「お待たせ、綾波」
「ありがとう、碇くん」
よく晴れた昼下がりのカフェ「ブラウ」。
ワイシャツのユニフォームに腰巻きのサロンエプロンを身につけたシンジが、カウンターからトレイに乗せて運んできたカフェモカを、窓際の綾波レイのテーブルにサービングした。
「最近、よく来てるね」
「うん。ここのカフェ、とても静かだし、勉強するのにちょうどいいから」
「そっか。ならよかった」
柔らかく目を細めたシンジに、レイはとびきりの笑顔でアピールした。
「ごゆっくり」
「おかわりの時、また声かけていい? 迷惑じゃない?」
「仕事なんだから、遠慮なく言ってよ」
カップルの客に呼ばれたシンジが、レイの席を離れる。シンジの背中へ、レイは極上の笑顔で手を振り続けた。
そんな二人のやりとりを、アスカは奥の席から恨めしそうに眺めていた。
やや大きめの丸型サングラスをしているので、その視線がシンジやレイにばれることはないだろう。サングラスだけでなく、髪はツインテールにまとめ、口紅を中心に化粧は濃く、服装に至ってはボリュームのあるロングコートにスキニージーンズをどちらも黒で固めていて、とても高校生には見えなかった。
『なに、浮気でもするつもりなの?』
変装を手伝ってくれたキョウコは、呆れた声で言った。
『違うわよ』
『じゃあ逆に、浮気調査ってやつね』
それは当たらずとも遠からずといったところだった。
シンジから駅前のカフェでアルバイトを始めたことを聞かされたのは、冬も終わりに近づいてきた二月後半のことだ。
『なんで? なにか欲しいものでもできたの?』
『そういうわけじゃないんだけど……。部活してないし、時間も余ってるから、ちょうどいいかなと思って』
シンジの歯切れは悪かった。
『ミサトさんの後輩の人の喫茶店なんだ。ただ、やっぱり土日も出なきゃいけないみたいだから、休みに会えない日が、その……増えるかもしれない』
ショックだった。
アスカも土日は部活があり、シンジと会えない日が増えていたが、それでも試験期間などをうまく利用して、二人だけの時間を確保するようにしていたのである。そこにシンジのアルバイトまで重なってしまったら、ますます会う機会が減ってしまうかもしれない。
『相談もなしに決めるなんてサイテー。好きにしたら? 私は絶対見に行ったりしないから』
バカなことを言ってしまったと後悔したが、後の祭りだった。
「部活が終わってから行くから、サービスしなさいよね」
素直にそう言えばよかったのである。そうすれば、妙な変装までしてシンジのアルバイト先にこそこそ通うことはなかったし、シンジが綾波レイと仲睦まじくしている様子を見せつけられることもなかったのだ。
(まさかホントに浮気してんじゃないでしょうね……)
レイと逢引きするためにアルバイトを始めたのではないか?
そんなはずはないと自分に言い聞かせながら、アスカは無意識のうちに奥歯をギリギリと噛み締めていた。
「あの……大丈夫ですか?」
ふと顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込むシンジの顔が目の前にあった。
「ひゃあっ!」とアスカは声を上げた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫です」
シンジの笑顔に、アスカの胸に安心と不安が同時に去来する。
「カフェオレ、お待たせしました」
一礼して、シンジはカウンターの方へ戻っていく。
テーブルに視線を落とすと、シックな陶器のマグカップにブラックチョコレートがひとつ、添えられていた。
かわいらしいグラシンカップに乗せられたチョコレートはほどよい苦味で、カフェオレの甘さと相性がよかった。部活動で溜まった疲れが抜けていく気がする。
アスカが通い始めた時から必ずコーヒーに添えられている。なかなか気の利いたサービスである。
カフェオレを味わいながら、アスカはシンジを観察する。
自分が知らないシンジを見るのは、奇妙な気分だった。シンジは根が真面目なので、来店する客からは好意的に受け入れられているようだ。だが、恋人の誠実さが自分だけではなく、他の人間にも平等に向けられているという事実を知るのは、寂しいことでもあった。
シンジのやさしさを、自分だけのものにしたい。
今すぐ綾波レイを突き飛ばして、あの場所に自分が座りたかった。
ーかっこわる……。
本当に人を好きになるということは、みっともない自分を晒け出すことでもある。それができるほど、アスカはまだ大人ではない。
「シンジ君、休憩いいよ」
カウンターの一番端の席にシンジが腰掛けて、アスカはヒヤリとした。そこはアスカが座っているテーブルの真横だったからだ。
遅い昼食のまかないはエビピラフらしい。シンジは律儀に「いただきます」と合掌してから食べ始めた。
「今度、こっち側に入るかい?」
マスターの日向マコトが、コーヒーを丁寧にドリップしながらシンジに話しかける。
「ダメですよ、高校生の素人を厨房に入れたりしたら」
「真面目だなぁ。料理の腕は相当なものだって聞いてるけど?」
「両親の帰りが遅いから、仕方なく作ってるだけです。レパートリーが多いわけでもないですから」
「そんな真面目なシンジ君が、彼女との将来のことを考えてアルバイトするとは、意外な感じがするね」
マコトのニヤニヤした物言いに、シンジはスプーンを口に運ぶ手を止めた。アスカがマグカップを口に運ぶ手も同時に止まっていた。
「いいじゃないですかっ、別に」
シンジはボソボソと声のトーンを落として返したが、象のように大きくなったアスカの耳には丸聞こえだった。
「大学生になったら、家出た方がいいなと思ったんですよ。なんていうか……彼女の家とは家族ぐるみのつきあいだし、あっちは部活とか勉強もがんばってるのに、僕にはまだやりたいこともないし……。高校卒業したら、ちゃんと線を引いた方がいいなと思ったんです。親に頼るのも、少しずつ減らしていかなきゃって。今からなら、二年間でかなりお金貯められるから……」
「それで、一人暮らし?」
「本当は、もっとよこしまな理由かもしれません。ただ、二人だけの時間が欲しいだけなのかも……」
「青春だな、シンジ君。応援するよ」
皿洗いをしながら瞳をうるうると潤ませるマコトに、シンジは苦笑いを返した。
「日向さん、ミサトさんは諦めましょう。加持さんがいるから無理ですってば」
カップルが席を立って、シンジはレジ対応のために席を外した。
そのカップルは会計の間中、店の奥をチラチラと盗み見ていた。奥の席にサングラスをかけた目立つ女性が座っていて、口の端に両手を当てながらニヤニヤと顔を真っ赤にしているその姿が、異様な存在感を放っていたからである。
※
「いらっしゃいま……せ」
カウベルが鳴って振り返ったシンジは言葉を詰まらせた。
入口に立っていたのは、アスカと洞木ヒカリだった。二人とも、冬らしいダウンコートとピーコートでコーディネートしている。
「来てくれたんだ、アスカ」
「ここ、カフェオレが美味しいって聞いたから来ただけだから。ついでに、バカシンジがどんなヘラヘラした顔で接客してるのか見てやろうかなと思って」
(素直じゃないなぁ)
ふんっ、と腕組みをしてそっぽを向くアスカと、そんなアスカを見て苦笑するヒカリを、シンジは奥の窓際の席に案内した。今日はレイがいないことに、アスカは安堵のため息をもらす。
「ゆっくりしていってね」
シンジがテーブルに配膳していったマグカップを見比べて、ヒカリはアスカの手元のカップソーサーを覗き込んだ。
「カフェオレって、チョコレートが付いてるんだね」
え? ーと、アスカもヒカリのマグカップに視線を落とす。ヒカリのカフェモカには、チョコレートが添えられていなかった。
「トウジと来た時のウィンナーコーヒーにも付いてなかったし、カフェオレだけなのかな? いいなぁ、私も同じにすればよかった」
アスカの様子がおかしいことに気がついて、ヒカリは顔を上げた。
「どうしたの、アスカ?」
「べ、別に……なんにも」
ならなぜ、アスカの頬はほんのり赤いのだろう?
「シンジ……」
ヒカリがお手洗いに立った時、アスカはすれ違い様にシンジのワイシャツの裾を弱々しく引っ張った。
「どうしたの、アスカ? おかわり?」
「今度さ……今度は、私一人で来るから。来て、いい?」
シンジは振り返って、マシュマロのようにやわらかい笑顔をアスカに見せた。
「もちろんっ。楽しみにしてるね」
それはアスカにしか見せない、アスカのためだけの笑顔だった。
だが残念なことに、意地っ張りなアスカははにかんだまま俯いていたので、シンジのそのスマイルを見ることができなかった。