「だから、明日の午前中には帰るから」
タオルで頭を拭きながら、シンジは肩と耳で挟んだスマートフォンに向かって少し大きめの声を出した。
《一駅って言ったって、明日は初詣の人で電車が混むんだから、今日のうちに帰ってくればいいのに》
「たまに顔出してるんだからいいじゃないか。三が日はそっちにいるから」
《……………》
「母さん?」
《アスカちゃんね?》
ユイがぼそりとつぶやいた一言に、シンジはどきりとする。
「違うよ。何言ってんだよ」
《鼻唄、聞こえてるわよ》
狭いアパートだ。「ふんふーん♪」と上機嫌なお風呂上がりのアスカが、後ろで冷蔵庫のドアを開けている音が聞こえる。
「いや、これは、その。ちが……」
シンジが言い訳をする前に、通話は切れてしまった。
直後、シンジのスマホのメッセンジャーアプリにメッセージが届く。
『できちゃった結婚だけは許しませんから』
ハートをバックに弓矢を持ったキューピットのイラストまで送られてきて、シンジは眉間に手を当てながらスマホを切った。
「付けてるよ、ちゃんと……」
「何が?」
「え? あー、いや、あはは」
「? おばさん、大丈夫だった?」
ペットボトルのミネラルウォーターを飲み終えたアスカが、シンジの手元を覗き込む。
「新年なんだから、明日は早めに顔出せってさ。座って、アスカ。先に髪乾かそう」
「ん。さんきゅ、シンジ」
お揃いのスウェットを着たアスカがフロアクッションに腰をおろして、シンジは後ろからドライヤーを当てる。髪の根元へ少し熱を残し、その隙に自分の髪をさっと乾かしてから、もう一度アスカの髪へ戻る。そんなことを数回繰り返す。
「初詣、もう並んでるの?」
リラックスした様子で、アスカはスマートフォンの画面を見ていた。
「そうみたい」
「今年はよかったの? 高校の時は、みんなで一緒に行ったりしてたのに」
「雪降ってるし、寒空の下で年越しっていうのもねぇ」
「トウジと委員長は二人で行ってるみたいだよ。トウジから、さっき屋台の写真送られてきてた」
丁寧に温風と冷風を切り替えながら、シンジは手際よくドライヤーでアスカの髪を乾かしていく。仕上げにシンジが手櫛でアスカのサラサラの髪をとかすと、アスカは気持ちよさそうに両目を閉じた。
アスカの後ろから軽くハグをしてから、シンジはキッチンで晩御飯の支度に取り掛かった。
今夜の料理は難しくない。スーパーの惣菜コーナーで買ってきたえびの天ぷらにねぎを加えたシンプルな年越しそばだ。
「おそばだけで足りる?」
お湯を沸騰させた鍋でそばを茹でながら、シンジは自分の腰に後ろから手を回して抱きついているアスカを振り返った。
「へーき。眠たくなるといけないし」
「火使ってるから、危ないよ?」
「それもへーき」
アスカが、シンジの背中に頬をそっと押し当てる。シンジは前へ向き直り、右手の箸で鍋の中のそばを軽くかき混ぜながら、腹部にあるアスカの両手に左手を重ねた。
世間は大晦日だったが、二人の世界は静かだった。
外では、しんしんと雪が降っている。
初めての二人だけの年越しを、シンジとアスカはのんびり過ごすことに決めていた。
「アスカ……」
少し体をずらして、一時、二人は見つめ合った。
鍋がグツグツと煮立つ音だけが室内に響く。
いつもなら、ほんの少し背伸びをして瞳を閉じるアスカが、人差し指をシンジの唇に当てた。
「そば、焦げちゃうわよ?」
「え? あ、ごめん」
シンジは慌ててコンロの火を弱めた。
茹で上がったそばをざるで湯切りし、もうひとつの鍋でひと煮立ちさせためんつゆをどんぶりへ移す。湯気が残るそばを手早くどんぶりへ入れ、仕上げに天ぷらと九条ねぎをトッピングした年越しそばを、シンジはトレイに乗せた。
「できたよ、アスカ。テーブルに運ぶの、手伝って」
「はーい」
いただきますをしてから、二人はあっという間に年越しそばを平らげた。アスカの食べっぷりの方が気持ちがよく、シンジは残しておいた自分のえび天をアスカのどんぶりに移した。
「へへー」アスカがうれしそうにお箸でシンジがくれた天ぷらを持ち上げる。「ありがと、シンジ」
「もし後でお腹空くようだったら、夜食に何か作るから」
「ん」
食後のデザートにみかんを食べ、やはりお揃いのマグカップで、わざわざシンジが急須に煎れた熱いお茶を飲む。先月、ユイから旅行土産としてもらったもので、有名な野草茶らしかった。
この部屋にこたつはないが、二人でいるだけで、心は充分温まる。
シンジが洗い物を片付けた後、アスカはシンジをちょいちょいと呼び寄せ、彼の頭をぽすんと自分の膝の上に乗せて、横に寝かせた。
「晩御飯のご褒美」
「豪華なご褒美だね」
「いらない?」
「ううん。ほしい」
一人暮らしの狭い部屋だ。暖房器具はエアコンだけだが、充分暖かった。太もものあたりにシンジの手が乗り、アスカが指先を絡めると、シンジはすぐにうとうとし始めた。
すぅすぅと可愛らしい寝息を立てるシンジの頭を、アスカは愛おしそうになでる。額から頬を、やさしく指先でなぞる。
静寂はゆるやかで、今年も残りわずかの世界に二人だけを取り残した。それはアスカにとって、とても贅沢な時間だった。
騒がしいテレビ番組も映画も音楽も必要ない。シンジの声さえあれば、アスカは充分だった。
「ん……」
遠くで微かに鐘の音が響いて、シンジは目を覚ました。
「……ごめん、寝てた」
「いいよ。疲れてたね」
シンジは急須に二度目のお湯を注ぎ、テーブルに戻ると座椅子に腰を下ろした。アスカはベッドサイドに放り出していた旅行ガイドを手に取ると、シンジの両足の間にぽすんとお尻をはめて、背中を預ける。
「旅行、二月か三月、どっちにする?」
アスカは膝小僧を突き合わせた三角座りをして、旅行ガイドの目次を開いた。シンジが後ろから顔を覗かせて、彼の頬がアスカの耳元を掠める。
「あったかい方がいいな」
「春先は混むかもよ?」
「でも、荷物減らせるし、手袋なしで手つなげるから」
「でも、温泉なら雪景色の方がよくない?」
旅行ガイドとスマホの画面を見比べながら、二人はぴったりとくっついたまま話を続けた。
結局、冬と初夏の二回、電車で一泊二日の旅をすることに決まり、会話が少し落ち着いた頃、シンジはアスカの肩口に顎を乗せながら、彼女の腰に回した両手をほんの少し上へずらした。
やわらかな弾力が、右手の親指のあたりに触れる。
「……………」
その時、除夜の鐘がまたひとつ鳴って、シンジは両手を腰の位置まで戻した。
「……後でね」
「うん……」
アスカの匂いが心地いい。シンジは顔をアスカの肩から離して、額を彼女の背中にすり寄せた。
後ろから抱きしめていてよかった。赤くなった顔を見られなくて済む。
その気持ちはアスカも同じだったが、お互いに表情が見えなかったので、相手がどんな顔をしているのか、シンジもアスカもわからなかった。
今年が終わるまで、後五分。
アスカはベッド側の窓際に置かれた時計を確認すると、旅行ガイドとスマートフォンをテーブルに置いて、シンジの方へ向き直った。
狭い座椅子の上で、二人は向き合う。
足を崩したアスカが、シンジの右手を両手で取って自身の膝の上へ導く。
「今年も色々あったね、シンジ」
「そうだね、アスカ」
残った左手で、シンジはアスカの頬に指をはわせる。
「大学生になっても、一緒にいてくれて、ありがと」
「それは僕の台詞だよ」
「今年も一年、お世話になりました」
「うん……。お世話になりました」
今年最後の、除夜の鐘が鳴った。
座ったまま少し背伸びをしたアスカは、シンジのうなじから口元へ頬をすり寄せ、二人は見つめ合ったまま吐息だけを交換した。
「ん……」
ずっと我慢していた。
唇が、ようやく重なる。
瞳を閉じて、二人はやわらかなお互いの感触だけを味わう。
長いー。
長いくちづけの間に、年が明けた。
ようやく唇を離した時、アスカは照れくさそうな顔ではにかんだ笑顔を見せた。
「あけましておめでとう、シンジ」
「あけましておめでとう、アスカ」
「今年も一年、よろしくね」
子供じみた、ちょっとしたイタズラだ。だが、シンジ以外の誰かに見られるわけではない。このために、二人は年の瀬のキスを我慢した。
「今年もよろしく、アスカ」
そんなアスカが、今年もシンジは大好きだった。