ヒカリは激怒していた。
その怒り方は凄まじく、憤怒の炎に涙を滲ませているヒカリをなぐさめるのに、アスカが苦労したほどである。
「落ち着いて、ヒカリ」
「浮気よ! 鈴原が浮気したんだから!」
ヒカリが叫び声を上げた直後、教室前方から件の鈴原トウジが入ってきた。
アスカだけてなく、教室中の生徒たちがトウジの顔を一斉に見た。トウジの左頬に赤い手の平の跡がくっきりと残っていたからである。
誰の目から見ても、ヒカリがトウジに平手打ちをした跡だということは明らかだった。
「もう、やだっ!」
トウジと目が合った瞬間、ヒカリは涙を拭うのも忘れて、廊下に飛び出してしまった。
「ちょ、ヒカリッ!」
手を掴み損ねて、アスカはヒカリを制止するのが間に合わない。
アスカはトウジを仁王のような表情で睨みつけた。
「鈴原! あんたヒカリに何したのよッ!」
そうではない。
こいつは、〝ヒカリ以外の誰か〟に何かをしたのだ。
「言い訳する気はあらへん」
トウジが拗ねたようにそっぽを向いたので、アスカは危うく獣のように飛びかかりそうになった。
そのアスカの手を取ったのは、シンジだった。
「アスカっ! 今は委員長を追いかけないと」
シンジが頷いてみせると、アスカは渋々足を教室の外に向けた。
「ヒカリ」
「委員長」
幸い、ヒカリは教室から一番近い階段の隅にうずくまっていた。
アスカとシンジが同時にヒカリの前に屈み込む。
「落ち着いて、委員長」
「何があったのか、ちゃんと聞かせて」
「でも……」
「ヒカリのこと泣かしたんだから、場合によっちゃあ私が鈴原のバカを半殺しにして土下座させてやるから」
「うん……」
ヒカリは深呼吸を何度かしたが、何かを思い出したらしく、また悔しそうに涙を流しながら呟いた。
「鈴原の携帯に……」
「携帯に……?」
そしてヒカリは、ヒステリックな声で叫んだ。
「アニメの女の子の裸の写真がいっぱい入ってたんだもん!」
下校時刻。
校門を後にしたあたりで、アスカはため息をついた。
ー心配して損した。
事の発端は、相田ケンスケが最近夢中になっているいかがわしいゲームの画像を鈴原トウジに数枚送ったことだったらしい。なんということはない、その画像をたまたま目にしたヒカリがショックを受けて、トウジの顔に全力の平手打ちを炸裂させたというわけだ。
「大丈夫だから、委員長」
驚いたことに、ヒカリをうまく落ち着かせたのはシンジだった。
「だって、そのアニメの女の子、私と全然違うタイプだったんだもん。活発そうな感じだったし、胸だって大きかったし……」
最初に聞いた時は思わず呆れてしまったが、なるほど絵とはいえ、そんなキャラクターの裸の写真が恋人のスマートフォンから出てきたら、ヒカリなら動揺して当たり前かもしれない。
「わかるよ。でもね、委員長。現実の女の子の写真はなかったんだろ?」
「それは、まぁ……」
「男子はさ、そういうの、時々見ちゃうもんなんだよ。むしろアニメのキャラクターだったのは、現実の女の子は委員長がいて必要なかったからだとは思わない?」
そこで初めて、ヒカリは満更でもなさそうな表情を見せた。
「そ、そうかな?」
「そうだよ。自信持ってよ、委員長。トウジいっつも、委員長の話ばっかりしてるんだから」
ヒカリが納得したのは、普段から誠実なシンジが説得したからということもあるだろう。
その後、教室に戻ったヒカリはトウジとお互いに謝罪し合って事なきを得たが、それ以降、アスカは放課後になるまでずっと、訝しむような視線をシンジに送っていた。
ーなーんか、妙に具体的だったわね。
年頃の男子はいろんな女の子に興味があって当たり前?
シンジは一体いつ、そんな知識を身につけたのだろう?
あるいはそれは、自分自身の実体験ではないのか。
「碇と惣流は、今日も自宅で試験勉強か?」
前を歩くケンスケが、隣のシンジと談笑を続けている。
「うん。今日はアスカの部活休みだから、苦手なところ教えてもらうんだ」
「いいよなぁ、碇もトウジも。愛しの姫君が勉強見てくれてさ」
ケンスケは、さらに前を歩いているトウジとヒカリにひらひらと手を振った。
「あのなぁケンスケ。元はといえば、お前がアホみたいな画像送ってくるから、ワイが委員長にド突かれるはめになったんやぞ」
「悪かったよ。でも、雨降って地固まるっていうだろ? お二人さん、いつもより距離が近いみたいだけど?」
ケンスケに茶化されて、トウジとヒカリは慌てて離れた。確かに二人の距離は、手が触れ合うくらい近かった。
シンジが肩からかけているスクールバックのジッパーをそっと開けて、アスカが中からスマートフォンを取り出したのは、その時だった。
「ん? あれ、アスカ?」
振り返ったシンジは、アスカが自分のスマホのロック画面に「661204」と入力しているのを目撃し、慌てて声を張り上げた。
「ちょおぉぉーとぉっ! なにしてんさ!」
「なにって、抜き打ち検査」
写真アプリにタッチしたアスカの手を、シンジは掴んだ。その力が思いのほか力強く、アスカは一瞬怯んだ。
「なによ……」
狼狽した様子で、それでもなお掴んだ指先に力を込めるシンジを、アスカは睨みつけた。
「見られたらマズいものでも保存してあるの? ねぇ⁉︎」
例えばそれは、自分とは正反対の、ショートカットで清楚な女の写真なのではないか。
「ちが! そんなんじゃないったら!」
「アスカ、こんなところでケンカしないで」
前から近づいてきたヒカリの言葉も、アスカには届かなかった。
シンジが言い淀んだ隙に手を振り払い、アスカは写真アプリを開く。
ーやっぱりあった。
シンジの思考などお見通しだ。アスカは素早く画面を操作して、非表示に設定されているアルバムを開いた。
「あ……」
瞬間、アスカの鬼のような表情がフリーズする。
「な、なに?」
画面を覗き込んだヒカリは両目を点にした後、ぽすんと音を立てて頬を真っ赤に染め上げた。
画面には、アスカがベッドで横になっている写真が映し出されていた。覆い被さるように撮影したのだろう、アスカの制服の胸元がはだけて、純白のブラジャーと胸の谷間が露出している。撮影者に頬をなでられているアスカは、まんざらでもなさそうな顔でその手に頬をすり寄せている。
続く写真は小さく並べられてよく見えないが、アスカの着衣が一枚ずつなくなっているのは間違いなかった。
ーしまった。
先月、気分が盛り上がってこんなプレイをしていたことを、アスカは今頃になって思い出した。
「なんや? 痴話喧嘩始めたと思たら急に大人しなって。おもろい写真でもあったんかいな」
「だ、ダメ!」
トウジとケンスケが近づいてきて、アスカは咄嗟にシンジのスマホを自分の背中に隠した。その時、弾みで画面に指先が触れてしまったことに、アスカは気がつかなかった。
『ん……深い、シンジ』
アスカの背中から大音量で響き渡ったその声に、その場にいる全員が凍りつく。
『ここがいいの、アスカ?』
『あっ! や、だめ、ぇ……っ』
『やめる?』
『ん……あっ……いじわるしないで』
温度計が急上昇するように、アスカは首の下から頬、耳、おでこにかけてゆっくりと朱色に染まっていき、最後に頭から汽笛のような真っ赤な煙を噴出させると、脱兎の如くもの凄い勢いで走り去った。そのスピードには、爆速という言葉が相応しい。
「いやああぁぁぁーッ!」
「アスカっ!」
シンジが慌ててアスカの後を追いかける。
「ごめん、みんな! また明日!」
スマートフォンから垂れ流される艶かしい男女の声と悲鳴を撒き散らしながら、アスカとシンジはあっという間に見えなくなった。
「相変わらず仲ええのぅ、あの二人は」
呆れた様子で呟きながら、しかしトウジは隣のヒカリと目が合うと、二人して恥ずかしそうに顔を伏せた。
(ああいうんもええわな)
(帰り、トウジの家寄っていこうかな)
トウジとヒカリの後ろで、「やれやれ」とケンスケがお手上げのポーズをする。
ケンスケはメガネの中央を中指で軽く押し上げると、体の向きを九十度変え、そっとその場を離れた。
(相田ケンスケはクールに去るぜ)
俺も彼女欲しいなーというケンスケの本音は、空っ風にさらわれて冬の寒空に儚く消えた。