烏の鳴き声が響く夕暮れの曇り空に、帳が降りている。
一般的な呪術師にとっては黒く見える通常の帳ではなく、呪術師の目にも何があるかわかりづらい。隠すための帳。
空にあってそれは、当事者以外が気付くのが難しい空間である。
そしてその空間には、空を踏んで飛び交う人影が2つ。
一方である金髪の少年は縦横無尽に空を3次元軌道で駆け抜ける。
その足が踏み出すたびに、薄いガラスのような板を蹴って。
拡張術式、
空気を固める事で板状にし、相対空間に一時的に固定する事で足場とする。投射呪法のペナルティのもう一つの応用形態である。
一時的硬直の概念を位置に対しても拡張するだけ、といえばそれだけの拡張術式だが、汎用性と応用性は高い。
重ねがけした投射呪法は、連続した動きのトップスピードをどんどん上げる事ができる。
しかし、ただ道路を移動するだけならともかく、戦闘に用いるとなると、速度が上がるにつれて、曲がるために必要な反力は垂直に近くなり、軌道を拘束される。
また投射呪法では1秒ごとに、足場をイメージに組み込んで動きを作る必要もあるが、動きが早いほど破綻しないように動きをその場その場で組むのは難易度が上がり、地形や動きの先読みと素早い反射神経が求められる。
これらの問題は、「
真っ平らな平地どころか空中であっても、いつでも必要な方向を蹴って方向転換できるし、動きのイメージは、ちゃんと地形の踏める場所を見定めて歩幅や蹴り足の左右を考慮して足場を決める必要はなくなり、障害物に当たりさえしなければいい程度の条件に緩和される。
少年に言わせれば、コレなしでの投射呪法、特に重ねがけは、「マニュアル、ナビなし運転」と「オートマ、ナビあり運転」以上に差が有る。
結果が空中での高速かつ縦横無尽の動きだ。投射呪法との相性はすこぶるいい。
さらに、武術のほとんど全ての動きや型は
その前提条件が変わるという事は、技術体系自体が変わるという事であり、それに適応した修練と経験を積んでいるかどうかが勝負を分ける鍵になってくる。
逆に初見では何をどうしたのかがわからない動きや技を一方的に相手にぶつける事ができるのだ。
できるはずなのだ。
だが、もう一方の影は、分厚い肉体から想像できないような、より軽く、よりしなやかに躍動感に溢れた動きで、その攻撃をかわしていた。
こちらは…本当に
高速軌道ではないが、獣のように教えられずとも本能的に最適化された動きをしっているかのようである。
移動のトップスピード自体は少年の方が早い。死角に回り込むなど空間的に有利な位置取りもできている。
しかし、お互いの間合いに入るたびにカウンター気味に攻撃を喰らうのは、少年の方だった。
そしてやがて、地上に、片方は落ち、片方は着地する。
ぜーはーぜーはーと荒い息で地面に横たわるのは、投射呪法で宙を踏んで変幻自在な動きを見せていた少年。
「クソクソクソ」
少年は声を飛ばしながら痛みと不条理とに頭を抱えてのたうち回る。
「なんで術式も呪力も無しで空気踏んで動けるねん!! おかしいやろ。やる気ないんか物理法則ぅ」
「あー有るだろ、こう、層みたいなのが。そこを蹴るんだよ」
腕組みをした、これまた和装の大柄な男が地面で転がる少年を見下ろしながらそう言った。
「密度とか温度違うても、所詮空気やから蹴っても何も起こらんねん普通。起こる?扇風機の風が涼しかったら上に乗れるん?」
だが少年が納得する様子は全く…ない。
「はっ、術式で空気固めて歩いてるヤツのセリフじゃねぇな。出来るモンは出来るんだよ。頭でっかち」
「僕の頭が悪いん??うそやろ???」
少年は力尽きたように突っ伏した。
それに向って、大柄な男が適当な講評をいう。
「動きは速ぇし、ちょっと面白ぇ。でもそんだけだな。相変わらずフィジカルが弱ぇ。攻撃が軽りぃ、後、動きマトモなのは最初だけで崩れ始めると雑」
術式用意した分、大分有利なはずの空中でやって…
地面やとそっちが踏ん張れるからもっとモロにやられてまう。
「バイト代、忘れずに振り込んどけよ。元手にして増やすんだからよ」
「へいへい。つうか、やるなら僕と高レート麻雀か裏カジノいこうや。勉強代取り返したるから」
「言ったなクソガキ」
甚爾はにやりと嗤って、地面に転がる少年の、安い挑発に乗った。
感覚が鋭い天与の暴君は、実は賭け事における機微の読み合いには強い。
空気の密度温度の差、臭いや痕跡をかぎ取り見分ける鋭敏な感覚。
存在を関知できない呪霊の痕跡すらも見て取れる。強化された感覚に裏打ちされた鋭くて正確な勘。
それを以てすれば……。
「ロン。なんで親リーに一発のドラで振り込むねん」
随分高い授業料を少年からせしめたはずの甚爾は、逆に授業料を振り込み返す羽目になっていた。
「チ、いらねぇ牌は切るのが俺の流儀だ」
ぎろりと睨む視線は冷え冷えとして鋭く、顔は面白く無さそうに歪んでいる。
そこから放たれる圧は相当なものだ。
「麻雀は基本的に4回に1回しか上がれへんねんから、防御の比率のが多いねんで」
それに対して動揺もせずに、ほぼ初心者向けの助言をする少年。
その少年の佇まいは、静かで、そしてブレない。
「…ガキ連れで高レートに来た時にはマジかと思ったが、そっちが引率かよ」
他のメンツは、甚爾の勘の良さよりも、むしろ少年の異様さの方に警戒をしていた。
からくりは簡単だ。投射呪法で、常に一定の動作でツモと打牌を繰り返す動作を作ればいい。表情も視線も、常に動作は一切揺れない。
だから甚爾はこちらの手のうちを読みとれない。
後は普通に淡々と打つだけ。
甚爾は和了る事と振り込まない事は上手いが、点数の期待値が計算できていない。
する気もないのだろう。
点数が高くなる親のリーチであっても、勘が鋭いから危険牌をバンバン切って通して、大して高くもない手をあがる事が出来てしまうし、それを愉しんですらいる。
言ってしまえば、甚爾がやっているのは麻雀ではない別のゲームだ。
高レート麻雀と麻雀も、また別のゲームだから、この辺の感覚は、むしろ卓に座っていた他のメンツの方が近いのかもしれない。
しかし、賭けているのが矜持だろうと身の破滅だろうと、麻雀をやるなら普通にただの麻雀をやるのが一番期待値が高い。
結局、その日はトータルで少年が堅実に多くの勝ちを拾っていった。
一方の甚爾は、上手く打ってはいたが、肝心の収支はマイナス。
それがその日の成績だった。
「悪ぃが借りた分は今度」
負け分に関して言いにくそうに切り出した青年に対して、勝って懐の温かい狐眼の少年の態度は鷹揚なものだった。
「ええよ。餞別や。出てくんやろ?」
「…相伝の天才様は何でもお見通しってか」
それに対して嫌味で返さずにはいられないのが、この青年の屈折した所なのかもしれないし、年下に上から目線で見られるのが嫌なのは、むしろ至って健全な所なのかもしれない。
「ギャンブルはほどほどにな。オンナにモテるんやから、ヒモでもやっときや」
どちらにせよ、挙句に説教がましい事を言ってしまう少年も、空気が読める大人とは言い難いだろう。
「猿にご忠告どーも。けどモテた事なんてねーよ。モテモテはそっちだろ」
はぁ、自覚ゼロとかラノベの主人公かいな。と、矛先を向けられた少年は内心溜息をついていた。
普段、あんだけオスの雰囲気撒き散らして、気にならんメスの方が少ないわ。
術師至上主義の禪院家やから表に出せへんだけ。
男どもも何となくそれに気づいとるから、余計当たりがキツなるねん。
「そっちはまあ、ええとして。ホンマ、期待値の計算位はした方がええで、将来のためや」
最初に入る手付が3000万で、もし勝ったら3億入るとして、負けたら2,30億の呪具を失ってしまう勝負は、もし勝率9割でも期待値トントンなんやで。
命の考慮をせんでも元が取れるかも怪しい。命を賭けたら成功の如何を問わず損である。
「あ?何の話だよ」
まあ先の話なんやけどね。と少年は心の中でひとりごちる。
「賭けるんやったら、アップルかウインドウズの株でも買っとき」
「株?動きがねーし、つまんねーだろ」
少年としては、ちょっと過剰気味のサービスを行ったつもりだったが、反応は鈍い。
「さよか…」
去っていく大きな背中に向かって、少年は本当の餞別を投げかけた。
指と視線を持ち上げて天を仰いだ後、目を合わせる。
「…天は君をなーんも縛ってへんで」
「はっ、嫌味かよ」
青年は振り返ることなく去って行った。
「嫌味とちゃうねんけどなぁ」
女にもモテる、金かて稼げる、子供や家族もでける。
スポーツでもやれば名声得るのも簡単。
ただの人間としちゃ、完璧以上や。
そやけど、それじゃ満たされへん。
術師に非ずんば人に非ず。
それを禪院の誰より刷り込まれてもうたから。
ただの弱い人間のこと、猿やと思てるんはキミもいっしょや。
なんなら、ただの禪院家の術師より、キツいかもしれんなぁ。
それがキミの、君自身の呪縛。