる掌印を形作っている、転法輪印。
二つの結界が激しくぶつかり合い産土の領域が大社が無数の星々が流れる天球へと上書きされていく。
「七海っ」
呪力の感覚が研ぎ澄まされていたからこそ動けなかった七海に、灰原が体当たりでぶつかって、産土の領域を共に脱出させる。
しかし、逃げこんだ領域は別の意味で狂気じみたものだった。
「な……んだ、これ……?」
七海は頭を抱えながら呻き。
「あはは……」
灰原は頬を思い切りつねりながら、乾いた笑いを漏らした。
痛みで現実を確認しようとしているのか、その顔には恐怖よりも困惑の色が濃い。
そして領域の外壁と一体化した
産土が削れ切って、流星が巡る天と、それを映すまっ平な銀盤の地とが、その領域を完全に支配する。
気が付いた時には、もうすっかり夜で、
折り重なるように倒れた二人は、ただ、星空を見上げていた。