二人掛けのシートに、シンジと二人、並んで座っている。
春らしいあたたかな一日だった。
緩やかなカーブを抜けて、右手の先に海が見える。
「見て、アスカ」
膝の上で手をつないだまま、シンジは子供のように無邪気な眼差しを窓の外へ向けた。
「海なんて、珍しくないでしょ、別に」
本当は、ずっと楽しみだった。
にもかかわらず、アスカが気のない返事をしたのは、今日が高校生活で最後のデートの日だったからだ。
別れと、出会いの季節。
ー春は嫌いだ。
アスカはシンジに気づかれないように、そっとため息を吐き出した。
※
あぁ。
困ったなーとアスカは思った。
三月初旬の卒業式。
最後のホームルームも終わってクラスメイトたちが教室の思い思いの場所で談笑し始めた頃、ヒカリがぽろぽろと涙を流し始めて、アスカは狼狽えた。
「大丈夫だってば、ヒカリ。大学へはお互い自宅からでしょ? 別にこれからだって会えるんだから」
「でも……やっぱり、寂しいんだもん」
うわーんと大泣きし出したヒカリが抱きついてきて、アスカは彼女の肩を優しく叩く。
実際、アスカはヒカリとの交友関係を卒業後も変えるつもりはなかった。元々、形式的な行事には関心が薄いアスカである。生活のサイクルが変わるくらいで生涯の親友と連絡を取らなくなるほど、アスカは薄情な人間ではない。
だが、そのうちアスカ自身も感傷的な気分になり始めたのは、綾波レイまで握手を求めるようなことをしてきたからだった。
そうか。
鈴原や相田に肩を抱かれているシンジを見ながら、アスカは気づく。
中高一貫だったから意識したことはなかったが、考えてみると環境が大きく変わるのはこれが始めてなのだ。
ーシンジと一緒に、登下校しなくなるのか……。
教室の窓の外、晴れ渡る校庭の隅で、桜の木が儚く揺れていた。
アスカとシンジは同じ大学に進学するが、シンジは来月から家を出て一人暮らしを始める。引っ越しは来週で、部屋選びにはアスカも同行した。
アスカの自宅から大学までの通学距離は、電車をうまく乗り継いで一時間十五分程度。遠すぎるわけではないが、近いわけでもない。
「ほら、アスカ」
海沿いの遊歩道を逸れて、二人は砂浜の波打ち際を歩いていた。
夏は海水浴で賑わうのだろう、渚の向こうを青空と水平線が彩っているが、春風は少し強く、波を砂浜にさざめかせている。
しゃがみ込んでいたシンジが腰を上げて、手の中の貝殻をアスカに見せた。
少しくすんだ白い貝殻が、二枚。
「きれいね」
「欠けてるのが多いんだね。これくらいしかないみたい」
「持って帰ろっか?」
「うん」
少し大人びたシンジの笑顔。
身長が伸び、凛々しさが増しても、笑い方は変わらない。
アスカは、シンジに告白された日のことを思い出した。
アスカが好きだ。
ーと、まっすぐこちらを見つめながら、シンジは言った。
十四歳の夏だった。ただの幼なじみから、二人の関係が大きく変化した夏。
シンジとの時間を、アスカは愛おしいと思う。毎朝、寝坊助なあいつを迎えに行って、お互い親の帰りが遅い日は一緒に勉強をして、シンジの家で二人、晩御飯を食べる。
変わらないと思っていた。
でも、そんなことはなかった。
気づくともう、そんな日常はあと一週間しかない。
ー別に、別れるわけじゃないし。
大学生になったら、当然シンジのアパートに自分は入り浸るだろう。
だが、新しい生活は、二人の関係を変えてしまうかもしれない。そんな不安が、頭から離れない。
だからアスカは、春が嫌いになった。
せつない気持ちになんて、なりたくない。
あの頃はよかったねーなんて、言いたくない。
シンジとだけは、ずっと今が一番がいい。
「今日、つきあわせてごめんね」
「なに? 私が嫌々一緒に来てるとでも思ってんの?」
「いや、そんなことないけど」
嫌な言い方になる。
なのに、シンジはいつものやさしい眼差しをアスカに向けて、アスカの手を取って歩き出した。
遊歩道に戻って内陸を少し進むと、大きな芝生の広場でイベントが催されていた。マルシェのようだ、出店の他にキッチンカーまで数台あって、それなりに規模が大きい。遊歩道からその気配はあったが、混み具合もかなりのもので、全てを回ろうと思ったら、丸一日はかかりそうだった。
「今日、バイト代いっぱい持ってきたから」
目当ての場所があるらしい、受付でもらったガイドマップを確認すると、シンジはすぐにアスカの手を引いて歩き出した。
ーそういえば、一人暮らしで欲しいものがあるって言ってたっけ……?
「来たかったんだ、このお店」
シンジの目的の場所は、陶器を扱っている出店だった。
シンジに習って店の前にしゃがみ込む。
ーえ……?
シンジが棚から手に取って物色しているものを見て、アスカは目を見開いた。
「これ、ネットで見かけて、いいなと思って」
シンジが手にしているのは、ペアのマグカップだった。
りんごに取っ手が付いたような丸く可愛らしいデザインの、淡いブルーとレッドの陶器製のマグカップ。
「ど、どうかな? アスカが来てくれた時に、使えないかな……って、アスカ?」
固まったまま動かないアスカを、シンジは振り返った。
「ごめん、先走ってっ。気に入らない……かな?」
「……違うわよ、バカ」
涙ぐんでいるのに気づかれるのが癪で、ほんの少し目を閉じてから、アスカは声を絞り出した。
「バカシンジにしては、いいセンスなんじゃない?」
アスカは初めて、春らしいあたたかな気持ちになった。
出店を練り歩いて、二人はマグカップの他に、食事用のウッドプレートやお箸、歯磨き用のコップもペアで買い揃えた。
「なにこれ、美味しい」
芝生のフードコートのテーブル席でハンバーガーを頬張るアスカを眺めながら、シンジは目を細める。
「僕のも、少し食べる?」
「え、いいの?」
「ほっぺた、すごいことになってるよ、アスカ」
どうやら、少し元気になったみたいだ。
アスカの無防備な素顔を見るのはなかなか難しい。心の底からリラックスして安心している時以外、彼女は無意識に勝ち気な仮面を被る。
卒業式から今まで、アスカは何事か考えていることが多かった。それに気づかないほどシンジは鈍感ではないが、さっきようやく、それが少しほぐれたように見える。
「ポテトもなかなかね」
「……なに、その目」
「別に」
「いいよ、僕のも食べて。後で別のもの買うから」
「やたっ。へへー♪ ありがと、シンジ。大好き」
自己防衛をやめたアスカの素顔は、とてもかわいい。
それを知っているのは、今のところ彼女の家族以外では自分だけだろうという優越感が、シンジにはある。
卒業式の日、アスカに逆裁覚悟で告白している男子を何人も見た。ペアのマグカップや食器を買い揃えたのは、シンジの焦りの表れでもあった。
恋の季節は三年間だという。
これからの大学生活で、たとえば加持さんのような魅力的な男性がアスカの前に現れないとは断言できない。
要するに、シンジは、自信がないのだ。
「でもさ。やっぱりシンジって、むっつりスケベよね」
食事を終え、コーラのストローからリップを離したアスカは、テーブルに頬杖をつきながらシンジをジトっと睨めつけた。
その表情はいつもの気の強いアスカのもので、無防備にはほど遠い。
「えぇ?」
「私に相談もなしに二人で使うもの買い揃えようなんて、ナマイキだわ」
焦りすぎただろうか。
アスカを自分のものだと証明したいーその想いを見透かされたような気がして、シンジは言い淀む。
怒ってはいないようだが、喜んでいるかどうかもわからない。
「それは。その……ごめん。驚かせたくて」
「バツとして、午後の買い物は全部シンジの奢りね」
「うん、まぁ……って、えぇ!?」
こういうイベントは一点もののハンドメイドも多く、値段も高いのだ。
それを全部、奢り!?
「バイト代、いっぱい持ってきたんでしょ?」
最後のポテトを口に咥えながら、アスカが無敵の笑顔でシンジに微笑みかける。
〝いつまで寝てんのよ、バカシンジ! 学校遅れるわよ!〟
〝まったく、ホントにあんたって、私がいないとダメなんだから〟
その言葉が聞きたくて、何度かわざと寝坊したことがあることを、シンジは思い出した。
そしてアスカも、シンジがその笑顔に弱いことを、多分よくわかっている。
「もぅ、わかったよ。欲しいもの、一緒に全部見るからっ」
それから、午後は修羅場となった。
「このライト素敵! 本棚に置いて雰囲気出すわよ」
「わ、わかった!」
「うーん、消臭はどうしよっかな。アパート狭かったもんね、アロマも買っておこっか」
「は、はい」
「服はコレとコレとコレとコレとコレね。とりあえず一週間分。洗う時の柔軟剤の量間違えたらコロスから」
「はい……」
「で、部屋着とパジャマは別。色違いで二着ずつ買っておこっかな♪」
「……………」
マルシェを一通り回りきった頃、空は黄昏に染まっていた。
ー宅配サービスがあってよかった……。
まばらになった来場客に混じって会場を後にしながら、シンジは胸を撫で下ろす。
購入物は、全て入居日にあわせてアパートへ送ってもらう手続きをした。事態を予測してかなり多めに財布へ現金を忍ばせていたが、それでも予算の三分のニが消し炭になった。
本当は、指輪……は、無理でも、何かアクセサリーのようなものを贈りたかったが、シンジはまだ、そこまで踏み込めるほど大人ではない。
まぁ、いいかーと、シンジは思う。
アスカは、全てシンジのアパートで自分が使うものを選んでいた。それがシンジはうれしかった。
横を歩く彼女の満足気な表情は、やはりいつも通りのアスカで、少し寂しくもある。
変わっていくものと、いつまでも変わらないものがある。
高校生活最後のデート。
少し遠出をして、結局いつも通り二人でショッピングをしただけの一日。
いつか、もっと大人になった時、ちゃんと二人でこの日を思い出すだろうか。アスカにとって、そんな一日にできただろうか。
風が強くなってきて、帰りの遊歩道から見る海は少し荒れていた。
《強風の影響により、運転速度を落として運行しております》
アナウンスが流れる駅のホームに、シンジとアスカは並んで列車を待っている。
歩き疲れたのかもしれない、アスカはシンジの手を握ったまま、伏目がちに俯いていた。
夕暮れの風は少し冷たく、アスカがおずおずとつないだ手に力を込めて、シンジもそっと指先で包み返す。
《車両から異常な音が確認されたため、後からまいります列車に大幅な遅れが発生しております。お急ぎのお客様は、今からまいります列車にご乗車いただきますようお願い申し上げます》
やがてホームに列車が緩やかに滑り込み、乗降口のドアが開いた。
「混んでるみたいだから、気をつけて、アス……」
乗り込もうとしたシンジの腕を、アスカはふいに後ろへ引っ張った。
よろけたシンジがたたらを踏んで後ずさる。
「……え?」
中の乗客たちが好奇の目を二人に向けて、シンジは愛想笑いを浮かべた。笑っている間に自動ドアが閉まって、列車は二人を置き去りにしたまま、あっという間にホームから走り去ってしまった。
《繰り返し申し上げます。車両から異常な音が確認されたため、列車に大幅な遅れが発生しております》
「ア、アスカ……?」
振り向いて、シンジはドキリとする。
「せっかくだから……晩御飯も……。食べて、いかない?」
上目遣いにシンジを見つめるアスカは無防備で、かわいかった。
「バイト代、いっぱい持ってきたんでしょ?」
……泊まり、でも……。大丈夫、だから……。
俯き、ごにょごにょと呟くアスカの頬は赤い。
春一番の風が吹き、電光掲示板から列車の到着予定のアナウンスが消えた。「運転見合わせになるかもね。ラッキーだったね」と、降車して改札へ向かう人たちの話し声が耳に残る。
ホームの外から桜が舞って、はにかみ佇むアスカをやさしく彩る。瞳が揺れ、憂いを帯びたアスカの表情は、ひどく大人びて見えた。
シンジはアスカに、もう何度目かの恋をした。
了