シンジとアスカの短編集   作:アキみかん

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ディスタンス

ーしまったなぁ。

 唇を尖らせながらこちらを睨めつけるアスカの視線に、シンジはため息をもらした。隣のクッションに腰掛けるその距離も、心なしか遠く感じる。

 夕食に準備した目玉焼きハンバーグを平らげてくれたことが唯一の救いだった。ちょうどいい半熟具合にできたはず。

「おいしかった?」という言葉は、けれど喉に詰まって口にはできなかった。

 大学生。

 一人暮らしを始めた春の終わり。

 初めてアスカが泊まりに来てくれた日の夜だった。

 

   ◯

 

ーだいたい、タイミングが悪すぎんのよ。

 1Kの狭いキッチンで洗い物をしているシンジの背中を、アスカは恨めしそうに睨みつけた。

 スーパーで夕食の買い出しを済ませた大学の帰り道。ほんの数時間前のことだが、その時は二人して浮かれていたのだ。

「入って、アスカ」

 大学生向けの小綺麗なアパートの二階だった。

 玄関のドアを開けて、シンジはどうぞとアスカに入口を譲った。

 台所の目の前にリビングがあり、マットレスのフロアベッドが窓際にあるだけの小さな一室。アスカへの配慮でお風呂とトイレは別々。ここがこの春からの、シンジの小さな城だった。

「お邪魔、します」

 らしくない言葉を口にしながら、アスカはスニーカーを脱いでリビングのクッションへ腰掛けた。

 別に、この部屋へ来るのは初めてではない。物件選びにはユイから直々のご指名を受けてシンジに同行したし、入学式からオリエンテーションの期間中は何度も遊びに来ていた。

 シンジと別々の道を帰る。

 それは今までアスカが経験してこなかったことだった。

 大学やこの部屋の玄関先で、シンジと互いに手を振り合う。「また明日」というシンジの口調が酷く寂しく感じたのは、本当は寂しいのは自分の方だからだろう。

 今日は、それがなかった。

 誰もいない部屋へ、二人で帰る。それだけで、こんなにも心が弾むとは思わなかった。

 ここには、親も、大学でできた友人も、綾波レイもいない。

「大丈夫、アスカ?」

 グラスにドリンクを入れて隣に腰掛けたシンジが覗き込んできて、アスカは素早く視線を逸らした。

 とはいえ、バカシンジにこの気持ちを知られるのは癪なのだ。

 シンジが夕食の準備をする間、暇潰しに部屋を物色したのがよくなかった。本棚の最下段へ隠すように置かれている小型の収納ボックスを見つけた時、アスカは意地悪そうにニヤリと笑った。

 前に遊びに来た時、ここにこんなものはなかった。

「これなにー?」

「え? あ、それは……。ま、まだ、ダメだよ、アスカ」

 シンジがフライパンから手が離せないのをいいことに、アスカはボックスの端に手をかけた。

ーアンタのものは私のものってね♪

「あ……」

 ふたを持ち上げたまま、アスカは固まる。

 中に入っていたのは、大量の避妊具だったからである。

 

「だって、ほら。もしもの時に必要じゃないかっ」

 視線を合わせてくれなくなったアスカの前にデザートの苺を載せたプレートを並べて、ついにシンジは早口で弁解を始めた。

「……………」

「そりゃ、僕だって、毎回しようだなんて思ってないけど。いちおう、ほら、男だし。なかったらできないし……」

 言いながら、自分自身に呆れてしまう。

 近所のドラッグストアで物色していたら、大量に入ったリーズナブルなスキンの他に、薄くて生に近い感覚だとか、ゼリーみたいなローションが女性をいつもより気持ちよくするだとかいう謳い文句のものがたくさんあって、気づくと色々なタイプのものを購入してしまっていたのである。

「あぁ、もうっ!」

 アスカが髪をクシャクシャとかいて、シンジは言い訳をピタリと止めた。

「違うわよ! 怒ってるとかじゃないから」

「え?」

「……生理、きちゃったから」

 申し訳なさそうにアスカが横目でシンジを見る。

「いつ?」

「……昨日」

 心底心配そうな双眸でこちらを覗き込んでいるシンジに、アスカはかすかに目を見開いた。

「じゃあ、今日一番辛い日じゃないか。無理に泊まりに来なくてよかったのに」

「がっかりしてない?」

「アスカの体調の方が心配に決まってるだろ」

 あぁ、しまったな……と、シンジは爪を噛み始める。

「生理用品は買い置きしてないや。アスカがいつも使ってるやつはわかってたのに……」

「バカっ!」

 ポカっとアスカの緩い拳がシンジのおでこに直撃する。

「なんでそんなものまで把握してんのよ。ていうか、自分で持ってきてるに決まってるでしょ」

「そっか。ごめん」

 アスカが困ったようにはにかんで、部屋の空気がやわらかくなる。なぜそうなるのか、鈍感なシンジにはわからなかった。

「だから、今日はお風呂も一緒に入れないから」

「いいよ、そんなの」

「……口でしてあげようか?」

 甘い誘惑に屈しかけて、シンジは首を横に振る。

 せっかくの記念日に、自分だけ気持ちいいのは嫌だった。

「え、えっちなのはさ……これからいつでもできるから。今日はゆっくりしようよ」

 それから二人で苺を食べて、交代でシャワーを浴びた。

 アスカはシンジのTシャツに、シンジとお揃いのスウェットパンツを穿いていて、ブラジャーをつけていないことが服の上の滑らかな曲線から明らかだった。

 シンジはあぐらをかいた上半身を慌てて前に折り曲げたが、狭い室内だ、「ホント、バカシンジ」と呆れた声でアスカに怒られる。

 なのにアスカは、シンジがドライヤーで彼女の髪を乾かす間中ずっと上機嫌で、その理由がシンジにはやっぱりわからない。

「鈴原のバカとはまだ連絡とってるの?」

「時々ね。ケンスケもだけど、みんなオリエンテーション終わって講義が大変になってきたみたい。アスカは、委員長とは?」

「毎日やりとりしてるわよ。まぁ、私もヒカリも地元だしね」

 二人でアイスを半分こしながら、アスカはずっと部屋の中を観察していた。彼女が無意識に見ていたものは、例えばキッチンの食器ラックに並ぶ二人で選んだお揃いのマグカップや、アスカの自宅から持ってきて本棚に並べているおさるの人形などだった。

 洗面所には赤と青のプラスチック製のコップに立てた歯ブラシがあり、アスカはシンジと鏡の前に並んで歯を磨いた。

 春の夜風はやさしく、就寝前の数十分、アスカが背中を預けてくる間だけ、シンジはベランダの窓を少しだけ開けた。

 キスはベッドに入るまでしなかった。

 唇を離して、シンジがアスカの首の下に右手を差し込んだ時、アスカはシンジの背中に腕を回して彼のうなじにそっと頬をすり寄せた。

 アスカのやわらかな胸の奥が早鐘を打っていることがわかって、シンジはそれが何よりうれしかった。

 まぁ、自分の方がアスカよりも数倍早く、心臓が脈打っていただろうけど。

「明日、どうする? どこか、行きたいところある?」

「どうしようか。とりあえず、朝ご飯を一緒に作って……」

「ホットケーキ、作るよ、僕」

「ヒカリに少し教えてもらったから、私も作ってみる」

「じゃあ、僕がコーヒーを淹れるね」

「私、カフェオレがいい。ミルクたっぷりなやつ」

「りょうかい」

「明日も晴れみたいだから、洗濯干したら、映画観てもいいし、隣の駅に大きいショッピングモールがあるみたいだから、散策に行ってもいいよ」

「……………」

「アスカ……?」

 抱きついたまま眠るアスカの安らかな顔を覗き込んで、シンジはやさしく目を細めた。

ー初日から手出さなくてよかった……。

 アスカの髪をなでながら、シンジは苦笑する。

 この瞬間を忘れないようにしよう。

 いつか大人になった時、アスカのしあわせそうなこの寝顔を、思い出せるようにしよう。

 二人で毎日を過ごすのが、当たり前になった時でも。

「おやすみ、アスカ」

 その言葉が言えるよろこびを、シンジは噛み締めた。

「また明日」

 

 寝ぼけ眼のまま、アスカはすぐそばにあるシンジの寝顔をぼんやり眺めていた。

 いつ眠ってしまったのか覚えていない。「疲れてたんだね」なんて訊かれたら、講義が大変だったとはぐらかしておこう。

 泊まりに行くのが楽しみで前日眠れなかっただなんて、口が裂けても言えないから。

「おはよ」

 朝日が差し込む窓辺のベッドで、アスカは返事がないことを承知でささやく。

 この瞬間を忘れないようにしよう。

 いつか大人になった時、シンジの緩みきったこの寝顔を、思い出せるようにしよう。

 二人で毎日過ごすのが、当たり前になった時でも。

「そろそろ起きなさいよね」

 その言葉が言えるよろこびを、アスカは噛み締めた。

「バカシンジ♪」

 

 

   了

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